『卵を外す』と商人が言った途端、列が全部動いた
【授命暦842年 11/1 昼】
荷車を広場の端に止めて、革袋を腰に下げた大男と、その後ろを軽い足取りで歩く、痩せた若い男がこちらへ向かって歩いてくる。教会の戸口へ油壺を置いてきた帰りらしかった。
バスティアだった。そして、後ろの若い男は——前にも来ていた、あの男だ。荷台の隣で品物の数を数えていた、目の動きの速い男。広場の端では、礼拝を終えたグリュンが一度こちらへ目をやったが、止めなかった。
「ちゃんとここへ寄せたか、見に来た。村の余りの中に、俺の塩と替えられるまとまりがあるかどうかだ」
バスティアが井戸の縁に手を置いて、ぐるりと一同を見回した。それから、後ろの若い男に顎で示した。
「俺の弟子だ。セイ、と言う」
セイ、と僕は頭の中で復唱した。ようやく名前を知った。
セイは小さく頷いて、井戸の縁に近づいてきた。婆さんの運び籠の中の卵、足元の空籠、女の糸、老人の麦袋、男の麻束、根菜の家の桶。ひとつひとつに目を落とすのが、ずいぶん速かった。婆さんの運び籠の卵を一つだけ親指と人差し指の腹で軽く持ち上げて、すぐ戻した。重さを確かめたらしい。
それから、ローザの膝の木簡に視線が落ちた。右端の、短い字と記号の縦列を、上から下まで一度で読み切った。
その途中で、セイの目が一度だけ、板と、井戸の縁から動かない僕の立ち位置の間を往復した。
「ありゃ、誰が何を欲しがってるかは分かるのに、卵だけ受け取り手がいないな」
セイがそう言った。声が軽い。結論から入ってきて、面白がる響きが半分だけ混ざっている。
「誰が何を欲しがってるかまでは分かるのに、誰から誰へ渡していくか決められないんだよ」
糸の女が、半ば諦めた顔で言った。
「卵いらない、麦欲しい、籠欲しい、根菜欲しい、糸欲しいで、順に交換をつないでいくと、最後に卵だけ受け取る人がいなくなるんだ」
セイは一度、指で板の右端を上から下までなぞって、鼻から短く息を抜いた。
「だったら、卵は今回はいったん脇に置いて、今この場で交換できる品だけ先に渡せばいい」
セイは井戸の縁に腰を下ろさなかった。立ったまま、首だけ傾けて全員の籠と袋を順に見ていく。何と何をどの量で交換できるか、頭の中で計算しているようだった。麦袋の前で一度止まり、親指で袋の腹を軽く押した。押した指をそのままの形で、口の中で何かを呟いた。
「卵四つ。麦は——半斗と少しか」
そのまま麻束の前に移って、束の縛り目を指で一度だけ弾いた。
「ちょっと、整理させてくれ。間違ってたら言ってくれよ」
言いながら、麦袋の老人の前に立った。
セイは老人の目を真っ直ぐに見ていた。
「あんた、籠が欲しい——で合ってる?」
老人は一拍置いてから、麦袋の結び目を親指で確かめて頷いた。
「ああ」
「籠を持ってんのは、そこの婆さんだ」
セイは視線を一瞬だけ婆さんの方に流して、また老人に戻した。
「婆さんが持ってる卵は、そっちの女がいらないって言った。合ってるよな」
「合ってる」
「だが、その女は糸を持ってて——糸が欲しいのは、そこの根菜の家だ。違うか」
糸の女が黙って頷いた。根菜の家の妻もこくりとした。
「根菜の家が持ってんのは塩漬けの根菜で、それを欲しがってんのは麻の兄さん。で、麻は——」
セイが婆さんの方を見た。足元の空籠と、脇の運び籠から覗く卵を順に見て、それから麻の男に視線を戻した。
「麻は婆さんだ。さっき運び籠の口を締め直したいって言ったろ。卵は今日は置いとく。婆さんが売りに出した方の籠だけ動かす」
「量も揃えよう。籠は一つ。麦は半斗まで。糸は半束。根菜は桶の半分——そこの兄さん、入れる袋はあるな。麻は一把。余りは持ち帰れ」
「半斗までかい」
麦袋の老人が眉を寄せた。
「根菜も半分かい」
根菜の家の妻が桶を抱え直した。
「全部交換しようとすると、誰かが『もうちょっと出せ』と言って話が止まる」
セイはふたりを順に見た。
「最初に『ここまでなら出せる』量を決めておけば、途中で『もうちょっと出せ』にならない。半分なら、麦も根菜も家に残る。それで次もまた同じ形で交換を続けられる」
婆さんが目を細めた。老人は麦袋の口を緩めて、どこまで出せるか考えている顔になった。糸の女は抱えた糸束を指先で半分に分けた。根菜の家の妻は木桶の中を見て、小さく頷いた。麻の男は束の端を親指で撫でてから、
「一把なら出せる」
とだけ言った。
「じゃ、それなら決まりだ」
セイは、軽く一回だけ手を叩いた。それから、指で空中に四角い形を描き始めた。誰が誰に何を渡すかを順番に整理していく。
「籠は婆さんから老人へ。麦は老人から女へ。糸は女から根菜の家へ。根菜は根菜の家から麻の兄さんへ。麻は兄さんから婆さんへ。これで一巡する」
間ができた。全員が、セイの言葉を頭でなぞって黙り込んだ。
「待ってくれ。籠を動かすのはいいけど、婆さんの卵はどうなるんだい」
糸の女が言った。
「卵は——婆さんの手元に置いとけばいい」
セイはあっさりとそう言った。
「卵を欲しがるやつが今日はいないんだ。今日いらない卵まで一緒に交換しようとするから話が止まる。交換できる分だけ先にやる。交換できないやつは、無理に混ぜない。それだけのことだよ。親方もいつもそう言う」
「卵は……」
婆さんが自分の運び籠の中の卵を見た。それから、ぱっと顔を上げた。
「いいよ。卵は持って帰る。今日は籠の方を先に渡す。麻が来るなら、それでいい」
「俺は籠が来るならいい」
麦袋の老人がそう言って、空の方の籠を婆さんから受け取った。婆さんは次に何を受け取るか分からず、手が宙で止まった——のを、セイが指で順番を示した。
「さっき決めた順番だ。麦、糸、根菜、麻——この順で渡せばいい」
さっき決めた順に、実際の受け渡しが始まった。
手と手の間で、麦の粒がほんの少しこぼれた。糸の女が慌てて広げた粗い布袋の中に、老人の麦がざあっと移される。空籠の縁が掠めた音がした。糸が女の手から根菜の家の妻の手に渡って、妻が「冬の繕いに足りる」と小さく言った。麻の男が腰から下げていた空の小袋に、塩漬けの根菜が半分だけ移された。麻の束が婆さんの膝の上に落ちて、婆さんが両手でゆっくり撫でた。けれど、運び籠の底の卵四つは、婆さんの膝の脇に残ったままだった。僕は井戸の縁にもたれたまま、それを見ていた。
——動いた。
心臓のあたりが、ぐっと熱くなった。今日の僕の目標は、十数人の中の何かを一回でも動かすことだった。一回どころじゃなかった。卵だけ交換に入れずに、五つの品が人から人へ渡っていった。何があれば交換できて、何が足りないと止まるのかが、目の前ではっきりした。
「悪くない。悪くないぞ、これ」
セイが、最後にそう言った。誰に言ったわけでもないようで、最後の「これ」だけは、少し僕に向けた言葉のようだった。
「こういうふうに品を集めるの、面白いな。次もこの日に寄るんだろ。なら、また寄る」
婆さんが、麻の束を抱えたまま頷いた。糸の女が頷いた。麦袋の老人が頷いた。根菜の家の妻が、桶の縁を押さえ直して頷いた。
バスティアは井戸の縁にずっと腕を組んで立っていた。舌打ちまではいかないが、少しだけ鼻を鳴らした。
「俺の塩と替える前に、村の中だけで品が動いて終わっちまったな」
最後にぼそりと言った。
「……だが初回はこれでいい。今日は、ここで実際に取引が回るか見た。こういうやり方で村の持ち寄り品が取引になるなら、来月もこの日に来る。次は俺の分も残しとけ」
その時、広場の入口の方から、また別の足音が近づいてきた。重い足音だった。
顔を上げると、ヴィルヘルムだった。
整地の合間にハインリヒが名を出した、三つ隣の村の鍛冶屋だった。革の前掛けに焦げた跡がいくつもある。
肩から布袋を下ろして、鍬の刃が三本と、小ぶりの鎌が二本、井戸の縁に並べた。鈍い灰色だった。
「昨日、村の連中が鍬を直しに来た時に、今日どこかに物が寄ると聞いた。物が動く日なら、来る」
麻の男の目が、鎌の刃で止まった。麦袋の老人も、鍬の刃の欠けを思い出したような顔で一度だけ喉を鳴らした。けれど、さっきまで出していた麦も根菜も、もう半分は手を離れている。今日この場の誰も、鉄と釣り合うだけの品を持っていない。ローザが、膝の木簡にすっと視線を落とした。
「鉄かね……」
麦袋の老人がぼそりと呟いた。呟いただけで、それ以上は続けなかった。
「今日は持って帰る。次の月、ここに何が持ち寄られるか見てから、また来る」
布袋に鉄を戻して、来た方向にゆっくり歩き去った。
——鉄を持ち込めるやつが、村の外にはいる。しかも来月もまた来ると言った。
婆さんの売りに出した籠は、ちゃんと老人の手に渡った。けれど、運び籠の底の卵は、四つとも婆さんの脇に残ったままだ。そして、もう一つ。村の外から来たヴィルヘルムの鉄も、誰の手にも渡らずに持ち帰られた。
村の中で余った卵も、外から来た鉄も、この場では引き取り手がいなかった。
——これ、毎月やるのか。
うんざりした気分が、腹の底に残った。
ローザが、木簡の下の余白に、棒で「鍛冶」と書こうとして、字を一度迷ってから「かじ 月一」とだけ書いた。
婆さんが帰り、糸の女が帰り、根菜の夫婦が帰り、麻の男が帰り、麦袋の老人が帰った。
バスティアとセイが、最後に残った。
「来月も、この日でな」
バスティアが僕の肩を一度叩いて、井戸の縁から離れた。セイは離れる前に、もう一度僕の方を見た。目が、品物を見ていた時と同じ動きをしていた。
「あんた、こういうふうに交換の順番を組むやり方を、誰に教わった」
セイが言った。
「誰にも教わってない。今日のは、あんたが勝手にやったことだよ。僕がしたのは——座る場所を決めたところまでだ。あとは座ってただけ」
「ただ場所を決めただけのやつが、何が交換されて何が残るかが、ここまではっきり分かる場を作るかね」
セイは少しだけ笑った。歯を見せない、口の端だけの笑い方だった。
「ま、いいや。聞かないでおく。聞かない方が、たぶん俺も得だ」
バスティアの後ろについて、広場の入口の方に歩いていった。
僕とローザだけが残った。
日が高くなっていた。井戸の縁の石が、朝より少しだけ温まっている。手のひらを置くと、冷たさの中に薄い熱があった。
「動いたね。卵は残ったけど」
ローザが言った。
「動いた。……でも、僕らだけで交換を成立させたわけじゃない。セイが順番を整理したからだ。僕らは、どこで止まるかを見ただけ」
「あんた、なんもしなかったね」
「したよ」
ローザは、ふっ、と鼻先で短く笑った。木簡を膝の上に置いて、「動」という字を書こうとして、形を思い出せなくて、代わりに「うごく」と書いた。書いた字を、しばらく指でなぞった。
「あの男、どうしてあんなにすぐ誰から誰へ渡せばいいか分かるの」
「セイ?」
「セイ。あれ、頭の中で、誰が何を持っていて何を欲しがってるか整理してたよね」
「整理してた。——いや、『整理』でも少し違うな。品を見た瞬間に、誰から誰へ渡せばいいか全部見えてる。あれは後から覚えたんじゃなくて、最初からできるんだ」
「見たものを順に整理するところ、わたしと少し似てる」
ローザは木簡の縁を一度押さえた。押さえた手がそこで止まる。それから、ゆっくりと首を振った。
「いや、わたしは知ってるものを順に整理してるだけ」
僕は何も言わなかった。
頭の中では、別のことが転がっていた。あいつは、見た瞬間に、品と人をどうつなげればいいか掴んだ。誰にも教わらずに、それをやる人間がいる。こういう人間を、これから僕は頼ることになる。胃のあたりが少しだけ重たくなった。
胸の底から、別の熱が喉まで上がってきた。
「……ローザ」
「なに」
「こんなの、毎月続けるのか」
「何の話」
「この井戸端の日。毎回セイを呼んで、誰から誰へ渡すか全部手で組んで、それでも卵と鉄は残る。噛み合わない品が一個でも混じったら、そいつだけ置いていかれる。こんなの、どう考えても回るわけがない」
「で、どうすんの」
「誰でも受け取るものが要る。銀貨でもいい、固めた塩でもいい。一回誰かが受け取って、そのまま次に渡せるもの。それがないと、卵しか持ってないやつは、欲しい麦と替えられない」
「銀貨なんて、村にないじゃん」
「——そうなんだよ」
口に出したら、逆に熱が引かずに残った。井戸の縁の石を指先で一度押した。
——銀貨でも塩でもいい、とにかく受け取って次に渡せるもの。それが回り始めたら、品を「動く/動かない」で見るようになる。いずれ人も、同じように値踏みされる。
——あれ、僕、人を道具みたいに扱わないために革命やるんじゃなかったっけ。
井戸の水の冷たい匂いを思いきり吸い込んで、息を長く吐いた。
ローザが僕の方を見ていた。
「また熱が出そうな顔してる」
「出てない」
「嘘。あんた、人を道具みたいに見るのが嫌なんでしょ」
一拍、言葉が出なかった。
「……なんで分かるの」
「見れば分かる。セイが帰ったあと、ずっとそれ」
ローザは炭の棒を木簡の縁で一度叩いて、僕の目の下を見た。
「で、なんで嫌なの」
聞かれてしまった。
「人を『役に立つか立たないか』で値踏みする見方が広がる。年寄りも、病気の人も、『役に立たない人間』として扱われるようになる。——僕は、そういう見方を広げたいわけじゃない」
ローザは、ふん、と鼻から息を抜いた。
「じゃあ、やらなきゃいいじゃん」
「やらないと、みんな今のまま貧乏なんだよ」
「そう。で、今日は?」
「……そう、なんだよ。交換の仕組みは前に進んでる。でも、その進め方は、僕が望んでいるやり方とは違う」
「望んでる方向って?」
「誰も、他人を『役に立つ/立たない』で値踏みしないあり方」
ローザは、ふっ、と短く息を吐いて、木簡の縁で僕の肩を軽く一度叩いた。痛くはない、ただの合図の叩き方だった。
「……それ、今日の話じゃないでしょ」
「……うん、たぶん」
「じゃあ黙って、今日の分やれ。明日もあるから」
「——分かった」
「分かってないから言ってる。——馬鹿」
「……ごめん」
「謝んな。やることやってから嫌がれ。やる前に嫌がるのが、一番みっともない」
ローザは木簡の縁をもう一度叩いてから、僕の目の下のあたりを見た。
「で、今日は熱、出そう?」
「……まあ、出るかもしれない。でも今日はまだだ」
「お母さんに言われたんでしょ。顔色見たら寝かせろって」
「言われた。母さんはあの話になると、ほぼ予言者だからな」
そのあと、僕とローザは板を抱えて、広場の端のグリュンのところへ行った。朝のうちに小屋の陰へ寄せておいた酒壺と布包みも、一緒に持っていく。
グリュンはまず布包みを受け取った。重さを手のひらで一度測ってから、鼻を鳴らす。
「で、何が動いて、何が残った」
ローザが木簡を開いた。左側の家の記号を指で上から順に押さえていく。僕が声に出した。
「籠、麦、糸、根菜、麻は交換できました。卵四つとヴィルヘルムの鉄は残りました」
グリュンの視線が、板の右端の欲しい物の欄へ落ちた。炭の記号と短い字を見比べてから、一つずつ数を追う。
「……今月分はこれで締めか」
「はい。全部は交換できませんでした。でも、何が足りなくて止まるかは分かりました」
グリュンは僕をじろりと見た。
「次は、人を集めて揉め事を起こすな。それだけだ」
「分かってます」
ローザが板に視線を落としたまま、僕の脇で短く頷いた。グリュンはローザを一度見て、それからまた板を見た。最後に板から目を離した。
「今月はこれでいい。次も板を持ってこい。ごまかしたら止める」
「ごまかしません」
それでようやく、肩の力が少し抜けた。これで、来月もこの場を開けることになった。次の月も、同じ日に同じ場所で、同じ顔ぶれが集まれる。
ローザは木簡を裏返して、空白の面の方に「次 月の 初め 三日」と書いた。文字は、朝より少しだけまっすぐになっていた。
「卵、要らないって言われた婆さんは、次は卵じゃなくて別のもの持ってくるかも」
「麻か、籠そのものかもね」
ローザの「かも」は、いつもと違って語尾が落ちなかった。迷って言ったんじゃなく、もう来月の話に頭が向いている声だった。
持ち寄る物を変えられる家は、それでいい。けれど、卵みたいに今あるものをそのまま手放したい家は、また残るかもしれない。
——次の月、ヴィルヘルムは戻ってくる。間に入るものが村にないうちは、その鉄も、婆さんの卵も、引き取り手を見つけられない。
僕は井戸の縁から立ち上がった。膝の裏が、長く座っていたせいで少し固くなっていた。背を伸ばすと、首筋に遅れて固さが走った。
ローザが木簡を抱えて立っていた。左には家ごとの記号と持ち寄られた数、右端には欲しい物、下の余白には「かじ 月一」が残っている。今日交換できた品、残った品、来月に回す分が、一枚の木簡にはっきり書き分けられていた。




