チョコ作りは温度が命。
オリオンを説得する前日、
フェルクは時間を持て余していた。
借金は消えた。
気分は軽い。
だからといって、すぐに夜の街へ行くにはまだ少し早い。
「さて、どうしたもんかねえ」
そう呟いて、フェルクは歓楽街の方角とは逆へ足を向けた。
帝都の中心街。
その中でも北部寄りの区画は、昼の熱気を少しだけ引きずったまま、夜の支度に入りかけていた。
目抜き通りには石畳がまっすぐ伸び、洒落た衣料店や香油の店、装飾品を扱う店が軒を連ねる。
歓楽街の濃い色気とは違う、上品ぶった華やかさがある場所だ。
ぶらぶらと通りを流していると、色とりどりの包み紙が並ぶ小洒落た店先が目に入った。
最近、若い女たちのあいだで流行っているという菓子屋だ。
看板には、やたら気取った文字で“ちょこれゑと”と書いてある。
「へえ。これが噂のチョコレートってやつか」
甘い香りがふわりと流れてくる。
小箱に詰められたそれは、どうにも値段のわりに小さい。
だが、女が喜びそうな見た目はしていた。
店に入ると、若い店員がにこやかに頭を下げた。
「これ、人気あるんです?」
「はい、最近は特に若いお嬢さま方に」
フェルクは並んだ箱をひとつ持ち上げ、軽く眺める。
「お姉さんも好きなの?」
「はい、大好きです」
店員が少しはにかむ。
フェルクはにやっと笑った。
「可愛いお姉さんが好きなら間違いないね」
「そ、そんな……」
耳まで赤くなった店員に、フェルクは肩を竦める。
「じゃ、これで」
会計を済ませ、小箱をふたつ受け取る。
その少し離れた場所で。
薄緑の髪が、ぴくりと揺れた。
「……何してるのよ、あの変態。今ここで脳天叩き割ってやろうかしら」
エイルだった。
今日はいつもの戦闘の空気ではない。
軽やかな上着に、身体の線を綺麗に見せる上品な装い。
色味も柔らかく、髪も丁寧に整えられている。
普段から可愛い格好が好きなのだろう、ちゃんとおしゃれをしているのがわかる。
そのくせ、腰にはいかついメイスが下がっていた。
台無しである。
本人は上手く隠れているつもりらしい。
だが、見える。普通に見える。
柱の陰から半分くらい顔を出して、こっちを睨んでいる。
フェルクは吹き出しそうになるのをこらえた。
――あ、尾けてきてる。
しかも、めちゃくちゃ殺意高い。
だが、それ以上に気になっているのだろう。
腹が立つ。気に食わない。なのに目が離せない。
そういう視線を、フェルクはよく知っていた。
「へえ……」
わざと気づかないふりをして、フェルクは店を出る。
小箱を指先で軽く揺らしながら、そのままゆっくり夜の街へ足を向けた。
***
風俗街は、夜が本番だ。
だが、日が完全に落ちきる前から、通りそのものは少しずつ色づき始める。
提灯に灯が入り、香が焚かれ、店先の女たちが髪を整えながら客を待つ。
まだ準備中の店も多い。
戸を半分だけ開けたまま、掃除や支度をしているところがほとんどだった。
「あら、フェルクじゃない」
通りの奥から、よく通る女の声が飛んだ。
顔を上げると、顔馴染みの女将が店先からこっちを見ていた。
年季の入った美人で、笑っていても目が鋭い。
「今日はまた早いねえ」
「いやあ、ちょっと時間を持て余しまして」
フェルクがひらりと手を振ると、女将は呆れたように笑った。
「借金無くなったんでしょ? 今日はウチにしなよ〜」
「誰だよそんなことまで広めたの」
「そりゃ広まるでしょ。あんた、この街じゃそこそこ有名なんだから」
「悪名の間違いじゃね?」
「今さら何言ってんだい」
そんなやり取りの少し後ろ。
エイルは完全に場違いだった。
薄緑の髪。
色白の肌。
整いすぎた顔立ち。
しかも、いかついメイスを下げている。
華やかな夜の通りを歩いているのに、妙な意味で浮いていた。
まるでスラム街を歩く異国の令嬢みたいだった。
当然、目立つ。
「お姉さん、初めて? うちどう?」
「その顔ならすぐ稼げるよ」
「今ならいい部屋空いてるけど?」
「……失せなさい」
エイルはにこりと笑ったまま、メイスの柄を少しだけ持ち上げた。
それだけで、男たちは一歩引いた。
「うわ、物騒……」
「やべ、そっち系かよ」
「顔はいいのに怖っ」
エイルはそのまま睨み返す。
「次に声をかけたら、その軽い頭を重くしてあげる」
笑顔のまま言うものだから、余計に怖い。
フェルクは思わず肩を震わせた。
――あれ、面白すぎるだろ。
だが、まだ声はかけない。
気づいていないふりを続ける。
通りの奥へ進みながら、顔馴染みの店に適当に顔を出しては、軽口を叩く。
「久しぶり、元気してた?」
「元気元気。あんたこそ、最近顔出さないじゃない」
「色々立て込んでてねえ」
「ふうん? で、今日は誰にするの?」
フェルクはいつもの調子で笑う。
相手が若い娼婦でも、年嵩の女将でも態度はほとんど変わらない。
馴れ馴れしくはあるが、見下した感じはない。
名前を覚え、前にした会話を覚え、土産まで忘れない。
そういうところだけは妙に真面目だった。
「はい、これ。流行りのチョコ」
「えっ、なにそれ。あんたがそんなの買うの?」
「失礼だな。俺だって気の利く男くらいやれるよ」
「へえ、見直した」
「そこまで言われるとちょっと傷つくな」
そのやり取りを、エイルは少し離れた柱の陰から見ていた。
軽薄。
女好き。
最低。
そう思っている。
今もそれは変わらない。
だが。
フェルクは誰に対しても妙に優しかった。
気に入った女だけに媚びるわけでもない。
店の下働きの娘にも、年を取った女将にも、同じように軽口を叩いて、同じように笑わせる。
そのくせ、金を払う側だからと偉ぶることもない。
妙に自然体で、人懐っこい。
「……何なのよ、あいつ」
最低な男だと思っていた。
今も最低だとは思う。
でも、思っていた種類の最低とは少し違う気がして、余計に腹が立った。
その時、フェルクがふと振り向きかけた。
エイルは慌てて顔を引っ込める。
見つかったかと思った。
だが、違う。
フェルクは通りの向こうの馴染みの店へ向かって、にやにや笑いながら顎をしゃくった。
「おい、あそこの美人、暇そうじゃん。声かけてみたら?」
「はあ? どこの?」
「あの薄緑の子」
「えっ、あんな上玉がこの通り歩いてんの!?」
女たちが一斉にそっちを見る。
「は!?」
エイルの顔が一気に熱くなる。
「ちょ、ちょっとあんた――!」
数人が興味津々で近づいてきた瞬間、エイルはメイスを半歩だけ前へ出した。
空気が止まる。
「……近づいたら潰すわよ」
笑顔のまま言うから、余計に怖い。
「うわ、こっわ」
「フェルク、あんた何連れてきてんのさ」
「俺じゃないよ。勝手についてきてるだけ」
その返しに、エイルのこめかみがぴくりと動いた。
「ついてきてない!」
「へえ、じゃあ偶然?」
「…………」
言い返せない。
女将たちの笑い声が上がる。
フェルクは肩を竦めて見せた。
「まあまあ。虐めんなって。純情そうだし」
「誰が!?」
エイルは本気で殴りたくなった。
だがここで暴れたら余計に面倒になる。
それくらいの理性はあった。
フェルクはそんなエイルを眺めながら、内心で笑っていた。
――やっぱ面白えな、この子。
ただ、遊んでばかりでもない。
時間はちゃんと見ていた。
通りの熱が十分に上がり、店が本格的に回り始める頃。
フェルクは顔馴染みの店にひょいと入り、そのまま奥へ抜けた。
エイルは慌てて後を追う。
「ちょ、待ちなさいよ!」
だが、入った先の店の中で女将に行く手を塞がれる。
「あんた誰?」
「え、いや、その……」
「予約? それとも訳ありかい? 人手は足りてるよ?」
「ち、違……」
「じゃあ帰りな」
エイルが言葉に詰まった、その一瞬で。
フェルクは奥の仕切りを抜け、さらに隣の店へ移っていた。
完全に撒かれた。
「っ……!」
エイルは歯噛みする。
悔しい。
腹が立つ。
なのに、どこかで「やっぱり場慣れしてる」と認めざるを得ない自分がもっと腹立たしかった。
***
その頃、フェルクは別の店の奥で、ようやく腰を落ち着けていた。
向かいに座っているのはフェリシア。
栗色の髪をゆるく流し、優しい目元の下には小さな涙ぼくろ。
三十四歳。
若い女にはない、柔らかな色気と落ち着きを持った女だった。
年齢を重ねたからこその美しさがあり、歓楽街の女たちからも一目置かれている。
噂では元貴族の令嬢とも言われているが、本人はその手の話になると笑って流す。
ただひとつ確かなのは、この街の情報にとても精通していることだった。
フェルクが本当に情報を取りたい時、頼る相手はだいたいこの女だ。
フェルクは小箱のチョコを卓の上に置いた。
「ほら、手土産」
フェリシアがくすりと笑う。
「あら、珍しい」
「たまには気の利いたとこ見せとかないと」
「それ、誰か別の女の子用に買った残りじゃないでしょうね?」
「ひどい疑われ方だなあ」
「疑われるだけのことしてるもの」
そう言いながらも、フェリシアは嬉しそうに箱を開けた。
「今日は何が知りたいの?」
「常夜灯の大男」
フェリシアの目が少しだけ細くなる。
「ああ、オリオン」
「知ってるじゃん」
「夜の街、なめないでよ」
フェルクは肩を竦めた。
「で?」
「常夜灯の大男の話、うちに直接落ちてきたわけじゃないの」
フェリシアはチョコを舌の上で転がしながら言った。
「でもね、上客ってのは妙なところで繋がるものよ。
墓参り帰りに寄った男、荷運び帰りに酒を引っかけた男、共同墓地の近くを通る御者。みんな別々の話をしてるようで、ちゃんと同じ男を見てる」
「で、結論は?」
「その大男、毎晩みたいに常夜灯にいる。けど、酒だけが目的じゃない」
フェルクが黙る。
「共同墓地の奥。そこに決まって目を向ける墓があるのよ。
全部の墓じゃない。ひとつだけ」
「何か供えてる?」
「それが逆。何もないんですって。
花も酒も、手向けた跡すらない。
でも、何人もの話がそこだけ一致してる。
“あの男は、いつも同じ墓を見ていた”って」
フェルクは小さく目を細めた。
「名前は?」
フェリシアは少しだけ間を置いた。
「……クレスト」
その名を口にする時だけ、声がわずかに低くなる。
「知ってる客がいたのよ。昔、金剛石の矢を見てた古株。
オリオンとクレストは幼馴染で、一緒に冒険者になったんですって」
「へえ」
「有名だったらしいわよ。
大盾で前をこじ開けるオリオンと、横で頭を回す剣士のクレスト。
あの二人でひとつ、みたいに言われてたって」
フェルクは口元だけで笑った。
「そりゃまた、わかりやすい相棒だ」
「でしょう?」
フェリシアはチョコの箱を指先でなぞる。
「でも、そのクレストだけが先に死んだ。
だから今も、あの男はそこだけ見てるんじゃないかって。
これは噂半分、憶測半分だけどね」
「十分だよ」
「そう?」
「線としては綺麗すぎるくらいだ」
フェリシアはそこで、少しだけ目を細めた。
「ただ、変なのよ」
「何が」
「そこまで執着してるなら、普通は花のひとつでも置くでしょ。
でも、あの男は何もしない。
近づきもしない日があるって話まである」
「……認めてないのかもな」
フェルクがぼそっと言う。
フェリシアは答えず、ただ小さく肩を竦めた。
「そういう男、たまにいるわ。
悲しんでるんじゃなくて、そこで止まってるの」
フェルクはそこでようやく、小さく息を吐いた。
「なるほどねえ」
ただの酒浸りじゃない。
死んだ仲間の近くに沈んで、そこで何かを止めたまま生きている男。
常夜灯。
共同墓地。
クレスト。
決まった墓標。
線が繋がった。
「ありがと」
「どういたしまして。で、そのチョコもうひと箱ある?」
「欲張るなあ」
「情報料」
「はいはい」
フェルクは笑いながら、もうひとつの小箱をフェリシアの方へ押した。
フェリシアはそれを受け取って、少しだけ唇を尖らせる。
「次はいつ来てくれるの? お話しだけで全然相手してくれないじゃない?」
フェルクは肩を竦めて笑った。
「本気になっちまったら破産しそうだから、やめとくわ」
フェリシアがくすくす笑う。
「口だけはほんと上手いんだから」
夜はまだ長い。
だが、今夜必要なものはもう拾えた。




