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12/17

『物々交換』を始めた初日に、卵四つで全部が止まった

【授命暦842年 10/11 昼】


 翌日の昼。


 僕は広場の隅、井戸のそばへ行った。場所も日も、もう決まっている。今日は、月に一度の井戸端の日に使う目録を作る日だ。井戸のそばに村の余り物を持ち寄らせる日だから、僕は井戸端の日と呼ぶことにした。要するに市だ。


 脇に抱えていた木簡は二枚。片方には、昨日バスティアにもらった薄い板切れの五つの品名を、見よう見まねで写してある。


 もう一枚は、まだ空白だった。


 ローザを見て、無意識に


「まだ痛いの」


「少し」


「余計なこと言うから」


 昨日殴られた痛みは、まだちゃんと残っていた。


 木簡を差し出す。


「これで、誰が何出せるか分かるの」


「月の初めの礼拝が終わったあと、井戸のそばへ村の余り物を持ち寄らせる。その時に使う板だ。行商人が来ても来なくても、その場で替えられる物を見つける」


「持ってこさせて、それで終わりじゃないんだ」


「終わりじゃない。板を見れば、誰が何を出せて、その家が何を欲しがってるかが分かるようにする。二、三人なら立ち話で済むけど、家が増えるとすぐこんがらがる」


「で、二枚」


「片方は見本。卵、籠、糸、豆、麻。最初はこの五つでいい。もう片方は家ごとの記録だ」


「どう書くの」


「左に家の記号。その横に出せる品と数。右の余白に欲しい物を書く。今日交換できなかった品は、来月に回す分として右の欄に残しておく」


「欲しい物まで書くの」


「そこがないと、余り物が並ぶだけで終わる。誰の品を、誰に渡せばいいのか分からない」


 ローザは板を指で撫でた。板のざらつきが指先に触れた。


「羊皮紙じゃないんだ」


「羊皮紙を使えるほど、僕は字がうまくないから」


「じゃあ、字が読めない家はどうするの」


「だから記号でも読めるようにする」


「じゃあ、これ」


 空白の板の方を引き寄せて、棒の先で丸を三つ並べた。少し間を空けて、口の広い四角。さらに、縦線を束で三本。その横に、豆みたいな点を四つ。


「卵、籠、糸、豆」


「麻は、これ」


 ローザは少し考えてから、長い線を束で五本引いた。


「それ」


「いい。それなら使える」


「絵じゃなくて、印でいいんだ」


「品物の形に似てるかどうかより、毎回同じ印で書ける方が大事だから」


 ローザは、今度はもう一枚の板に目を落とした。昨日バスティアが書いた品名を、指先で順に追う。


「これ、あんたが写したの」


「写した」


「へた。線がまっすぐ引けてない」


「人のこと言えないでしょ」


 今度は殴られなかった。代わりに、棒の先で甲を小突かれた。


 ローザは `かご` を一度、空白の隅に写した。線はまだ少し歪んでいる。


「日は月の初めの三日」


 ローザが言った。


「今月は、礼拝のある最初の日が三日目だから。そこは動かさない」


「場所も井戸のそば、だね」


「うん。礼拝の帰りにそのまま立ち寄れる。井戸のそばなら、人が集まっていても怪しまれにくい」


「みんなが『その日に井戸のそばへ持っていけばいい』って覚えやすい方がいい」


 棒の先で木簡を軽く叩いてから、ローザは続けた。


「出せそうなのは、糸と麻と籠。細かい数は、家ごとに聞かないと分からない」


「じゃあ、一緒に聞いて回る?」


「最初はあんたが行った方がいい」


「僕は家の中のことを知らない」


「知らないからいい。何が出せるかだけ聞けばいい」


 ローザはそこで一度、棒の先を止めた。


「わたしが回ると、『じゃああそこの家は何出すの』とか、『うちは何持ってけばいい』とか、その場で相談が始まる。あんたが聞く方が、よその家まで話が広がらず、出せる物の返事だけで済む」


「最初の井戸端の日は、それでいいと思う。一組でも交換が成立すれば、来月も人は品を持ってくる」


 僕はローザの顔を見た。「返事だけで済む」と聞いて、最初は僕が回る方がいいと分かった。

 ローザは木簡を見たままだったが、僕の視線に気づいて、一度だけ指先で木簡の縁を弾いた。口元がほんの少し緩んだ。笑うほどではない。


 その時、後ろから足音がした。


 振り返ると、ハインリヒだった。以前、井戸端で僕の話に唯一応じてくれた男だ。歳は二十手前。普段は黙って鍬を振っているだけの男が、今日は僕の方に歩いてくる。


「ムーアさん」


「ハインリヒ」


「広場、なんか集めるんだろ?」


「……うん」


「整地、俺も手伝うわ」


 僕は少し驚いて、ハインリヒの顔を見た。


「何で?」


 ハインリヒは鍬の柄の焦げた跡を親指で一度撫でた。


「いや、あんたの畑見ててさ、手をかけた分だけ畑ってちゃんと返してくるんだなって思ったんだよ」


 ハインリヒは木簡を覗き込んだ。ローザが描いた井戸の位置を見ている。


「あー、井戸の近くな」


「人がいても、井戸のそばなら不審がられにくいから」


 ローザが言った。ハインリヒは頷く代わりに、鼻から短く息を抜いた。


「なるほどな。——明日、賦役終わったら来るわ。鍬持ってく」


「助かるよ」


「いいって、別に」


 ハインリヒはそれだけ言って、また鍬を肩に担ぎ直して歩き去った。


 足音が遠ざかってから、僕はローザの方を見た。


「もし誰かに聞かれても、僕が言い出したとは言わないでくれ」


「分かってる」


 ローザは木簡の隅に棒の先で小さく「ろざ」と書いた。書いてから、すぐに掌で擦って消した。


 消したあと、指先に土の匂いが残った。


 その日のうちに、板の書き方と家を回る役目だけは決まった。



 夜。


 小屋の中の粥は、去年よりだいぶ濃くなっていた。麦の粒がはっきり見える。塩が少しだけ効いている。バスティアから引き取った塩が、棚の布の中にまだ少し残っているからだ。


 イェニーが椀を差し出した。


「ムーア、ちゃんと食べてるかい」


「食べてる」


「腹、減ってないかい」


「……腹は減ってない。ずっと交換のこと考えてるだけで」


 イェニーは自分の椀を置いて、しばらく僕を見ていた。それから、低い声で言った。


「あんた、また熱が出てるんじゃないかい」


 僕は椀を口に運んだ。


「……熱じゃない。気が立ってるだけだよ」


「そう」


 イェニーはそれ以上聞かなかった。木の匙ですくって、自分の口に入れた。


 僕は椀を半分まで空けて、腰を上げた。


「ムーア」


「ん」


「忘れ物」


 黒パンを渡してきた。


「腹が減ってたら、何もできないよ」


 僕はパンを受け取ってちぎって少し食べる。残りは合間に食べよう。堅くて味気ないパンだが、食べると少し体に力が戻った。


「……ありがとう」


 イェニーは何も言わずに鍋をかき混ぜた。


 戸口を出ると、夜の風が冷たかった。麦藁の屋根の向こうから、誰かの咳の音が響いてくる。


 明日、ハインリヒが来る。広場の整地が始まる。


 月の初めの三日に、何人来るかは、まだ分からない。


 翌朝から、井戸端の日までの三日、整地の合間に家を回った。

 近い家には、ローザの母も「井戸のそばへ持っていけばいい」と、軽く声をかけて回ってくれていたらしい。


 卵の婆さんは「来る日が分かるなら持っていく」とだけ返してきた。

 糸の年かさの女は、卵はいらない、それより麦が欲しいと先に口にした。

 麦袋の老人は孫の壊れた籠を戸口に出してきた。「糸はいらん、籠なら欲しい」。

 麻の男は束を抱えたまま、麻は十分あるから根菜が欲しい、と先回りした。

 塩漬けの根菜を抱える家では、主が言いよどむ横で、妻が「糸」と短く被せた。

 板の左側、家ごとの記号の脇が、出せる数の棒線や、品を示す短い字で少しずつ埋まっていった。


 石をどかしながら、ハインリヒが言った。


「あー、そういや三つ隣の村にヴィルヘルムって鍛冶屋いるだろ。あれ、売り買いの日なら顔くらい出すんじゃないかな。鍬直しに行く家、うちの村からもそこそこあるからさ」


 つまり、この村で井戸端の日を始める話は、隣村にも伝わっていてもおかしくなかった。



 月の初めの三日。


 夜明け前から広場にいた。井戸のそばに筵を広げる。受け皿にする空籠を三つ並べる。


 ハインリヒが来てくれたおかげで、整地した地面はしっかり踏み固められていた。三日かけて石をどかし、土を踏みならした場所だ。鍬の角で削ったところと、足で踏んだだけのところで、感触がはっきり違う。


 今日の僕の目標は、ひとつだけだ。井戸のそばに集まった品で、一組でも交換を成立させること。それが一度でもできれば、来月も人は品を持ってくる。


 ローザが木簡を二枚抱えてやってきた。片方は、品名の見本だけを書いた板。もう片方は、家ごとの出し物を昨日までに拾ってある木簡だ。卵は丸に四つ。籠は口の広い四角。糸は縦線の束。見本にない品は、知っている字を組み合わせて、その品の名前に近い読みになるよう書く——そのやり方を、ローザはこの三日で自分で見つけていた。


「人が来て、交換してくれるかな」


 ローザが言った。


「来るよ。たぶんね。声はかけて回ったから」


「そうだね。塩か針が見えれば来るでしょ」


 ローザは筵の端をぽんと叩いて、木簡を石の上に置いた。


 僕はそっと懐からパンを出してちぎって無言でローザに渡す。


 ローザは一瞬驚いた顔をしたが、黙って受け取る。


 空はまだ薄い灰色だった。麦藁の屋根の向こうから、煙が一筋ずつ立ち上がる。家ごとに朝の煮炊きが始まっている。煙の匂いが、井戸の水の冷たい匂いと混ざっていた。


 そんな中、二人で堅くて酸味のあるパンを食べた。


 しばらくして、教会の鐘が鳴った。村の人間がいったん教会の方へ向かっていく。僕とローザは井戸のそばに残って、筵の角を踏み直し、籠の向きを揃えた。


 人が本当に戻ってくるのは、礼拝の後だ。


 鐘が鳴り終わると、教会の戸口から村人が散り始めた。その中にグリュンの背中もあった。荷車の影で一度だけこちらへ顎を向けたが、そのまま教会裏の木戸へ回り込んでいく。今日は止めに来た様子はなかった。


 最初に来たのは、隣家の婆さんだった。


 卵の入った運び籠を井戸の縁へ、売り物の空籠を筵の端へ、ひとつずつ置いた。卵は四つ。


「ローザの母さんから聞いたよ。ここに置いとけばいいんだろ」


「うん、ここでいい」


 ローザが木簡を引き寄せて、昨日までに婆さんのところへ書いてあった丸四つと、小さな `たまご` の脇へ、炭で短い線を足した。今日はここへ持ってきた、という記号だ。婆さんは木簡を覗き込んで、ふん、と鼻を鳴らした。


「あんたが書いたのかい?」


「少し。品の字だけ」


「わたしゃ読めないけど、記号があれば分かるのはいいね」


 僕は思わず肩に力を入れた。婆さんはその顔を見て、鼻を鳴らした。


 婆さんはそれ以上聞かなかった。井戸の縁に腰を下ろして、誰か来るのを待つ姿勢になった。


 それからぽつぽつと、人が増えた。


 最初は糸を抱えた年かさの女がひとり。「今日はまだ冷えるね」と婆さんに声をかけて、返事を聞く前にもう筵の端に腰を下ろした。遅れて麻束を肩に担いだ男がひとり——担ぎ直しながら小さく咳をして、肩の位置を何度か直した。少しして、麦の余りを布袋に入れた老人が、布袋を井戸の縁に一度下ろしてから、膝の具合を確かめるようにゆっくり腰を下ろした。最後に塩漬けの根菜の桶を抱えた夫婦が来た。見に来ただけの子どもや手ぶらの女たちも、井戸の縁に腰を下ろした。


 十人ほどが井戸のまわりに集まった。


「うちのは今年まだ芽も出ないよ」「そっちは井戸が近いからねえ」——交換の前に、暮らしの雑談が続くばかりで、誰も品物のことを切り出さない。婆さんが空籠の縁を指で一度叩いた。


 最初の一言を口にしたのは、糸を抱えた女だった。婆さんの運び籠をちらりと覗き込んで、自分の糸束を抱え直す。


「ああ……ええと、うちは鶏、いるから」


「卵、いらないってかい」


 婆さんの方が先に被せた。女は少しほっとしたような顔で続けた。


「そう、卵はね。うちは……麦が欲しいんだよ」


 婆さんは少しむっとした顔で鼻を鳴らし、井戸の縁を手のひらでぽんと叩いた。それから麦袋の老人の方にぐいと顎をしゃくる。


「じゃあ、麦と糸で交換すりゃいいだろ。うちの鶏は気まぐれでね、出る日はまとめて出るんだよ。今も三日続けて余ってる。麦も欲しいさ。けど、この運び籠の口もほどけてきてる。麻がなきゃ次は持って歩く前に壊れちまいそうだ。あんた、麦は余ってんだろ?」


 麦袋の老人は、麦袋の口を結び直しながら首を横に振った。結び目をきゅっと引いてから、膝で袋を一度押さえる。


「俺は糸や布はいらん。籠がすっかり壊れててな。籠が欲しい」


「ああ、それは……いや、麻はね」


 麻を抱えた男が、割って入るように言い、自分の麻束を抱え直した。抱え直してから、何か思い出したように小さく首を振る。


「うちはもう麻は十分あるんだ。今年は冬が長かったろ。うちの婆さんが冬中漬けてくれた根菜さえあれば——塩漬けの根菜が欲しいんだよ」


 根菜の家の主が、木桶を覗き込んで、指で桶の縁を一度なぞった。


「うちは糸がいるよ。冬の繕い物がまだ終わってなくて——」


「あんた、今ここで要るのを言いなよ。繕いに要る糸だろ」


 妻の方が、低い声で主の肩先に被せた。主は振り向きかけて、また口を閉じた。妻は自分の手を一度腰にやってから、もう何も言わなかった。主が少し迷ってから、言い直した。


「……まあ、糸がいるのは本当だよ。冬の繕いがまだ残ってる」


 糸の女が、卵の入った運び籠の脇にいる婆さんの方を見た。短くため息をついた。


「だから、卵、いらないって言ったろ」


「あんたねえ……」


 婆さんは言いかけて飲み込み、代わりに糸の女をじっとりと睨んだ。


 僕は、井戸の縁に背を預けて、それを見ていた。


 話にならない。前世の本で読んだ通り、交換相手は途中までは見つかるのに、最後の引き取り手が決まらない。籠を欲しがる家がいて、その家は麦を出せる。麦を欲しがる家は糸を出せる。糸を欲しがる家は根菜を、根菜を欲しがる家は麻を出せる。そこまでは順に相手がいるのに、最後に卵だけ引き取り手がいない。


 ローザが僕の方をちらりと見た。指で木簡の右端に並んだ欲しい物の列を上から下へなぞる。目は僕の顔の方には来ない。


「あんた、ここで口を出す?」


「今日はしないよ」


 ローザは炭の棒を握り直した。


「——なんで、しないの」


「そもそも僕は子どもだし、仕切ってるのは変だよ。僕が取り仕切ってると思われない方がいいんだよ」


 ローザは、ふん、と短く息を吐いた。納得はしていなさそうだった。


 それから、木簡を膝に引き寄せた。婆さんと糸の女と根菜の家の声が重なって、誰の欲しい物をどの欄に書くか、一瞬だけ炭の先が止まりかける。ローザは一度、家ごとの記号が並んだ列を上から下までなぞってから、右端の余白へ欲しい物を足していった。婆さんのところには `むぎ` と、その脇に麻の束の記号。糸の女の下には `むぎ`。麦袋の老人の下には、口の広い四角。麻の男の下には、少し迷ってからぎこちない `こんさい`。根菜の家の下には `いと`。


 五つの「欲しい物」が、木簡の右端に短い字と記号で縦に並んだ。ローザの炭が止まった。


 僕も板の右端を目で追った。籠から麻までは、それぞれ交換相手がいる。けれど、婆さんの卵だけはまだ引き取り手がいない。


「欲しい物は出た。で、この卵どう回すの」


「うーん。卵の行き先がまだ決まってないし、この場で交換が成立するかは分からない」


「卵を誰が受け取れば、この並びで最後まで交換できるのか、今日の顔ぶれだけじゃまだ分からない。バスティアが来たら、その場で交換が成立するかもしれないね」


 ローザは木簡を膝に乗せたまま、炭の先で欲しい物を書いた右端の欄を軽く叩いた。


 婆さんが空の籠を抱え直した。帰る素振りだった。糸の女がため息をついた。


 その時だった。


 広場の入口の方から、荷車の車輪の軋む音が近づいてきた。

うっかり12000文字になっていて分割するのに苦労しました

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