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『剰余生産物』となるはずの芽が出た瞬間に、領主からのピンハネを通告された

【授命暦842年 3/20 朝】


 石を拾い始めて、三日が経った。


 最初の晩、大きな石はあらかた片付いたと思った。甘かった。


 大きな石の下から、中くらいの石が出る。中くらいの石の下から、また小石が出る。終わる気がしない。


---


【授命暦842年 3/21 夕方】


 四日目の夕方、足音が聞こえた。


 振り返ると、イェニーだった。何も言わず、僕の隣にしゃがんで、石を拾い始めた。


「母さん、いいよ。僕一人で——」


「いいんだよ。何か試したいことがあるんでしょ?」


 三日続けて帰りが遅く、掌の皮が剥けているのを見ていたのだろう。


 イェニーは石を持ち上げた。小さな石を二つ、三つ。畝の外に並べる。手が土で黒くなる。


「ありがとう……」


「何か言った?」


「独り言だよ。気にしないで」


 イェニーの顔が、ほんの少し動いたが、少し微笑んで前を向いた。


 手が増えれば早い。なのに、母さんにまで手伝わせていると思うと、申し訳なかった。


 休憩のとき、水を分け合いながら、ふと聞いた。


「そういえば母さん、文字って読める?」


 イェニーが水瓶を傾ける手を止めた。驚いた顔をした。


「……昔、少しだけ教わったことがあるよ。奉公に出てたとき」


「奉公先で?」


「教会付きのお屋敷でね。司祭さまの身の回りの世話をしていたことがあるんだ。司祭さまが気まぐれで、ちょっとだけ教えてくださった」


 イェニーは落ちていた小枝を拾って、地面に文字を書いた。三文字。不格好だが、確かに文字だった。


「これで『麦』。こっちが『水』。もう一つは——何だっけ。忘れちゃった」


 僕も小枝を拾って真似た。書き慣れた文字と違うし、枝で地面に書くのもやりにくい。


 全く覚えられない。前世の文字と成り立ちがまるで違うからだろうか。勉強は得意なつもりだったが。


 転生してから文字を見たのは、グリュンの羊皮紙の表紙だけだったし、仕方ない。


「……教会以外で、文字を教えてくれるところはあるのかな」


「少なくとも村にはないね。必要ないもの」


 羊皮紙の字でも、聖典の字でもいい。まずは文字をもっと見て、覚えないといけない。


 宗教は好きじゃないが、今はそれを気にしている場合じゃない。


「何でそんなこと気にするんだい」


「ううん。——もう少し教えてくれないかな。毎日、少しずつ」


 イェニーは小枝を地面に刺して、立ち上がった。


「忘れてるのが多いよ? でもいいなら」


 石を拾う。文字を覚える。どちらも、一つずつだ。


 石を動かしていると、前世で読んだ農業の知識を少しずつ思い出すようになった。堆肥、石灰、輪作。言葉は思い出せるのに、今この場で使えるほどはっきりしない。せいぜい、骨を焼いて砕けば土の足しになることと、ばらまかずに筋へ落とすことと、深く埋めすぎないことくらいだ。そんなうろ覚えでも、村で見かける蒔き方と差が出るかは試したかった。


 ある日の石拾いの帰りに、村の猟師の小屋へ寄った。罠で折れた獣骨を分けてくれないかと頼むと、鹿の脚骨を一本差し出された。犬にでもやるつもりだったらしい。頭を下げて受け取る。その夜、小屋の火の端で骨を焼き、石で砕いて布に包んでおいた。


---


【授命暦842年 3/22 朝】


 五日目。


 石を拾い続けて、ようやく試し蒔きができるだけの狭い畑ができた。


 イェニーに貰った大麦の種を使う。この土で育つか、まずは試す。ひと握りだが、分けてくれたことに感謝しかない。


 布包みを開いて骨粉を出した。どれくらい入れればいいのかも、本当に効くのかも分からない。効かなければ、ただ白い粉を土に混ぜただけで終わる。


 浅い畝を作って、砕いた骨粉をひとつまみずつ薄く混ぜる。種は指二本ぶんほど間を空けて落としていき、深く埋めすぎないように土を被せ、水をやった。


 あとは待つしかない。


---


【授命暦842年 3/24 昼】


 七日目の昼。賦役を終えて実験区画に向かう途中、赤い髪が目に入った。ローザだった。薪を背負って、畑道を歩いている。


 僕の区画の前で足を止めた。石を除けた地面と、不格好な畝を見ている。


「……ほんとにやったんだ。面倒なこと」


「まだ半分だけど。石をどけて、畝を作って、種も蒔いた」


「やるって言ったら、ほんとにやるんだ」


「そのつもり。どうなるかはわからないけど」


 ローザは畝を見下ろした。眉をひそめている。


「そこ、水が溜まるよ」


「何?」


「春に大雨が降ると東から水が来る。その向きだと種ごと流されるよ」


 僕は畝を見た。確かに、東側がわずかに高い。傾斜に気づかなかった。


「……なるほど、斜めか……」


「水が畝を横切るように、斜めにすればいいでしょ」


「詳しいね」


「……住んでるんだから当たり前でしょ」


 ローザは薪を背負い直して、歩いていった。


「……助かった、ありがとう」


 声に出していた。ローザは振り返らなかった。だが、三歩ほど先で言った。


「知ってること言っただけ。流れたら無駄でしょ」


 二日前に埋めたばかりの種は、まだ湿り気の中で根も動いていないはずだった。指先で土ごとそっと掻き返す。拾えた分を脇に寄せ、浅い畝を崩して斜めに切り直す。溝を少し深くして、残った種を今度は間を空けながら蒔き直した。土の匂いが鼻に染みる。腰が痛い。だが、手は止まらなかった。



 それから毎日、賦役の後に区画を見に行った。水をやり、雑草を抜き、土の状態を確かめる。


 変化は遅かった。祝福なら、一晩で見て分かるほど育ち方が変わる。だが、石を拾い始めて十五日目——蒔いてから十日目になっても、何も出ない。


 十八日目、土の小さな盛り上がりが気のせいではないと分かった。


---


【授命暦842年 4/7 朝】


 そして二十一日目、蒔いてから十六日目の朝。賦役に出る前に、区画に寄った。


 ——芽が出ていた。


 小さな、緑色の芽。土を割って、二枚の葉を広げている。


 一つではない。畝に沿って、ぽつぽつと。隣の畑は芽が固まっている場所と薄い場所がまだらなのに、こちらは粗いなりに並びが見えた。石をどけ、畝の向きを直し、間を空けて蒔き直したぶん、少なくとも芽の並びは揃っている。骨粉が効いたかどうかまでは、まだ分からない。


 しゃがんで、芽を見た。湿った土の匂いが、鼻の奥まで届いた。


 指で触れるのが怖かった。折れそうなほど小さい。


(——教科書には、この匂いは載っていないな)


 しゃがんだまま、しばらく息を止めていた。目の前の小さな緑から、視線が離せない。


 胸の奥が熱くなった。立ち上がって、深く息を吸う。


(落ち着け。芽が出ただけだ。芽が出ただけだぞ)


 (この芽が穂をつけたら——その穂を、誰が数える?)


 足音が聞こえた。


 ローザだった。水汲みの帰りらしい。桶を肩に担いでいる。


 僕の区画の前で足を止めた。芽を見ている。


「出たんだ。流れなかったんだね」


「うん。——ローザ、見て」


 僕は芽を指さした。朝の光が葉先を白く光らせている。声が震えていたが、止まらなかった。


「この芽は種だけで出たんじゃない。土も、水も、石をどけた手間も、ローザの助言も、全部重なった結果で——」


「芽が出ただけでしょ」


 静かな声だった。


 桶から水が一滴、こぼれた。僕の足元の土に染みて、黒い点になった。


 ローザは芽を見下ろしていた。


「水が抜けたからでしょ」


「……そう。でも、ローザが向きを教えてくれなかったら、芽は出てなかった」


「まだ流されずに残っただけ。礼を言うなら、穂が立ってからにして」


 向こうを見ているので、顔は見えない。


 ローザは桶を地面に置いた。しゃがんで、芽を見ていた。指先で触りはしなかった。ただ、見ていた。


 数秒のあと、桶を担ぎ直して歩き出した。腰に括った麻袋から、紡いだ糸の束がのぞいていた。


 三歩ほど進んで、振り返りもせずに言った。


「——でも、隣の畑よりは育ってる」


 それだけ言って、行ってしまった。


 膝についた土を払った。手のひらが黒い。


「……その通りだ」


 もう一度、芽を見た。隣の畑より育っている。その事実だけで、背中が少し伸びた。


---


【授命暦842年 4/7 夕方】


 その日の夕方、賦役の帰りにもう一度区画へ寄った。芽を見てから帰りたかった。


 畑道の向こうで足音が止まった。


 グリュンだった。村へ戻る途中らしい。東の端を見て、そのままこちらへ曲がってきた。


 思わず身構えた。


「端の石地、勝手にいじったな」


「石をどけて、余りの種を少しだけ」


 グリュンは芽を見た。次に、僕を見た。


「勝手に畝を増やすなと言いたいところだが」


「……ただ、その程度の端地の大麦までは税の対象にはならん。褒められるもんではないが」


 鼻を鳴らした。


「どうせ鳥に食われて終わると思っていた」


 全部を取られるわけではないのか、と少しだけ息をついた。


「だが、量にもよる」


 それだけ言って、グリュンは戻っていった。


 穂になる前から、束にした先の話をされる。


「……芽が出ても、うちに残る分のことを先に考えなきゃいけないのか……」


 足元に、平たく割れた石があった。掌に収まる大きさで、片面だけ妙に滑らかだった。


 拾い上げる。尖った小石でこすると、白い筋が走った。


 ——これなら書ける。


 母さんに教わった『麦』と『水』を、一字ずつ刻む。その下に、短い線を一本、また一本と足した。まだ束はない。それでも、数を手元に残す癖を今から作っておきたかった。最初の一画で滑った。やり直す。読むのと書くのは別だ。


 紙はない。農奴に紙は回ってこない。覚えるなら、石に刻むしかなかった。字も、数も。


 教会へ行く手もある。だが、いま急に出入りすれば目立つ。芽が出たばかりの端地をいじった農奴の子が、急に字を欲しがる理由を聞かれたら、ごまかせない。


 穂が立って、収穫の礼でも口実にできるまでは、母さんに教わった字と数えるための記号を石に刻んで、一つずつ増やしていくしかない。



 夜、小屋に戻ると、イェニーが地面に文字を書いて待っていた。


「今日は三つ、思い出したよ。『畑』と『種』と——『実り』」


 棒で書かれた不格好な文字。だが読める。


「ありがとう、母さん」


 拾ってきた平たい石を膝に置いて、教わった字をもう一度刻んだ。


 字を刻んだ石を、小屋の床下に隠した。


 根菜の煮汁を啜りながら、今日のことを順に思い返した。芽が出た。グリュンに見つかった。文字を少し覚えた。石に字と記号を刻んだ。


 二十一日前には、どれもなかった。


 ローザの言葉を思い出す。「隣の畑よりは育ってる」。


 あの芽が穂をつけるまで、まだ何ヶ月もかかる。その前に、こっちでも数えられるようにならないといけない。字を覚え、記号を残して、何束刈れて、何束取られて、何束残るのか——自分の指で数えられるように。


 明日も賦役がある。終わったら区画に行く。水をやり、雑草を抜く。それから石に、今日の字と記号をもう一度刻む。


 椀の底に沈んだ根菜は相変わらず少ない。それでも、今日は少しだけましに見えた。


 芽はまだ指で摘めるほど小さい。

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