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『自由市場』を作ろうとしたら、まず権力への賄賂と根回しが必要だった

【授命暦842年 10/10 昼】


 ローザに字を教え始めて十日。場所は毎回変えた。小屋の裏、薪置き場の脇、畑の端。立ち止まっていても、不自然に見えない場所ばかりだ。


 犯罪ではないのに、ここまで人目を避ける必要があるのかとも思ったが、イェニーに迷惑はかけられない。


 ローザは嫌そうな顔を崩さないくせに、いつも少し早く来る。


「これ。昼のこと書こうとしてた」


 ローザが板を差し出した。


 爪で引っかいた跡が、昨日より長く並んでいる。覚えた字だけを拾って並べ、途中に何か所か空きがあった。


「……何を書こうとしたの」


「昼のこと。あと、糸のこと」


 ローザは途中の空きを棒の先で叩いた。


「ここをつなぐ字を知りたい。あと、数」


「待ってる間に、ここまでやったの」


「そう。手が空いたから」


「……褒めてるんだけど」


「褒められようと思ってない」


 照れてるようにしか見えない。今後は褒める方針にしよう。


 棒を受け取った。湿った土に、空いていた字を書く。


 ローザはそれを一度見ただけで、抜けていた字を埋めた。確かめるより先に、次に詰まった場所を指で叩く。


「次は?」


 足りない字があっても、ローザは止まらない。


 もう、二人だけで隠れて字を教えているだけでは足りなかった。



 夜、粗末な豆の汁を啜っていると、イェニーが鍋を見たまま言った。


「あの子、地面に字をかいてたね」


 匙が止まった。


「そうだね。字を勉強してる」


 イェニーは木べらで鍋底をゆっくり掻いた。火の匂いに、鍋の湯気が混じる。


 顔は上げないまま、声だけが柔らかい。


「遊んでいるように見えなきゃ、それでいいよ」


「……気をつける」


 鍋の縁に木べらが当たって、小さく鳴った。


「あの子、楽しそうだったね」


 遠目にも、もう字を教えていることは隠せなくなっていた。



 昼の賦役が終わる頃、街道の方から荷馬車の音がした。乾いた土を噛む重い音ではない。積み荷が少ない。顔を上げると、幌付きの荷車が村の入口で減速していた。


 当然だが、バスティアだった。


 荷台の横には、前に見た鋭い目の若い男もいる。相変わらず、こちらではなく荷の方を見ていた。


 村の女たちが、先に気づいた。


 ただ、誰も売り物は持ってきていない。交換が成立するか分からないからだ。


「塩は?」


「針はあるかい」


「昨日なら籠、出せたのに」


 声が三つ四つ重なる。荷車の周りに人が寄った。


 だが、誰の手にも、まとまった売り物がない。卵は鶏の下、糸は梁、籠は戸口、豆は袋の奥。欲しい物は荷台にあるのに、交換に出せる物はそれぞれの家に置いたままだった。


 バスティアは荷台から降りながら、眉間を押した。


「今日は長くはいられない。帰り道にちょっと寄っただけだ」


 年かさの女が肩を落とした。


「じゃあ、取りに戻っても間に合わないね」


 バスティアが僕の方を見て手招きをする。何事かと思いつつ歩み寄る。


「ムーアだったか。少し頼みがある」


 バスティアは荷台の木枠を軽く叩いた。


「この村が何をどれだけ出せるのか分からんと面倒だ。卵が何個、糸が何束、籠が何個とかな」


 若い男は荷台の上で無言のまま荷を見ていた。


 その横で、隣家の婆さんが息を切らせて言った。


「籠なら二つあるんだよ。ほんとに。けど家だ」


「糸もある」


 ローザの声だった。いつの間にか来ている。


「三束。うちの梁にかけてある」


「今ここにあるのか」


「ない」


「なら、今は話だけだ」


 怒鳴りではなかった。ただ、今ない物は今ないと言っただけだった。


 売り物がないわけじゃない。各家に散らばったままで、ここに集まっていないだけだ。


 荷車の脇に寄った。


「バスティア」


 バスティアが手を止めた。


「何だ」


「月の初めに、この村に定期で寄ってもらえませんか」


 目が動いた。


「定期で?」


「礼拝の後なら、人が外に出ます。そのときに合わせて、この村の各家が出せる物を一枚にまとめておきます。品と数と、どの家か。着いたらすぐ集められるように、準備します」


 バスティアは黙った。若い男の指が止まった。風で幌が一度鳴る。


「一枚にまとめる、と言ったな」


「はい」


「お前が書くのか」


「数は書けます。品の字は、書ける人がいないかもしれません」


 バスティアは一度だけ鼻で笑った。


「書ける者がいないなら、こっちで見本を渡す」


 荷台の縁に積んであった薄い板切れを引き寄せ、炭の先で短く書いた。

 `いと`

 `たまご`

 `かご`

 `まめ`

 `あさ`


「最初はこの五つで足りる。同じ品に同じ印がついていれば分かる。絵でも記号でもいい。数だけ合ってりゃいい」


 書き終えると、板切れをそのまま僕に寄こした。受け取ると、炭の粉が指に少し移る。


「ただし」


 バスティアの声が少し落ちた。


「市にはするな。目立てば税を取られる。俺も御免だ」


「どう見せればいいんですか」


「礼拝の後、人が井戸に集まる時間に合わせてやれ。井戸のそばで、余り物を持ち寄っただけという形にしろ。見た目は物々交換でも、実際には品と数を決めてやれ。それなら領主の目に入っても叱るほどのことにはならん」


「グリュンは」


 バスティアは肩をすくめた。


「司祭には油、グリュンには酒と銀貨だ」


「それ、賄賂では」


「呼び方はどうでもいい。いちいち許可を取り直したり、後で揉めたりするのが面倒なだけだ」


「分かりました」


「それから」


 バスティアは少しだけ口の端を動かした。


「村の中で先に動いてくれる奴を、早めに決めておけ。家を回るのがお前一人じゃ到底おっつかない」


 バスティアは荷台の若い男に目配せした。若い男は酒壺と油壺を一つずつ降ろし、御者台の脇に並べる。


「帰り道のついでだ。教会と屋に置いてこい。油は司祭、酒はあっちだ」


 若い男は黙って壺を抱え、村の奥へ歩いていった。荷車はそれを見届けてから、また動き出した。



 夕方、小屋の前を通ると、グリュンが立っていた。


 足元に酒壺と布包みがある。バスティアの届け物だ。もう届けさせたらしい。


「そこ」


 近づいた。


「あの行商人が、妙な話を持ち込んできたな」


「行商の話ですか」


「村で出せる物の一覧を、板に書きます」


「板?」


「家ごとに、何をどれだけ出せるかを板に書いて残します。納める物が減っていないか、あとで確かめられます」


 眉間に浅い皺が一本入った。


「続けろ」


「村全体で減ってるのか、どこか一軒だけなのかも分かります。減った家だけ締められます」


 グリュンは鼻を鳴らした。ただし、さっきより低い音だった。足元の酒壺を一度見下ろし、それから板切れに戻した視線が、もう一度酒壺の方へ流れる。


「お前、数と印は本当に書けるのか」


「数と、見本の五つだけ」


「それで十分だ」


 声が一段硬くなった。


「板を作れ。家を回れ。どの家が何を出せるか、月の初めまでに洗ってこい。文句を言う家があれば、俺の名を出せ。俺が聞けと言った、と」


「ただし」


 グリュンは一歩近づいた。


「勝手な市にはするな。もめ事は起こすな。納める物が減るようなら、止める。俺が把握しているうちは止めん。勝手に広げたら、その時はやめさせる」


「分かってます」


 グリュンはしばらく僕を見ていたが、やがて視線を外した。


「それから、俺の指図だということを忘れるな。行商人が持ってきた話でも、この村で進めていいのは、俺が認めているからだ」


 グリュンは歩いていった。小屋の陰の酒壺と布包みが、夕方の影に沈み込んでいる。


 板に書くのは、僕の練習のためじゃない。グリュンが各家の出せる物を把握するための記録だった。



 日が落ちる前に、ローザを井戸のそばで見つけた。水桶を置いたところだった。頬に髪が貼りついている。


「月の初めの話、許しが出た。僕が家を回る」


「あんた一人で回るの?」


「だから、家を回るのを手伝ってほしい」


 ローザは水桶の縁を指で拭った。少し考えて、言う。


「糸と籠はある。豆は、家によってある。卵は日にちを決めないと腐る。麻は乾き具合を見ないと駄目」


「バスティア、何て言ったの」


「『村の中で先に動いてくれる奴を決めておけ』」


「わたしの名前、出した?」


「出してない。でも、ローザしか思いつかなかった」


 ローザは肩をすくめた。


「あなた、友達いないからね」


「仕方ない。わたしも回る」


「お願いする」


「それと」


 ローザは井戸の脇の湿った土にしゃがみこみ、棒を取った。


「記号は、わたしが決める。どの家が何を出せるかは、わたしが分かってるから」


「どんな記号」


 ローザは四角を描いた。縁に一本線を足す。籠の絵ではなく、籠を表す印だった。


「籠。こんな感じ」


 本物そっくりに描く必要はない。同じ品に毎回同じ印をつければいい。


「それでいい」


「卵は丸。糸は縦線の束。豆は点。麻は長い束」


「決めが早いね」


「毎日見てる物だから」


「絵も描けるの」


「描ける」


 ローザは籠を描いた。


「……これ、星座?」


 いきなり脇腹を小突かれた。


 ローザは棒を取り直し、描き直した。絵ではなく、記号だ。


 耳の端が少し赤くなっていた。


「明日、広場の隅の井戸のとこで。板、持ってきて。見本の字は、人に見られないうちにわたしも写す。家ごとの板は記号で揃える」


「分かった」


「あと」


 ローザは水桶を持ち上げた。


「あんた、顔に出るから、グリュンの目を見ない方が良いよ」


 それだけ言って、ローザは歩き出した。井戸の縁に残った水が、夕方の光を少しだけ返している。


 こっそり使っていた品名の見本が、今度は村の記録になる。

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