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今日は多めに入れておこう

 ナナは、その場に残った全員へ背を向けた。


 切れた唇を手の甲で拭い、腫れ始めた頬を隠すように俯く。


 それでも足取りだけは乱さなかった。


 ビリジオンの扉を開き、受付へと戻っていく。


 普段なら、彼女が姿を見せただけでいくつもの声が飛んでくる。


 依頼の確認。


 報酬の受け取り。


 他愛もない世間話。


 だが、その日は誰も声をかけなかった。


 表で起きていた騒ぎは、分厚い扉を隔てても十分すぎるほど中まで伝わっていた。


 冒険者たちは皆、ナナの腫れた頬と切れた唇を見た。


 そして、その後ろから入ってきた《始まりの翼》の面々へ視線を移す。


 誰もが何かを聞きたそうにしていた。


 だが、聞ける空気ではなかった。


 ナナは受付台の内側へ戻ると、震える息をひとつ吐いた。


 目元には薄く涙が浮かんでいる。


 それでも、それが零れるより先に深く頭を下げた。


「……失礼しました」


 謝る必要など、どこにもなかった。


 それでもナナは受付嬢として謝った。


 ギルドの前で騒ぎを起こしたことを。


 冒険者たちを怯えさせたことを。


 職務を放り出して、私情のままに手を上げたことを。


 誰も責める者はいなかった。


 受付にいた職員の一人が心配そうに近づこうとしたが、ナナは小さく首を振った。


「仕事、戻るけん」


 声は僅かに掠れていた。


 その言葉を聞いた瞬間、エルツーの表情が僅かに歪んだ。


 だが、それも一瞬だった。


 すぐにいつもの穏やかな顔へ戻る。


 戻した、という方が正しかった。


 その隣で、フェルクが軽く息を吐く。


「おい」


 いつもの軽い調子だった。


 だが、エルツーの肩に置かれた手は、普段よりずっと静かだった。


「肩、貸すか?」


 エルツーは少しだけ目を伏せた。


「ありがとうございます」


 一度言葉を切る。


「大丈夫です……」


「そうか」


 フェルクはそれ以上何も言わなかった。


 肩から手を離し、エルツーの横顔を一瞥する。


 大丈夫な人間の顔ではない。


 それくらいは、誰にでも分かった。


 メグは未だに扉の方を見ていた。


 既にセリスたちの姿はない。


 それでも、先ほどの光景が頭から離れないのだろう。


「そ……そんな……」


 唇が震える。


「あれがセリスさん……」


 憧れだった。


 帝都でも名の知れたS級パーティ《天龍の羽》。


 そのリーダー。


 美しく、強く、常に正しく見えた人。


 冒険者なら誰もが一度は耳にする名前だった。


 その人物が、あれほど激しい憎悪を向けていた。


 しかも、相手は目の前にいるエルツーだ。


「エルツーさんに、あんな……」


 メグの声は最後まで続かなかった。


 何を言えばいいのか分からない。


 慰めるべきなのか。


 怒るべきなのか。


 セリスを否定すべきなのか。


 それとも、二人の間に何があったのかを聞くべきなのか。


 選べる言葉が、一つもなかった。


「気にしなくていいですよ」


 エルツーが先に答えた。


「昔から、ああいう人ですから」


 明らかな嘘だった。


 メグにも分かった。


 あれが昔からなら、エルツーがこれほど傷つくはずがない。


 けれど、それ以上は何も聞けなかった。


 少し離れた場所では、オリオンがカイトを見下ろしていた。


「カイト」


 突然呼ばれ、カイトの背筋が伸びる。


「は、はい!」


「よくやった」


「え……」


 オリオンの視線が、一瞬だけフェルクとライトニングへ向く。


「普通は動けないだろう」


 カイトは困ったように頭を掻いた。


「なんだか……悲しくて……」


「……面白いやつだな。それが分かっていても、普通は足が出ないだろう」


 オリオンは短く言い切った。


「しかし、お前は出た」


 褒められたと気づくまで、カイトは数秒かかった。


「……あ、ありがとうございます!」


「元気だな」


「す、すみません!」


 オリオンは鼻を鳴らした。


 だが、その声音はいつもより僅かに柔らかかった。


 一方、ライトニングは先ほどから一言も発していない。


 腕を組み、何度も苛立たしそうに指先を動かしている。


 黄色い瞳は、セリスが消えた扉を睨んだままだ。


「……あいつ、私にあんな目をするのか」


 低く漏れた言葉に、メグの肩が跳ねた。


「ライトニングさん」


 エルツーが静かに呼ぶ。


「なんだ」


「できれば、何もしないでください」


「断る」


 即答だった。


「ナナが殴られた」


「わ、分かっています」


「お前たちも、あれだけ言われた」


「それも分かっています」


「なら、なぜ止める」


 ライトニングの声が僅かに強くなる。


「申し訳ないが、私には止める理由がない」


 エルツーは少しだけ黙った。


「僕にはあります」


「どんな理由だ」


「これ以上、皆さんを巻き込みたくありません」


 その言葉に、ライトニングの眉間の皺がさらに深くなった。


「ちっ」


「……ありがとうございます」


 エルツーは小さく笑った。


 笑えてはいなかった。


 それを見たライトニングは、ますます苛立ったように舌打ちする。


「私は帰る。プリシラ!」


「は、はい、姉様!」


「帰るぞ」


 ライトニングは吐き捨てるように言い、顔を背けた。


 その横では、プリシラが不安そうにエルツーを見つめていた。


 何度も声をかけようとしている。


 だが、口を開いては閉じている。


 尻尾も力なく垂れ下がっていた。


「エルツーさん……」


 ようやく出た声は、今にも消えそうだった。


 エルツーが振り返る。


「どうかしました?」


「その……お顔が……」


 プリシラはそこで言葉を詰まらせる。


 顔色が悪い。


 目の下には疲労が残り、唇からも血の気が引いている。


 旧王墓で魔眼を酷使した直後だ。


 豪華な食事を用意し、皆を煙に巻き、ここまで戻ってきた。


 その直後に、あの罵倒を浴びた。


 立っていること自体が不思議なほどだった。


「少し疲れているだけですよ」


「でも……」


「ありがとう。でも大丈夫です。プリシラもお疲れ様でした」


 プリシラは俯いた。


 先ほどのフェルクと同じように、それ以上言うことができなかった。


 ライトニングが先を歩き、プリシラはぺこりとメンバーに頭を下げて帰宅していった。


 その場に、重たい沈黙が落ちる。


 いつもなら騒がしいビリジオンのロビーも、異様なほど静まり返っていた。


 酒場からも音がしない。


 依頼掲示板の前にいた冒険者たちも、羊皮紙を眺めるふりをしながらこちらを窺っている。


 受付職員たちはナナを気にしつつも、職務へ戻るきっかけを掴めずにいた。


 誰もが、次に誰が何を言うのかを待っている。


 そんな空気の中、エルツーはゆっくりと顔を上げた。


「報告に行きましょう」


「今からか?」


 フェルクが尋ねる。


「何か問題でもありますか?」


 エルツーは静かに答えた。


「依頼は終わりました。持ち帰った情報もあります。報告を済ませるべきです」


「お前は……休むべきだ」


 フェルクが言う。


「報告が終わったら休みます」


「だと思った」


 珍しくフェルクが冗談を混ぜない。


 そして、今のエルツーに何を言っても止まらないと分かったのだろう。


「じゃあ俺も帰るわ。リーダー、あと頼む」


「なら、俺もここまでだな。何か決まったら連絡してくれ」


 フェルクとオリオンが踵を返し、ギルドを後にする。


 カイトは何度も何か言おうとするが、何も言えなかった。


 メグがカイトの肩を掴む。


「私たちは残ろう」


「もちろん」


 それを合図に、残った三人は執務室へ向かう。


 ナナの前を通り過ぎる時、エルツーは僅かに足を止めた。


「えっと……ナナ」


 呼ばれたナナは顔を上げなかった。


「……仕事中やけん」


「ごめん」


「謝らんでよかよ」


 即座に返ってきた。


 強い声だった。


「ツーは、何も悪くなか」


「でも」


「行って」


 ナナは受付台の上の書類へ視線を落とす。


「今は顔、見たくない」


 その言葉に、エルツーの肩が僅かに揺れた。


 だが、ナナの声も震えていた。


 本当に見たくないわけではない。


 見れば、泣いてしまうからだ。


 エルツーは少しだけ黙り、やがて小さく頷いた。


「……分かった」


 三人は階段を上り、ディルクの執務室へ向かう。


 その背中を、ロビーにいる全員が無言で見送っていた。


 執務室の前には、サラが立っていた。


 表の騒ぎをどこまで見ていたのか。


 あるいは、ディルクから何を聞かされているのか。


 その整った表情からは、何一つ読み取ることができない。


 サラはエルツーの顔を一度だけ見た。


 続いて、その後ろに立つカイトとメグへ視線を移す。


 だが、何も言わなかった。


 労いの言葉も、ナナの頬についての言及もない。


 ただ無言のまま取っ手へ手をかけ、三人を迎え入れるように扉を開いた。


 そして、執務室の扉が開いた瞬間。


 そこだけは、まるで別の世界だった。


「お帰りなさい」


 ディルクは執務机の向こうで、にこにこと笑っていた。


 机には人数分の茶器まで並べられている。


 旧王墓からS級依頼を終えて帰還した一行。


 魔眼の発覚。


 帝都保安局との接触。


 封じられた槍。


 そして、ギルド前で起きた《天龍の羽》との騒動。


 その全てを知っているのか、知らないのか。


 少なくとも、表の異様な空気が耳に入っていないはずはない。


 それでもディルクは、いつもと何一つ変わらない笑顔で待っていた。


 静まり返ったビリジオンの中で。


 ただ一人だけ、明らかに浮いていた。


「ふふふ」


 ディルクは楽しそうに指を組んだ。


「無事に戻られたようで、何よりです」


「全員生き延び、依頼も達成したようですね」


 ディルクは三人を順に見渡し、満足そうに頷いた。


「素晴らしい。想定以上の成果です」


「おかげでビリジオンも大きく前進できます。皆さん、本当にありがとうございました」


 ここまでは、いつもの穏やかな口調だった。


 笑顔でニコニコとエルツーの報告を聞いていた、何かいいことがあったのだろう、カイトとメグはそう思った。


 しかし、エルツーが大型《白亜》について報告を始めた瞬間、ディルクの様子が変わった。


「白亜は大型個体も確認しました、四足歩行の竜型でした」


 ディルクの手が止まる。


「竜型?」


「はい。小型や中型とは構造が大きく異なっていました」


「大きさは?」


「全長は正確に測れていませんが――」


「おおよそで構いません」


 エルツーが答えると、ディルクはすぐさま机上の紙へ書き込んだ。


「装甲の材質は小型と同じですか?」


「似てはいました。ただ、厚みはまるで違います」


「関節部は?」


「前脚と首元に可動部がありました。ただし、通常の生物とは動きが異なります」


「なるほど、なるほど…………そうですか…………」


 ディルクの羽根ペンが、紙の上を忙しなく走る。


 普段の余裕ある笑顔は残っている。


 だが、目だけは完全に研究者のそれだった。


「攻撃方法は?」


「頭部を使った突進。前脚の爪。背面装甲の射出。それから――」


「背面装甲を射出?」


 ディルクが顔を上げる。


「どの程度の範囲ですか?」


「広間全体を覆うほどでした」


「追尾は?」


「ありました」


「射出後の装甲は再生成しましたか?」


「いいえ。少なくとも戦闘中には確認できませんでした」


「ふむ……使い切りの兵装ですかね」


 ディルクは呟きながら、紙の端へ小さく印を付けた。


「他には?」


「空中へ浮かび、胸部の炉心から炎を放ちました」


 羽根ペンが止まった。


「浮いた?」


「はい」


「跳躍ではなく?」


「明確に滞空していました」


 ディルクは数秒間、エルツーの顔を見つめた。


「もう一度お願いします」


「空中へ浮かび、胸部の炉心から広範囲へ炎を放ちました」


 ディルクは先ほどより大きな文字で、それを書き記した。


「炎の色は?」


「白に近い色でした」


「温度は?」


「正確には分かりません。ただ、直撃すれば防御魔法がなければ生存は難しかったと思います」


「持続時間は?」


「数秒です」


「再使用までの間隔は?」


「一度しか使わせていません」


「なるほど」


 また紙が埋まっていく。


 一枚目が終わると、ディルクはすぐに二枚目を引き寄せた。


「撃破方法は?」


「オリオンさんが前脚を受け止め、フェルクさんが胸部装甲を開きました。その隙にライトニングさんが炉心を破壊しています」


「胸部装甲は外側から開けたのですか?」


「力ずくです」


「力ずく……」


 ディルクはそこへ二重線を引いた。


「炉心破壊後は?」


「爆発しました」


「規模は?」


「最重要区画の広間を覆う程度です」


「生存できた理由は?」


「プリシラの防御魔法です」


「使用した術式は?」


「《ヨモツオオカミ》」


「聞いたことがありませんね」


「僕もです」


 ディルクは《ヨモツオオカミ》の文字を囲み、その横へいくつもの注釈を書き込んだ。


「古代魔法でしょうか」


「可能性はあります」


「プリシラ本人にも、後日確認しましょう」


 メグが小さくカイトへ顔を寄せる。


「ギルドマスター、すごく聞くね……」


「うん……」


「ていうか、私全然覚えてないんだけど……」


「メグ……僕もだよ……」


 既に机の上には、文字で埋め尽くされた紙が何枚も積み重なっていた。


 それでもディルクの質問は止まらない。


「大型個体は古代語を発しましたか?」


「はい」


「内容は?」


「『罪を償え』と」


 ディルクの手が、僅かに止まった。


「……他には?」


「『我が主人であり創造神様』という言葉も」


 今度は完全に羽根ペンが止まった。


 だが、それも一瞬だった。


 ディルクは何も聞き返さず、その言葉を丁寧に書き記した。


 そして、その下へ線を一本引く。


「非常に興味深いですね」


 いつもの笑顔に戻っている。


 しかし、紙へ向けられた視線だけは鋭かった。


「大型《白亜》については、こちらにもほとんど資料がありませんでした。皆さんが持ち帰った情報は、想像以上に価値があります」


 ディルクはようやく羽根ペンを置いた。


 机上には、何枚もの報告書が積み上がっている。


「改めて申し上げます」


 ディルクは三人へ向き直った。


「全員が生還し、これだけの情報を持ち帰った。素晴らしい成果です」


「今回の結果を踏まえ、今後もS級クエストを受けられるよう、こちらで手配しておきましょう」


「では、S級ということで?」


 エルツーが尋ねると、ディルクは静かに首を横へ振った。


「いえ。今回のクエストは公にできませんから、実績として正式に記録することができません」


「つまり、まだS級にはできないと」


「その通りです」


「そうですか」


 エルツーは、それ以上食い下がらなかった。


 その後ろでは、カイトとメグが僅かに息を吐いていた。


 S級になれないことへの落胆よりも、今すぐS級として扱われずに済む安堵の方が大きいらしい。


「でしたら、また次のクエストでご検討のほど、よろしくお願いします」


 エルツーが頭を下げる。


 ディルクは楽しそうに目を細めた。


「もちろんです」


 そして、何でもないことのように付け加えた。


「あなたたちには、やっていただきたいことがたくさんありますから」


 そこから先は、形式的な確認だった。


 ディルクが必要事項を確認し終えると、控えていたサラが一歩前へ出る。


「以降の説明は、私からいたします」


 サラは依頼完了後の手続きと守秘義務について、淡々と説明していく。


 そして最後に、今回の報酬額が告げられた。


「そ……」


 カイトの口が開いたまま止まる。


 隣では、メグが何度も瞬きを繰り返していた。


「そ、そんなにもらえるの……?」


 二人がこれまで受けてきた依頼とは、桁が違った。


 しばらく働かなくても生活できるどころか、装備を一式新調しても十分に余る金額だった。


 エルツーは提示された額を確認し、少しだけ首を傾げる。


「今回は、比較的少ない方じゃないかな?」


「これで少ないんですか!?」


 カイトとメグの声が重なった。


 ディルクは、その反応を楽しむように小さく笑った。


「危険度だけを考えれば、決して高すぎる報酬ではありませんよ」


 サラが書類をまとめ、三人の前から下がる。


 ディルクは改めて両手を組んだ。


「では、皆さん。お疲れさまでした」


 暫くして、女将とアンジュが料理を運んできた。


 エルツーの前には、黒々とした薬草が浮かぶ薬膳。


 湯気とともに立ち上る独特な匂いだけで、口の中が苦くなるようだった。


 エルツーは器を見下ろし、露骨に顔を引きつらせる。


「ナナ。あんたも食べるかい?」


 女将が尋ねると、ナナは腕を組んだまま即答した。


「めっちゃ食べる」


 あまりにも遠慮のない返事に、女将は呆れた顔をしながらも少し笑った。


「はいはい。アンジュも一緒に食べちゃいな」


「はーい!」


 ナナとアンジュの前には、具材がたっぷり入った温かなシチューが置かれた。


 柔らかく煮込まれた肉と野菜。


 とろりとした白いスープから、食欲を誘う香りが漂っている。


 対して、エルツーの前にあるのは薬草の塊だった。


 エルツーは二つの料理を見比べ、堪らず身を乗り出した。


「アンジュ! 一口ちょうだい!」


「えっ?」


 アンジュがスプーンを持ったまま目を丸くする。


 その横から、ナナがにっこりと笑った。


「よかよ。じゃあ薬膳に混ぜちゃるね〜」


 ナナがシチューの器へ手を伸ばす。


「うわあ! やめて、やめて!」


 エルツーは慌てて自分の薬膳を抱え込んだ。


「混ぜたらシチューまで苦くなる!」


「身体にはよさそうやん」


「精神には悪いよ!」


 ようやく、ナナの表情が僅かに緩んだ。


 アンジュはシチューを食べながら、ナナの顔をじっと見つめる。


「お姉ちゃん、お顔痛そう」


「痛いよ」


 ナナは頬のガーゼへ軽く触れた。


「誰かさんのせいで、綺麗な顔が台無しよね〜」


 横目でエルツーを見る。


「ほ、本当だよね〜」


 エルツーは曖昧な笑顔で同意した。


「誰のことやろうね〜」


「誰だろうね……」


「いっそのこと、私も冒険者やったろかな」


 ナナはシチューを口へ運びながら、物騒なことを口にする、唇の傷に染みるのか少し怪訝な表情だ。


「そのままS級までなったろかな」


「あ、あはは……」


 エルツーの乾いた笑いが談話室に響いた。


「お姉ちゃん、冒険者になるの?」


 アンジュが首を傾げる。


「何があったの?」


「ツーのせい」


 ナナは間髪を入れずに答えた。


「はい。その通りです間違いありません!」


 エルツーも即座に認める。


「ふーん」


 アンジュは二人を交互に眺めた。


 それ以上追及することもなく、またシチューをもぐもぐと食べ始める。


 エルツーも諦めたようにスプーンを握った。


 薬膳を少しだけ掬い、恐る恐る口へ運ぶ。


「ぐえっ……」


 顔中に苦味が広がった。


 思わず目を閉じ、身体を小さく震わせる。


 それでも一度に食べる量は、スプーンの先に僅かに載る程度だった。


 ちまちま。


 ちまちま。


 少しずつしか減らない器を見て、ナナの眉間に皺が寄る。


「ツー」


「た、食べてるよ?」


「それで?」


「ほら!確実に減ってる!」


「明日の朝までかけるつもり?」


「身体に負担をかけないよう、ゆっくりと――」


「貸して」


「え?」


 ナナはエルツーの返事を待たず、その手からスプーンを奪った。


 そして薬膳を底から大きく掬う。


 山盛りになったスプーンを見て、エルツーの目が見開かれた。


「ちょ、ちょっと待って」


「何?」


「そんなにいっぺんには無理だよ」


「私が食べさせるとに?」


 ナナはスプーンをエルツーの口元へ近づけた。


「私のが食べられんと?」


「いや、そういう問題じゃなくて」


 エルツーは慌てて談話室の中を見回す。


「ほ、ほら。誰かに見られたら!」


「何を?」


「ナナは宿の看板娘だし!」


「は?」


「変な噂が立つかもしれないでしょう!」


 しかし、周囲に人の姿はなかった。


 宿泊客たちは既に食事を終え、それぞれの部屋へ引き上げている。


 談話室にいるのは、女将とアンジュ。


 そして、エルツーとナナだけだった。


 女将は呆れた顔で厨房へ戻り、アンジュは面白そうに二人を見ている。


 逃げ道はどこにもない。


「誰もおらんよ」


「女将さんとアンジュがいるよ」


「二人とも身内やろ」


 ナナは大きく掬った薬膳を、さらにエルツーの口へ近づける。


「ほら。あーん」


「ぐ……」


「口開けんね」


「やっぱり自分で――」


「ツー?」


「……はい」


 エルツーは覚悟を決め、ゆっくりと口を開いた。


「ぱく」


 山盛りの薬膳が、一度に口の中へ押し込まれる。


 次の瞬間。


 エルツーの顔が大きく歪んだ。


 目を固く閉じ、声にならない呻きを漏らしながら、必死に薬膳を飲み込む。


「うん、いい子」


 ナナが満足そうに頷いた。


 そして、ようやく笑った。


 不機嫌そうに固まっていた顔が崩れ、いつものナナらしい笑顔が僅かに戻る。


 その一方で、エルツーは強烈な苦味に耐えきれず、ソファの上で身を捩っていた。


「苦い……! これは本当に食べて平気……?」


 その様子を見て、アンジュが声を上げて笑う。


「ツーさん、変な顔!」


「ア、アンジュも食べてみる?」


「いらなーい」


「ぐ、即答……」


 ナナは笑いながら、もう一度薬膳を大きく掬った。


「ほら、もう一口」


「もう十分効いたと思う」


「まだ全然減っとらんよ」


「薬は少量でも効果があるものだから」


「これはご飯」


「僕には毒にしか見えない」


「誰があんたのために作ったと思っとると?」


「……はい、食べます」


 エルツーが観念して口を開ける。


 ナナは再び薬膳を押し込み、満足そうに頷いた。


「ほんと、バカちんやね」


 呆れたような声だった。


 けれど、その言葉には先ほどまでの怒りだけではないものが混じっていた。


 心配と、安堵。


 そして、無事に帰ってきたことへの喜び。


 エルツーにも、それは伝わっていた。


 口の中には、耐え難いほどの苦味が残っている。


 身体は疲れ切り、右目の奥には未だ鈍い痛みがあった。


 それでも。


 ナナとアンジュの笑い声を聞いているうちに、胸の奥に沈んでいた重たいものが、少しだけ軽くなっていく。


 エルツーの顔にも、僅かに笑みが戻った。


 きっと、薬膳のおかげだけではないのだろう。


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