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搾取を逃れるために『識字』を教えたら、ローザが一番飲み込みが早かった

【授命暦842年 10/1 朝】


 薪を拾いに森に入ったら、ローザがいた。


 朝靄の残る林の中で、枯れ枝を腕に抱えている。湿った落ち葉の匂いが鼻に冷たい。いつもより早い。僕が来る時間を知っているのか、たまたまなのか。


 ローザは枯れ枝を一本折った。乾いた音が靄に吸われて消える。


「あの続きを教えて」


「は?」


「あんたが貸してくれた石に書いたやつ。あれの続き」


 昨日貸した石版か。


「全部なぞった。でも、何が書いてあるのか分からない」


「……全部なぞったんだ」


「手が空いたから。で、あれ何」


「——あれは教会の聖典から写したやつだよ。まだ全部じゃないけどね」


 ローザが枯れ枝を折る手を止め、僕の顔を見た。


「わたしにも教えて」


 薪拾いの朝靄の中で、その言葉に頼むような響きはなかった。ひどくあっさりしていた。


「何で急に」


「急じゃない。前から気になってた」


 ローザが枯れ枝を腕に抱え直した。


「バスティアが紙に何か書いてた。あんたは読んでた。グリュンの羊皮紙もそう。何が書いてあるか分からないままなの、嫌なんだけど」


 知りたいというより、何を奪われているのか分からないままなのが嫌なのだろう。ローザの声は、そう聞こえた。


「いや、字が読めると、書いとけば数をごまかされても気づけるし、自分で記号も残せる。名前だって書けるし、そのうち値段や置き場や日取りも紙に残せる。頭の中だけで覚えなくてよくなるし、」


「長い」


「……まだ半分も言ってないけど」


「わたしはまず、何を奪われてるのか分かればいい」


「分かってる。だから、僕が書ける分から始める。羊皮紙そのものじゃなくても、線を覚えれば、何も分からないままでいるよりは、状況を読めるようになる」


 ローザが黙って頷いた。


「——教えるのはいいけど、問題があるんだ」


「何。時間?」


「時間だよ。ローザの賦役は朝から昼過ぎまであるよね。糸も紡がなきゃいけない。いつやるの」


「賦役の合間にやる。昼の前後なら空く」


「合間って、昼飯の前後だけだよね。それで足りる?」


「足りなきゃ、足りる分だけやる」


 人目につかない場所も要るし、僕の字だって全部正しいか怪しい。教会の字を、農奴の子に教えているところを見られたら、叱られるだけでは済まない。


 それでも、反論する余地がなかった。足りる分だけやる、と言い切られたら、返す言葉がない。


「……じゃあ、昼のあと。ひとまず小屋の裏。壁際なら土に書いて、すぐ消せる」


「やるって言ったでしょ」


 ローザが枯れ枝を拾い直して、さっさと歩き出した。


 ただ、一つだけ正直に言わなければならないことがあった。


「僕が教えている字、全部正しいかは保証できない。教会で聖典を見て覚えたんだけど、全部が正確に写せたかは僕にも怪しい」


 ローザが足を止めた。振り返る。


「じゃあ間違ってるってこと?」


「かもしれない」


「……まあいい。間違ってたら、その時直す」


 まだ羊皮紙を直接読ませるわけじゃない。それでも、何も分からないまま奪われる側に戻すよりはましだった。



 昼の賦役が終わった。


 小屋の裏手。日陰になる壁際の土は湿っていて、棒で線が引ける。土の冷たい匂いが濃い。ローザが小走りでやってきた。手に石を持っている。僕が貸した文字の石だ。


「これの、最初のやつからやって」


 本当は、グリュンの羊皮紙に書かれた字をそのまま見せるのが早い。だが、今の僕が安全に持ち出せて、何度でもなぞらせられるのはこの石だけだった。


 石の表面に刻んだ文字は八つ。教会の聖典で確認できた分だけだ。今日はこの八つを一度でいいから全部通す。形は後で直せる。まず線の置き方を覚える。それが目標だった。


 棒を拾った。樹皮がざらついて、握ると湿った土の冷たさが掌に伝わる。棒の先で土を少し均してから、ローザがよく見える角度に手を寄せて、地面に最初の文字を書いた。


 ——どう教えればいいのか、実のところ正解を知らない。僕が教会で写したときは、誰にも教わらなかった。


「——これが、アー。最初の字だよ」


 ローザが覗き込んだ。地面の線と、石に刻んだ溝を見比べている。


「棒で書くと形が違う」


「うん。石に彫るのと、地面に棒で描くのじゃ線の太さが違うから。——でも、形は同じだよ」


 ローザが棒を受け取った。地面に、同じ字を書いた。


 ——一画目から、字の形をちゃんと捉えていた。


 線は荒い。棒の先が土に引っかかって途中で跳ねている。だが、上手いというより、どの線をどこに書くかを、一度で覚えている。僕が教会で三回書いて崩した字を、この子は一回でここまで持ってきた。


「……何で分かるの」


「見たから」


 棒を握る掌に汗が滲んだ。


「——見ただけで、どの線をどう置くかまで分かる人は、そうそういないよ」


 ローザの棒が、地面の上で止まった。


 一拍。耳の端が、ほんのり赤い。視線は地面の字から動かないまま、唇が小さく開いて、閉じた。


「……うるさい。続き」


 指先で石の上の二つ目の字を乱暴に叩いて、棒を握り直す。地面を引っかく音が、さっきより少し強かった。


 二つ目も、三つ目も。形が崩れる箇所はある。けれど、払う線と足す線を取り違えない。多少形が乱れても、違う字には見えない。


 ローザの棒の動きを、しばらく黙って見ていた。


「……ローザ、字全体の形より、どの線をどう引くかで見てるよね」


「長い。次の字」


「……うん」


 四つ目の字で、ローザが手を止めた。


「これ、さっきのと似てる」


 身を寄せて、ローザの地面の字を指でなぞった。


「似てるけど、違う。——ここ、一本多いんだ」


「なんで」


「音が違うから。字は、音を表してるんだ」


 ——音ごとの決まりまで話すのは、まだ早い。言葉を呑み込んだ。


 ローザの目が動いた。石の表面をもう一度なぞった。八つの字を順に指で追って、何かを確認している。


「……じゃあ、この並びに決まりがある」


「あるよ。でも、そのルールを僕はまだ全部知らない」


「ふうん」


 そこでようやく分かった。驚いていたのは手先の器用さじゃない。僕がさっき一本多いと言っただけで、ローザは似た字を別の字として分け始めている。字の形だけでなく、字どうしの違いや規則まで分かりかけていた。


 ローザはそれ以上聞かなかった。棒を動かして、五つ目の字を書き始めた。


 六つ目。七つ目。ローザの棒が地面を走るたびに、線がわずかに整っていく。八つ目を書き終えたとき、最初の字よりも線が安定していた。


 鐘が鳴った。


 午後の賦役の合図だ。遠くから重い金属の音が、湿った空気を裂く。


 ローザが棒を止めた。


「続き、明日はどうするの」


「——明日もここで」


「明日もお務めでしょ」


 ローザが棒を地面に突き刺して、立ち上がった。土埃を手で叩き、振り返らずに歩いていく。


 ローザが小屋の裏を離れていく。足元の文字が午後の日差しに乾き始めている。


 地面の文字に土を被せた。ローザの分も。



 夜。小屋の中は鍋の湯気が天井に溜まっていた。


 イェニーが鍋をかき混ぜている。昨日の塩がまだ少し残っている。昼過ぎに水桶を持って裏を通ったとき、イェニーが一度だけこちらを見たのを思い出した。


「ムーア」


「ん?」


「あの子に、何を教えてるんだい」


 手が止まった。やはり、見られていたか。


「文字だよ。読み書き」


 イェニーはしばらく黙っていた。鍋をかき混ぜる手だけが動いている。湯気が薄い塩味を含んで鼻に届く。木べらが鍋底を擦る乾いた音が続く。


 ふいに、その手が止まった。ほんの一瞬、木べらが持ち上がって、また沈んだ。


 イェニーは何も言わなかった。ただかき混ぜる速さが、少しだけ遅くなった。


「……あの子は、頭がいいんだろうね」


「うん。並びにルールがあるって、もう気づいてるんだ」


 イェニーが小さく笑った。笑いとも溜息ともつかない小さな音だった。


「教えるなら、あの子にもちゃんと食べさせてあげなよ」


「……食べさせる?」


「腹が減ってたら、字なんて入らないから」


 椀に注ぎながら、イェニーは僕の目を見なかった。壁の窪みに隠してあった布包みの塩を少しだけ取り、鍋に振った。


 食べさせろ、か。止めはしない。でも、食べ物と隠れる場所くらいは、こっちで考えろということだ。


「……ムーア」


「何」


「今日の昼前、グリュンが裏の納屋の方をぐるっと回ってたよ」


 木べらの動きは止まらない。塩を足したときと同じ、ついでの口ぶりだった。


「……小屋の方までは来た?」


「納屋の手前で折り返してた。でも、いつもあの道は通らないからね」


 椀を置く手が、少し重くなった。


「あんまり、人目につくところでやるんじゃないよ」


 イェニーはそれ以上言わなかった。グリュンに気づかれれば、その話は教会に届き、伯の耳にも入る。字を読める農奴がいると知られたら、叱られて終わる話ではない。


「……分かった」


 同じ場所はもう使わない。昼の前後に空く短い時間を使って、見つかったらすぐ消せる場所だけを回す。そういうやり方にするしかない。


「はい、食べな」


 イェニーが自分の椀を持ち上げた。話は終わりだ。


 椀を受け取った。一口すすった。麦の粉っぽさが舌に残る。塩気はもうほとんどない。



 翌朝。


 賦役に向かう道で、ローザがしゃがんでいた。


 道の端。人が通らない側。棒を手に、地面に何かを書いている。朝露で湿った土の匂いが、冷えた空気の底に沈んでいる。


 近づいて、見た。


 四つの文字。不格好だが、昨日教えた字だ。並びが違う。石の順番ではない。


 ——自分の名前だ。


 足が止まった。息を吐いた空気が白かった。驚いたのは、字が少し似ていることじゃない。覚えた四つを、自分の名前になる順に並べていることだった。


 ローザは書き上がった文字を少しだけ眺めていた。一画目が深すぎて、三画目が短い。湿った土に、棒の跡が浅く刻まれている。それでも、たしかに名前だ。


 鐘が鳴った。


 ローザが立ち上がる。足先で地面の文字を消した。最後の一画まで土に戻してから、棒を道端に置く。


 それから何も言わず、鐘の鳴る方へ歩いていった。


 消したところで、もう遅い。一度、自分で並べて書けた名前は、もうローザは覚えている。これを始めたのは、僕の計画じゃない。ローザが、分からないままでいるのを嫌がったからだ。


 次は、グリュンがもっと奥まで来るかもしれない。

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