銅貨は入ってくるのに、粥は二杯にならない
【授命暦842年 12/18 夕方】
銅貨が村に入ってから、半月が過ぎた。
半月前に感じた戸惑いは、いまは別の形をしていた。
広場では、物々交換と銅貨払いが混ざって動くようになっていた。銅貨なら話が早いと、売るための細籠を編む婆さんもいる。麦で受け取るか、銅貨で受け取るかを、その場で決める人もいた。
「お金って、凄いねえ」
夕方、壁際でイェニーが糸を撚りながら、独り言のように言った。
——便利にはなったな。
それでも、うちの夕食は、さほど変わらなかった。
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僕は土間で、粥の椀を前にしていた。
腹一杯食べられるほどはない。何も変わっていない。
布袋の中には銅貨が一枚、入っている。ローザの一枚だ。それは今も、布袋の底で動かずにいた。
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戸の外で、乾いた足音がした。
「入るぞ」
ハインリヒの声だった。荷運びの帰りだ。最近、ハインリヒは井戸端の日の前日と翌日に、トリーア村と三つ隣のギーセン村を結ぶ道を往復している。バスティアの荷車の後ろを歩いて、戻りの荷を一緒に担ぐ役だ。
戸を押して入ってきたハインリヒは、肩に布包みを担いでいた。
「いやー、干し魚。運ぶの手伝った礼にって、三匹もらってさ。そんなに担いだつもりもねえんだけどな」
布包みから、指二本分くらいの乾いた魚出して、イェニーの前に並べた。イェニーは糸撚りの手を止め、「悪いねえ、ハインリヒ」とだけ言って、また作業に戻った。
ハインリヒは土間の端に腰を下ろして、鼻から短く息を抜いた。
「ムーアさん、ローザはまだか」
「そろそろ来ると思う」
僕が答えると、ちょうど戸の向こうで、木簡の角が戸を叩く音がした。
ローザだった。木簡を二枚、胸に抱えている。
「入るよ」
ローザは土間に上がり込んで、板を二枚、床に並べた。並べてから、ハインリヒが置いた干し魚を見て、一度だけ眉を上げた。
「ハインリヒ、今日もギーセン村でしょ」
「そうだな。バスティアの荷車の後ろで、戻りの荷を担いでるだけなんだけどさ」
「……最近、そっちばっかりだけど」
「まあな」
「畑、母さん一人でやらせてるわけ」
「……冬のあいだは、畑はそれほどやることもないからな」
「春が来たら、どうするのよ」
「春のことは、春に考えるよ」
「バスティアに便利に使われてるだけ、なんてことはないでしょうね」
ハインリヒは、膝の上で手を一度握り直してから、
「いやー、ただの手伝いで、使われてるってほどかって言われると……どうなんだろうな」
ローザはそれ以上は聞かなかった。
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イェニーが、鍋の縁で木杓を一度鳴らしてから、全員に椀を差し出した。
「冷えたでしょ。食べていきなさい」
ハインリヒは一度首を振りかけたが、やめて椀を受け取った。
「いただきます」
ローザは軽く頷いて受け取った。イェニーはまた糸の方に戻っていった。
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椀をすすりながら、ハインリヒが言った。
「最近さ、井戸端、話がまとまるの早くなったよなあ。なんか、こう、もたもたしなくなったっていうか」
「うん。銅貨なら早いでしょ。交換相手を探さなくていいだけ」
ローザが板から顔を上げずに答えた。
「で、お前、それ書いてんのか」
ハインリヒは板のほうを顎で指した。
「書いてる。前の井戸端の日の分だけで、もう一枚埋まったよ」
「ぬあ、そんなに増えたのか」
「そう。取り引きの数はかなり増えた」
ローザは短く言って、炭の棒を板に置いた。
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僕は椀を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
先に口を開いたのは、ローザだった。
「売り物、増やさないといけないでしょ」
「……うん、そうなるね」
僕は頷いた。ローザは炭の棒の先で、板の一枚を軽く叩いた。
「糸と布、籠と麻、それに卵くらい。いま、村から出てくる売り物は、それだけ。入ってくる通貨は、たかが知れてる」
「そうだね」
椀の底に木匙をこすりつけていたハインリヒが、顔を上げた。
「あー、じゃあさ、籠をもっと増やせりゃ早いんじゃねえの」
「婆さんの手は一つしかないよ」
ローザが短く返した。
「糸も麻も。全部、合間でやってる分だけだから、増やせない」
「あー、そっか。畑があるもんな。毎日、籠だの糸だの作るわけにはいかねえか」
「自分が農民ってこと、思い出してくれてよかった」
ローザが板から顔を上げずに言った。ハインリヒは苦笑して、鼻から息を抜いてから、椀を床に置いた。
「じゃあ、どうすんだよ、これ」
三人とも、しばらく、答えなかった。
鍋の前で糸を片付けていたイェニーが、背中を向けたまま、ぽつんと言った。
「その辺の石ころでも売れれば良いのにねえ」
皆が少し笑った。
「……考え方としては、合ってると思う」
僕は椀を両手で持ったまま言った。
「いま村で価値がないもの。それを売り物にできれば、良いわけだからね」
「でもさ」
ハインリヒが木匙で椀の縁を小突いた。
「要らねえもんは売れねえだろ、普通に」
その通りだった。この村には余裕がない。野草や木の実の類いも貴重な食料だ。山を探せば鉄鉱石くらいあるかもしれないが、加工する手立ては、まだ村にはない。
「食えるもんは、みんなもう食ってるもんなあ」
ハインリヒが天井の梁を見上げた。
「肉だって、売るほどは取れねえし」
皆が考えながら、押し黙った。
僕は、椀を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
——増やす。そこまでは、正しい。
けれど、その先に見えてしまう景色を、口に出していいかどうかで、喉が止まっていた。
「……増やせば、袋の底は、少し重くなる」
僕は、ようやく言った。
「うん」
ローザが、炭の棒を指で回した。
「でも」
僕は続けた。
「売り物が増えれば、その分、運ぶ側の取り分が、先に太る」
「運ぶ側、ってバスティアか」
「バスティアと、セイだ。いまは二人しかいないから、村の物を街まで運べる人間は、二人が握ってる。村が売り物を増やしても、その分だけ、運ぶ側の取り分が、先に増える」
「……ん、んー」
「取るのは、いい」
僕は続けた。
「問題は、次だ」
「次、ってのは」
「売り物を増やすには、作る側にも、人手が要るようになる。畑の合間じゃ足りなくなって、畑を持たずに、作る方だけで食う連中が、村の外側に、出てくる」
「あー、それも、俺たちがやるんだろ、どうせ」
「最初は、それでいい。けど、量がもっと増えれば——」
「増えれば?」
「その次に、まとめる奴が、出てくる」
「……まとめる?」
と、ハインリヒが怪訝そうに眉を寄せた。
「村じゅうの売り物を安く集めて、他人に作らせて、できた物を自分の名で街へ売る奴だ。そいつは、手を動かさずに、差額を取る」
「……ん」
「さらに、その差額で、人を使うようになる。畑を持たない連中に銭を渡して、作らせる輪を広げていく。働かせた分の一部だけ渡して、残りは、自分の取り分にする」
「いまもそれ、バスティアがやってんじゃん」
ハインリヒは、膝の上で手を一度握り直した。
「いまは、まだ、規模が小さい。けど、売り物が増えれば、畑を持たずにそれだけで食える奴が、村の外側に、育ってくる」
「……それってさ、グリュンみたいなもんか?」
「似てるけど、違う。グリュンは伯さまの代わりに取り立ててる。だから、伯さまが死んだり、政権が変わったりすれば、変わる。でも、そいつらは、誰かの代わりじゃない。自分のために取る。しかも、取った差額で、また人を使う。使った分で、また物を作らせる。そうやって、自分の取り分を、太らせ続ける」
「……なんでだよ。なんでそんなのになるんだよ」
「なる。銅貨が銅貨を呼ぶようになると、そうなる」
僕は言い切った。
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ハインリヒが首を傾げて、床の椀をのぞきこんだ。ローザは炭の棒を指で弾いて、僕の顔を一度見た。
「あんた、また、三段飛ばしで話してる」
「ごめん」
「一段ずつ、降りてきて。で、結局、何の話」
「物を動かすだけで取る連中が、育っていく話」
「そこまでは分かった。続けて」
ローザは板の上で、炭の棒を横に倒した。聞く姿勢だった。
「そいつらは、要するに、金持ちだ」
僕は言い直した。「ぶるじょあ」と、口の中でだけ、転がした。この名前を出しても通じないのは、目に見えている。飲み込んだ。
「要するに、金のある側が、人を雇って取り分を増やす形になる」
「……いや、それ、いまもバスティアがそうじゃん。俺もその手伝いしてるし」
「いる。けど、その数が、増える。村の中にも、入ってくる」
「入ってくる、って」
「村のかなりの人数が、金持ちに雇われて、拾う側に回る。そういう日が、来るかもしれない」
「かなり、ってどのくらいだよ」
「半分とまでは言わなくても、そういう形で食う人間は、増えていく」
ハインリヒは腕を組んだ。組んでから、しばらく黙った。視線は、自分の膝頭に落ちていた。
「……さっきの話か。グリュンとは、違う、ってやつ」
「そう」
「……いや、ちょっと待て。つまり、何だって?」
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僕は一度、息を吐いた。
『金持ち』『半分』『雇う』——どれも、知っている言葉ではあるのに、並べ方がつながらいのは普通だ。
僕は、話を短くすることにした。
「つまり、売り物を増やすこと、そのものが、嫌なんじゃない。村を食わせるためには、必要だと思う。だけど、その必要さが、そのまま、『間で取る奴』を育てる形になる。豊かになろうとするほど、そういう連中を、自分で呼び込むことになる。僕が目指してる場所から、村が、遠く離れていく」
「……なあ、目指してるって、何を目指してんだ、お前は」
ハインリヒが聞いた。
僕は、一度、ローザの顔を見た。ローザは板から炭の棒を取って、新しい行に炭の先を当てたが、書いてはいなかった。聞いている顔だった。
「誰も、人を雇って儲けたりしない仕組みだ。畑も、道具も、村のみんなで持つ。働ける者は働く。要る者は、要るだけ取る。間で取る連中がいない」
「……それ、いまの村と、何が違うんだよ」
ハインリヒは真面目に聞いていた。
「いまの村は、伯さまとグリュンが、働いた分の一部を取る」
「じゃあさ、伯さまとグリュンが、いなきゃいいってことかよ」
「それも違う。グリュンがいなくなっても、今度はバスティアみたいな連中が、その役になる。だから、グリュンを外すだけじゃ、足りない」
「……いやいや、伯さまもグリュンもバスティアもいない村、って、それ、村なのかよ」
「村だ。村のままで、その仕組みだけを入れ替える」
ハインリヒは、口をへの字にした。
「お前さ、先のこと、決まってるみたいに言うよな」
「決まってる、とは言ってない」
「同じだよ。そうなる、って顔で喋ってる」
「そうなりやすい、って言ってる」
「『やすい』も『なる』も、俺にはあんまり違わねえんだけど」
ハインリヒは、椀を床に置き直した。
「誰も取らない仕組み、ってのもさあ。そんなの、来るかよ。本当に」
「来させるんだ」
「……いやー、それ、来ないものを来させる、って言ってるように聞こえるんだけど」
ハインリヒは、腕を組んだまま、しばらく天井を見ていた。
それから、僕の顔に視線を戻した。
「……悪い、ムーアさん。全然、分かんねえわ」
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ローザが、板の上で炭の棒を、ことん、と置いた。
「わたしは、半分は分かるよ」
ローザが言った。
「半分、って」
「物を動かすだけで太る人が出てくる、ってところ。それは、たぶん、そうなるでしょ。バスティアもセイも」
「そうかな?」
「セイは、もう、バスティアの手下って顔じゃないよ」
僕も、同じことを、数日前から感じていた。
「で、あんたの言ってる『そうならない仕組み』ってのも、分からなくはない。畑を村のみんなで持つ、ってところまでは、分かるよ」
「そこまでは分かるんだ」
「分かる。けど」
ローザは炭の棒を指で回した。
「うちはまだ、粥の二杯目がないでしょ」
ローザが言った。
「バスティアが太ったって、うちのご飯が増えるなら、とりあえずそれで、わたしはいい」
「……」
「先に飯。あんたの話は、そのあと」
「それだと、遅いかもしれない」
「遅くても、死ぬよりましでしょ」
ローザは、炭の棒を指で回したまま、順序を言っていた。
「……あんた、売り物は、増やすんでしょ」
「増やす、と思う」
「じゃあ、何が嫌なのよ」
「慣れることだ。一度、当たり前になってしまうことは怖い」
「僕には、嫌なんだ」
「慣れるわけない。あんたはいつだって、そうやって、小難しい話をしてるはず」
ローザは真っ直ぐ僕を見て言った。
「違いない。ムーアが商人みたいなしゃべり方をしてるのも見て見たいけどな」
三人で少しだけ笑った。
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ハインリヒが、床に置いた椀を、持ち上げた。親指で椀の縁を一度撫でてから、鼻から短く息を抜いた。
「いやー、俺はさ」
ハインリヒが言った。
「椀がもう一杯、ましになんならさ。誰が儲けようが、俺はまずそっちなんだよな」
「うん」
「けどさ、ムーアさん」
「うん」
「よく分かんねけど、お前がそこを気にしてんのは、分かった」
ハインリヒは、それだけ言った。それから、鼻から短く息を抜いて、椀の底まで飲み干した。
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ハインリヒが帰ったあと、ローザは板を二枚、胸に抱え直した。
「あんた、次の井戸端の日までに、売り物どうするか、考えておいて」
「考える」
「考える、って、まだ決めてない。けど、考えとかないと、決められないでしょ」
「あんた一人じゃない。みんなだよ」
ローザはそう言って、土間を出ていった。
普通に優しいことを言い始めて、不意打ちを食らった気分だ。
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【授命暦842年 12/18 夜】
ぼんやりと天井を見る。
ブルジョワジー、資本家、搾取、共有。たくさんのことを話せたのは正直気分が良かった。
売り物を増やす。それがどこへ行き着くか、頭ではもう見えている。それでも、袋の底を重くしないと、うちの粥の二杯目は、来ない。
全力で資本主義をやっていくしかないな。




