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魔法の糸に『原始的蓄積』の夢を語ったら、ローザに小枝を投げつけられた

【授命暦842年 3/14 昼】


 井戸端の話から三日。背中の痛みはとっくに引いていた。


 あの場で呼び止められることはなかったし、翌朝もグリュンはいつものように怒鳴っただけだった。井戸端の話は、グリュンの耳には入らず、村人たちの警戒としてだけ残ったらしい。


 村の中で、僕がどういう相手として見られるかは決まったらしい。


 畑で隣になっても誰も話しかけてこないし、鎌を研ぐ順番を待つときも、一つ分の間が空く。


 殴られるわけでも、追い出されるわけでもない。ただ、危ないやつだと思われて避けられているだけだ。

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 少し切ない気持ちになるが、致し方ない。実際のところ、今の僕はヤバいガキなのは当然だ。


 昼の賦役を終えて小屋に戻ると、イェニーが鍋の前にいた。


 鍋をかき混ぜている。湯気に麦の匂いが混じっている。鍋底をこする木匙の音が、静かな小屋に響いていた。


 井戸端の声が、まだ耳に残っている。皆が頷いて、皆が帰った——鍋の湯気を見ていると、あの夕方の光景がふいに思い出された。


 半日あれば違うと皆が言ったのに、誰もそこから先へは出なかった。父もまた、不満や怒りを口にできないまま翌朝の普請へ出ていたのだろうかと思った。


「母さん」


「うん?」


「……父さんって、何かに怒ってた人だった?」


 イェニーの手が止まった。


 一瞬だけだった。すぐに木匙が動き出す。


「なんで急に」


「ううん。なんとなく」


 イェニーはよそいながら、しばらく黙っていた。


 椀を差し出すとき、ぽつりと言った。


「……怒ってたよ。たぶんね」


 木匙を鍋の縁に置いた。


「普請で石を運ぶとき、自分より若い者の分まで背負ってね。そのくせ、帰ってきたら『若いのがたるんでる』って怒ってた。次の日もまた背負ってたんだけどね」


 少し笑った。それから視線を鍋の底に落とした。


「何に怒ってたんだろう」


「さあね。口にはしなかったよ。口にしたって、翌朝の普請がなくなるわけじゃないから」


 イェニーは自分の椀によそった。僕のより薄い。いつもそうだ。


「最後も、普請の途中だった。組んでた木が崩れてね」


 ぽつりと、それだけ言った。


 息が、一拍止まった。


 知っていたはずの話だった。流れ込んできた記憶の中には、父はもういないという事実だけが残っていた。だが、どう死んだかまでは、僕は今初めて聞いた。


「……そう」


「うん」


 それ以上は、お互い言わなかった。


 温かいものが喉を落ちていく。ぬるくて薄い。


 父は怒っていた。でも、その怒りを口にしても翌朝の普請はなくならない。何に対して怒ればよかったのか、僕にはまだ分からなかった。


 イェニーが手を伸ばしてきて、僕の前髪を指で梳いた。


「あんた、最近目の下が黒いよ。ちゃんと寝てるの」


「寝てるよ」


「嘘」


 言って、指先で軽く額を弾いた。痛くはない。


「考え事は、ご飯を食べてからにしな」


「うん」


 自分の椀から、ひと匙、僕の椀に移した。


「……母さん、いいよ、戻して」


「もう移したものは戻らないよ」


「じゃあ僕が戻す」


 椀を傾けようとしたら、手で押さえられた。


「あんた、伸びる時期だから。母さんは伸びないから」


 それだけ言って、減った自分の椀に口をつけた。理屈になっていない。だが、こういう時のイェニーには、たぶん何を言っても通らない。



 昼過ぎ、たき付け用の小枝を拾いに村外れの森の入口まで歩いた。


 林の手前で、しゃがんでいる人影が見えた。


 赤い髪。


 ローザだった。


 細い枯れ枝を拾い集めて、膝の上で束にしている。裸足の足先が泥で汚れていた。指の腫れは相変わらずだ。


 僕に気づいて、手を止めずに顔だけ上げた。


「また来たの。今度は何」


「うちも、たき付けが切れてて」


「ふうん。じゃあ勝手に拾えば」


 興味なさそうに視線を戻した。


 僕は少し離れた場所でしゃがんで、小枝を拾い始めた。


 乾いた木の匂いと、湿った土の匂いが混じっている。鳥が一羽、高い枝の上で鳴いた。


 黙って枝を拾う。ローザも黙って枝を拾っている。


 しばらくして、口を開いた。


「秋になると、いつもこんなに落ちてるんだ」


「風が強いから。今日はよく落ちてる」


 短い。だが嫌がってはいない。


「ローザはいつも、この時間に来るの」


「昼の賦役が早く終わった日だけ」


 ローザは枝を束にまとめながら、膝の間に挟んだ何かを弄っていた。


 糸だった。


 拾った枝を縛るための糸を、癖のように指先で紡いでいる。会話の合間に、ほとんど無意識にやっているらしい。


 僕が小枝を二、三本拾うあいだにも、膝の上の糸は途切れず伸びていく。細い枝の束ひとつ縛るには足りる長さが、いつの間にかできていた。


 紡ぐ指が滑らかだった。屑糸を裂いて、指の腹で撚って、繋ぐ。手の動きに迷いがない。


 元になるのは、家で使い潰した布の切れ端だ。どの家にも山ほどある物じゃない。けれど、繕っても残る裂け端なら、少しずつは出る。


 しばらく見ていて、気づいた。


 ——太さが、均一すぎる。


 布の切れ端は、繊維の長さも太さもばらばらだ。撚り直せば普通はどこかにムラが出る。細くなったり、太くなったり、よじれた結び目ができたり。


 だが、ローザの指から出てくる糸は、どこを見ても同じ太さをしていた。目で追っても、ムラの位置が見つからない。前の世界でも、ここまで揃った糸は機械紡績でようやく作れるレベルだった。


「それ、太さがばらつかないの、なんで?」


 ローザの指が、一拍だけ止まった。


「……なんでって」


 顔を上げない。


「裂いて、撚って、繋いでるだけだけど」


「裂く力、いつも同じなの?」


「同じだけど」


「指、見ないで撚ってるよね」


「うん」


 ローザは少し眉を寄せた。質問の意味が分からない、という顔。


「これ、見て撚るものなの?」


「……普通は、見るよ」


 言ってから、自分の手元を見直した。屑糸の端を引いてみる。指先に力をかけても、繊維は軋むだけで切れなかった。引きの硬さが、目で見ていた以上だった。


「太さも、強さも、おかしい」


 少し黙って手を動かしてから、ローザはぽつりと言った。


「……母さんに教わったの」


「お母さん?」


「昔。わたしがまだ小さい頃」


 指先が屑糸を撚る。


「太さがばらついたら、最初からほどいて紡ぎ直し。何度も何度も。母さんはこれよりもっと上手だったよ」


「会ってみたかったな」


「死んだよ。もうだいぶ前に」


 手は止まらなかった。撚る動きの速度も、均一なままだった。母親の話をしているのに手が乱れないことが、いちばんこたえた。


「……ごめん」


「謝んなくていいから」


 短く息を吐いた。


「風邪が咳になって、咳が止まらなくなって、それで終わった」


「医者は……呼べなかったの」


 口にしてから、愚かな質問だと気づいた。


「呼べないよ。そんな家じゃない」


 ローザは顔を上げずに答えた。


「呼べる家じゃない。薬師もそう。粉薬ひと包みで、冬を越す麦がなくなる」


 呼べる家じゃない。前の世界の感覚で、つい訊いてしまった。ここでは薬ひとつで冬を越す麦が消える。咳が長引けば、そのまま死ぬこともある。


 薬がないんじゃない。薬と引き換えに出せるものがない。その現実が、胸に重くのしかかった。


「最後の方、母さんの手がすごく冷たくて、わたしが握っても温まらなかった」


 ローザが覚えていたのは、母親の手が冷たかったことだった。


 ローザは何事もなかったように糸を束にまとめて、薪の束に巻きつけ始めた。


 僕も立ち上がった。膝の裏に泥がついている。


 巻き終わった束を見て、この糸はただの手紡ぎじゃない、という思いがさらに強くなった。


 枯れ枝の束は普通、縛ってもすぐ崩れる。枝の太さがばらばらだし、樹皮がごそごそして滑る。


 だが、ローザの束は微動だにしない。糸が枝にぴったり沿って締まり、結び目が一切緩んでいなかった。


 これなら袋の口を縛ってもほどけにくいし、裂けた布を繕う糸にも回せる。布を扱う相手なら、指で引けば違いが分かる。


 太さが揃っていて、強くて、結んでも滑らない。手で紡いだ糸とは思えなかった。


「……ちょっと、触っていい?」


「薪を?」


「糸を」


「好きにすれば」


 手を伸ばして、束から垂れた糸の端を指で摘んだ。


 ——と、指先にかすかな温もりを感じた。


 糸が、ほんのりと温かい。


 手汗で温まったのか、と思いかけて、違うと気づいた。ローザの指が最後に触れていた端の方だけが温かい。僕が摘んでいる側は、外気と同じ温度だ。


 ある光景が、ふいに蘇った。


 賦役の途中で、ローザが差し出した革袋。中の水が、朝は木陰に寄せてあったはずなのに温かかった。あの時のローザは、温度のことを聞かれて初めて考える、そんな間の取り方をしていた。


 温かい水。切れない糸。


 どちらも、ローザの手を通っていた。水はぬるく残り、糸は強く、太さまで揃う。ローザ自身は、どちらも特別なことだと思っていないらしい。自分の手が糸や水に何を起こしているのか、気づいていない。


 指の腹で、糸の太さをもう一度確かめた。


 丈夫で、太さが均一で、しかも片手間でも長さが出る。


 無限に作れるわけじゃない。元の布切れが要る。だが、切れ端にも価値がつくなら話は別だ。


(これは——売れる)


 口から勝手に声が出ていた。


「ローザ」


「何」


「これ、売り物にできるかもしれない。袋を縛るのにも、布を繕うのにも使える。布を扱う相手なら、良し悪しが分かるかもしれない。塩や麦に換えられる相手がいるか、確かめたい。最初の元手になるかもしれない。……僕の言葉で言えば、原始的蓄積の最初の一歩だ」


「長い。で、何」


「いや、聞いてくれ。村の中じゃ薪を縛るか繕うかで終わる。でも村の外で布や荷を扱う相手なら、この強さは売り物になるかもしれない。そうなら、塩や麦に換えられる。そういう物が一つあるだけで、次に何を売るか、どう増やすかを考えられる。だから——」


「気持ち悪い。急にそうなるの」


 ローザが糸を巻く手を止めた。


「早口すぎる。何言ってるか分かんない」


「……」


「しかも喋り方偉そう。何それ」


「興奮すると、つい」


「黙って。今それ拾うから」


 ローザは薪の束を地面に下ろした。


「分かるように言って、バカ」


 息を整える。


「ローザの糸は丈夫だ。荷を縛ってもほどけにくいし、布を繕っても切れにくい。村の外なら売れるかもしれない。売って、塩か麦に換えたい」


 ローザは僕の顔をじっと見た。


「……最初からそう言えばいいでしょ」


「うん」


「で、『げんしてきちくせき』って何」


 聞いてきた。呆れた顔のまま、聞いてきた。


 こういうとき、ローザは僕の言葉を切って終わりにはしない。分からないままにはしておかない。


「……物を外で売って塩や麦に換えて、そのうちの一部を、次の売り物のために手元に残しておくこと」


「ふうん。売って、次の分を残すってことね」


 ローザはそれだけ言って、少し黙った。


「すぐやるとは言わない。けど、できるかどうかは考える」


 そう言ってから、薪の束を背負い直そうとした。


 その動きが止まった。


 しゃがんだまま、僕の方を見ずに、ぽつりと言う。


「で、わたしの糸で、ほんとに村の外と取引できるって思ってる?」


「思ってる。だから言ってる」


 つい、本気の声が出た。


「ローザの糸なら、塩か麦を村の外から持ち込めるかもしれない」


 ローザの手が、束の上で止まった。


 次の瞬間、足元の小枝を掴んで、こっちに投げてきた。


 顔の横を、枝が掠めて飛んでいった。


「危ないよ。目に刺さるところだった」


「うるさい」


 耳が赤い。


「考えとくって、言ったでしょ」


 ローザは薪の束を背負い直して、こちらを見ずに歩いていった。裸足の足跡が湿った土に残る。


 息を吐いた。止めていたらしい。


 地面に落ちた小枝を、足の先で軽く転がした。



 夜。小屋の中。イェニーはもう寝ている。


 壁に背を預けて座った。土壁が冷たい。


 父は怒りを口に出せず、ローザの母は薬と引き換えに出せるものを持てなかった。死に方は違う。でも、どちらの家にも状況を変える手立てがなかったことだけは同じだった。


 指先には、まだあの糸の張りが残っている気がした。


 明日やることを、頭の中で三つに絞った。


 一つ。行商人がいつ来るか確認する。

 二つ。屑糸の元になる布切れと、ローザの糸をどれだけ揃えられるか考える。

 三つ。すぐに売れないなら、そのあいだ、暮らしをどう支えるか考える。


 手順を間違えると、この計画は全部だめになる。売り先が遠すぎるなら、まず糸の元と紡ぐ時間を確保しないといけない。


 遠くで虫が鳴いている。



 翌朝。


 竈の前で鍋を温め直すイェニーに、行商の話を振った。


「布を売りに来る人なら、秋の終わりかな。去年は来なかったけどね。一昨年は来たよ。塩と針と、ちょっとした染料を背負って、布と交換してくれた。布のほつれや、縛る紐の具合なんかも、ついでに指で見てたよ」


「塩」


「塩ひと握りで、村中が大騒ぎだったよ。うちの分は、お祝いの日だけ使うようにしてね」


 塩ひと握りで、村中が覚えているくらいの出来事になる世界だ。


「毎年は来ないの?」


「道が悪いときは来ないし、領主様の通行の許可がいるときもあるから。グリュンが一度、『許可は出さん』って追い返したのを見たよ」


「西の方、山を二つ越えた先の街道沿いだって。『バスティアの旦那』って皆呼んでた」


 秋の終わりまで待つ。しかも、許可ひとつで来ない年もある。


 思っていたより、ずっと遠い。


 それでも、相手の名前と道筋だけは分かった。これで、どこでバスティアの旦那を待てばいいかは決まった。


 イェニーが椀を差し出してきた。それから、少しだけ眉を寄せた。


「何か売ろうとしてるの?」


 鋭かった。


「……ちょっとだけ、考えてる」


「家にあるものを勝手に売ったりしなければいいけどね」


 それ以上聞かないのが、この人なりの気づかいらしかった。


 食べ終えて、小屋の外に出た。朝の風が、頬にひんやり触れた。


 秋の終わりまで待つ。その間に、糸を紡ぐ時間を作り、食べる分も確保する。


 売る話は、そこからだ。


 遠くで、鐘が鳴り始めた。今日もまず、領主の畑を耕すところから始まる。

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