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14/19

糸を銅貨に替えたら、針を買っても一枚残った

【授命暦842年 12/3 朝】


 朝になっても、先月の井戸端の日の気疲れがまだ残っていた。


 毎月やるのか、と自分で口にしたときの気の重さが、まだ消えていない。布団を出るとき、指先が少し冷たかった。


 次の月の初めの三日。


 井戸の脇の筵には、前の月より早く品物が並んだ。


 夜明け前のうちに、婆さんが卵の入った運び籠と、売り物にする空籠を持って来た。糸の女も糸束を持って来た。麻の男も麻束を持って来た。ローザも自分の家の糸束を三つ、板の横へ置いた。


 前の月は、卵まで一緒に替えようとして一度話が詰まり、セイの仲介でようやく五品が回った。ヴィルヘルムの鉄は、最後まで買う者がいなくて持ち帰りになった。だから今月は、村の中で品物どうしを替える分と、今日は替えずに残す分を、来る前から決めてきた家が多かった。


 先月までローザは、品名の見本だけを書いた板とは別の一枚に、家ごとの品、欲しい物、来月へ回す品を全部書いていた。今朝はその板が足りなくなったので、もう一枚削ってきた。一枚目には家ごとの品と数を書く。二枚目には、誰が何を欲しがっているかだけを書く。


 井戸のそばには、水の匂いの混じった冷たい空気が漂っていた。整地した土は先月より踏み固められていて、歩くたびに固い音がした。


「今日は卵で止めない」


 ローザが板を膝に置いたまま言った。


「今日は、卵を最初から外して考えるんだね」

「そう。卵まで一緒に替えようとすると、また止まる」


 前の月にセイがやったように、ローザは交換に回す品と後に回す品を、自分で分けて考えていた。


 しばらくして、教会の鐘が鳴った。井戸のそばへ先に物を置いていた連中も、いったんそちらへ流れる。今月も、司祭への油とグリュンへの届け物は、先に済ませてあった。教会の戸口の脇には小さな油壺がひとつ置かれ、広場の端の小屋の陰には酒壺と薄い布包みが寄せてあった。グリュンは届け物が済んでいるのを確かめて、井戸端の日を止めなかった。



 礼拝が終わって日が少し上がった頃、バスティアの荷車が来た。


 幌の擦れる音がして、車輪が固い土の上で短く鳴った。御者台のバスティアが手綱を引き、後ろからセイが飛び降りる。セイは井戸の縁ではなく、最初から品物の並びを見ていた。


「今日は揃ってるな」


 セイが言った。


「止まるもの、先に外したから」


 ローザが先に返した。セイはローザの膝の板を見て、口の端だけ少し上げた。


「いいね。板まである」


「板はある。足りるかは知らない」


 そのあいだに、バスティアが荷台の幌を上げた。塩の革袋。雑穀の小袋が二つ——麦より色の淡い、粒の細かい方と、黒っぽくて荒い方。そして塩漬け魚の小壺がひとつ。


 同じ頃、広場の端から、三つ隣の村のヴィルヘルムも歩いてきた。今月は鍬の刃はなく、細い針束と、鎌ひとつと、戸の留め金らしい小さな鉄具がいくつかある。


 最初の交換は、前の月よりもすぐに順番が決まった。婆さんは卵の運び籠を膝の下に残し、売り物の空籠だけを前に出した。麦袋の老人はその籠が欲しいと言った。糸の女は麦が欲しいと言った。塩漬けの根菜を持ってきた家は糸が欲しいと言った。麻の男は根菜が欲しいと言った。だから、籠は老人へ、麦は糸の女へ、糸は根菜の家へ、根菜は麻の男へ渡った。最後に麻が婆さんへ渡った。卵は最初から交換に入れなかった。


 セイが口を出さなくても、村人のほうから「次は誰に渡す」が言えるところまでは来ていた。


 だが、ヴィルヘルムが針束と鉄具を出すと、そこで話が止まった。村の中では品物どうしの交換はできても、ヴィルヘルムが受け取れる物を出せる家はまだなかった。


「針、欲しいねえ」


 婆さんがヴィルヘルムの布包みを覗き込んで言った。


「欲しいよ」


 糸の女も言った。


「けど、卵じゃ買えないだろ」


 ヴィルヘルムは黙って、糸束の方を見て、それから婆さんの卵の方を見て、また針束に目を戻した。


「糸なら、うちにある」


 ローザが言った。膝の横の、自分の家から持ってきた糸束を、自分の方へ少し引いた。


「糸三束で、何をくれる」


 ローザが続けた。


「細いが、これなら町で売れる。先月、糸と籠は街で捌けると見た」


 答えたのはヴィルヘルムではなく、バスティアだった。


 井戸の縁にもたれていた腕をほどいて、ローザの糸束の前にしゃがむ。指先で束の端を撫で、撚りを確かめる。


「糸三束で、銅貨二枚出す」


 バスティアは腰の革袋から、赤茶けた金属を二枚出した。親指の腹ほどの大きさで、指の上で当てると硬い音がした。


「銅貨だ」


 誰も返事をしなかった。ローザだけが、その二枚を見続けた。


 ——銀貨じゃない。銅貨でも少額は動く、と頭では知っていた。その取引が、いま、ローザの前で実物になっている。


 先月、井戸の縁で自分が口にした「受け取って次に渡せるもの」が、赤茶けた二枚の金属として置かれている。それ自体は塩でも針でもない、何でもない金属だ。朝からあった気の重さは、その銅貨を見たとたん、目の前の現実として迫ってきた。


「塩でも、針でもないのに?」


 婆さんが言った。


「今それ自体が塩や針なわけじゃない。でも、その二枚を持っていれば、次に来た時に塩か針が買える」


 バスティアが言った。隣でセイが塩の革袋の口を開き、婆さんの方へ顔を向ける。


「二枚、来月まで持ってりゃいい。来月また親方が来た時、その二枚で塩か雑穀が取れる。腐らない。親方もヴィルヘルムも受け取る。そうだろ」


 セイが、村人に向けて噛み砕いた。


 最後の一言を向けられて、ヴィルヘルムが短く頷いた。


「一枚二枚なら、数えて払えるからな」


 ヴィルヘルムは針束の縁を指で整えた。鎌と留め金は布包みの奥へ戻した。


 ローザが、まだ糸束に触れたまま、言った。


「今、その二枚で針が買える?」


「買えるよ」


 セイが答えた。


「糸三束を親方に渡して、銅貨二枚受け取る。そのうち一枚をヴィルヘルムに渡せば、細針三本になる。もう一枚は、来月まで残せる」


 婆さんは、銅貨と針束を見比べた。



 最初に糸を出したのは、ローザだった。


 自分の家から持ってきた糸束を三つ、バスティアの前に置く。バスティアが銅貨を二枚、ローザの手の平に置いた時、ローザの指が一度止まった。


「冷たい。塩と違う」


「塩より硬いからな」


 セイが言った。


 ローザは返事をしなかった。手の平の上の二枚を見て、それから片方だけをヴィルヘルムの方へ差し出した。


「針。細いの」


 ヴィルヘルムは銅貨を受け取って、布包みから細針を三本出した。それから少し太いのを一本、脇へ転がして見せた。ローザは太い方を見て、首を振った。


「そっちはいらない」


「じゃあ三本だ」


 ローザは銅貨一枚を出し、細針三本を受け取った。


 残りの一枚は、ローザの掌に残ったままだった。ローザは家の記号の横に丸を二つ書き、そのうち一つに傷をつけた。使った一枚と、残した一枚を分けて書くためだった。


 その場にいた全員が、針を買ってもなお手元に残った一枚を見ていた。


「……同じ糸なら、わたしのでも一枚になるかい」


 糸の女が言った。自分の糸が銅貨に替わることを、まだ信じきれていない顔だった。


 バスティアは女の束を持ち上げて、撚りを見た。ローザの糸ほどは揃っていない。だが、指先で何度か弾いてから頷いた。


「二束で一枚だ」


 糸の女は少し迷ってから、二束を出した。受け取った一枚は塩にも針にも替えず、布の端で包んで膝の横へ置いた。ローザはそれを見て、糸の女の家の記号の横に小さな丸をひとつ足した。今度は傷を付けない。


「わたしの籠も、それでいいのかい」


 婆さんが言った。


「籠は町で売れる。出来のいいやつならな」


 バスティアが答えた。


「いいの作ってきたよ」


 婆さんはそう言って、卵の入った運び籠は膝の下に残したまま、商品にする空籠を二つ、前に出した。バスティアは籠をひっくり返し、底を親指で押した。


「一つで一枚だ」


「二つ出す」


「じゃあ二枚だ」


 婆さんは鼻を鳴らして頷いた。


「今日は塩を取る。針は次でいい」


 婆さんは、二枚のうち一枚で塩を買った。もう一枚は腰の布の角に結び込んだ。来月まで残すつもりだった。解けないように、布の角を二度きつく結んだ。ローザは、婆さんの家の記号の横にも丸を書き足した。


 その様子を見ていた麻の男が、麻束を抱え直した。


「……俺の麻なら、何枚だ」


 バスティアが束の端を持ち上げる。親指で乾き具合を確かめ、重さを手の中で測った。


「二把で二枚だ」


 麻の男の目が、バスティアの指の上の二枚と、自分の腰のあたりを二度往復した。


「……二枚とも、来月まで残るんだろうな」


「残る。来月は一枚で塩、一枚で針が買える」


 セイが言った。


 麻の男は舌打ちしかけてやめた。二把を荷台の脇に置いて、渡された二枚を見て、それからどちらも使わず、腰の布袋へ滑り込ませた。ローザも麻の男の家の記号の横に炭を走らせた。



 グリュンが来たのは、そのあとだった。


 広場の端からまっすぐ歩いてくる。靴の裏が固い土を踏む音で、村人の手が一瞬だけ止まった。


「それをどう数える」


 グリュンの視線は、品物ではなく、ローザの手の中の銅貨に落ちた。


 答えたのはバスティアだった。


「糸と籠と麻を、銅貨で買った。村の中で替えられない分を、俺が引き取った」


「そんなものを村に残して、どう使うつもりだ」


「ローザの家は糸三束の代わりに二枚持つ。婆さんは籠二つの代わりに二枚持つ。その二枚があれば、次の井戸端の日には最初から塩か雑穀を買える。板に銅貨の枚数を書けば、お前の取り分もすぐ計算できる」


 グリュンの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「取り分はどう勘定する」


「板に書いた銅貨の枚数で、取り分を差し引け。糸何束と籠何個で揉めるより早い」


「村に残した分は、来月までどこに置く」


「家に置く。置いた家は後で見せる」


 グリュンは鼻から短く息を吐いた。


「……なら、後で見せろ」


 そう言って、僕の方を見た。


「ムーア。何が銅で動いたか、後で見せろ。ごまかすなよ」


「はい。ごまかしません」


 僕が答えると、グリュンはそれだけ言って、広場の端へ戻った。



 人が引き始めた頃、僕とローザは板を抱えて、広場の端のグリュンのところへ行った。


 ローザが丸を指し、僕が順に読んだ。


「ローザの糸三束で二枚。そのうち一枚で針三本、一枚残り」

「糸の女は糸二束で一枚残り」

「婆さんは籠二つで二枚。そのうち一枚で塩、一枚残り」

「麻の男は麻二把で二枚残り」


 グリュンは一つずつ板の数を確かめて、最後に鼻で息を吐いた。


「今月はそれでいい」


「分かってます」


 それでようやく、その日の勘定の確認が終わった。


 井戸端の日が終わる頃、村に残った銅貨は五枚だった。ローザが一枚、糸の女が一枚、婆さんが一枚、麻の男が二枚だ。


 帰り際、セイが井戸の縁で言った。


「次は最初から決めろ。村の中で品物どうしを替える分と、親方が銅貨で買う分を、別にして持ってこい」


「全部を同じ板に書くと、また見落とす。銅貨で動いた分は、枚数で分けて書け」


 ローザは返事をしなかった。木簡の余白に丸をひとつ書いた。次の井戸端の日には、銅貨の枚数だけを別に書き留める板が要るのだと、僕は理解した。


 夜、板を抱えたままローザはうちの小屋まで来た。残った一枚を土間に置き、転がらないように指で押さえて、それから離す。銅貨は少しだけ揺れて、止まった。ローザは細針を布の端に包んで、自分の腕の中へ先にしまった。


「針は持って帰る。こっちは残す」


「残すって、どこに」


「なくすと面倒だから、あんたが預かっといて。次の井戸端の日まで残す分」


 イェニーが黙って布袋の口を開くと、ローザは少し迷ってから、その一枚をそこへ滑り込ませた。


「塩じゃない」


 ローザが言った。


「でも、塩になる」


 イェニーが布袋の口を結んだ。その一枚は、次の井戸端の日まで残された。


 その日、村には銅貨が五枚残った。そのうちの一枚は、僕の手にある。

 これから徐々に貨幣による取引が加速して、流通も加速していく。稼ぐ方法も考えないといけない。


 全力で資本主義を進めている。皆は豊かになるが、牧歌的な村でも良いんじゃないだろうか。

 どうしてこんなことに。

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