冷めたコーヒー
ライトニングの部屋に入った瞬間、プリシラは扉の内側でぴたりと固まった。
広いわけではない。
だが、無駄なもののない、きちんと整った部屋だった。
剣。
衣類。
最低限の家具。
どれも雑に置かれているようで、ちゃんと収まる場所に収まっている。
プリシラはおずおずと視線を泳がせた。
「あの……」
「入れ」
「は、はいっ」
「靴脱げ」
「は、はいっ」
慌てて靴を脱ぎ、揃えようとして、揃えすぎて、少しずつ位置を直し始める。
ライトニングはそれを見て、すぐに眉を寄せた。
「そこに魂込めるな」
「えっ」
「靴は逃げん」
「は、はい……」
プリシラはしゅんと肩を縮めた。
尻尾まで少し下がる。
「……あと、それ」
「あっ」
ライトニングに言われて、プリシラは慌てて尻尾を持ち上げた。
「す、すみません……」
「謝るなって何回言わせる」
ライトニングは深いため息をつくと、部屋の奥を顎で示した。
「とりあえず座れ」
「ど、どこにでしょうか……」
「椅子が見えんのか」
「み、見えてます……!」
「じゃあ座れ」
プリシラは恐る恐る椅子に腰を下ろした。
ただし浅く、いつでも立ち上がれそうなくらい遠慮がちに。
ロッドも膝の上にきっちり置く。
背筋は伸びすぎているし、耳は落ち着かず揺れているし、見ているだけで肩が凝りそうだった。
その間に、ライトニングはさっさと上着を脱いで部屋着に着替えていた。
飾り気のない、くつろぐための服だ。
それなのに、妙に見映えがする。
肩の力は抜けているのに、立ち姿は崩れない。
コップを取る指先ひとつ、髪を払う仕草ひとつが、なぜか様になっている。
叩き込まれているのだろう。
淑女の所作というものが、考えるより先に身体から出るように。
黙っていれば美人、ではない。
黙っていなくても、やはり美人だった。
プリシラは思わず見入ってしまい、慌てて視線を下げた。
ライトニングは水差しから適当にコップへ水を注いで、プリシラの前に置いた。
「飲め」
「えっ、わ、わたしが先にいただいていいんですか……?」
「いいから飲め」
「は、はい……」
両手でコップを持って、プリシラはちびちびと水を飲んだ。
その様子はまるで、怒られないか確認しながら餌を食べる大型犬だった。
ライトニングはそれを見て、また小さく息を吐いた。
「腹減ってるか」
「え?」
「飯だ」
「え、あ、その……だ、大丈夫です、わたし、お手伝いします」
勢いよく立ち上がろうとする。
だがその前に、ライトニングの声が落ちた。
「座れ」
「は、はいっ」
「お前、今、何て言おうとした」
「えっと……な、何かお手伝いをと……」
「他は」
プリシラは視線を彷徨わせる。
「お茶を淹れたり、とか……その……」
少し言いにくそうに俯いてから、さらに小さな声になる。
「肩を、お揉みしたり……」
そこでライトニングの眉間に、深い皺が寄った。
「そういうの、うちではいらん」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、きっぱりしていた。
プリシラがびくりとする。
「す、すみません……!」
「だから謝るな」
ライトニングは額を押さえた。
「お前、今までどんなとこで何覚えてきた」
聞いておいて、自分で答えに行き着いたのだろう。
すぐに舌打ちする。
「……いや、いい。聞かんでもだいたいわかる」
プリシラは膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
「でも、その……役に立てること、あまりなくて……」
その声には、言い訳より先に、切実さがあった。
ライトニングは数秒黙った。
それから、少しだけ目線を落とす。
プリシラの耳元。
長い髪のあいだ。
それから、椅子の横へ垂れた大きな尻尾。
毛並みが少し乱れている。
緊張と移動でぐしゃついたのか、ところどころ絡まりも見えた。
「……おい」
「は、はいっ」
「じっとしてろ」
「えっ」
ライトニングは引き出しから無造作にブラシを取り出した。
飾り気のない、実用品のブラシだ。
プリシラはそれを見て目を丸くする。
「え、あの……」
「耳、髪、尻尾。全部ぼさぼさだ」
「す、すみません……」
「だから謝るな」
そう言って、ライトニングはプリシラの後ろに回った。
「こっち向け」
「こ、こうでしょうか……」
「動くな」
最初の一梳きは、少しだけ雑だった。
「ひゃっ」
プリシラの肩が跳ねる。
「痛かったか」
「い、いえっ、大丈夫です……!」
「大丈夫そうな声じゃない」
ライトニングは眉をひそめると、今度は少しだけ手つきを緩めた。
髪をかき分け、絡まったところを避けながら、ゆっくり梳く。
耳の付け根の近くは特に慎重だった。
プリシラは最初、緊張で背筋を固くしていた。
だが、何度かブラシが通るうちに、少しずつ肩の力が抜けていく。
「そんなに固まるな」
「す、すみ……」
「謝るな」
「……はい」
今度はちゃんと返事できた。
ライトニングはそのまま、耳の後ろから髪を整えていく。
それから視線を落として、しゅんと垂れた尻尾を見る。
「尻尾」
「あっ」
「そのままでいい」
プリシラはびくっとしたまま動かなくなった。
ライトニングは尻尾の根元から、慎重にブラシを入れる。
大きいぶん、毛量も多い。
途中で引っかかるたびに、プリシラの身体が小さく強張るのがわかった。
「……痛いなら言え」
「だ、大丈夫です……」
「だからそれは信用ならん」
ぼそっと言いながら、ライトニングは絡まりを指先でほどいてやる。
手つきは不器用だ。
でも、雑には扱わない。
やがて、ふわりと尻尾の毛並みが整っていく。
プリシラはしばらく無言だった。
それから、ぽつりと呟く。
「……初めてです」
「何が」
「こんなふうに、してもらうの……」
ライトニングの手が一瞬だけ止まった。
プリシラは少し迷ってから、さらに小さく続けた。
「ありがとうございます。ブラッシングしてくれたのは、ご主人様以来です」
その言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。
ライトニングは何も言わない。
ただ、止まった手が、少しだけ強くブラシを握っていた。
それでも次の一梳きは、さっきまでよりもっと丁寧だった。
「そうか」
短い返事だった。
でも、その短さの中に、妙な熱が混じっていた。
プリシラは視線を落としたまま、小さく続ける。
「娼館では、わたしが皆さんにする方で……」
「うちではいらん」
ライトニングは、今度は前より柔らかく言った。
「少なくとも、そういうので役に立たなくていい」
プリシラの耳が、ぴくりと揺れた。
「……はい」
「腹減ってるなら飯食え。眠いなら寝ろ。
まずはそのへんから覚えろ」
「……はい」
ブラッシングが終わる頃には、プリシラの髪も尻尾も、最初よりずっと綺麗に整っていた。
ライトニングはブラシを机に置くと、そのまま台所代わりの小さな流しへ向かった。
火を入れる。
鍋が鳴る。
動きに無駄はない。
手際がいいというより、慣れているのだろう。
プリシラは椅子に座ったまま、おずおずとその背中を見ていた。
「あ、あの……わたし、本当にお手伝いしなくて大丈夫ですか……?」
「さっきも言っただろ」
振り返りもせず、ライトニングが返す。
「今は座ってろ」
「は、はい……」
しばらくして、温かい湯気の立つ皿が二つ、机に置かれた。
具の多い簡素な煮込みと、厚めに切ったパン。
贅沢ではない。
だが、ひどくまともな食事だった。
「食べなさい」
ライトニングが短く言う。
プリシラは皿とライトニングの顔を、交互に見た。
「え、あの……」
「何だ」
「わ、わたしが先にいただいていいんですか……?」
ライトニングは一瞬だけ止まった。
それから、じわじわと眉間に皺が寄る。
「……お前んとこ、どういう順番で飯食ってた」
プリシラは目を泳がせた。
「えっと……その……基本は、お客様が先で……皆さんが落ち着いてから、残ったものを……」
「そうか」
短い返事だった。
だが、それだけで十分に不機嫌だった。
ライトニングは自分の皿をぐいとプリシラの方へ押しやる。
「じゃあ今日は、お前が先だ」
「えっ」
「食べなさい」
「で、でも……」
「食べなさい」
有無を言わせない声だった。
プリシラはおずおずとスプーンを取る。
一口、運ぶ。
口に入れた瞬間、目が少しだけ丸くなった。
「……おいしいです」
「なら、よかった」
ライトニングは素っ気なく返す。
だが、自分ではまだ食べようとしない。
プリシラは二口、三口と食べて、それからようやく気づいたように顔を上げた。
「あ、あの、ライトニングさんは……」
「お前がちゃんと食べるまで待ってる」
「えっ、なんでですか!?」
「なんででもいい」
たぶん、ちゃんと食べるか確認したいだけだ。
プリシラは少し慌てて口を動かした。
食べ方まで妙に遠慮がちで、小さく、小さく減っていく。
ライトニングはそれを見て、呆れたように言う。
「遅い」
「す、すみません……」
「だから謝るな」
食べ終わる頃には、プリシラの尻尾もさっきより少し高い位置に戻っていた。
「好き嫌いが無いのだな」
「えっ?」
プリシラはきょとんと目を瞬かせる。
「残さず食べた」
「は、はい……その、出されたものは、全部いただくようにしていて……」
「そうか」
ライトニングは少しだけ目を細めた。
「なら、よかった」
その時だった。
見たことがないくらい優しい笑顔だった。
ほんの一瞬。
けれど、確かにそう見えた。
プリシラは思わず見入ってしまい、次の瞬間には慌てて視線を下げた。
ライトニング自身も、たぶん自覚していない。
すぐにいつものように鼻を鳴らし、ぶっきらぼうな顔へ戻っていた。
「足りたか」
プリシラは少しだけ間を置いた。
「……はい」
「今の間は何だ」
「えっ」
「足りてないな」
「い、いえ! 十分です!」
「信用ならん」
そう言って、自分の皿のパンを半分ちぎってプリシラの方へ寄越す。
「これも食べなさい」
「え、でもこれは……」
「うるさい」
プリシラはおずおずと受け取った。
両手で大事そうに持って、小さくかじる。
食事が終わると、今度は寝床の問題になった。
ライトニングは部屋の隅に置いてあった予備の布団を引っ張り出して、床へ放る。
それから気が変わったように拾い直し、ぱん、と軽く広げてから整えた。
「今日はこれを使いなさい」
プリシラはそれを見て、また固まった。
「え……わ、わたしに……?」
「他に誰がいる」
「い、いや、その、床で十分です……!」
「それ布団だ」
「ち、違くて、布団じゃなくても大丈夫で……!」
ライトニングは眉を寄せた。
「お前んとこ、どんな寝方してた」
プリシラは視線を落とす。
「その……空いてる場所で……」
「雑だな」
「拾ってもらってたので……」
また、その言葉だった。
ライトニングはしばらく黙ったあと、布団を広げ直した。
少し乱暴に見えるのに、角だけは妙にきっちり揃っている。
「うちでは違う」
ぽつりと言う。
「寝る場所があるなら、そこで寝る。飯があるなら、食う。
いちいち遠慮して小さくなるな」
プリシラは、布団とライトニングの顔を見比べた。
「……はい」
「返事が小さい」
「はいっ」
ライトニングはその返事を聞いて、ふっと口元を緩めた。
見たことがないくらい優しい笑顔だった。
さっき食卓で見せた笑みよりも、もう少しだけ近い。
褒めるでも甘やかすでもなく、ただ「それでいい」と言うみたいな顔だった。
プリシラはまた、思わず見入ってしまった。
だがライトニングの方は、すぐにいつもの顔へ戻る。
「よし」
短く言って、灯りを少し落とした。
プリシラは布団の端に正座するみたいに座り、そっと手で触れた。
新品ではない。
でも、ちゃんと干した匂いがする。
「……ふかふかです」
「そこ感動するとこか?」
「します……」
本気の声だった。
プリシラはやがて恐る恐る布団に横になる。
だが、すぐには目を閉じない。
安心して寝ていいと言われること自体に、身体がついていっていないのだろう。
ライトニングは自分の寝台に腰掛けたまま、それを見ていた。
「眠れそうか」
「……たぶん」
「たぶんは信用ならん」
「で、でも……」
プリシラは布団の中で、少しだけ丸くなる。
「なんだか、変な感じです」
「何が」
「今日は、ずっと……ちゃんとしてもらってばかりで……」
その言葉に、ライトニングは一瞬だけ黙った。
「別に、大したことしてない」
「わたしには、大したことです」
プリシラは、布団から半分だけ顔を出して言った。
「ご飯も、寝るところも、ブラッシングも……」
そこまで言ってから、少し迷って、小さく続ける。
「……うれしかったです」
ライトニングは言葉に詰まった。
それが少し気に食わなくて、わざとぶっきらぼうに返した。
「そうか」
「はい」
「じゃあ寝なさい」
「はい」
しばらくすると、布団の中の気配がゆっくり静かになる。
寝たのだろう。
ライトニングはその様子をしばらく黙って見ていた。
「……ほんと、手がかかる」
小さく呟く。
その声には、呆れと、それ以上の何かが混じっていた。
部屋の灯りを落としきる前に、ライトニングはそっとプリシラの布団の端を整えた。
起こさないように、静かに。
それからようやく、自分の寝台へ横になった。
***
翌朝のギルドは、昼や夜とはまるで別の顔をしていた。
窓から差し込む朝の光。
まだまばらな冒険者たち。
昨日の酒気が薄く残る空気の中で、床だけが妙にきれいに見える。
壁際のテーブルには、湯気の立つコーヒーが一杯置かれていた。
さっきナナが、何も言わずに置いていったものだ。
カップの縁に少しだけ泡が残っている。
忙しい合間に急いで淹れたのだろう。
それでも香りはちゃんとしていた。
エルツーはその苦味をひと口飲み、それから広げた資料へ目を落とす。
紙の上には、昨夜から拾った情報が整理されていた。
――オリオン。
金剛石の矢、最後の生存者。
他メンバーの素性。
結成当初の日付。
D級からS級に至るまでの受注履歴。
討伐対象の傾向。
直近の活動記録。
そして、全滅に至った最終クエストの内容。
共同墓地。
《常夜灯》。
東水門での日雇い。
北の武具屋で残っていた修繕記録。
持ち歩いていた武器の種類。
そして、本人の口から出た“死に損ない”という言葉。
単語ではなく、痕跡だった。
ひとつひとつは細い線でも、重ねれば輪郭になる。
正面から「生きろ」と言っても、あの男には届かない。
崩すべきは本人の意志じゃない。
本人を縛っているものの方だ。
ペン先を止めて、エルツーは小さく息を吐いた。
「……で、どう思う?」
小声で呟く。
肩口あたりで、アムラがふわふわと揺れた。
「どうって?」
「どこから崩すのがいいかなって」
「うーん。本人はまだ無理そうだったよねえ」
「だよね」
エルツーは資料の端を指で軽く叩く。
「仲間の死そのものより、自分が残ったことの方に囚われてる感じはした」
「じゃあ、やっぱり墓地?」
「か、遺品。あるいは最後の依頼の中身かな」
アムラがくるりと回る。
「むずかしいねえ」
「難しいよ。S級だし」
エルツーは小さく笑った。
「でも、難しいくらいじゃないと拾う意味がない」
その時、ギルドの扉が開く音がした。
朝の静けさに似合わない、整いすぎた気配が流れ込んでくる。
何気なく顔を上げたエルツーは、その瞬間だけ本気で固まった。
「うわ!! やっべ!?」
思わず声が漏れた。
反射で資料をかき集め、カップを引き寄せ、ついでに身体ごと柱の陰へずれようとする。
だが、壁際のテーブルでやるには全体的に遅いし、隠れ方も雑だった。
椅子がぎ、と鳴る。
カップの中でコーヒーが揺れる。
「ねえ?全然隠れられてないよ?」
アムラが肩口で呟く。
「やっぱり?」
そして入ってきた一団も、当然その気配に気づいた。
銀と水色を基調にした揃いの装備。
肩口や外套の縁には、翼を思わせる意匠。
きらびやかというより、磨き抜かれた清廉さだった。
天龍の羽。
この帝国で知らぬ者のいない、ビリジオン看板パーティ。
冒険者でありながら、半ばアイドルみたいな立ち位置にいる連中だ。
先頭を歩くのはセリス。
長い銀髪を揺らし、蒼い瞳で前だけを見る。
十九歳とは思えないほど整った立ち姿だった。
その隣に、おっとりした空気をまとったイゼルナ。
少し後ろには桃色の髪を揺らすカティアナ、短い黒髪のラミア、そして濃紺の長い髪をしたリーゼロッテが続く。
受付前の若い冒険者たちが、ひそひそとざわついた。
セリスは視線を向けた何人かに、ごく自然に軽く手を上げた。
それだけで、受付前の空気が少し華やぐ。
イゼルナは柔らかく会釈し、リーゼロッテは面倒そうにしながらも視線だけを返した。
ラミアは興味なさそうに流し、カティアナだけが淡々と窓口を見据えている。
窓口にはナナが立っていた。
ナナも一瞬だけ目を上げる。
ほんの一瞬だけ空気が止まった。
だが次の瞬間には、もう仕事の顔に戻っていた。
「天龍の羽様、おはようございます。本日は事前手続きですね。ギルドマスターより要件は伺っております。こちらへどうぞ」
声は丁寧だった。
柔らかくも冷たくもない。
ただ、窓口担当として完璧な声だった。
ナナはカウンターの脇から出ると、そのままギルド奥の応接室へと歩き出す。
天龍の羽は、何の疑問も持たないみたいにその後へ続いた。
看板パーティだけが通される、特別な応接室。
それ自体は別に珍しい話でもない。
だが、エルツーには妙に遠い光景に見えた。
その途中で、ラミアがふとこちらを見た。
灰色の瞳が、露骨に細くなる。
「……何してんの、あれ」
カティアナが淡々と横目を流した。
「隠れてるのかしら?逆に鬱陶しいわね」
リーゼロッテが小さく鼻を鳴らす。
「ふん、ウザ」
イゼルナだけが少し困ったように目を伏せたが、何も言わない。
最後にセリスの視線が向く。
その瞬間、エルツーは「あ、終わった」と思った。
セリスは数秒だけ無言で見て、それから静かに言った。
「……まだいたの?」
そのまま通り過ぎるかと思った。
だが、セリスは応接室の扉の手前で足を止めた。
ナナが一瞬だけ振り返る。
それでも何も言わない。
ここまではまだ、業務の流れの中だ。
セリスはゆっくりとこちらを振り向いた。
「勘違いしてない?」
声は静かだった。
だからこそ、よく響いた。
「もしまた天龍の羽に戻ってくるようなことを考えているなら、不可能」
ギルドの朝は静かだ。
その一言は、思った以上にはっきり聞こえた。
「もし考えているなら。その時は、全力で徹底的に潰す」
冷たかった。
「もう二度と、天龍の羽に近づかないで」
エルツーはしばらく黙っていた。
「戻るつもりはないよ」
静かに返す。
「でも、君たちの許可がいるとも思ってない」
セリスの目が細くなる。
その横でカティアナが、温度のない声で言った。
「なら、視界に入らないで。目障りだから」
ラミアが小さく笑う。
「ほんとそれ」
リーゼロッテは露骨に顔をしかめた。
「朝から最悪」
イゼルナだけが何か言いたそうに目を揺らしたが、結局何も言わなかった。
その時、ナナがようやく口を開いた。
「応接室はこちらです」
あくまで業務の声だった。
「手続きの続きがございますので、どうぞ」
扉が閉まる。
ギルドの朝に、遅れて息が戻った。
さっきまで張っていた空気だけが、その場にうっすら残っている。
「……だいじょぶ?」
肩口で、アムラが小さく言う。
エルツーは返事をするまで、少しだけ間があった。
「大丈夫」
「今の、全然大丈夫そうじゃなかったけど」
「そう見えた?」
「見えた」
エルツーは小さく苦笑した。
それから、冷めかけたコーヒーに目を落とす。
「……まあ、ぶっちゃけ結構喰らいますよね、ああいうのは」
軽く言ったつもりだった。
でも、声は思ったより少しだけ低かった。
その時、窓口の方から足音が近づいてきた。
ナナだった。
「……コーヒー、冷めたやろ」
「うん」
「新しいの淹れようか」
「いや、これはこれでいい」
ナナは数秒だけ黙ってエルツーを見た。
「……あんまり気にせんでよ」
「気にしてない」
「嘘」
即答だった。
「でも、今ここで何言っても逆に腹立つやろうけん、言わん」
「助かる」
その時だった。
「お、おはようございます……!」
少し高くて、まだ緊張の残る声が、朝の静けさに差し込んだ。
顔を上げる。
テーブル横にプリシラが立っていた。
その隣には、いつも通り不機嫌そうな顔をしたライトニングがいる。
けれど、プリシラの様子は昨日と少し違っていた。
尻尾が、ちゃんと下がりきっていない。
髪も毛並みも整っていて、昨日のぐしゃついた印象が消えている。
ナナがその姿を見て、目を丸くした。
「……あら」
プリシラはぺこりと頭を下げる。
「き、昨日はありがとうございました……!」
「い、いえ……こちらこそ?」
ナナは少し戸惑いながらも、ちゃんと頭を下げ返した。
それから、ちらとライトニングを見る。
「ライトニングさんが……連れて来られたんですね」
ライトニングはその視線を受けて、ふんと鼻を鳴らした。
「連れてきた」
「そうでしたか」
ナナは小さく頷いた。
その目はちゃんとプリシラを見ていた。
「……安心しました」
プリシラがきょとんとする。
「えっ」
「本当は昨日、少し心配やったけん」
ナナは少しだけ困ったように笑った。
「うちの妹と年が近かろうもん。どうしても気になってしまって」
プリシラは目を丸くして、それからおずおずと頭を下げた。
「す、すみません……」
「謝らんでよ。無事なら、それでよか」
ライトニングは腕を組んだまま、短く言う。
「まだ無事になったばかりだ。これからだろうが」
「……そうですね」
ナナはその言葉には逆らわず、素直に頷いた。
「ライトニングさんが見てくださるなら、少なくともその点は安心です」
ライトニングは少しだけ眉を動かしたが、否定はしなかった。
「そ、その……ちゃんとしていただきました……!」
その言葉に、ナナはふっと表情を緩める。
「そうみたいやね」
そして、今度はほんの少しだけ真面目な顔でライトニングへ向き直る。
「……ありがとうございます」
ライトニングは面倒そうに鼻を鳴らした。
「礼を言われるようなことはしてない」
「それでもです」
3人は朝食を済ませる。
プリシラはエルツーに昨日のライトニングの部屋の話をふんすふんすと興奮しながら話していた。
エルツーはニコニコと「そうなんだ」と優しく相槌を打っていた。
その時、ギルドの扉がまた開く。
「……おはよーさん」
気の抜けた声だった。
フェルクが、まるで何もなかったみたいな顔で入ってくる。
髪は軽く乱れているが、機嫌だけはやたらいい。
ライトニングが一目で顔をしかめた。
「朝帰りか」
「健全な朝活だよ」
「どこがだ」
「心も体もすっきりした」
「僕のお金ですけどね」
エルツーが淡々と言うと、フェルクが吹き出した。
「感謝してます!」
「いや、別にいいですけど」
フェルクは笑いながらテーブルへ近づき、そこでエルツーの資料を見下ろした。
「で、真面目くさった顔して何してたわけ?」
「オリオンの攻略法を考えてた」
「思いついた?」
「まだ決定打はない」
フェルクは資料の上に目を走らせる。
「でも、ひとつ気になるのがある」
ライトニングが腕を組む。
「何だ」
「昨夜、少し聞いた」
フェルクは椅子に腰掛け、指先で机をとんとん叩いた。
「オリオン、ただ飲んで墓場のそばに沈んでるだけじゃねえ」
「何か知ってるの?」
「昨日のおねーちゃんのお客さんに常夜灯の墓守がいてその経由。夜の街の情報網を舐めるなよ」
「情報網って言うと聞こえはいいな」
「実際いいだろ?」
フェルクは肩を竦めた。
「オリオンは、共同墓地の中でも決まった場所に行ってる。しかも毎回だ」
プリシラが小さく息を呑む。
「お、お墓……ですか?」
「たぶんな。ただし、自分の仲間全員の墓を回るとか、そういう殊勝な感じじゃねえ。決まって同じ場所だ」
エルツーは資料の空いたところへ、短く書き足す。
**共同墓地 / 決まった墓標**
「……そこだね」
ライトニングが短く頷く。
「墓標を見れば、何に縛られてるかもわかるかもしれん」
プリシラが、おずおずと手を上げた。
「そ、その……わたしも、行きたいです」
ライトニングが一瞬だけ目を細める。
「怖いかもしれんぞ」
「こ、怖いです……でも……パーティですから」
そこで、少しだけ空気が変わった。
エルツーは小さく息を吐いて、それから頷いた。
「うん」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
***
共同墓地の奥は、手前よりもさらに静かだった。
風の通りが少し強い。
並んだ墓標の隙間を抜けるたび、乾いた草が擦れる音だけが小さく鳴る。
フェルクの拾ってきた情報を頼りに、一行は奥へ奥へと進んでいた。
やがてエルツーの足が止まった。
ひとつの墓標の前だった。
刻まれている名は――クレスト。
『金剛石の矢』の元メンバー、資料に載っていた名前だ
足元には何もなかった。
花も、酒も、供物もない。
墓前を飾ろうとした痕跡すらない。
風だけが、乾いた土の匂いを運んでいく。
ライトニングが低く息を吐いた。
「……クレストか」
「知ってるんですか……?」
「少しだけな」
ライトニングは墓標から目を離さないまま続けた。
「オリオンの幼馴染だ。一緒に冒険者になった、最初の相棒だった」
フェルクが珍しく茶化さずに聞いている。
「オリオンが前で全部受ける。クレストが後ろから頭を回す。
あいつらは、そういう組み合わせだった」
エルツーは墓標を見ながら、その輪郭を頭の中でなぞる。
大盾で前をこじ開ける快活な男。
その突進先を決める冷静な剣士。
たぶん、金剛石の矢の核はそこにあった。
「墓前に何もないですね……」
プリシラがぽつりと言う。
「供えられないんだろ」
フェルクが肩を竦める。
「まだ、受け入れてないからですかね?」
エルツーが静かに言うと、フェルクは「たぶんな」とだけ返した。
「……行こうか」
エルツーが言うと、フェルクが顔を上げた。
「常夜灯か?」
「うん」
ライトニングは一瞬だけ黙ったあと、短く言った。
「……やめとけ」
「何を?」
「その顔」
ライトニングの声音は低かった。
「今のお前、たぶん一番刺さる言葉を選んでる、あの男が一番癇に障る言葉」
「だめ?」
「だめじゃない。だが、えげつない」
***
《常夜灯》は、昼でも薄暗かった。
扉を開けると、酒と蝋の匂いが鼻を打つ。
店の中には昨夜と同じような静けさがあった。
墓参り帰りらしい客が数人いるだけで、大声で笑う者はいない。
そして、奥の席。
やはりオリオンはそこにいた。
半分ほど残った安酒の瓶。
空の杯。
190を超える体を雑に椅子へ沈めているくせに、少しも隙がない。
エルツーは迷わずその席へ向かった。
オリオンがゆっくり顔を上げる。
「……なんだ……また来たのか」
エルツーは答えない。
ただ、卓の前で立ち止まる。
それから、ごく静かに言った。
「死に場所用意しますよ?」
その一言で、空気が変わった。
オリオンの目が、そこで初めてはっきりと動く。
否定したかった。
そんなものがあるわけがないと、即座に切り捨てたかった。
だが、その言葉は喉の奥で一度止まった。
「……できるわけがない」
吐き出した声は、怒鳴り声にも嘲りにもなりきれなかった。
エルツーは、その揺れを見逃さない。
だが今は、それ以上は言わない。
オリオンもまた、続けなかった。
ただ、杯を持つ手だけがほんの少し強くなる。
沈黙は短かった。
けれど、十分すぎるほど長く感じた。
オリオンはやがて低く吐き捨てる。
「……帰れ」
昨日と同じ言葉。
けれど、その重さは少しだけ違っていた。
エルツーは小さく頷く。
「明日、ビリジオンで待ってます」
オリオンの眉がわずかに動く。
「知らん」
短い返事だった。
拒絶のようでいて、昨日みたいな切り捨て方ではなかった。
エルツーはそのまま、静かに続ける。
「…………銀の風は、まだ吹いています」
その一言で、オリオンの目が見開いた、なぜそれを?
しかし、返事はない。
ただ、今度ばかりは杯の中ではなく、まっすぐエルツーを燃える瞳で見ていた。




