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11/20

ヴァルハラ

 帝都の西へ進むにつれ、街の空気は少しずつ痩せていった。


 人通りは減り、石畳の隙間には乾いた土が溜まり、建物の壁もどこか煤けて見える。

 南西区は、華やかな商業の匂いからも、武を誇る喧騒からも少し外れた場所だった。


 やがて視界の先に、共同墓地が見えてくる。


 整然と並ぶ墓標。

 風に擦れる枯草の音。

 墓守の小屋の脇には、供えられて間もない白花がいくつか揺れていた。


 墓地の中には、まだ人影が残っていた。


 古びた剣を胸の前で立て、静かに手を合わせている冒険者。

 その少し奥では、若い女が墓標に縋るように膝をつき、声を押し殺して泣いている。

 恋人なのか、伴侶だったのか、そこまではわからない。

 ただ、その背中だけで十分だった。


 ここでは死は遠い昔の話じゃない。

 名を刻まれた者たちは、今なお誰かの時間を止めたまま、この場所にいる。


 日が傾きはじめたせいか、あたりはまだ明るいのに、妙に静かだった。


 その墓地の手前に、古びた一軒の店がある。


 軒先の灯はまだ薄く、看板は長い風雨に晒されて文字が掠れていた。

 それでも、そこに刻まれた名前だけはどうにか読めた。


 ――《常夜灯》。


 弔い帰りの者が立ち寄るのか、扉の前には踏み慣らされた跡がある。

 酒場にしては騒がしさがなく、かといって礼拝堂ほど静かでもない。

 生者が酒を飲み、死者の名を思い出すためだけに残されたような場所だった。


 ライトニングが、ほんの少しだけ息を止めた。


「……一等星、久しいな」


 低く落ちたその呼びかけに、大男がようやく顔を上げた。


 目が合う。


 酒の熱を帯びている。

 だが、それ以上に疲れている目だった。


 オリオンはしばらく無言でライトニングを見つめ、それから短く鼻を鳴らした。


「……雷鳴か」


 掠れた声だった。

 弱くはない。

 ただ、もう人に向けて何かを差し出す気のない声だった。


 ライトニングは腕を組んだまま、つまらなそうに返す。


「まだその顔はできるらしいな」


「死ねるなら、もう死んでる」


 それだけで十分だった。

 昔を知る者にしか交わせない言葉だった。


 エルツーが一歩前に出る。


「元天龍の羽のエルツーと申します」


 オリオンの視線が、ようやくライトニングからエルツーへ移る。


 数秒、黙って見た。


「知らん」


 そこでもう一拍置き、低く続ける。


「そもそも嘘をつくな」


 フェルクが横で肩を揺らした。


「いきなり手厳しいなあ」


 オリオンはそっちを見もしない。


「天龍の羽を抜けた人間が、わざわざ元の看板を掲げてくる時点でろくでもねえ」


 エルツーは少しだけ目を細めた。


「まあ、否定はしません」


「正直で結構だ」


 オリオンはまた酒瓶を傾ける。

 飲み方は乱暴じゃない。

 自分を少しだけ鈍らせるために、必要な量だけ流し込んでいるように見えた。


 フェルクがそこで、わざとらしくため息をついた。


「いやー、感じ悪ぃなあ。初対面にもう少し愛想とかねえのかよ」


 そこで初めて、オリオンの目がフェルクへ向く。


「お前みたいなのが一番嫌いだ」


「へえ。じゃあ俺、お前のことちょっと好きかも」


「気色悪ぃこと言うな」


 フェルクは笑ったが、オリオンはそれ以上相手にしなかった。


 プリシラがその後ろで小さく身じろぎする。

 その気配に、オリオンの目が止まった。


 メイド服。

 大柄な獣人。

 胸元に抱えたロッド。


「……なんだ、その妙な組み合わせは」


「僕たちのパーティです」


 エルツーが答える。


 オリオンは数秒だけ黙った。

 それから、低く鼻で笑う。


「冗談きついな」


「本当です」


「なお悪い」


 また一口、酒を飲む。

 もう話は終わった、とでも言いたげな仕草だった。


 それでもエルツーは動じなかった。


「僕たちのパーティに入ってほしいです」


 その一言に、オリオンの動きが止まる。


 店の空気が、一瞬だけ遠のいたような気がした。


 老夫婦の会話も。

 奥で杯を置く音も。

 ほんの一拍、薄くなる。


 オリオンは、しばらくエルツーを見ていた。


 酔っている目だ。

 だが、その奥のどこかだけがやけに冷静だった。


「……帰れ」


 短い一言だった。


「今さら誰かの仲間になる気はねえ」


 エルツーは少しも引かない。


「死んでないなら、まだ終わってないでしょう」


 その言葉に、オリオンの目が変わる。


 今までの無関心とは違う、刺すような色が差した。


「軽く言うな」


 低い声だった。


「お前、戦場で一人だけ残されたことがあるのか」


「ないです」


「じゃあ喋るな」


 怒鳴り声ではなかった。

 むしろ静かすぎて、余計に刺さった。


 ライトニングは目を細めたまま、黙っていた。

 フェルクもさすがに口を挟まない。


 オリオンは空の杯を指先で転がす。


「……俺に残ってるのは、死に損ないって肩書きだけだ」


 短いその一言だけで、今はまだ十分だった。


 エルツーは少しだけ間を置いて、そして言う。


「また来ます」


 オリオンの目が細くなる。


「来るな」


「たぶん来ます」


「人の話聞け」


 フェルクが吹き出した。


「いやー、そこは気が合いそうだなあ」


「お前は黙れ」


 プリシラは、おずおずと口を開きかけて、でもやめた。

 今は何を言っても届かない。

 たぶん、全員がそう感じていた。


 オリオンはもうこちらを見ていなかった。

 それで終わりだった。


 《常夜灯》を出たあと、しばらくは誰も喋らなかった。


 共同墓地の脇を抜ける風は冷たく、さっきまで店の中にこもっていた酒と蝋の匂いを、少しずつ洗い流していく。


 それでも、オリオンの声だけは妙に耳に残っていた。


 帰れ。

 今さら誰かの仲間になる気はねえ。

 俺だけ生き残った時点で、もう終わってんだよ。


 重かった。


 だが、手応えがあったかと聞かれれば、ほとんどない。

 あれで心が動いたと考えるほど、エルツーも楽観的ではなかった。


 フェルクが、ようやく肩を回しながら息を吐いた。


「いやー、見事に追い返されたな」


「最初から、そう簡単な相手じゃない」


 エルツーが言う。


「簡単じゃないどころか、今んとこ完全敗北だろ」


「そうとも言う」


 フェルクは苦笑した。


「まあ、あれでホイホイついて来たら逆に怖ぇわな。S級のパーティが無くなったんだし」


 ライトニングは黙ったまま歩いていた。

 表情は不機嫌そうだったが、それ以上に何かを噛み締めている顔にも見える。


「お前は?」


 フェルクが横目で見る。


「昔の知り合いとして、どう見た?」


 ライトニングは少しだけ間を置いた。


「……最悪だな」


「そりゃそうだ」


「だが、壊れきってもいない」


 短い一言だった。

 その続きを、ライトニング自身もまだうまく言葉にできていないようだった。


 しばらく歩いたところで、街の空気が少しずつ生者の側へ戻ってくる。

 墓地の静けさは पीछेへ遠のき、夜の灯が増え、人の声も混じり始める。


 そこでフェルクが、急にぱっと顔を上げた。


「じゃ、俺こっち」


 エルツーが目を向ける。


「どこへ?」


「借金がなくなった男が行く場所なんて決まってんだろ」


 フェルクはにやっと笑った。


「景気よく娼婦街だよ」


 エルツーが小さく呟く。


「いや、お前の金ではないだろう?」


 その言葉に、ライトニングがぎょっとした顔で振り向いた。


「いいのかあんな奴の借金を肩代わりして!?」


 狼狽え方が少し本気だった。


 エルツーは肩をすくめる。


「安いもんですよ。想定内の出費です」


 口元に、わずかに笑みすら浮かべていた。


 フェルクが吹き出す。


「ほらな? 俺は拾われるべくして拾われた男なんだよ」


「調子に乗るな」


 ライトニングがぴしゃりと切る。


「でもまあ、気前のいい旦那を持つと助かるねえ」


「誰が旦那だ」


 フェルクはひらひらと手を振って、そのまま本当に迷いなく夜の街へ消えていく。

 その背中には一片の迷いもなかった。


 そこでライトニングが、ふと足を止めた。


「お前」


 声をかけられて、プリシラがびくっと肩を跳ねさせる。


「は、はいっ」


「泊まる場所はあるのか」


 プリシラは一瞬、返答に詰まった。


 その沈黙だけで、あまり良くない答えなのは伝わってしまう。


「……あるのか、ないのか」


 ライトニングの声が少し低くなる。


「えっと、その……下宿、させてもらってます……」


「どこに」


「……娼館で」


 空気が、ぴたりと止まった。


 ライトニングの顔から表情が消える。


「は?」


 短い一音だった。

 だが、その一音だけで十分すぎた。


 プリシラは慌てて手を振る。


「い、いや、でも皆さん優しくて……! ご飯も出してくれて、その、寝る場所もあって……!」


「お前、何歳だ」


「じゅ、十四です……」


「……それを先に言え」


 ライトニングは額を押さえた。


 怒鳴ってはいない。

 だが、怒っているのは誰の目にもわかった。


 プリシラはしゅんと尻尾を下げる。


「すみません……」


「謝るな」


 反射みたいに返してから、ライトニングは深く息を吐いた。


「そういう問題じゃない」


 プリシラはもう何も言えずに固まる。

 拾ってもらっている、世話になっている、だから文句は言えない。

 たぶんそういう類の遠慮が、彼女には染みついていた。


 だからこそ、ライトニングは余計に苛立った。


「今日は私と来い」


「……え?」


「“え?”じゃない」


 ライトニングは、心底当たり前のように言い切る。


「そこに帰す気はない」


 プリシラは目を白黒させた。


「で、でも、ご迷惑では……」


「うるさい」


 即答だった。


「迷惑かどうかは私が決める」


 その言い方は相変わらずぶっきらぼうで、全然優しくない。

 けれど、その中身だけは完全に“姉”だった。


 プリシラは、どう受け取っていいかわからない顔でライトニングを見る。

 尻尾は下がったまま、耳は落ち着かず、ロッドを抱える手だけがぎゅっと強くなる。


「……ほんとに、いいんですか……?」


「よくないなら言わん」


「でも……」


「でもじゃない」


 ライトニングは半歩だけ近づいて、プリシラを見下ろした。


「お前は危なっかしい。見てて落ち着かん。

 それに、ああいうとこで変なこと覚えられても困る」


「変なこと……」


「そこは聞き返すな」


 プリシラは、困ったような、それでいて少しだけ安心したような顔になる。


「……はい」


 その返事を聞いて、ライトニングはようやく鼻を鳴らした。


「よし」


 それからプリシラは、はっとしたようにエルツーの方へ振り向いた。


「その、エルツーさん……!」


「うん?」


 プリシラはロッドを抱えたまま、ぶんぶんと大きく手を振った。

 それでも足りないと思ったのか、数歩戻ってきて、おずおずとエルツーの手を両手で握る。


「わ、わたしをパーティに入れてくださって……ありがとうございました……!」


 大きな身体に似合わないくらい、真っ直ぐで不器用な礼だった。


 耳も尻尾も落ち着かず揺れている。

 でも、目だけはちゃんと前を向いていた。


 エルツーは少し驚いたように瞬きをして、それから小さく頷く。


「こちらこそ」


 プリシラはそれだけでまた顔を明るくし、ぱっと手を離した。


「じゃ、じゃあ……行ってきます!」


 その言い方に、ライトニングがすぐ眉をひそめる。


「行ってきますじゃない。今後も来るんだろうが」


「は、はいっ」


「あと尻尾」


「あっ」


 また下がっていた尻尾を、プリシラは慌てて持ち上げる。


 ライトニングは深々とため息をついた。


「……先が思いやられる」


 そう言いながらも、歩き出す時はちゃんとプリシラに歩幅を合わせていた。


 プリシラも慌ててついていく。

 何度も何度も振り返っては、エルツーに小さく頭を下げる。


 その背中を見送りながら、エルツーは少しだけ目を細めた。


 拾った、というより。

 居場所がひとつ、決まったのかもしれなかった。


 ***


 エルツーがいつもの宿へ戻ると、扉を開けた瞬間に声が飛んだ。


「ちょっとツウ!!」


 ナナだった。


 青みがかった長い髪を揺らして、ずんずんこっちへ来る。

 営業の合間を縫ってきたのか、まだ仕事着のままだった。


「何」


「何じゃなか!」


 開口一番、それだった。


「あの大きい子、誰なん!? なんでまた増えとると!? しかもメイド服って何!? ライトニングさんまで一緒やったし、あんた今なにしよると!?」


 矢継ぎ早だった。

 息継ぎなしに詰めてくる。


 エルツーは一瞬だけたじろいだ。


「……ちょっと待って」


「待たん!」


「一個ずつ聞いて」


「全部気になるっちゃけど!?」


 ナナは本気で怒っていた。

 いや、怒っているというより、心配と呆れが一緒くたになって爆発している顔だ。


「あんた、昼間クビになったばっかりと思ったら次の日には雷鳴連れとるし、その次はまたでっかい女の子連れとるし、どうなっとると!?」


「色々あって」


「その“色々”を聞いとると!!」


 ナナの勢いに、エルツーはわずかに肩をすくめた。

 この手の詰め方は、正直あまり得意ではない。

 でも、逃げるともっと面倒になるのもわかっている。


「……プリシラって子」


「名前聞いとらん!」


「今言ったよ」


「そういうことじゃなか!」


 ナナは額を押さえた。


「その子、大丈夫なん? ちゃんとした子なん? あんた、また変なことしとらんやろうね?」


「してない」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんじゃ怖いっちゃけど!」


 エルツーは少しだけ視線を泳がせた。


「大丈夫では、なかったかも」


「は?」


「下宿先が娼館だった」


 ナナの表情が固まる。


「……は?」


「だから、ライトニングさんが連れて帰った」


「えっ、ちょっと待って、情報が多い」


 ナナは指を折るみたいに空中で整理し始めた。


「その子は女の子。大きい。メイド服。下宿先が娼館。で、雷鳴さんが連れて帰った?」


「うん」


「何その濃すぎる話」


 ナナは本気で頭が痛そうだった。


「しかもあんた、またそういう面倒な子に関わっとるし……」


「僕だけじゃないよ」


「そういう問題やなか!」


 即座に返ってくる。


 エルツーはそこで、少しだけ言葉に詰まった。


 ナナはなおも睨んでいる。

 でもその怒り方は、責めるためだけのものじゃない。

 ちゃんと、心配している顔だった。


「……心配しすぎ」


 ぽつりとこぼすと、ナナは余計に目を吊り上げた。


「するやろ!」


 その返しの熱に、エルツーは少しだけ目を逸らした。


「あとご飯食べた?」


 急にそこへ飛ぶ。


 エルツーは少しだけ考えてから答えた。


「……あんまり」


「やっぱり!」


 ナナはぴしゃりと言って、カウンターの奥へ引っ込んだ。


「座っとって。なんか出すけん」


「忙しいんじゃないの」


「うるさい。今日はそっちが優先」


 その返事に、エルツーは少しだけ押し黙った。


 宿の灯りは明るい。

 娼婦街へ消えたフェルクも、プリシラを連れていったライトニングも、死者のそばに沈んでいたオリオンも、今はここにはいない。


 なのに、妙に今日という日が途切れていない感じがした。


 ナナが皿を持って戻ってくる。


「ほら」


「ありがとう」


「あと、ちゃんと説明してもらうけんね」


「どこから?」


「最初から全部!!」


 それを聞いて、エルツーは小さく息を吐いた。


 面倒だ。

 面倒だが、悪くはない。


 そう思いながら湯気の立つ皿に手を伸ばした。

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