枝毛が気になる雷鳴
翌朝。
ビリジオンの一角、いつもの席にはもう朝食が並んでいた。
焼いたパン。
薄いスープ。
卵料理。
派手さはないが、落ち着いた朝の食卓だった。
エルツーはいつもの位置に座っていた。
向かいにはプリシラ。
ただし、まだちゃんと起き切れてはいない。
大きな体を椅子に収めたまま、ぼんやりと半分眠った顔で座っている。
耳は少し下がり気味で、尻尾も気だるそうに揺れていた。
「……まだ眠そうだね?」
エルツーが柔らかく言うと、プリシラははっとしたように顔を上げる。
「は、はいっ。だ、大丈夫です……!」
ぜんぜん大丈夫そうではない。
その後ろに立っていたライトニングが、無言でブラシを入れた。
「ひゃっ」
「動くな」
寝起きで少し乱れた耳の後ろ。
首筋。
それから、ふわりと垂れた尻尾の毛並みを、手早く整えていく。
もう迷いがない。
昨日のぎこちなさが少し消えて、完全に朝の身支度の流れに組み込まれていた。
プリシラはされるがまま、ぴんと背筋を伸ばして固まっている。
「そんなに固まるな」
「す、すみま――」
「謝るな」
「……はい」
ブラシが耳の根元を軽く撫でるたび、プリシラの耳先がぴくぴく揺れた。
最後にライトニングは尻尾をひと撫でして、少し満足そうに頷く。
「よし」
プリシラは振り返りながら目を丸くする。
「あ、ありがとうございます……!」
「別に」
素っ気ない。
だが、その手つきは完全に世話焼きのそれだった。
エルツーはそれを見ながら、静かにスープを口に運ぶ。
ライトニングのこういう変化は、見ていて面白い。
ただ本人に言うと否定するか殴るかのどちらかなので、黙っておく。
「食べなさい」
ライトニングが席につきながら言う。
「は、はいっ」
プリシラは慌ててパンを手に取った。
まだ少し寝ぼけているのか、いつもより動作が一拍ずつ遅い。
それでも、ちゃんと自分の席について、自分の皿を前にしている。
そのこと自体が、昨日までの彼女にはなかったことだった。
食べ終わる頃、フェルクがようやく姿を見せた。
「おっはよー」
気の抜けた声で現れ、そのまま空いている席へ勝手に腰を下ろす。
今日も今日とて軽薄そうな笑顔だが、目だけは妙に冴えていた。
ライトニングが一目で顔をしかめる。
「遅い」
「朝から辛辣だなあ。ちゃんと起きて来たんだから褒めてほしいくらいだよ」
「褒める要素がない」
「ひど」
そこへ、人数分の食後の飲み物が運ばれてくる。
エルツーとライトニングとフェルクの前にはコーヒー。
そしてプリシラの前には、少し色の薄い甘い飲み物が置かれた。
プリシラはきょとんとする。
「……あの、これは?」
「コーヒー牛乳」
ナナが言う。
「いきなりブラックは無理そうやったけん」
「ありがとうございます……!」
プリシラは嬉しそうに両手で受け取った。
食後の卓は、しばらく静かだった。
もうやることはない。
ただ待つだけ。
ライトニングは落ち着かなかった。
コーヒーを飲み、足先で床を鳴らし、何度も入口へ視線をやる。
ほとんど無意識に、数分おきに同じ方角を見ていた。
フェルクはというと、椅子にだらしなくもたれたまま本当に二度寝を始めた。
片腕を額に乗せて、口元だけで適当に呼吸している。
「……何しに来たんだお前は」
ライトニングが低く言う。
「待機」
目を閉じたまま返ってきた。
「寝てるだけだろ」
「体力温存って言って」
プリシラはその横で、受付でもらったばかりの紙を前にしていた。
冒険者としての事務手続きだ。
自分の名前を書いて、書き直して、また確認して、わからないところは小さくナナに聞く。
真面目すぎるくらい真面目にやっているのに、そのたびに耳が不安そうに揺れた。
「ここ、これで合ってますか……?」
「うん、そこはそれで大丈夫」
「こっちは……」
「そっちは所属未定でよかよ」
「しょ、所属未定……」
その言葉を、プリシラは少しだけ嬉しそうに、でも不安そうに反芻した。
まだ正式に何かが決まったわけではない。
それでも、紙の上にはもう“冒険者”としての自分が書かれていく。
エルツーだけは静かだった。
コーヒーを飲みながら、特に落ち着かない様子もなく入口を見ている。
来ると信じているというより、もう来る未来を見終えた人間の待ち方だった。
その肩口あたりで、ふわりとアムラが姿を見せる。
「ほんとに来るの?」
小さな声だった。
当然、その場で聞こえているのはエルツーだけだ。
「来るよ」
エルツーがぼそりと返す。
プリシラが書類から顔を上げる。
「えっ?」
「あ、いえ。こっちの話です」
エルツーは何でもない顔でコーヒーを飲む。
アムラはくすくす笑いながら、卓の端へ腰掛けるみたいに浮かんだ。
「みんなピリピリしてるねえ」
「そうだね」
「ライトニング、さっきから入口ばっかり見てる」
「見てるね」
「フェルクは寝てるふりして起きてるし」
「それも知ってる」
アムラは少しだけ身を乗り出す。
「でも、いちばん変なのはエルツーだよ?」
「何が?」
「静かすぎる」
エルツーはそこで少しだけ目を細めた。
「確信があるだけ」
「こわ」
アムラはそう言って、また肩口のあたりへ戻る。
「……まだですかね」
プリシラが小さく言う。
「まだだ」
ライトニングが即座に答える。
「朝一で来るような性格なら、ここまで拗れてない」
「それもそうですね」
エルツーが頷く。
午前が過ぎる。
ギルドの空気も少しずつ変わっていった。
朝の人の少なさは消え、依頼を見に来る冒険者が増え、受付前にも列ができ始める。
椅子が引かれる音。
紙をめくる音。
武器が触れ合う乾いた音。
そんな中で、四人の席だけが妙に同じ形のまま時間を過ごしていた。
ライトニングの機嫌は、目に見えて悪くなっていく。
「……遅い」
低い声だった。
「来ないかもよ?」
寝ていたはずのフェルクが、いつの間にか片目だけ開けて言う。
「来る」
ライトニングは即答した。
「へえ。そこまで言う?」
「来る」
今度はもっと短かった。
プリシラは二人を見比べながら、おろおろとコーヒー牛乳を両手で持ち直す。
エルツーだけが相変わらず静かだった。
そして、昼前。
入口の扉が開いた。
ギルドのざわめきが一瞬だけ薄くなる。
いや、次の瞬間には逆だった。
「……おい」
「戻ってきたのか?」
「一等星じゃないか……」
「何しに来た?」
「まさか復帰か……?」
ざわめきが、波みたいに広がっていく。
大柄な影が、昼の光を背負って立っていた。
オリオンだった。
黒髪の短髪。
頬の古傷。
百九十を超える体躯。
昨日と同じように疲れた顔をしているのに、今日は酒気がない。
それだけで、昨日よりずっと戦士に見えた。
肩口で、アムラが小さく呟く。
「……来たね」
エルツーは答えなかった。
ただ、静かに顔を上げた。
ライトニングの指がぴたりと止まる。
フェルクも体を起こした。
プリシラは小さく息を呑み、背筋を伸ばす。
エルツーだけが、静かにその姿を見ていた。
オリオンはまっすぐこちらへ歩いてくる。
止まる。
座らない。
「……話を聞きに来ただけだ」
拒絶みたいな前置きだった。
だが、来た時点で半分は折れている。
エルツーは頷いた。
「十分です」
オリオンの目がエルツーへ向く。
「確認する」
「はい」
「お前の提案は何だ」
エルツーは迷わず答えた。
「S級クエストを受注することを手伝ってほしいんです」
オリオンの眉がわずかに動く。
エルツーは続けた。
「最速でS級パーティを作るために、協力してほしい」
沈黙。
オリオンはそれをそのまま飲み込むみたいに黙っていた。
昨日までなら、そこで鼻で笑って終わりだっただろう。
だが今は違う。
オリオンの視線が、ゆっくりと他の面子へ移る。
ライトニング。
フェルク。
プリシラ。
そして、もう一度エルツーへ戻る。
「元天龍の羽」
「はい」
「雷鳴がいて」
ライトニングが鼻を鳴らす。
「誰が雷鳴だ」
「そこは否定じゃないんだな」
フェルクが横から笑う。
オリオンは気にせず続けた。
「……プラナリアまでいるのか」
その瞬間、フェルクが露骨に嫌そうな顔をした。
「うわ、やめろよその呼び方」
「二つ名だろうが」
「モテなさそうだから嫌なんだよ」
オリオンは初めて、ほんの少しだけ呆れた顔をした。
その反応自体が、昨日までとは違う。
そして今度は、プリシラへ視線が止まる。
「君は何ができるのかな?」
プリシラがびくっと肩を震わせる。
答えようと口を開きかけたところで、フェルクが先に笑った。
「お?気になる?このお嬢ちゃんについては、流石の一等星も腰抜かすぞ?」
「お前が答えるな」
ライトニングが即座に切る。
プリシラはおろおろしながらも、小さく頭を下げた。
「ま、魔法です……」
オリオンはそれ以上追及しなかった。
だが、その未知数も含めて、ようやく現実味が形を持ち始めていた。
元天龍の羽のエルツー。
雷鳴のライトニング。
ベテラン斥候のフェルク。
そして、まだ底の見えないプリシラ。
寄せ集めに見えて、寄せ集めでは終わらないかもしれない。
その輪郭が、ようやくオリオンの中でも形になり始めていた。
オリオンはそこで、ようやく椅子を引いた。
「……条件がある」
その一言に、テーブルの空気が少し引き締まる。
エルツーは頷いた。
「もちろん、承知してます」
オリオンは指を一本立てる。
「一つ。パーティに入るわけじゃない。業務提携だ」
「はい」
二本目。
「二つ。少しでも怪しいと感じたら、クエスト中だろうが抜ける」
「構いません」
三本目。
「三つ。俺に指示を出すな」
そこでオリオンは視線をまっすぐライトニングへ向けた。
昨日までならエルツーだけを見ていたはずだ。
それだけ、この場全体を見始めている。
エルツーは少しも迷わなかった。
「そんな条件であれば、フェルクさんの何倍もマシです」
「おい」
フェルクが即座に抗議する。
「俺どんな条件出したっけ?」
エルツーは淡々と返した。
「借金の肩代わりです。確か金貨120枚だったかな?」
「おい!? 金額が違くないか!?」
「そこじゃないだろ」
ライトニングが呆れたように切る。
「条件以前の問題だ」
それから、口元をわずかに歪めた。
「揃いも揃って、曲者揃いだな」
フェルクがにやっとする。
「いや、お前が一番」
次の瞬間、ライトニングの張り手がフェルクの頭に綺麗に入った。
スパーン、と小気味いい音がした。
「痛っ!?」
「余計なことを言うな」
プリシラがびくっと肩を震わせる。
フェルクは痛む頭を押さえながら、にやっと笑った。
「プリシラちゃん、怖かったらいつでもお兄さんに言ってね?」
プリシラは慌てて首を振った。
「い、いえ! ライトニングさんはほんと良くしてくれてます! 大好きです!」
一瞬、ライトニングの目元が緩む。
口元まで上がりそうになったのを、本人が慌てて押し殺したのが丸わかりだった。
フェルクはそれを見て何か茶々を入れかけた。
だが、さすがに無粋だし、ぶっちゃけ今の流れで余計なことを言えば確実にもう一発飛んでくる。
なので、やめた。
「……へえ」
それだけで済ませる。
オリオンはその一連の流れを、少しだけ信じられないものを見る目で見ていた。
まとまりがあるのかないのか、正直よくわからない。
だが、少なくとも死んだ顔の連中ではない。
そこだけは、はっきりしていた。
エルツーは静かにオリオンを見る。
「では、業務提携で」
オリオンは数秒だけ黙っていた。
それから、低く息を吐く。
「……まだ信用したわけじゃない」
「はい」
「勘違いするな」
「しません」
その答えがあまりにもあっさりしていて、オリオンは少しだけ眉をひそめた。
だが、もうそれ以上は言わなかった。
少なくとも今日この場では、ここまでだ。
そういう空気だった。
エルツーは静かに立ち上がる。
「では、次へ行きましょう」
オリオンが眉を寄せた。
「どこへだ」
「ディルクさんのところです」
フェルクが肩を竦める。
「あの人苦手なんだよなー……ここからが本番ってわけか……」




