我が主人であり創造神様
さすがのライトニングも、肩で息をしていた。
《白亜》の残骸に囲まれた広間の中で、彼女は剣先を下ろし、肺の奥に溜まった熱をゆっくりと吐き出す。
桃色の髪にまとわりついていた電光も、今では細い火花を残すばかりだった。
その横へ、エルツーが無言で小瓶を差し出す。
淡い蒼色の液体。
市販品とは明らかに質の違う、魔力回復用の高級調整薬だった。
ライトニングが片眉を上げる。
「お。さすが金持ちは違うな。いい物を持っている」
そう言いながら、ためらうことなく栓を抜き、一息に飲み干す。
液体が喉を通った瞬間、ライトニングの目元がほんの少しだけ緩んだ。
疲労は残っている。
それでも、どことなく機嫌は良さそうだった。
「それにしても」
呼吸を整えながら、ライトニングは後ろを振り返る。
「お前たち、意外と空気が読めるのだな」
カイトとメグが目を瞬かせる。
「誰一人、私の剣線にも雷にも入ってこなかった。一等星たちはともかく、プリシラたちまで絶妙な位置に立っていた」
ライトニングは、耳をぴんと立てたプリシラの頭へ手を伸ばした。
「悪くなかったぞ」
「ほ、本当ですか……!」
頭を撫でられたプリシラの表情が、ぱっと明るくなる。
カイトとメグは顔を見合わせた。
褒められた。
今、確かに褒められたのだ。
だが、壁に背を預けていたフェルクだけは笑わなかった。
プリシラの頭を撫で続けるライトニングの横で、じっとエルツーを見ている。
「それな」
低い声だった。
「俺たちが上手く避けたんじゃねえだろ」
広間の空気が、わずかに止まる。
フェルクは顎を上げ、床に散らばる《白亜》の残骸を指した。
「ライトニングの攻撃が当たらねえ場所に、最初から全員を立たせてた」
ライトニングの手が止まった。
オリオンも黙ったまま、エルツーへ視線を向ける。
「敵がどこから来るか。ライトニングがどこを斬るか。俺たちがどっちへ逃げるか」
フェルクの口元に、薄い笑みが戻る。
「全部分かってたみてえに見えたけどな」
エルツーは困ったように笑った。
「ははは。買い被りすぎですよ」
「いい加減、何か言ったらどうなんだ?」
エルツーは少しだけ目を伏せた。
それから、逃げるように――けれど決して軽くはない調子で答える。
「まあ、それはもう少し後にしましょう」
そして、そのまま最重要部へ続く扉を見た。
白亜色の巨大な扉。
表面には古びた封印文様が刻まれ、その隙間から冷たい空気が漏れ出している。
「……ところで、この後ですが」
それまで僅かに緩んでいた空気が、再び静かに締まった。
「さすがに、少し作戦が必要みたいです」
フェルクがにやりとする。
「ようやく会議っぽくなってきたな」
エルツーは頷いた。
「基本的に、前衛の三人は好きなように動いていただいて構いません」
ライトニングが目を細める。
「好きなように?」
「ええ」
エルツーはオリオン、フェルク、ライトニングの順に視線を動かした。
「細かく動きを決めるより、その方が多分強い」
オリオンが短く頷く。
フェルクは「言うじゃねえか」と鼻を鳴らした。
エルツーは次に、プリシラへ向き直る。
「プリシラは、三人への補助魔法を切らさないようにしてください」
「はいっ」
「それと、物理的な遮蔽物を作ってほしい。土魔法で構いません。可能なら、作った遮蔽物に強靭化の術も重ねてください」
プリシラの耳が、さらにぴんと立つ。
「分かりました!」
オリオンが静かに問う。
「プリシラ嬢には、なかなか負担が大きいのではないか?」
ライトニングは腕を組み、即答した。
「問題ない」
本人ではなく、これまで傍で見てきた者の確信だった。
プリシラも胸の前で拳を握る。
「が、頑張ります……!」
その声には、ようやく自分にも明確な役目が与えられた喜びが滲んでいた。
カイトとメグは、では自分たちは、と言いたげにエルツーを見る。
その視線に気づき、エルツーは小さく笑った。
「二人には、これをお願いします」
そう言って取り出したのは、小さな革袋だった。
中を覗いた瞬間、カイトとメグの目が見開かれる。
回復薬。
魔力回復薬。
解毒剤。
瞬間硬化軟膏。
簡易解除札。
どれも一流品だった。
しかも、一つで金貨一枚は下らない品が、革袋の中に無造作に詰め込まれている。
「え」
「え……」
フェルクが横から覗き込み、声を上げて笑った。
「いい顔してんなあ」
メグが震える声で訊く。
「こ、これ……全部使っていいんですか?」
「使うために持ってきたからね」
カイトは両手で革袋を受け取った。
その瞬間、顔が引きつる。
「こ、こんなの落としたら、僕は死にます……」
「じゃあ、落とさないでね」
「軽い!」
だが、そのやり取りのおかげで、張り詰めていた空気が僅かに和らいだ。
エルツーは続ける。
「前衛の三人が何を必要としているのか、自分たちで見て判断してください」
カイトの表情から笑いが消える。
単に薬を持って立っていればいいわけではない。
誰が傷ついたのか。
誰の魔力が尽きかけているのか。
どの薬を、どの瞬間に届けるのか。
戦場全体を見なければ務まらない役目だった。
カイトは革袋を強く握り直す。
「分かりました」
エルツーは、最後に全員を見回した。
そして、今度だけは本当に真剣な顔になった。
「それから……最後に、これだけは守ってほしい」
全員の表情が変わる。
「敵が宙に浮いても、決して油断しないでください」
一拍。
「五秒以内に、プリシラが作った遮蔽物へ隠れてください」
静かな声だった。
だが、妙に重かった。
ライトニングの眉が僅かに動く。
オリオンの目が細くなる。
フェルクの笑みも薄れた。
「必ずです」
エルツーは念を押す。
「これだけは、絶対に守ってください」
カイトが真っ先に頷いた。
「分かりました」
理由は訊かなかった。
つい先ほどまで、革袋一つで大騒ぎしていた新人の顔ではない。
形式だけとはいえ、《始まりの翼》のリーダーとして、仲間の言葉を信じる顔だった。
それに続き、メグが頷く。
プリシラはワンドを胸に抱き、ライトニングは無言で剣を握り直した。
オリオンも短く頷く。
フェルクだけが、探るような視線をエルツーへ向け続けていた。
その時だった。
誰の目にも、エルツーの右目が微かに光ったように見えた。
光の加減だったのかもしれない。
古い魔石灯の反射だったのかもしれない。
だが、ただの錯覚では済ませられない違和感があった。
カイトとメグが息を呑む。
プリシラの耳が伏せられる。
ライトニングは、その右目をじっと見つめた。
オリオンは何も言わない。
フェルクだけが、面白そうに――けれど先ほどまでより慎重な目をしている。
エルツーは皆から僅かに距離を取り、肩口のアムラへ小さく話しかけた。
「そういえば、僕の能力について話したことはなかったね」
アムラは答えなかった。
笑いもせず、ただエルツーの右目を覗き込んでいる。
「この眼」
エルツーはさらに声を落とした。
「アムラなら、分かる?」
数秒の沈黙。
やがて、アムラの口元がゆっくりと吊り上がった。
「……ああ」
それは、いつもの軽い笑みとは違っていた。
ひどく古く、底の見えない何かを眺めるような目だった。
「なるほど」
小さな羽が、かすかに震える。
「エル。君はその眼で、どこまで見ているんだい?」
エルツーは、ふふ、と小さく笑った。
「秘密」
アムラも笑った。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
エルツーは最重要部の扉の前へ立つ。
白亜色の重い扉。
古びた封印文様。
その向こうに、大型《白亜》がいる。
一行の呼吸が揃い始めた、その時だった。
――ゴンッ。
広間に、重い金属音が響いた。
オリオンが背負っていた大盾を下ろし、その下端を石床へ打ちつけたのだ。
人ひとりを、すっぽりと覆い隠せるほどの大盾。
分厚い金属を幾重にも重ねた盾面には、無数の傷が刻まれている。
剣に削られた跡。
槍に穿たれた窪み。
炎に焼かれ、黒く変色した縁。
どれも磨き消されることなく、彼が越えてきた戦場の記憶として残されていた。
オリオンは左腕を盾の固定具へ通し、革帯を締める。
ぎり、と革が軋んだ。
腰を僅かに落とし、大盾を半身の前へ構える。
それだけで、彼の背後に一つの境界が生まれた。
何者であろうと、決して踏み越えることのできない一線。
オリオンの本領は、剣術ではない。
敵を華々しく斬り伏せることでもなければ、誰より早く戦場を駆けることでもない。
ただ立ち続けること。
仲間の前に立ち、降り注ぐすべてを受け止め、それでもなお、一歩も退かないこと。
どれほど苛烈な戦場でも。
空が炎で覆われようと。
大地が血に濡れようと。
絶望の中で仲間たちが顔を上げれば、そこには必ずオリオンが立っていた。
傷だらけの大盾を掲げた、その姿だけは決して見失われなかった。
暗闇の中で、帰るべき方角を示す星のように。
故に――《一等星》。
最も眩しく輝く者ではない。
最も深い闇の中でも、消えることのなかった男。
オリオンは盾越しに、閉ざされた扉を見据えた。
「いつでもいい」
低く、静かな声だった。
だが、その一言だけで、全員の背筋が伸びた。
ライトニングが剣先を上げる。
フェルクが壁から背を離す。
プリシラはワンドを両手で握り締め、カイトとメグも革袋へ手を添えた。
オリオンの背中を中心に、自然と全員の立ち位置が定まっていく。
エルツーは一度だけ、その配置を確かめた。
そして、右手を扉へ伸ばす。
「じゃあ……開けるよ」
最重要部の扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
石と金属が擦れ合う重い音。
その隙間へ、オリオンが真っ先に大盾を滑り込ませた。
半身を盾の陰へ収め、扉の向こうを窺う。
誰もオリオンより先には出ない。
やがて扉が開き切った。
その先には、これまで通ってきたどの区画よりも広大な空間が広がっていた。
高い天井。
等間隔に並ぶ巨大な石柱。
そして、その中央。
白い何かが、四肢を折り畳むようにして鎮座していた。
巨大だった。
太い四本の脚。
石床へ深く食い込んだ鋭い爪。
胴体を覆う白い外殻は、まるで鱗のように幾重にも重なっている。
そこから長い首が伸び、その先端には鋭く尖った頭部があった。
翼はない。
その代わり、背面には巨大な装甲板が何層にも積み重なり、尾の付け根まで連なっている。
誰もが同じ生物を思い浮かべた。
ドラゴン。
それを、王政期の技術で無理やり形にしたような異形だった。
人型の大型《白亜》を想像していた一同の予想を、それは容易く越えていた。
オリオンは大盾を僅かに傾け、怪物の全身を観察する。
「……大型、という言葉では足りんな」
低い声が、盾の裏から漏れた。
その時。
頭部の奥で、目に当たる二つの感知器がゆっくりと赤く灯った。
――ヴォン。
低く、重い警告音が空間を震わせる。
床だけではない。
石柱も、天井も、広間そのものが唸り声を上げているようだった。
続いて、古代語が響き渡る。
これまで遭遇した《白亜》よりも遥かに低い声。
耳で聞くというより、身体の内側へ直接押し込まれるような不快な振動だった。
一同の視線が、自然とプリシラへ集まる。
「ひゃっ」
プリシラの肩が跳ねた。
それでも今回は、怯えた様子だけではなかった。
耳をぴんと立て、聞き逃すまいとワンドを胸元へ引き寄せる。
自分にしかできない役目があることが、少し嬉しいのだろう。
「え、えっと……」
古代語へ耳を澄ませ、慎重に言葉を選ぶ。
「ここは、低俗な賊が足を踏み入れてよい場所ではない――」
プリシラは一度、困ったように眉を下げた。
「即刻、首を差し出せ……と、言っています」
一拍。
ライトニングが低く呟く。
「確かに一人、賊らしい奴はいるな……悔しいが、的を射ている」
フェルクがゆっくりとライトニングを見る。
「もう……何も言わねえぞ?」
張り詰めた空気が、ほんの僅かに緩んだ。
だが、大型《白亜》から視線を外す者はいない。
大型《白亜》の頭部から、再び重い古代語が響いた。
『愚かなる異邦人よ――』
広間を満たす低い声が、石柱を震わせる。
『己が罪を、その命をもって贖うがよい』
プリシラが訳すより早く、その意味だけは誰にでも伝わった。
明確な敵意。
そして、自らを裁く側だと疑っていない傲慢さ。
エルツーが静かに告げる。
「作戦通りに。皆さん、よろしくお願いします」
最初に動いたのは、《白亜》の方だった。
巨体が沈む。
次の瞬間、その姿が視界から消えた。
「――来るぞ!」
オリオンの声が響く。
巨体に似合わぬ速さだった。
長い首が鞭のようにしなり、鋭く尖った頭部が前方へ突き出される。
噛みつきではない。
頭部そのものを巨大な穂先とした、砲槍のような突進。
狙いは正面。
オリオンだった。
オリオンは退かない。
かといって、真正面から力任せに受け止めることもしなかった。
大盾を僅かに傾ける。
半歩だけ軸を外し、踏み込んできた《白亜》の頭部へ、盾と肩をぶつけるように前へ出た。
――轟音。
衝突の瞬間、広間全体が揺れた。
大盾の表面を白い頭部が滑り、火花が激しく飛び散る。
オリオンは衝撃を受け止めながら、その力を斜め下へ流した。
《白亜》の頭部が石床へ叩きつけられる。
勢いを殺し切れないまま床を削り、長い亀裂を刻んでいった。
「は、速い……!」
カイトが思わず声を漏らす。
あれほど巨大なものが、構えから一息の間にオリオンへ到達した。
正面に立っていたのが彼でなければ、反応することすらできなかっただろう。
だが、驚いている暇はない。
「遅い!」
ライトニングはすでに動いていた。
桃色の髪から電光を散らし、《白亜》の側面へ一気に回り込む。
雷光をまとった剣が、横薙ぎに白い首を打った。
甲高い金属音。
刃と外殻の間で、青白い火花が爆ぜる。
だが、刃は表面を僅かに削っただけだった。
ライトニングは着地と同時に距離を取る。
「……雷をまとわせても硬いな」
中型までとは違う。
電撃自体は内部へ通っている。
それでも、外殻の厚みと密度が桁違いだった。
「そりゃあ、最奥を任されるくらいだからな」
フェルクが《白亜》の後肢側へ滑り込む。
攻撃はしない。
わざと爪の届く範囲へ姿を晒し、床を蹴って左右へ揺さぶる。
《白亜》の感知器が、フェルクを追って赤い光を動かした。
長い首が持ち上がる。
頭部が、誘われるまま後方へ向く。
「首の付け根は厚い。背中も駄目だ」
フェルクは動きながら、外殻の継ぎ目を観察する。
「オリオン、首を押さえろ! ライトニングは胸だ!」
その目が、前脚の内側にある僅かな隙間を捉えた。
「こいつ、正面装甲の方が薄いぞ!」
オリオンは返事をしなかった。
必要がなかった。
大盾を前へ押し出しながら踏み込み、空いた右腕へ苛烈な魔力を集める。
腕を覆う魔力が膨れ上がり、まるで巨獣の前脚のような形を取った。
それを、《白亜》の首元へ叩き込む。
――ゴッ。
鈍く、腹の底へ響く音。
《白亜》の前脚が石床へ沈んだ。
巨体の姿勢が、ほんの僅かに崩れる。
「今だ!」
フェルクの声が飛ぶ。
「分かっている!」
ライトニングの姿が雷光へ変わる。
一瞬で《白亜》の胸元へ潜り込み、剣先を外殻の継ぎ目へ突き立てた。
「《紫電》!」
青白い稲妻が、刃を伝って内部へ流れ込む。
白い装甲の隙間から無数の火花が噴き出した。
《白亜》の身体が大きく痙攣する。
赤い感知器が明滅した。
「通った!」
カイトが声を上げる。
だが、フェルクの顔から笑みが消えた。
「いや――下がれ!」
《白亜》の右前脚が持ち上がっていた。
電撃を受けながらも動きを止めず、巨大な鉤爪をライトニングへ振り下ろす。
速い。
剣を突き立てた体勢のライトニングには、回避するための足場がない。
鋭い爪が空気を裂き、その細い身体を切り裂こうと迫る。
プリシラがワンドを振り上げた。
「《リコシェット》!」
澄んだ声が広間に響く。
ライトニングの前方へ、透明な魔法陣が展開した。
鉤爪が魔法陣へ激突する。
一瞬だけ、爪の動きが止まった。
次いで、甲高い破裂音。
魔法陣の表面を波紋が走り、振り下ろされた鉤爪の軌道が強引に横へ弾かれた。
《白亜》自身の力が、そのまま別方向へ流される。
巨大な爪はライトニングの身体を逸れ、すぐ横の石床へ突き刺さった。
石片が激しく飛び散る。
ライトニングの頬を、細かな破片が掠めた。
それでも彼女は振り返らなかった。
驚きもしない。
プリシラが防ぐことを、最初から疑っていなかった。
「いいぞ、プリシラ!」
そう叫ぶと同時に、胸部へ突き立てた剣をさらに深く押し込む。
「は、はいっ!」
プリシラは震える両手でワンドを握り締める。
《リコシェット》の魔法陣には亀裂が走っていた。
額には汗が滲み、腕も小さく震えている。
それでも、魔法を解かない。
ライトニングが自分を信じている。
ならば、自分もその信頼に応えなければならない。
「まだ……いけます!」
プリシラの魔力が再び膨れ上がる。
ひび割れた魔法陣が青白く輝き、鉤爪をさらに外側へ押し返した。
その時。
エルツーの右目が、強く光った。
「――プリシラ! 作戦通りに!」
それまでの穏やかな声ではなかった。
広間を切り裂くような、鋭い叫びだった。
「カイト、メグ! 二人はこっちへ!」
カイトとメグの肩が同時に跳ねる。
エルツーが声を荒らげた。
それだけで、二人は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
いつも笑っている。
どれほど危険な状況でも、どこか他人事のように落ち着いている。
そんなエルツーが、明らかに焦っていた。
「プリシラ、壁を!」
「は、はい!」
プリシラはワンドの石突きを床へ打ちつける。
「《ウォール》!」
石床が激しく隆起した。
轟音とともに、分厚い石壁が広間の各所へ次々と突き上がる。
一枚ではない。
大型《白亜》を中心に、前後左右へ無作為に散らばるようにして、大小さまざまな壁が生まれていく。
敵を囲うためではない。
進路を塞ぐためでもない。
誰かが身を隠すためだけに作られた、不規則な遮蔽物。
「もっとだ! 間隔を空けて!」
「はいっ! 《ウォール》! 《ウォール》!」
石床が割れ、さらに壁が立ち上がる。
エルツーはその一つへ駆け寄った。
「はぁ……はぁ……ここだ!」
石壁の陰へ滑り込み、カイトとメグを手招きする。
「カイト! メグ! この壁から前衛の補助を!」
「は、はい!」
二人は駆け出そうとした。
その瞬間だった。
メグの足が止まった。
「……え?」
膝から力が抜ける。
一歩踏み出したはずの足が床を掴めず、もう片方の足へ絡みついた。
身体が前へ傾く。
「メグ!」
カイトが手を伸ばすより早く、メグは石床へ倒れ込んだ。
両手をついた衝撃が腕を走る。
痛いはずだった。
だが、それ以上に奇妙なものが身体の内側から込み上げていた。
息が吸えない。
胸が締めつけられる。
指先が震える。
理由も分からないまま、涙が次々と頬を伝った。
「ひっ……ひぃ……」
声を出そうとしても、言葉にならない。
何が怖いのかさえ分からなかった。
目の前には仲間がいる。
まだ誰も死んでいない。
《白亜》の攻撃も、今は前衛の三人へ向いている。
それなのに、身体だけが理解していた。
ここにいてはいけない。
逃げなければならない。
今すぐ、この場から消えなければならない。
「メグ!」
カイトが叫ぶ。
その足は止まらなかった。
カイトにも同じ異変が起きていた。
膝は震え、足元は鉛のように重い。
背中を向けて逃げろと、身体の奥底が叫んでいる。
それでもカイトはメグの元まで駆け寄った。
「大丈夫! 僕を見て!」
返事はない。
メグの腕を自分の肩へ回し、その身体を強引に引き起こす。
「立てなくていい! 僕が連れていく!」
確かな足取りだった。
速くはない。
力強くもない。
それでも、一歩ずつ前へ進んでいた。
エルツーが二人を一瞥する。
光を宿した右目が、カイトの姿を捉えた。
ほんの一瞬だけ、その表情から焦りが消える。
だが、すぐに《白亜》へ視線を戻した。
背面に積層した装甲板が、僅かに開き始めていた。
一枚。
二枚。
幾重にも重なっていた白い装甲が、花弁のように持ち上がっていく。
「クソ……」
エルツーの口から、初めて明確な悪態が漏れた。
「プリシラ! 補助魔法を! 全部です!」
「はい!」
プリシラは弾かれたようにワンドを掲げた。
息を吸う。
次の瞬間、幼い喉から凄まじい速度で詠唱が紡がれた。
「《プルーフ》!」
オリオンの大盾を中心に、強靱な魔力の膜が広がる。
「《バリア》!」
三人の周囲へ、淡い光の防壁が重なる。
「《リフレクション》!」
鏡面のような薄い魔法陣が、それぞれの身体へまとわりつく。
そこまでは、全員が知る防御魔法だった。
だが、プリシラの詠唱は止まらない。
「《クイック》!」
足元へ刻まれた術式が輝き、ライトニングたちの身体が僅かに軽くなる。
「《ブースト》!」
赤みを帯びた魔力が筋肉と武器へ流れ込み、三人の膂力を一段引き上げた。
いくつもの補助術が、一切の間を置かず重ねられていく。
防御。
耐性。
反射。
速度。
身体強化。
本来なら、それぞれを専門とする術師が分担して成立させる数だった。
「……なんだ、これは」
オリオンが大盾を構えたまま、僅かに目を見開く。
盾が軽い。
腕へ伝わる魔力が、普段よりも鮮明に制御できる。
ライトニングも、足元の感覚が変わったことに気づいていた。
呼吸一つで、身体が雷光へ変わりそうなほど軽い。
フェルクは後方へ跳びながら、意識の片隅でプリシラを見る。
《プルーフ》と《バリア》は知っている。
《リフレクション》も、使い手は少ないが存在する。
だが、後半の二つは違った。
術式の組み方が、自分たちの知るものとは僅かに異なる。
古い。
それでいて、異様なほど完成されている。
――何者なんだ、あの獣人は。
驚愕は一瞬だった。
今は、それを口にしている余裕はない。
プリシラ自身も、何が異常なのか分かっていない。
ただ教わった通りに。
必要だと言われた魔法を、必要な相手へ施しているだけだった。
そして、エルツーだけは驚かなかった。
プリシラが何を使えるのか。
どこまで重ねられるのか。
最初から知っていたように、次の指示へ備えている。
だが、その顔からは急速に血の気が引いていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸が浅い。
右目の光が脈打つたびに、こめかみへ汗が浮かぶ。
カイトはメグを石壁の陰へ運び込みながら、その異変に気づいた。
「あ……あの、エルツーさん……」
「前を見てろ!」
鋭い声が飛んだ。
カイトの身体が跳ねる。
エルツーは振り返らない。
右目から細い光を溢れさせたまま、まだ起きていない何かを凝視していた。
その時、石壁の向こうから人影が飛び込んできた。
フェルクだった。
「おい、リーダー」
壁へ片手をつき、乱れた呼吸のままメグを見る。
「嬢ちゃん、大丈夫か?」
返事はない。
メグは喉を鳴らしながら、小さく身体を縮めるだけだった。
フェルクは一目見ただけで、すぐに問いを引っ込めた。
「……って、んなわけなさそうだな」
それ以上は聞かない。
慰めもしない。
「リーダー。《星霊水》は持ってるか?」
「せ、星霊水……?」
カイトは慌てて革袋を開く。
色も形も異なる瓶が、ぎっしりと詰め込まれていた。
「えっと……どれだ……」
指が震える。
瓶同士が触れ合い、かちかちと危うい音を立てた。
「これだ」
フェルクの手が横から伸びた。
迷いなく、革袋の奥にあった数本の小瓶を掴み取る。
透明な瓶の内側で、淡い光の粒子が星屑のように揺れていた。
《星霊水》。
通常の魔力回復薬とは比べものにならない速度で魔力を補い、乱れた魔力経路まで整える最高級の霊薬。
それをフェルクは、数えることすらせずに掻っ攫った。
「あ――」
カイトの口から漏れたのは、それだけだった。
「エルツー、もらうぞ」
ぶっきらぼうに言い残し、フェルクはすぐさま石壁の外へ飛び出した。
《白亜》の前脚を掻い潜り、床を滑るようにして前衛へ戻る。
オリオンは大盾で長い首を押さえ込み、ライトニングは胸部の継ぎ目へ幾度も剣を突き込んでいた。
だが、二人とも消耗が激しい。
「おらよ!」
フェルクは二本の《星霊水》の栓を、親指で弾き飛ばした。
そして、中身をそのまま二人へぶちまけた。
光り輝く液体が宙に広がり、オリオンの鎧とライトニングの頭上へ降り注ぐ。
「おい!」
ライトニングが怒鳴る。
桃色の髪が濡れ、額から淡い光を放つ雫が流れ落ちた。
「何をする!」
「効果はほとんど一緒だろ!」
フェルクは悪びれもしない。
ライトニングの周囲で、青白い電光が弾けた。
一度は弱まりかけていた雷が、息を吹き返すように髪から剣へ走り抜ける。
「貴様……覚えていろよ」
「生きて帰れたらな!」
フェルクは笑いながら、もう一本をオリオンの大盾へ叩きつけた。
瓶が砕け、星屑を含んだ液体が盾面から腕へ流れ込む。
オリオンの身体を巡る魔力が、一気に膨れ上がった。
プリシラが施した《ブースト》が、補充された魔力に反応する。
赤みを帯びた光が再び強く脈打った。
オリオンが、珍しく愉快そうに息を吐く。
「随分な大盤振る舞いだな」
「遠慮すんな!」
フェルクも最後の一本を自分の胸元へ浴びせた。
プリシラの《クイック》と《ブースト》が再び強く発現し、三人を包む光が一段と濃くなる。
フェルクは口元を吊り上げた。
「高級ビュッフェだぜ!」
ライトニングの罵声と同時に、雷光が広間を駆け抜けた。
《星霊水》によって魔力を取り戻した前衛三人が、再び大型《白亜》へ襲いかかる。
オリオンの大盾が首を押さえ込む。
フェルクが後肢を撹乱し、巨体の重心を崩す。
その隙を縫って、ライトニングの剣が胸部の継ぎ目を正確に穿っていく。
青白い雷が内部を走るたび、《白亜》の赤い感知器が激しく明滅した。
さすがの大型《白亜》も、痺れを切らしたらしい。
巨体が大きく沈んだ。
「離れろ!」
フェルクの警告と同時に、三人が一斉に距離を取る。
《白亜》が長い首を持ち上げた。
背面に幾重にも積層していた装甲板が、一枚ずつ左右へ開いていく。
白い装甲板は大きく広がり、やがて翼のような形を作った。
飛ぶための翼ではない。
一枚一枚が、鋭く研ぎ澄まされた巨大な刃だった。
エルツーの右目が大きく見開かれる。
「プリシラ!」
「はい!」
プリシラは返事と同時にワンドを振り上げた。
「《リコシェット》!」
無数の透明な術式が、石壁の表面へ展開した。
直後。
大型《白亜》の背面から、異様な音が鳴り始める。
キィィィィィ――。
耳の奥へ直接針を差し込まれるような、高い振動音。
広げられた白い外殻が細かく震え、その輪郭が霞んで見えるほどの高周波を発していた。
「来るぞ!」
オリオンが大盾を構える。
次の瞬間。
装甲板が、一斉に射出された。
白い閃光が広間を埋め尽くす。
一枚一枚が人間の胴ほどもある刃となり、猛烈な回転を伴って前衛三人へ襲いかかった。
「曲がれっ!」
プリシラがワンドを振り抜く。
最初の外殻が石壁の魔法陣へ激突した。
――ギィンッ!
《リコシェット》が発動し、装甲刃の軌道が強引に捻じ曲げられる。
逸らされた刃は隣の石壁へぶつかり、再び別方向へ跳ね返った。
一枚。
二枚。
三枚。
白い刃が石壁から石壁へと跳弾し、広間の中を滅茶苦茶に飛び交う。
だが、その破壊力はほとんど失われていなかった。
《リコシェット》で直撃を逸らしてなお、装甲刃は分厚い石壁を深々と抉る。
「きゃあああああっ!」
カイトとメグの悲鳴が上がる。
二人が隠れた石壁にも、装甲刃が直撃した。
壁全体が激しく揺れ、細かな亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。
カイトは咄嗟にメグの上へ覆い被さった。
メグは耳を塞ぎ、膝を抱えたまま頭を低くしている。
前衛三人も、石壁の陰へ身を滑り込ませる。
装甲刃が大盾へ衝突するたび、オリオンの巨体が後方へ押し込まれた。
ライトニングが隠れた壁は、二枚目の直撃で半分が吹き飛ぶ。
フェルクの頭上を通過した刃は石柱を切り裂き、巨大な柱を崩落させた。
やがて。
最後の装甲刃が壁へ突き刺さり、ようやく耳障りな高周波が止んだ。
後に残ったのは、息をすることすら躊躇うような静寂だった。
広間に立てられた石壁は、そのほとんどが半壊している。
無事なものは一枚もない。
前衛三人は、どうにか直撃を免れていた。
だが、次も同じように凌げる保証はなかった。
大型《白亜》の頭部が、ゆっくりと持ち上がる。
赤い感知器が再び灯った。
そして、先ほどと同じ古代語が広間を震わせる。
『己が罪を悔い――』
『我が神の御前に、頭を垂れよ』
壊れた装置のように、同じ言葉が何度も反芻される。
プリシラは荒い呼吸を繰り返しながら、その声を聞いていた。
「い、言っていることは……ほとんど同じです」
額から流れた汗が、頬を伝う。
「自らの罪を悔い改めろ……神様の前に頭を下げろ、と……」
「はぁ……はぁ……」
エルツーの呼吸も、さらに荒くなっていた。
右目の光は消えていない。
むしろ先ほどより強く、瞳の奥で不規則に明滅している。
「まずいな……」
その呟きに、カイトが反応した。
「な、何がですか……?」
エルツーは答えなかった。
大型《白亜》ではなく、広間の左右にある壁を見ていた。
これまで何の装飾もないと思われていた壁面。
その一部に、細い亀裂が走る。
いや。
亀裂ではない。
石壁に偽装された、巨大な扉の継ぎ目だった。
――ズズズズズ。
重い音を立て、広間の両脇に開いた穴から暗闇が覗く。
暗い通路の奥で、赤い光が次々と灯った。
数えることに意味がないほどの感知器が、闇の中で一斉にこちらを捉える。
鋭い脚音を響かせ、小型《白亜》が這い出してくる。
その後ろからは、ハルバートを構えた中型《白亜》が現れた。
左右の穴から、途切れることなく次々と。
ずん。
ずん。
ずん。
規則正しい足音が、崩れかけた広間を満たしていく。
大型《白亜》を守るように。
あるいは、逃げ道を塞ぐように。
小型と中型の《白亜》が、前衛三人を取り囲み始めた。
エルツーは光る右目を押さえ、歯を食いしばった。
「……これが、最悪の方か」
「ライトニング!」
鋭い声が飛ぶ。
「雑魚を頼む!」
ライトニングは周囲へ視線を走らせた。
小型だけでも十を超える。
中型も左右から続々と現れ、すでに数える意味すらなくなっていた。
「雑魚ではあるが――」
剣を横へ構える。
桃色の髪が、膨れ上がる魔力に煽られて大きく広がった。
「なかなか無理を言う!」
「大型は二人で頼む!」
オリオンは大盾を構え直した。
「問題ない」
フェルクが思わず振り返る。
「問題、大有りだろ……!」
「やるんだ!」
「聞けよ!」
文句を言いながらも、フェルクは大型《白亜》へ向き直った。
ライトニングは小型と中型の群れへ一人で踏み込む。
「私を無視するな!」
剣先が石床を擦る。
一筋の電光が、床を伝って群れの足元へ走った。
「《雷糸》!」
青白い糸が網のように広がり、小型《白亜》の脚へ絡みつく。
電撃が白い外殻の内側へ流れ込み、機体の動きが一瞬だけ止まった。
その一瞬で充分だった。
ライトニングが消える。
次に姿を現した時には、一体目の《白亜》の背後にいた。
剣を振り抜く。
細い雷の線が、白い胴体を斜めに走った。
一拍遅れて、外殻がずれ落ちる。
そのまま足を止めず、二体目へ。
「《雨垂れ》!」
一度に見えた刺突は、ただの一撃だった。
だが、鳴り響いた金属音は一つではない。
数える間もないほどの刺突が、中型《白亜》の胸部へ集中する。
同じ一点を穿たれ続けた装甲が陥没し、最後の一撃で内部まで貫通した。
その背後から、別の中型がハルバートを振り下ろす。
ライトニングは半歩横へずれ、刃を紙一重で躱した。
「《紫電》!」
雷光をまとった剣が、ハルバートの柄を斬り上げる。
電撃が武器を伝って機体へ流れ込んだ。
硬直した中型《白亜》の首を、すれ違いざまに斬り飛ばす。
斬る。
突く。
躱す。
また斬る。
雷鳴が一つ響くたび、必ず一体の《白亜》が崩れ落ちた。
数では圧倒している。
だが、小型と中型ではライトニングの速度を捉えられない。
白い群れの中を駆け抜ける姿は、雷そのものだった。
大型《白亜》は、ライトニングを追わなかった。
赤い感知器が、戦場全体をゆっくりと見渡す。
内部で高速の演算が繰り返される。
通常戦闘による排除は困難。
優先すべきは、個別の撃破ではない。
戦闘領域そのものの焼却。
やがて、一つの答えへ到達した。
大型《白亜》が、突如として四肢を伸ばした。
「来るぞ!」
フェルクが叫ぶ。
オリオンが大盾を押し出す。
しかし、《白亜》は二人へ攻撃しなかった。
四本の爪が石床を砕く。
巨体が、大きく跳ね上がった。
腹部と四肢の隙間から淡い光が噴き出し、巨大な身体を空中へ固定する。
大型《白亜》は、広間の中央上空で静止した。
その姿を見た瞬間。
全員の脳裏に、同じ言葉が蘇った。
――敵が宙に浮いたら、油断しないでください。
――五秒以内に、プリシラの作った遮蔽物へ隠れてください。
エルツーが息を大きく吸い込んだ。
「全員、隠れろ!」
叫びと同時に、大型《白亜》の胸部が左右へ開いた。
白い装甲の内側から現れたのは、巨大な円筒状の炉心。
その中心で、小さな橙色の光が灯る。
一。
オリオンが大盾を抱え、最も近い石壁へ走る。
二。
フェルクが反対方向へ跳び、崩れかけた遮蔽物の陰へ滑り込む。
三。
ライトニングが小型《白亜》の頭部を斬り飛ばし、その反動で石壁の向こうへ身を翻す。
四。
プリシラがカイトとメグの前へ立ち、残った魔力を振り絞るようにワンドを掲げる。
「《バリア》!」
五。
エルツーが石壁の陰へ倒れ込む。
その直後。
胸部の光が、太陽のように膨れ上がった。
大型《白亜》の古代語が、広間に響く。
『罪人に、浄化の炎を』
次の瞬間。
世界が、白く染まった。




