初めて『商品交換』に成功し、塩味の粥が普通にうますぎて感動する
【授命暦842年 9/25 朝】
前の日、グリュンが木皿で量って持っていったあとの麦袋は、はっきり分かるほど量が減っていた。四束も刈ったのに、冬の粥が少しましになるだけだ。
荷車の音が聞こえたのは、朝の賦役を終えた直後だった。
木の車輪が石の上をきしませながら進む、重い音がした。村の入口の方から、ゆっくり近づいてくる。
——行商人だ。
秋の終わり。バスティアが来る時期だと、イェニーが言っていた。年に一度か二度、この辺りの村を回る行商人。今日の目的は一つ。ローザの糸を売って、塩を手に入れる。粥に味をつける。
荷車が村の中心に止まった。引いていたのは痩せた驢馬で、荷台には木箱と麻袋が積まれている。荷を下ろし始めた男は、中年の行商人だった。日焼けした顔に深い皺。手つきは慣れている。
だが、まっすぐ村の広場に向かわなかった。
グリュンの小屋に入っていった。
——なるほど。行商人が相手にしているのは僕たちではなく、まずグリュンだ。当たり前だな。
僕はグリュンの小屋の横を通りかかるふりをして、中を覗いた。
扉の隙間から、声が漏れている。
「麻布一反で塩三袋。前と同じだな」
バスティアの声だ。低く、淡々としている。
「ここで、領主さまの麻布を何反渡して、その代わりに塩を何袋受け取ったか、きちんと確認するぞ。村に回す前に、領主さまの分は先に抜いておけ」
グリュンの声。
——伯家の麻布を塩に替える取引か。
農奴が織った麻布のうち、上に取られた分をグリュンがまとめて行商人に渡す。その代わりに入る塩も、まず伯家の取り分が引かれる。つまり、麻布をどれだけ渡し、塩をどれだけ受け取ったかは、グリュンが管理しているということだ。
麻布一反で塩三袋。それが今の交換比率らしい。
扉が開く前に離れた。荷台の横を通り過ぎるとき、驢馬が首を振った。獣の体温と、荷の匂いがした。乾いた草にまじって、かすかに潮を含んだ鉱物の匂いが鼻に届いた。
——塩だ。
荷台の端に、若い男が一人座っていた。荷を見張る目つきに慣れがあった。客の顔には関心がなく、どの品を誰に渡すかだけを見ていた。
小屋の中では、まだグリュンが袋を引きずる音を立てていた。領主分の塩袋を数え直しているらしい。今は荷台の方まで目が届いていない。
バスティアがグリュンの小屋から出てきた。麻袋を肩にかけ直し、荷車の横に戻る。
僕は糸の束を持って近づいた。昨夜、ローザに「売り物になりそうな束だけ寄せてほしい」と頼んで、作りためていた束を全部見せてもらった。その中で本当に売り物になりそうなのが三束だった。だが、この品質に達していたのは一束だけだった。残り二束は仕上がりが甘く、手で引けば切れた。ローザ自身も「これだけ、たまたま上手くいった」としか言わなかった。今朝、その三束を小袋ごと預かってきた。一束あれば、どれくらいの値がつくかは確かめられる。
「すみません。少し見てくれませんか」
バスティアが振り返った。農奴の子供が荷車に近づいてくるのを、眉ひとつ動かさずに見ていた。
「……何だ」
「糸です。これと交換できるものはありますか」
糸の束を差し出した。バスティアが受け取り、両手で引っ張った。表情が変わった。
「何だこれは。質が良いな」
端を爪で弾く。張りがあって、へたりにくい。バスティアが眉を寄せ、もう一度引っ張った。
「これはお前が作ったのか?」
「いえ。——あの子です」
畑の端にいるローザを振り返った。ローザはこちらを見ていたが、近づいてこない。腕を組んだまま、少し離れたところからこちらを見ている。
「農奴の子にしちゃ、いい腕だな」
バスティアが糸の撚り目を親指でなぞり、端の毛羽立ちを確かめた。
「糸一束なら……塩をひとつまみだな」
——やはり、安く見てきた。
「さっき、グリュンには麻布一反で塩三袋って言ってましたよね」
バスティアの手が止まった。
「……聞いてたのか」
「聞こえただけです。布まで織った物と、糸の束が同じ値になるとは思ってません。でも、ひとつまみは安すぎる気がします。僕の言っていることは変ですか?」
バスティアが僕の顔を見た。今度は面倒そうな目ではなかった。こいつがどこまで分かっているのか、確かめるような目だった。
バスティアがしばらく糸を見つめていた。やがて、荷台から小さな革袋を取り出した。
「お前は賢いな。とはいえ量が少なすぎるし、毎回この質で来るとも限らん。塩ひと握りでどうだ」
ひとつまみから、ひと握りに上がった。相場を知らない子供だと思って安く買おうとしていたのを、少しだけ値上げさせることができたのだ。それでも安い。だが、ひと握りあれば数日は粥に味がつく。針があれば、糸を束にして売る仕事も続けられる。
バスティアの指が、糸の束の端を撫でた。
「——はい。それでお願いします」
質の良い一束をバスティアに残し、残り二束は袋に戻した。バスティアが革袋の口を開け、荷台の塩壺から掬った。白い粒が革袋に落ちる乾いた音がした。
革袋の口を結び終えてから、バスティアが紙片を取り出し、何かを書きつけ始めた。品名と数量だ。僕はさりげなくその紙片に目を向けた。
ローザが荷車の後ろへ少し寄ってきて、僕ではなくバスティアの手元を見ていた。
品名の欄は読めなかった。だが、数字の欄だけは目で追えた。「一」は確実だ。隣の記号は五なのか別の略記なのか分からない。
僕の目が数字の欄で止まったのを、バスティアは見逃さなかった。
「お前……字が読めるのか。農奴の子にしちゃ珍しいな」
——珍しいのは、字が読めることだけじゃない。子どもが値段に口を出したこともだろう。
「少しだけ。教会で覚えました」
バスティアは何も言わず、紙片を懐にしまった。小屋の方で、グリュンが誰かを怒鳴る声がした。バスティアはそちらを一度だけ見て、それから荷台の木箱を探り、布に包んだ細い束を放ってよこした。
「余りだ。持っていけ。お前には貸しを作っておく。いずれ、その貸しは返してもらうかもしれん」
受け取って開く。針が三本、油紙に巻かれていた。
村外れの木の下で、ローザを待っていた。
石垣の向こうを、ハインリヒが歩いていた。風向きが変わった瞬間、鼻を小さく上げた。塩の匂いに気づいたのだろう。村でこの匂いがするのは珍しい。視線が合うと、何も言わずに目を逸らして、また歩き出した。
——塩を手に入れたことに気づかれた、と思った。
しばらくして、さっき荷車の後ろから様子を見ていたローザがやってきた。腕を組んだまま、まだこちらを警戒していた。
「で、何になったの」
「売れたよ」
革袋を開けて見せた。白い塩の粒。布に包んだ針三本。
ローザの目が一瞬だけ見開かれた。すぐにいつもの顔に戻ったが、見逃さなかった。
「これ、ローザのだよ」
「何でそうなるの」
「ローザの糸だから。まずローザの取り分だよ」
「あんたが売ったんでしょ」
「ううん、糸を作ったのはローザで——」
「いいから、半分にして。あんたが売ったんだから」
「……半分?」
「それが普通でしょ」
ローザはうつむいたまま話していた。
塩を半分に分けた。針は二本をローザに、一本を僕が手元に残した。三本は半分にならない。
ローザが指先で塩をつまみ、舐めた。
唇が少し動き、眉がわずかに上がった。ローザはもう一度塩に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……しょっぱい」
「そりゃ塩だから」
「知ってる」
ローザはさっきまでより丁寧な手つきで、革袋の口を結んだ。
ふと、ローザが顔を上げた。
「さっき、あんた紙を読んでた」
「……ああ」
「わたしは読めない。ああいうのも読めるようになる?」
「……なると思う」
ローザはうつむいたまま、かすかに頷いた。
——そうだ。あの石なら、文字を教えるのに使える。
「……ちょっと待って」
村外れの木から小屋の裏まで、二人で黙って歩いた。僕は壁際の藁の陰に手を突っ込み、隠しておいた石を取り出した。平らな面に、教会で覚えた文字を一字ずつ刻んである。
ローザが石を受け取り、指先で溝をなぞった。
「……これが文字」
「うん。教会で覚えたんだ。まだ全部じゃない」
ローザは黙って石の表面をなぞっていた。爪が溝に引っかかるたび、小さな音がした。
ローザは石を返さなかった。しばらく見つめてから、腰の袋に入れた。
「借りる」
「……うん」
日が落ちた。
小屋に戻ると、イェニーが鍋の前にいた。
「ムーア。これ、どうしたんだい」
イェニーの手のひらには、半握りほどの塩が載っていた。
「ローザの糸を売ったんだ。行商人に」
イェニーの手が止まった。鍋の中を覗き込み、また塩を見た。
「……売った?」
「交換したんだ。糸と塩を。針はおまけでもらった」
「そうかい。助かるよ。……でも、それ、盗んできたんじゃないだろうね」
「そんなことはしないよ。ローザに聞いてくれれば分かるよ」
イェニーはしばらく戸口の方を見ていた。外から誰の足音も近づかないと確かめてから、ほんの少しだけ鍋に振り入れた。残りは布に包んで、壁の窪みに隠した。
椀を受けた。口に運ぶ。
——塩の味がする。
薄い。ほんのわずかだ。だが、昨日までの粥とは違う。舌の上に塩の粒が残って、麦の甘みを引き出している。
イェニーも一口すすった。目を閉じて、小さく頷いた。
「……おいしいね」
その一言を聞いて、糸を塩に替えてよかったと思った。
昼に荷車でもらった塩が、夜には粥に味をつけていた。それだけで、いつもの粥が前よりずっとましな味に思えた。
グリュンに塩の匂いを嗅がれれば、次は黙って持ち帰れない。誰が何を書き、どの段階で取り分を差し引いているのか。あれを読めないままでは、また奪われる。バスティアに作った借りも、いずれ別の形で見返りを求められるだろう。糸はもう、使うためだけの物ではなく、塩に替えるための物にもなっていた。塩の入った粥を啜りながら、そう思った。




