異邦人に救済を
胸部から放たれたのは、炎という言葉では足りない熱量だった。
高温のフレアが扇状に広がり、広間全体を一息に呑み込む。
空気が焼ける。
倒れていた《白亜》の残骸が溶け、石床の表面が飴のように波打つ。
プリシラが作った石壁へ、白熱した炎が激突した。
――ゴォォォォォォォォッ!!
石壁の表面が一瞬で赤熱する。
亀裂の奥から光が漏れ、岩そのものが溶け始めた。
「う、ううううっ……!」
プリシラが歯を食いしばる。
《バリア》が激しく歪む。
カイトはメグを抱き寄せ、石壁の陰で身体を丸めた。
熱は壁を越えていた。
息を吸うだけで、喉が焼ける。
皮膚が痛い。
髪が焦げる匂いがする。
別の石壁の陰では、オリオンが大盾を掲げていた。
炎が壁の上から回り込み、盾面へ降り注ぐ。
盾が真っ赤に焼ける。
革帯から煙が上がる。
それでもオリオンは、大盾を下ろさない。
その背後にはフェルクがいた。
「……これは確かに」
フェルクは焼けた空気の中で、苦しげに笑った。
「先に知らなきゃ、全滅だったな」
やがて。
まだ白熱した炎が広間を覆っている最中に、エルツーは顔を上げた。
右目の奥で、炎の向こう側が映る。
熱線が細くなる。
最後の一筋が途切れる。
今。
ここしかない。
「――終わる」
誰に聞かせるでもなく、エルツーは呟いた。
次の瞬間。
まだ炎が消え切っていないにもかかわらず、石壁の陰から飛び出した。
焼けた空気が肺へ刺さる。
靴底が赤熱した石床に触れるたび、煙を上げる。
それでもエルツーは止まらない。
予見した通り。
エルツーが遮蔽物の外へ出た瞬間、高温の奔流が完全に途切れた。
大型《白亜》は、ゆっくりと地上へ降り始めていた。
四肢の隙間から噴き出していた光が弱まり、巨体が石床へ沈んでいく。
――ズンッ。
四本の脚が広間へ降り立った。
先ほどのフレアによって、炉心の出力を一度に使い切っている。
冷却。
出力の安定。
魔力の再集積。
そのすべてを終えるまで、大型《白亜》の動きは大きく制限される。
「今しかない!」
エルツーは焼けた広間を駆けながら、革鞄へ手を突っ込んだ。
取り出したのは、両手で抱え切れないほどの小瓶だった。
淡い蒼色。
深い紅色。
星屑のような光を宿した透明な液体。
黄金色の霊薬。
どれも、冒険者なら一生に一度使えるかどうかという高級品だった。
エルツーは一切ためらわない。
「オリオン!」
最初の数本を、力任せに投げつける。
瓶が大盾と鎧へぶつかり、一斉に砕けた。
「フェルク!」
複数の小瓶がフェルクの胸元へ直撃する。
「あっつ――いや、冷てえ! どっちだこれ!」
裂けた皮膚が塞がり、消耗していた魔力が瞬く間に満たされていく。
「ライトニング!」
エルツーは残った瓶のほとんどを、まとめて放り投げた。
「受け取れ!」
「この状況で投げるな!」
そう怒鳴りながらも、ライトニングは素早く剣を振るう。
刃の腹が小瓶を捉え、空中で一斉に砕いた。
色とりどりの液体が霧となり、ライトニングの身体を包み込む。
消えかけていた電光が、再び爆発するように全身を駆け抜けた。
「全力を!!」
エルツーの叫びが、焼けた広間を駆け抜ける。
ライトニングは地上へ降りた大型《白亜》を見据えた。
無防備に開かれた胸部。
赤熱した炉心。
その中心には次弾のために、すでに新たな橙色の光が集まり始めている。
あれを、もう一度撃たせてはならない。
先ほど身を守った石壁は、ほとんどが溶け落ちている。
次弾が放たれれば、今度こそ壊滅的な打撃を受ける。
ライトニングは、手にした剣を見下ろした。
熱を受け、刃の一部が赤く変色している。
「……これは、あまり見せたくなかったな」
ぽつりと漏らす。
フェルクが大型《白亜》の側面へ回り込みながら叫んだ。
「今さら出し惜しみしてんじゃねえ!」
「そういう意味ではない!」
ライトニングは剣を水平に構えた。
左手を剣身へ添え、右手で柄を強く握る。
刀身そのものを、放たれる直前の矢のように正面へ固定していた。
「この一撃は――」
黄色い瞳が細くなる。
「剣を一本、丸ごと使い潰す」
「十分、出し惜しむ理由じゃねえか!」
「だから、とっておきなのだ」
彼女の全身から、凄まじい電光が噴き上がった。
桃色の長髪が逆立つ。
すべての雷が、構えた一本の剣へ集約されていく。
剣身を挟むように、二本の巨大な雷の軌道が形成された。
互いに反発する膨大な魔力。
一本の刀身を前方へ撃ち出すための、目には見えない砲身。
空気が焦げる。
剣身が甲高い悲鳴を上げ始めた。
一本の剣を、一本の大矢へ変える。
一度放てば、手元へ戻ることはない。
大型《白亜》も、異常な魔力の集中を感知した。
赤い感知器がライトニングへ向けられる。
胸部装甲が閉じ始めた。
装甲の閉鎖と、次弾の再充填。
二つの工程が同時に進められている。
「閉じさせるな!」
エルツーの声が飛ぶ。
プリシラが魔法を放とうと、ワンドを掲げる。
「プリシラ、動くな!!」
エルツーの怒号にプリシラ、カイト、メグが硬直する。
オリオンが動いた。
大盾を正面へ構え、大型《白亜》へ向かって一直線に駆ける。
大型《白亜》が右前脚を持ち上げた。
人ひとりなど容易く押し潰す、巨大な鉤爪。
オリオンは避けなかった。
大盾を傾ける。
僅かに腰を落とす。
そして、振り下ろされる鉤爪の軌道へ自ら踏み込んだ。
――轟音。
石床が円形に砕ける。
衝撃を受けたオリオンの両脚が、足首まで地面へ沈んだ。
大盾の表面が大きく歪み、革帯が悲鳴を上げる。
それでも。
盾は下がらなかった。
オリオンの身体も、崩れなかった。
その鍛え上げられた全身から、とてつもない魔力の熱が溢れ出す。
巨大な一撃を真正面から受けながら、盾の角度を少しずつ変えていく。
鉤爪の力を、真下ではなく外側へ。
膨大な衝撃を逸らしながら、自らはさらに一歩前へ出る。
「ぬ……おおおおおっ!」
オリオンが咆哮した。
大盾を振り抜く。
大型《白亜》の前脚が強引に弾き上げられた。
三本の脚で巨体を支えることになり、《白亜》の姿勢が大きく傾く。
胸部が、ライトニングのいる方向へ向けられた。
閉じかけていた装甲の隙間から、赤熱した炉心が露わになる。
だが、まだ足りない。
大型《白亜》はすぐさま前脚を戻そうとする。
同時に、胸部装甲も閉鎖を続けていた。
――ヴォン。
炉心の駆動音が、さらに一段高くなる。
次弾の充填は止まっていない。
「ったく、一番頑張ってる俺に無茶させんなよ!」
フェルクが崩れた石柱を駆け上がる。
壁面を蹴り。
折れた柱へ飛び移り。
最後に、オリオンが掲げた大盾の縁へ片足を乗せた。
オリオンが大盾をさらに振り上げる。
その勢いを足場にして、フェルクの身体が宙へ射出された。
「おらぁっ!」
フェルクは大型《白亜》の胸元へ飛びついた。
白い外殻の隙間へ両手を差し込み、全身の力でしがみつく。
《ブースト》を受けた腕へ、荒々しい魔力が集まる。
かなりの高温となった胸部装甲を、躊躇なく掴んだ。
フェルクの顔が苦痛に歪む。
「ぐおおおおおおおおおお!!」
大型《白亜》は長い首を振り、身体を大きく捻った。
フェルクの身体が、振り子のように宙を舞う。
「大人しく……開けて……やがれえええええ!」
歯を食いしばり、外殻を力任せに引き剥がす。
フェルクの手は、火傷でぐずぐずになっていた。
甲高い破砕音が響く。
胸部装甲へ繋がっていた機構の一部が千切れ飛んだ。
閉じかけていた装甲板が、途中で止まる。
炉心が完全に剥き出しになった。
赤熱した機関部から熱風が噴き出し、フェルクの皮膚をさらに焼く。
「熱っぢいいいいいいいいいい!」
それでも手を離さない。
「雷鳴ぃぃいいいいいいいい!」
フェルクが叫んだ。
「長くは持たねえーーーーーーー!!!」
「分かっている!」
ライトニングの剣は、すでに限界へ達していた。
刀身全体が青白く染まり、その輪郭さえまともに見えない。
二本の電光が、剣身の左右を高速で走る。
柄を握る右腕の皮膚が裂けた。
掌が焼ける。
腕の筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、ライトニングは剣を放さない。
僅かでも射線がずれれば、フェルクまで貫く。
オリオンが巨体の姿勢を崩し。
フェルクが胸部装甲をこじ開けた。
二人が作った、ただ一つの射線。
ライトニングは剣先を炉心の中心へ合わせた。
「退け、プラナリア!」
「言われなくても!」
フェルクは外殻から手を離した。
大型《白亜》の胸部を蹴り、その反動で後方へ飛び退く。
着地の直前、オリオンが大盾を差し出した。
フェルクは盾面へ足をつき、衝撃を逃がしながら地面へ降りる。
その瞬間。
胸部装甲の駆動部が軋んだ。
フェルクが引き剥がした装甲が、強引に閉じようと動き始める。
炉心の光も臨界へ近づいていた。
――ヴォン。
――ヴォン。
駆動音の間隔が短くなる。
大型《白亜》の四本の脚が、石床を強く掴んだ。
次弾の反動へ備えるように、巨体が低く沈んでいく。
エルツーの右目に、無数の未来が映った。
剣が僅かに逸れる未来。
胸部装甲が先に閉じる未来。
炉心の手前で刀身が砕ける未来。
フレアが再び放たれ、広間が白く焼き尽くされる未来。
仲間たちが、炎の中へ消えていく未来。
その中に、ただ一つ。
青白い光が、大型《白亜》を貫く光景があった。
「まだだ!」
エルツーが叫ぶ。
ライトニングの黄色い瞳が僅かに動く。
「ふざけるな!!」
装甲板が閉じていく。
炉心の光が、太陽のように膨れ上がる。
「まだ……!」
大型《白亜》の胸部から、高温の光が漏れ始める。
次弾の発射は目前だった。
エルツーの右目から血が溢れる。
視界が赤く染まる。
「早くしろ!!」
それでも、その一瞬を見失わない。
装甲の隙間。
剥き出しの炉心。
再充填から発射へ切り替わる、僅かな停止。
未来が一本へ収束した。
「撃てええええ!!」
ライトニングが息を止めた。
構えた剣へ、最後の魔力を注ぎ込む。
刃を挟んでいた二本の雷が、一際強く輝いた。
ライトニングは静かに技名を告げた。
「《マスタースキル》――」
黄色い瞳が、炉心の中心を射抜く。
「『轟雷衝天』」
柄を握っていた指が離れた。
次の瞬間。
剣が消えた。
音より先に、青白い一条の光が広間を貫く。
二本の雷の軌道に挟まれた刀身が、目で追うことのできない速度まで加速して撃ち出された。
遅れて、凄まじい衝撃波が広間を襲う。
石床が一直線に抉れた。
残されていた《白亜》の残骸が吹き飛び、崩れかけた石壁が一斉に倒壊する。
閉じようとしていた胸部装甲が、衝撃だけで左右へ弾かれた。
撃ち出された剣は、その狭間を寸分違わず通り抜ける。
赤熱した炉心の中心へ吸い込まれた。
一切の抵抗を許さず。
次弾のために蓄えられていた膨大な熱と魔力を貫き。
大型《白亜》の背面まで突き抜ける。
一瞬だけ、何も起こらなかった。
大型《白亜》は四肢を踏ん張ったまま静止している。
胸部の橙色の光も、まだ消えていない。
ライトニングは空になった右手を下ろす。
「……終わりだ」
炉心の中心に、細い亀裂が走った。
そこから青白い雷が漏れ出す。
一本。
二本。
無数の亀裂が、胸部から全身へ広がっていく。
外殻の隙間という隙間から、激しい電光が噴き出した。
大型《白亜》の身体が痙攣する。
四本の脚が石床を削り、巨体を支えようと足掻く。
赤い感知器が激しく明滅した。
古代語が、途切れ途切れに響く。
『罪――人――』
『浄――化――』
『審判――実行――』
声が歪む。
内部から、冷却液らしきものが勢いよく噴き出した。
《白亜》の長い首が力を失う。
前脚が折れ、巨大な身体が大きく傾いた。
「倒れるぞ!」
フェルクの声が響く。
オリオンがカイトたちの前へ駆け込み、大盾を構える。
倒れ込んできた大型《白亜》の頭部へ盾を当て、最後の軌道を強引に逸らした。
巨体が石床へ激突する。
轟音。
粉塵が広間を覆い尽くした。
やがて、白い煙の向こうで、赤い感知器が一度だけ弱く灯る。
そして。
完全に消えた。
ライトニングは焼けた右手を見下ろした。
そこに、剣はない。
「……気に入っていたのだがな」
少しだけ惜しそうに呟く。
瓦礫の向こうから、フェルクの声が飛んできた。
「エルツー様がもっといいの買ってくれんだろ!」
エルツーは荒い息を吐きながら、左目を押さえていた。
「はぁ……はぁ……」
返事すらしない。
「おい……お前……」
その瞬間。
エルツーの顔色が変わった。
「ダメだ……!」
その声は、今までで最も鋭かった。
「全員、下がれ! 急げえええええ!!」
全員の身体が反射的に動いた。
考えるより先に、その声音が危険を伝えていた。
オリオンが大盾を引き寄せる。
フェルクが焼け爛れた両手を庇いながら後方へ跳ぶ。
ライトニングも空になった右手を押さえ、倒れた《白亜》から距離を取った。
エルツーはさらに叫ぶ。
「距離を取るだけじゃダメだ!! プリシラの後ろへ!!」
「プリシラ! 一番の防御魔法を!!」
「っ……!」
プリシラの肩がびくりと跳ねた。
だが、怯んだのは一瞬だけだった。
床へ沈んだ大型《白亜》の巨体。
その胸部にある炉心が、ぶくりと不自然に膨張した。
金属であるはずなのに、生き物の臓腑のように脈打っている。
一度。
二度。
膨張は止まらない。
炉心を中心に、白い外殻へ無数の亀裂が走り始めた。
次の瞬間には、爆散する。
それが、誰の目にも分かった。
プリシラはワンドを両手で握り締めた。
細い腕が震えている。
すでに魔力はかなり消耗していた。
それでも、逃げることはしなかった。
大きく息を吸い込み、ほとんど悲鳴に近い声で詠唱を紡ぐ。
「共に辿る黄泉の道――」
その瞬間。
プリシラの小さな身体から、これまでとは比較にならない魔力が溢れ出した。
空気が沈む。
石床が軋む。
「今、無明の縁にて終焉を待つ――」
ワンドの先端に嵌め込まれた宝石が、鈍い紫色に輝く。
その光は美しいというより、不吉だった。
プリシラはワンドを石床へ突き立てた。
「《ヨモツオオカミ》!!」
地面が鳴った。
突き出したのは、土壁ではなかった。
最初に現れたのは、白い指先だった。
五本の骨の指が石床を突き破り、何かを求めるように宙を掴む。
その隣から、さらに一本。
また一本。
無数の腕が、地中から一斉に噴き出した。
頭蓋。
肋骨。
脊椎。
骨盤。
砕けた脚骨。
ひび割れた腕骨。
数え切れないほどの骸が地面から這い出し、互いの身体へ縋りつくように折り重なっていく。
骨と骨が絡み合う。
腕が柱となり。
肋骨が梁となり。
脊椎が鎖のように全体を繋ぐ。
やがてそれは、人の背丈など遥かに超える巨大な壁となった。
幾千、幾万の死者が、背後の者たちを守るためだけに立ち上がった、骸の砦。
可愛らしい獣人の少女が放ったとは到底思えない。
荘厳で。
不吉で。
あまりにも規格外な防御魔法。
次の瞬間。
大型《白亜》の炉心が炸裂した。
光が先だった。
白い閃光が広間を満たし、すべての輪郭を塗り潰す。
音は遅れてやって来た。
腹の底を打ち抜くような爆音。
続いて、爆風。
衝撃。
白い粉塵。
熱ではない。
炎でもない。
そこに存在するものを、構成する端から削り取っていくような異質な破壊だった。
《ヨモツオオカミ》が、そのすべてを正面から受け止める。
骨壁の表面が一気に削れた。
無数の頭蓋が砕ける。
肋骨が粉となり。
腕骨が弾け。
脊椎が千切れ飛ぶ。
骨の破片が嵐のように宙を舞った。
それでも、壁は崩れない。
砕けた場所へ、新たな骸が次々と伸びてくる。
失われた腕の代わりに別の腕が絡みつき。
砕かれた頭蓋の隙間を、幾つもの肋骨が埋めていく。
まるで死者たちが、後ろにいる者だけは通すまいと必死に縋り合っているようだった。
「う……あああああっ!」
プリシラが叫ぶ。
ワンドを握る両手から血が滲む。
膝が震える。
それでも、魔法を解かなかった。
「まだ……!」
骨壁が削られる。
「まだ……!」
光が迫る。
「絶対に……通さない!!」
プリシラの魔力が、さらに膨れ上がった。
骸の城壁が一際高く隆起し、白い破壊の奔流を押し返す。
やがて。
白い光が弱まり始める。
爆音が遠ざかり。
衝撃が途切れ。
広間へ、静寂が戻った。
最後に一つの頭蓋が骨壁から剥がれ落ち、石床へ転がる。
からん。
乾いた音だけが響いた。
プリシラはワンドへ縋りついたまま、荒い呼吸を繰り返している。
「はぁ……はぁ……」
《ヨモツオオカミ》は、まだ立っていた。
半分以上を削り取られながらも、無数の骸は最後まで背後の者たちを守り抜いた。
衝撃が完全に収まった時、周囲の景色は一変していた。
床。
壁。
石柱。
砕けた《白亜》の外殻。
広間に存在していたものの大半が、白い粉塵へと変わっている。
物質を焼いた痕跡はない。
溶けてもいない。
ただ、そこにあったものが細かく削り取られ、形を保てなくなっていた。
白い灰が雪のように舞う。
視界の向こう側が霞んでいた。
「……全員いるか」
オリオンの低い声がした。
大盾は構えたままだった。
その表面にも、白い粉が厚く積もっている。
「終わったのか?」
ライトニングも、灰を払いながらゆっくりと立ち上がった。
そして、すぐにプリシラを見る。
プリシラは返事をしようとした。
「だ、大丈――」
言葉の途中で膝が崩れる。
ライトニングが駆け寄り、地面へ落ちる寸前にその身体を抱き止めた。
「プリシラ!」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るな」
ライトニングは小さな身体を抱え直す。
「よくやった」
プリシラの耳が僅かに動いた。
それを聞いて安心したのか、張り詰めていた全身から力が抜けていく。
離れた場所では、カイトがメグを抱き起こしていた。
二人とも白い粉まみれだったが、大きな傷はない。
「メグ、大丈夫?」
「う、うん……」
互いの無事を確かめた二人は、同時に息を吐いた。
その時だった。
メグの視線が、カイトの肩越しで止まる。
「……え?」
掠れた声が漏れた。
白い灰の中。
少し離れた場所に、フェルクが立っていた。
「ったく……ひでえ目に遭ったな」
いつもと変わらない、軽い口調だった。
だが。
その身体には、あるべきものがなかった。
右腕。
肩口から先が、跡形もなく失われていた。
衣服も。
皮膚も。
肉も。
骨も。
爆発に面していた側だけが、まとめて削り取られている。
断面から流れた血が脇腹を伝い、白い粉の積もった床へ落ちていた。
「ひっ……」
メグの喉が引きつる。
顔から一瞬で血の気が引いた。
カイトも言葉を失う。
「う、腕……」
さっきまであったはずの腕がない。
一緒に戦っていた人間の身体が、たった数秒で欠けている。
「フェルクさん……腕が……!」
「!?」
フェルクは1テンポ遅れて腕に気づく。
「ぐっ……お前達を庇った時だ……」
その返事が、さらに二人を怯えさせた。
フェルクが立っていた場所は、《ヨモツオオカミ》の端に近かった。
爆発の直前。
骨壁の隙間を抜けた白い奔流が、カイトとメグのいる場所へ向かっていた。
それを見たフェルクが割り込み、二人を骨壁の内側へ突き飛ばした。
間に合わなかった右腕だけが、防壁の外へ残されたのだ。
カイトの顔がさらに青くなる。
「僕たちを庇って……」
「気にすんな。お前達を守れたら……安いもんだ……」
安いはずがない。
腕一本が、安いはずなどなかった。
だが、ライトニングは取り乱さなかった。
プリシラを抱きかかえたまま、フェルクの姿を一瞥する。
「悪質な冗談はよせ」
「ぐ……」
「2人とも気にするな」
カイトとメグが、信じられないものを見るようにライトニングを振り返った。
オリオンも大盾を下ろし、静かに息を吐く。
「うむ、全員無傷で生き延びた」
その声音には、明確な安堵があった。
フェルクの腕が失われているにもかかわらず。
二人は、誰も死んでいないことだけを確認していた。
「な、何を言って……」
カイトが声を絞り出した時。
奇妙な音がした。
みち。
湿った何かが引き伸ばされるような音。
フェルクの肩口から血が止まっていた。
むき出しになっていた断面を覆うように、細い肉の繊維が無数に伸び始めている。
絡まり。
束になり。
失われた腕の形をなぞるように、急速に増殖していく。
内側では白い骨が生まれていた。
肩から上腕へ。
肘へ。
前腕へ。
何もなかった空間を押し広げるように、新しい骨格が組み上がっていく。
その上へ筋肉が巻きつき、血管が走り、皮膚が薄い膜となって表面を覆っていった。
「え……」
カイトは瞬きすらできなかった。
メグは口元を押さえ、声にならない悲鳴を漏らす。
腕が生えている。
治っているのではない。
失われたものが、最初から作り直されている。
フェルクは新しく形成された肘を曲げ、まだ指の揃っていない手をぶらぶらと振った。
「あ!!ちょっと待て。指が足りねえ」
肉が蠢く。
一本。
二本。
残る指が順番に伸び、最後に爪が形を整えた。
フェルクは五本の指を開閉する。
「よし」
完全に元通りとなった腕を回し、肩の具合を確かめる。
「相変わらず、見た目が気持ち悪いな」
ライトニングが平然と言った。
「好きでやってるわけじゃねえよ」
「服は戻らないのだな」
「そこまで便利じゃねえ」
肩口から先の袖だけを失ったフェルクが、面倒そうに息を吐く。
そのやり取りを、カイトとメグは真っ青な顔で見つめていた。
冗談を言っている。
片腕を失った直後なのに。
それどころか、もう新しい腕が生え揃っている。
フェルクが《プラナリア》と呼ばれる理由。
二人は、その二つ名に込められた意味を初めて理解した。
「フェルクさん……あなた、一体……」
カイトの問いに、フェルクは新しい手を握ったり開いたりしながら答える。
「だから、あの名前で呼ばれるのが嫌なんだよ。キモいよな~」
軽い口調だった。
だが、笑ってはいなかった。
オリオンはフェルクの再生を最後まで確認すると、ようやく大盾を完全に下ろした。
ライトニングも、腕の中のプリシラへ視線を戻す。
二人にとって重要なのは、失った腕が戻ることではない。
フェルクが生きていること。
プリシラが息をしていること。
カイトとメグが無傷であること。
そして。
全員が、ここにいることだった。
「……本当に、全員いるな」
オリオンがもう一度呟いた。
今度は確認ではなかった。
安堵を噛み締めるような言葉だった。
だが。
一人だけ、まだ終わっていない者がいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
白い灰の向こうから、浅い呼吸音が聞こえる。
エルツーだった。
左手で左目を覆いながら、よろめくように立っている。
その右目は、ほとんど閉じかけていた。
瞼は震え、焦点も定まっていない。
充血しきっており、ドス黒くなりつつある。
それでもエルツーは、意地だけで右目を開き続けていた。
瞳の奥に残る、微かな光。
倒れた大型《白亜》。
砕け散った炉心。
崩れ落ちた外殻。
そして、広間の両脇に残された暗い通路。
そのすべてを、血に濡れた右目で睨み続ける。
「エルツーさん……?」
カイトが声をかける。
返事はなかった。
エルツーの意識は、すでにこの広間にはなかった。
瞳の奥を流れていく、幾つもの光景。
崩れた《白亜》が再び動き出す未来。
砕けた炉心が二度目の爆発を起こす未来。
暗い通路から増援が現れる未来。
誰か一人が倒れる未来。
帰還の途中で追撃を受ける未来。
エルツーは、そのすべてを探し続けた。
一つ。
また一つ。
可能性を辿るたびに、右目の奥を鋭い痛みが貫く。
血が頬を伝う。
呼吸がさらに浅くなる。
膝が笑い、身体が左右へ揺れる。
それでも、目を閉じなかった。
フェルクの笑みが消える。
「おい、もういいだろ」
エルツーは答えない。
ライトニングも、プリシラを抱いたまま彼を見る。
「エルツー!!」
呼びかけにも反応しない。
今の彼には、誰の声も届いていなかった。
ただ一つだけ。
全員が生きて帰れる未来を確かめる。
そのためだけに、残った力を右目へ注ぎ続けていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
やがて。
無数に枝分かれしていた光景が、少しずつ静まっていく。
どの道にも。
どの分岐にも。
動き出す《白亜》の姿はなかった。
増援も来ない。
二度目の爆発も起こらない。
崩れた大型《白亜》は、どの世界線においても沈黙していた。
完全に終わったのだ。
エルツーの口元が、僅かに緩む。
「……よかった」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
右目から光が消える。
張り詰めていた糸が切れたように、瞼がゆっくりと閉じた。
その瞬間。
エルツーの身体から、すべての力が抜けた。
膝から崩れることすらなかった。
そのまま後ろへ倒れ込み、白い灰の積もった石床へ、大の字になって転がった。
「エルツーさん!」
カイトが叫ぶ。
ライトニングが顔を上げ、オリオンが大盾を放り出すようにして駆け寄った。
だが。
倒れたエルツーの胸は、ゆっくりと上下している。
予見眼の能力を解いただけだった。
右目の周囲は赤く腫れ、頬には乾きかけた血の跡が残っている。
それでも、その表情は不思議なほど穏やかだった。
最後の一つまで。
誰も死なないことを確かめ終えた者の顔だった。




