渋い梨を潰せば酒になる、で、誰が見張る
【授命暦843年 1/4 朝】
雪は降らなかったが、土間の土は、こちらの足の裏より冷たかった。
火を起こそうとしたが、薪の端が湿っていた。この冬は、薪の乾き方にむらがある。
鍋に水を張ったあとで、イェニーは、壁際の小棚の布袋に手を入れた。
昨日の井戸端の日で、村に入ってきた銅貨は五枚。そのうち三枚はローザの板に書き付けて、村の共通分としてローザが預かっている。残り二枚は、籠を編んだ婆さんと、糸を出したローザのぶんに分けた。
うちの布袋には、先月ローザが滑り込ませた一枚だけが、まだ入っている。動いていない。
「銅貨って、不思議だねえ」
イェニーは、指先で一枚を摘まんで、掌の上に載せた。一度だけ引っ繰り返してから、そのまま布袋に戻した。
「一枚、入ってても、明日の塩が、昨日より増えたりはしないんだねえ」
鍋の水を覗き込む背中は、独り言に近かった。
——お金を挟んでも、物は、増えない。
僕は、薪の湿りを、指の腹で確かめた。イェニーの言葉が、頭の中に残っていた。当たり前のことだが、当たり前に暮らしていると、まず貨幣の側の増減に目が向く。イェニーは、貨幣の側ではなく、塩の側を見ていた。
——母さんのほうが、先に言い当てるな。
イェニーは、こちらが言葉を返さないことに気を悪くする様子もなく、鍋の下の炭を掻き集め始めた。
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戸の外で、板の角が戸を叩く音がした。
「入るよ」
ローザだった。板を二枚、胸に抱えている。昨日の井戸端の日で書き付けた板と、先月ぶんの板だ。
「昨日のぶん、おさらい。あんたも見て」
ローザは土間に上がり込んで、板を二枚、床に並べた。右端を、指で順に押した。指の腹に、炭の黒い痕がついている。
「籠、一つで、銅一枚」
「うん」
「糸、二束で、銅一枚」
「うん」
「麻、一束で、銅一枚」
ローザは、三つを順に指しながら言った。
「村から外に出たのは、籠が二つ、糸が二束、麻が二束。それで、銅貨が五枚、戻った」
「……うん」
「二枚は、婆さんとわたしの分。三枚は、みんなのぶんで、わたしが預かってる」
「……細いな」
僕は、考える前に口に出していた。
「え」
「いや、動いた側が、細い」
「細い、って」
「外へ出て行った品目が、籠と、糸と、麻の、三つしかない、ってことだ」
ローザは、わずかに眉を寄せた。板の上の三行を、もう一度、順に目で追った。
「……塩も、針も、もらった側」
「うん」
「こっちから出てるのは、編んだ物と、撚った物と、ほぐした物だけ」
ローザは、自分で言って、自分で口の端を曲げた。
「……これ、量を増やすの、大変だわ」
「そうだな」
「もう二束、糸を出せ、って言われたら、わたし、三日、寝ないことになる」
「そうだな」
「籠も、婆さん一人。麻は、イェニーおばさんだけ」
「うん」
ローザは、板の上で指を止めた。
「それで、戻る銅貨が、五枚」
「……うん」
「ほかの村は、どうしてるんだろ」
ローザは、そこで初めて、こちらの顔を見た。
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——細い、で止まっていいのか?
僕の頭の中には、別の言葉が、浮かんでいた。
籠も糸も麻も、どれも家の中で作る必需品だ。村の外の誰かにとっても、必需品ではある。だが、必需品を売って必需品を買うという交換は、どうしてもいびつになる。買う側は「ないと困るから買う」という顔で値を下げに来る。売る側も、「ないと困るから作ってる」物を、値上げしにくい。
必需品同士で替え合っている限り、この袋の底は軽いままだ。
思考の速度が上がった自覚があった。13歳の喉の奥で、29歳の口調が押し上がってくる。
「ムーア、なに、黙ってんの」
「いや」
「さっきから、目が怖いんだけど」
「うん」
「何か、言うの、言わないの」
「……言う」
僕は、薪を脇に置いた。
「必需品と、必需品を、替え合ってる限り、この袋の底は、軽いままだ」
「……はあ?」
「籠も、糸も、麻も、どれも、なくなったら困る物だ。こっちで作るのにも、向こうで買うのにも、『ないと困るから』という顔で、値が決まる。それだと、値は高くならない」
「……」
「値が厚くつくのは、『なくても生きられるが、あったら少し嬉しい』っていう、そっちの物だ」
ローザは、板の角を指で押した。
「なくても、生きられる物」
「うん」
「たとえば」
「……嗜好品、って言ったりする」
言ってから、自分の口の中でも、一度、転がし直した。
「しこうひん」
ローザが、口の形で繰り返した。意味は受け取れていない顔だ。
「……食うためじゃなくて、楽しむために、口に入れる物、みたいな感じだ」
「食うのと、楽しむのは、違うの」
「違う」
これだけは、断定になった。
「腹が減ったから食べる、のと、もう少し飲みたいから飲む、のは、別の動きだ。別の動きが生まれるためには、別の品がいる」
「はあ」
ローザは、まだぴんと来ていない顔のまま、板の端に「しこうひん」と書いた。途中で線を一度消して、もう一度、書き直した。しばらく、その文字を見ていた。
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——じゃあ、この村で、誰も食べない物。
僕は、土間の奥の、イェニーの背中に声をかけた。
「母さん」
「なんだい」
「この辺で、誰も食べない実って、あるかな」
イェニーは、鍋の下の炭を掻いている手を、一度止めた。
「誰も、食べない、実」
「うん」
「……トリーア梨、かねえ」
トリーア梨。
村境の藪に、毎年落ちる野生の梨だ。渋くて、酸っぱくて、生で齧ると口が強張る。子どもが一度齧って、泣いて帰ってくる種類の実だ。毎年、地面の色になって、雪の下に沈んでいる。去年の秋に僕が拾おうとしたら、イェニーに「それは、人の食いもんじゃないよ」と止められた、あの梨だ。
「誰も、拾わないのかい」
「拾わないねえ。冬のあいだに、野兎や鹿が、下のほうを齧ってる、って話は聞くけどねえ」
イェニーは、思い出すように、少し上を見た。
「ずっと、誰も、拾わない、のか」
「あたしが、嫁に来たときから、そうだよ」
「……」
「渋くてねえ。煮ても、酸っぱくて、子どもは、泣いちまうから」
イェニーは、そこで言葉を切った。炭を掻く音だけが、また戻った。
——毎年同じだけ落ちて、毎年同じだけ、誰にも拾われない。
頭の中で、筋が一本、通った。
渋い梨は、そのままでは嗜好品にならない。だが、潰して、置いて、待てば、勝手に酒になる——確か、皮に、甘みを酒に変える側の働きがついている、という程度の、前世のうろ覚えだ。上等な酒にはならない。薄くて、渋い、野生の酒だ。
だが、「なくても生きられるが、あったら少し嬉しい」の側には、入る。
必需品ではないから、買う側が「ないと困る」の顔で値切る理由がない。
外で売れば、袋に戻ってくる銅貨の層が、厚くなる可能性がある。
「ローザ」
「何」
「村境の、梨、あるな」
「あるね」
「あれ、潰して、置いておいたら、酒になる」
ローザは、板の角から指を離した。板の面を、初めて、完全にこちらに向けた。
「……あんた、本当にやる気なの、あれ」
「うん」
「この前は、『酒』って単語だけで、止まってたじゃない」
「うん。そこから、先を、考えてた」
ローザは、言葉を一度、飲み込むように口を結んだ。それから、板の角をもう一度、指で押した。
「で、どうやって、酒にするの」
「仕組みとしては、できる」
「仕組み、って」
「果物の皮に、最初からついてる側の働きだ。潰して、蓋を少しだけ開けて、冷やしすぎずに置いておく。冷えすぎると、立たないうちに腐る。それだけだ」
言い切ってから、自分で少し驚いた。
ローザは、板の横に、黒い指を置いた。
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「冷やしすぎずに、置いておく」
「うん」
「毎日、見なきゃ、いけないの、それ」
——あ。
頭の中の筋の先が、そこで、止まった。
「……毎日、見ないと、たぶん、駄目だ」
「毎日、見るの、誰」
ローザは、板から目を離さないまま、言った。
「あんた、昼のあいだ、板の前にいるの、わたしが知る限り、四半日だけだよ」
「……」
「残りは、畑と、賦役と、薪」
「……うん」
「冬の夜、毎晩、壺の蓋を見張るの、あんた」
「……」
「イェニーおばさん、冬は、糸と鍋で、手、いっぱいだよ」
「……うん」
「婆さんは、膝、悪い」
「……うん」
ローザは、そこで初めて顔を上げて、こちらを見た。
「で、それを、誰が見るの」
——急に、仕組みの穴が、先に見えた。
着想の勢いが、そこで、一気に萎んだ。
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僕は、薪の脇に、もう一度、腰を下ろした。
梨の酒の理屈は、正しい。必需品ではなく、嗜好品を売る。嗜好品が、村の袋の底を、少しだけ重くする。そこまでは、筋が通っている。
だが、酒は、作って終わりの物ではない。毎日、壺を見る手がいる。その手の当ては、僕には、ない。
「……僕じゃ、ない」
僕は、ようやく、それだけ言った。
「何が」
「壺を、見る手」
「うん」
「仕組みは、僕が、持って来られる。場所も、たぶん、言える。泡の見方も、匂いの見方も、聞きかじりの範囲では、書ける」
「うん」
「けど、毎日、壺のそばに立って、泡と匂いで、『もう一日』か『今日まで』かを、決める側は、僕じゃ、ない」
ローザは、少しだけ、板から指を離した。
「そっちを、誰に、頼むか」
「うん」
「……それを先に決めないと、梨の話は、始まらない」
「そうだな」
ローザは、板の端に、横線を一本、引いた。短い、真っ直ぐな線だった。
「次の井戸端の日までに、考えるの、酒の作り方じゃなくて、見張り番のほうね」
「……うん」
「仕組みは、あんたでいい。見る手は、あんたじゃない。それが、はっきりした」
ローザは、板を二枚、また抱え直した。
「イェニーおばさんには、あとで、聞いとく。婆さんには、今日、寄ってから帰る」
「……頼む」
「頼まれた」
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ローザが戸を出て行ったあと、僕は、脇に置いた薪を、もう一度、手に取った。




