表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

15/18

銅貨は入ってくるのに、粥は二杯にならない

【授命暦842年 12/18 夕方】


 銅貨が村に入ってから、半月が過ぎた。


 半月前に感じた戸惑いは、いまは別の形をしていた。


 広場では、物々交換と銅貨払いが混ざって動くようになっていた。銅貨なら話が早いと、売るための細籠を編む婆さんもいる。麦で受け取るか、銅貨で受け取るかを、その場で決める人もいた。


「お金って、凄いねえ」


 夕方、壁際でイェニーが糸を撚りながら、独り言のように言った。


 ——便利にはなったな。


 それでも、うちの夕食は、さほど変わらなかった。


---


 僕は土間で、粥の椀を前にしていた。


 腹一杯食べられるほどはない。何も変わっていない。


 布袋の中には銅貨が一枚、入っている。ローザの一枚だ。それは今も、布袋の底で動かずにいた。


---


 戸の外で、乾いた足音がした。


「入るぞ」


 ハインリヒの声だった。荷運びの帰りだ。最近、ハインリヒは井戸端の日の前日と翌日に、トリーア村と三つ隣のギーセン村を結ぶ道を往復している。バスティアの荷車の後ろを歩いて、戻りの荷を一緒に担ぐ役だ。


 戸を押して入ってきたハインリヒは、肩に布包みを担いでいた。


「いやー、干し魚。運ぶの手伝った礼にって、三匹もらってさ。そんなに担いだつもりもねえんだけどな」


 布包みから、指二本分くらいの乾いた魚出して、イェニーの前に並べた。イェニーは糸撚りの手を止め、「悪いねえ、ハインリヒ」とだけ言って、また作業に戻った。


 ハインリヒは土間の端に腰を下ろして、鼻から短く息を抜いた。


「ムーアさん、ローザはまだか」


「そろそろ来ると思う」


 僕が答えると、ちょうど戸の向こうで、木簡の角が戸を叩く音がした。


 ローザだった。木簡を二枚、胸に抱えている。


「入るよ」


 ローザは土間に上がり込んで、板を二枚、床に並べた。並べてから、ハインリヒが置いた干し魚を見て、一度だけ眉を上げた。


「ハインリヒ、今日もギーセン村でしょ」


「そうだな。バスティアの荷車の後ろで、戻りの荷を担いでるだけなんだけどさ」


「……最近、そっちばっかりだけど」


「まあな」


「畑、母さん一人でやらせてるわけ」


「……冬のあいだは、畑はそれほどやることもないからな」


「春が来たら、どうするのよ」


「春のことは、春に考えるよ」


「バスティアに便利に使われてるだけ、なんてことはないでしょうね」


 ハインリヒは、膝の上で手を一度握り直してから、


「いやー、ただの手伝いで、使われてるってほどかって言われると……どうなんだろうな」


 ローザはそれ以上は聞かなかった。


---


 イェニーが、鍋の縁で木杓を一度鳴らしてから、全員に椀を差し出した。


「冷えたでしょ。食べていきなさい」


 ハインリヒは一度首を振りかけたが、やめて椀を受け取った。


「いただきます」


 ローザは軽く頷いて受け取った。イェニーはまた糸の方に戻っていった。


---


 椀をすすりながら、ハインリヒが言った。


「最近さ、井戸端、話がまとまるの早くなったよなあ。なんか、こう、もたもたしなくなったっていうか」


「うん。銅貨なら早いでしょ。交換相手を探さなくていいだけ」


 ローザが板から顔を上げずに答えた。


「で、お前、それ書いてんのか」


 ハインリヒは板のほうを顎で指した。


「書いてる。前の井戸端の日の分だけで、もう一枚埋まったよ」


「ぬあ、そんなに増えたのか」


「そう。取り引きの数はかなり増えた」


 ローザは短く言って、炭の棒を板に置いた。


---


 僕は椀を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。


 先に口を開いたのは、ローザだった。


「売り物、増やさないといけないでしょ」


「……うん、そうなるね」


 僕は頷いた。ローザは炭の棒の先で、板の一枚を軽く叩いた。


「糸と布、籠と麻、それに卵くらい。いま、村から出てくる売り物は、それだけ。入ってくる通貨は、たかが知れてる」


「そうだね」


 椀の底に木匙をこすりつけていたハインリヒが、顔を上げた。


「あー、じゃあさ、籠をもっと増やせりゃ早いんじゃねえの」


「婆さんの手は一つしかないよ」


 ローザが短く返した。


「糸も麻も。全部、合間でやってる分だけだから、増やせない」


「あー、そっか。畑があるもんな。毎日、籠だの糸だの作るわけにはいかねえか」


「自分が農民ってこと、思い出してくれてよかった」


 ローザが板から顔を上げずに言った。ハインリヒは苦笑して、鼻から息を抜いてから、椀を床に置いた。


「じゃあ、どうすんだよ、これ」


 三人とも、しばらく、答えなかった。


 鍋の前で糸を片付けていたイェニーが、背中を向けたまま、ぽつんと言った。


「その辺の石ころでも売れれば良いのにねえ」


 皆が少し笑った。


「……考え方としては、合ってると思う」


 僕は椀を両手で持ったまま言った。


「いま村で価値がないもの。それを売り物にできれば、良いわけだからね」


「でもさ」


 ハインリヒが木匙で椀の縁を小突いた。


「要らねえもんは売れねえだろ、普通に」


 その通りだった。この村には余裕がない。野草や木の実の類いも貴重な食料だ。山を探せば鉄鉱石くらいあるかもしれないが、加工する手立ては、まだ村にはない。


「食えるもんは、みんなもう食ってるもんなあ」


 ハインリヒが天井の梁を見上げた。


「肉だって、売るほどは取れねえし」


 皆が考えながら、押し黙った。


 僕は、椀を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。


 ——増やす。そこまでは、正しい。


 けれど、その先に見えてしまう景色を、口に出していいかどうかで、喉が止まっていた。


「……増やせば、袋の底は、少し重くなる」


 僕は、ようやく言った。


「うん」


 ローザが、炭の棒を指で回した。


「でも」


 僕は続けた。


「売り物が増えれば、その分、運ぶ側の取り分が、先に太る」


「運ぶ側、ってバスティアか」


「バスティアと、セイだ。いまは二人しかいないから、村の物を街まで運べる人間は、二人が握ってる。村が売り物を増やしても、その分だけ、運ぶ側の取り分が、先に増える」


「……ん、んー」


「取るのは、いい」


 僕は続けた。


「問題は、次だ」


「次、ってのは」


「売り物を増やすには、作る側にも、人手が要るようになる。畑の合間じゃ足りなくなって、畑を持たずに、作る方だけで食う連中が、村の外側に、出てくる」


「あー、それも、俺たちがやるんだろ、どうせ」


「最初は、それでいい。けど、量がもっと増えれば——」


「増えれば?」


「その次に、まとめる奴が、出てくる」


「……まとめる?」


 と、ハインリヒが怪訝そうに眉を寄せた。


「村じゅうの売り物を安く集めて、他人に作らせて、できた物を自分の名で街へ売る奴だ。そいつは、手を動かさずに、差額を取る」


「……ん」


「さらに、その差額で、人を使うようになる。畑を持たない連中に銭を渡して、作らせる輪を広げていく。働かせた分の一部だけ渡して、残りは、自分の取り分にする」


「いまもそれ、バスティアがやってんじゃん」


 ハインリヒは、膝の上で手を一度握り直した。


「いまは、まだ、規模が小さい。けど、売り物が増えれば、畑を持たずにそれだけで食える奴が、村の外側に、育ってくる」


「……それってさ、グリュンみたいなもんか?」


「似てるけど、違う。グリュンは伯さまの代わりに取り立ててる。だから、伯さまが死んだり、政権が変わったりすれば、変わる。でも、そいつらは、誰かの代わりじゃない。自分のために取る。しかも、取った差額で、また人を使う。使った分で、また物を作らせる。そうやって、自分の取り分を、太らせ続ける」


「……なんでだよ。なんでそんなのになるんだよ」


「なる。銅貨が銅貨を呼ぶようになると、そうなる」


 僕は言い切った。


---


 ハインリヒが首を傾げて、床の椀をのぞきこんだ。ローザは炭の棒を指で弾いて、僕の顔を一度見た。


「あんた、また、三段飛ばしで話してる」


「ごめん」


「一段ずつ、降りてきて。で、結局、何の話」


「物を動かすだけで取る連中が、育っていく話」


「そこまでは分かった。続けて」


 ローザは板の上で、炭の棒を横に倒した。聞く姿勢だった。


「そいつらは、要するに、金持ちだ」


 僕は言い直した。「ぶるじょあ」と、口の中でだけ、転がした。この名前を出しても通じないのは、目に見えている。飲み込んだ。


「要するに、金のある側が、人を雇って取り分を増やす形になる」


「……いや、それ、いまもバスティアがそうじゃん。俺もその手伝いしてるし」


「いる。けど、その数が、増える。村の中にも、入ってくる」


「入ってくる、って」


「村のかなりの人数が、金持ちに雇われて、拾う側に回る。そういう日が、来るかもしれない」


「かなり、ってどのくらいだよ」


「半分とまでは言わなくても、そういう形で食う人間は、増えていく」


 ハインリヒは腕を組んだ。組んでから、しばらく黙った。視線は、自分の膝頭に落ちていた。


「……さっきの話か。グリュンとは、違う、ってやつ」


「そう」


「……いや、ちょっと待て。つまり、何だって?」


---


 僕は一度、息を吐いた。


 『金持ち』『半分』『雇う』——どれも、知っている言葉ではあるのに、並べ方がつながらいのは普通だ。


 僕は、話を短くすることにした。


「つまり、売り物を増やすこと、そのものが、嫌なんじゃない。村を食わせるためには、必要だと思う。だけど、その必要さが、そのまま、『間で取る奴』を育てる形になる。豊かになろうとするほど、そういう連中を、自分で呼び込むことになる。僕が目指してる場所から、村が、遠く離れていく」


「……なあ、目指してるって、何を目指してんだ、お前は」


 ハインリヒが聞いた。


 僕は、一度、ローザの顔を見た。ローザは板から炭の棒を取って、新しい行に炭の先を当てたが、書いてはいなかった。聞いている顔だった。


「誰も、人を雇って儲けたりしない仕組みだ。畑も、道具も、村のみんなで持つ。働ける者は働く。要る者は、要るだけ取る。間で取る連中がいない」


「……それ、いまの村と、何が違うんだよ」


 ハインリヒは真面目に聞いていた。


「いまの村は、伯さまとグリュンが、働いた分の一部を取る」


「じゃあさ、伯さまとグリュンが、いなきゃいいってことかよ」


「それも違う。グリュンがいなくなっても、今度はバスティアみたいな連中が、その役になる。だから、グリュンを外すだけじゃ、足りない」


「……いやいや、伯さまもグリュンもバスティアもいない村、って、それ、村なのかよ」


「村だ。村のままで、その仕組みだけを入れ替える」


 ハインリヒは、口をへの字にした。


「お前さ、先のこと、決まってるみたいに言うよな」


「決まってる、とは言ってない」


「同じだよ。そうなる、って顔で喋ってる」


「そうなりやすい、って言ってる」


「『やすい』も『なる』も、俺にはあんまり違わねえんだけど」


 ハインリヒは、椀を床に置き直した。


「誰も取らない仕組み、ってのもさあ。そんなの、来るかよ。本当に」


「来させるんだ」


「……いやー、それ、来ないものを来させる、って言ってるように聞こえるんだけど」


 ハインリヒは、腕を組んだまま、しばらく天井を見ていた。


 それから、僕の顔に視線を戻した。


「……悪い、ムーアさん。全然、分かんねえわ」


---


 ローザが、板の上で炭の棒を、ことん、と置いた。


「わたしは、半分は分かるよ」


 ローザが言った。


「半分、って」


「物を動かすだけで太る人が出てくる、ってところ。それは、たぶん、そうなるでしょ。バスティアもセイも」


「そうかな?」


「セイは、もう、バスティアの手下って顔じゃないよ」


 僕も、同じことを、数日前から感じていた。


「で、あんたの言ってる『そうならない仕組み』ってのも、分からなくはない。畑を村のみんなで持つ、ってところまでは、分かるよ」


「そこまでは分かるんだ」


「分かる。けど」


 ローザは炭の棒を指で回した。


「うちはまだ、粥の二杯目がないでしょ」


 ローザが言った。


「バスティアが太ったって、うちのご飯が増えるなら、とりあえずそれで、わたしはいい」


「……」


「先に飯。あんたの話は、そのあと」


「それだと、遅いかもしれない」


「遅くても、死ぬよりましでしょ」


 ローザは、炭の棒を指で回したまま、順序を言っていた。


「……あんた、売り物は、増やすんでしょ」


「増やす、と思う」


「じゃあ、何が嫌なのよ」


「慣れることだ。一度、当たり前になってしまうことは怖い」


「僕には、嫌なんだ」


「慣れるわけない。あんたはいつだって、そうやって、小難しい話をしてるはず」


 ローザは真っ直ぐ僕を見て言った。


「違いない。ムーアが商人みたいなしゃべり方をしてるのも見て見たいけどな」


 三人で少しだけ笑った。

---


 ハインリヒが、床に置いた椀を、持ち上げた。親指で椀の縁を一度撫でてから、鼻から短く息を抜いた。


「いやー、俺はさ」


 ハインリヒが言った。


「椀がもう一杯、ましになんならさ。誰が儲けようが、俺はまずそっちなんだよな」


「うん」


「けどさ、ムーアさん」


「うん」


「よく分かんねけど、お前がそこを気にしてんのは、分かった」


 ハインリヒは、それだけ言った。それから、鼻から短く息を抜いて、椀の底まで飲み干した。


---


 ハインリヒが帰ったあと、ローザは板を二枚、胸に抱え直した。


「あんた、次の井戸端の日までに、売り物どうするか、考えておいて」


「考える」


「考える、って、まだ決めてない。けど、考えとかないと、決められないでしょ」


「あんた一人じゃない。みんなだよ」


 ローザはそう言って、土間を出ていった。


 普通に優しいことを言い始めて、不意打ちを食らった気分だ。


---


【授命暦842年 12/18 夜】


 ぼんやりと天井を見る。


 ブルジョワジー、資本家、搾取、共有。たくさんのことを話せたのは正直気分が良かった。


 売り物を増やす。それがどこへ行き着くか、頭ではもう見えている。それでも、袋の底を重くしないと、うちの粥の二杯目は、来ない。


 全力で資本主義をやっていくしかないな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ