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『存在が意識を規定する』と井戸端で説いたら、全員頷いて誰一人動かなかった

【授命暦842年 3/11 朝】


 鎌の柄が、もう掌に食い込んでいた。


 祝福の翌朝。昨日の儀式の余韻で、膝はまだ少し重い。賦役が始まってまだ半刻も経っていないのに、汗が目に落ちる。足元の土——領主の直営地は穂が重く頭を垂れ始めていた。朝露を弾く濃い緑が、風のたびに光る。


 境界の石垣を挟んだ向こう側——僕たちの畑は、穂が立ったまま痩せている。


 同じ土、同じ雨、同じ日照り。違うのは祝福だけ。


 隣で鎌を振っていた男が、ぼやいた。


「領主様の畑はやっぱり違うなあ」


 それ以上は言わず、鎌を振り直す。


 当然、村人も気がついている。あの男の声色で、それは分かった。皆、おかしいとは気づいている。それでも「そういうものだ」と諦めて、口にしないだけだ。


 ——このまま何もしなければ、当然何も変わらない。けれど、子供がどれだけ必死に鎌を振ってもできる事は限られている。物理的に状況を覆す手札は、今のところゼロだ。

 だったら、せめて言葉にする。諦めて押し込めている不満を口に出して共有させれば、「仕方ない」と諦める気持ちが、少しは弱まるかもしれない。


 鎌を振りながら、頭の中で言い換えを組み立て始めた。


 大層な革命を起こす気はない。そんなことは非現実的だし、前世でも暴力による革命には明確に反対の立場だった。ただ、「実は損をしている」という事実を噛み砕いて広め、せめて誰かがグリュンの目を盗んででも自分の畑を優先しよう——そう考える者が一人でも出ればいい。


「剰余労働の搾取」——駄目だ。「搾取」の時点で意味不明だろう。「祝福の順番がおかしい」——違う。それは当たり前すぎる。「向こうを先に刈るあいだに、こっちの穂がいちばんいい半日を逃してる」——これでいい。新しいことを教える必要はない。誰も否定できない当たり前を、村の誰かに声に出してもらう。


「おい、手を止めるな」


 グリュンの声が飛んできた。鎌を振り直す。


 ——夕方だ。井戸端なら人が集まる。グリュンは夕方は小屋に引っ込んでいることが多いから、たぶん来ない。


 たぶん。



【授命暦842年 3/11 昼】


 昼の休みに、川沿いの木陰に腰を下ろして水を飲んでいたら、頭上から声が降ってきた。


「気持ち悪い。何ぶつぶつ言ってるの」


 ローザだった。鎌を肩に乗せて、上から覗き込んでいる。


「……発声練習」


「嘘でしょ。聞こえたよ。『ジョウヨせいさん』とか、『セイサンかんけい』とか。聞いたこともない言葉」


 意味のわからない音の羅列を、耳ざとく拾われていた。


「……ちょっと、言い換えを練ってて」


「何の言い換えなの」


「……夕方の井戸端で、ちょっと話をしようかと思って」


「井戸端で何の話をする気なの」


「畑の色が違う話」


 ローザの眉が、ぴくりと動いた。


「それ、井戸端でする話?」


「する話じゃない?」


「しない話だよ。井戸端ではね」


 断言された。


「見りゃわかる話を、わざわざ大声で言う子は、変な子って呼ばれるの」


「変な子で済めばいいんだけどね」


「済まないから言ってるの」


 ローザは面倒そうに柳の根元に腰を下ろした。膝を抱えて、こちらを斜めに見上げてくる。


「で、どう話すつもりなの」


「……順番を決めて、やろうかなって」


「さっきの変な言葉で言うと?」


「あ——ごめん。最初から順番に話すってこと」


「それを最初からそう言えばいいでしょ。わざと難しくしてるの?」


「難しくしてるつもりはないんだけど……」


「あんたの『つもりはない』は信用しないことにしてる」


 手厳しい。でも伝わらない言葉を選んだのは事実だから、反論できない。


「で、その順番に話すってやつ。どう話すの」


「まず、領主さまの畑と僕たちの畑で、どっちが先かを図にして」


「地面に図を描いて説明するつもり?」


「枝で地面に描けばいい。線が二つあって、その間に矢印を引いて、どっちがどっちから取っていってるかを——」


「あんた、殴られて死ぬよ」


「まだ途中なんだけど」


「途中で死ぬ。二行目で」


 容赦がなかった。


「じゃあ図はなしで。口で順に言う。先に見えること、そのあとで、どうしてそうなるかを——」


「長い」


 まだ二十秒も喋っていない。


「またその顔。長くなる前にわかるって言ったでしょ」


 この短期間で、僕の長話の気配を完全に覚えられてしまったらしい。


「分かった、短くする。言いたいことは一つだけだ」


「一つだけなら聞く」


「向こうを先に刈るあいだに、こっちの穂がいちばんいい半日を逃してる」


 ローザはしばらく黙った。それから、長く息を吐いた。


「……それだけなら、すぐには殴られないかもね」


「すぐには、なんだ」


「その次に何を言うかで殴られる」


「前の世界はそうでもなかった」


「どこの世界の話」


「……いや、なんでもない」


 また漏らした。今のは危なかった。


 ローザは立ち上がって、鎌を肩に戻した。


「井戸端、行くなら一人で行きなよ。わたし、巻き込まれたくないから」


「来ないの?」


「遠くから見てる。巻き込まれないとこで」


 面倒そうに言って、歩いていった。


 巻き込まれたくはないが、見には来るらしい。



【授命暦842年 3/11 夕方】


 夕方の井戸端に、五、六人いた。


 水汲みの順番を待つ老人。傍らの子どもの手を引き、桶を提げた若い母親。順番待ちの間に鎌の刃についた泥を布で拭っている若い男——柄に焦げ跡がある。自分で直した痕だろう。他に二、三人が空の桶を足元に置いて順番を待っている。


 僕も手に持った空の革袋を握り直し、深く息を吸った。藁と煮炊きの煙が混じった夕暮れの空気が肺に入る。


 ローザの言う通り、理屈は駄目だ。事実だけを話す。噛み砕いて、短く。狙いは革命じゃない。まずは「自分たちがいかに損をしているか」という事実を、彼ら自身の口から出させる。


 ——准教授時代より緊張している。教室なら、問いを投げれば誰かが答え、その一言をきっかけに、皆の考えを前へ進められた。あの癖に、今もすがっている。今の僕には、他に状況を変える手がない。


 順番の列の端に付き、老人の隣に立った。井戸の石積みに手をつく。石はまだ昼の熱を残していた。


「ねえ、少しだけ聞いてくれないかな」


 老人が顔を上げた。目の下にくまがある。


「今朝の畑道でも誰か言ってたけど——領主様の畑、今年も先に頭下げてるよね」


「そりゃ毎年のことだ」


 素っ気ない。でも否定はしていない。


「向こうを先に刈ってるあいだに、こっちの穂、いちばんいい日を過ぎてないかな」


 老人が少し黙った。


「……過ぎとるかもしれんな」


 否定されなかった。想定通りだ。——ここから、どこまで言うかを決めなければならない。


 声が大きくなっていたらしい。桶を提げた母親がこちらを見ている。石垣の若い男も、鎌の柄を弾く手を止めて聞いていた。


「半日でも先に自分の畑に入れたら、秋の麦の量、少しは違うと思わない?」


「違うさ」


 振り向くと、空の桶を抱えた中年の男が、いつの間にかすぐ横に来ていた。腕を組んだまま、首だけこちらに向けている。


「朝露が残ってるうちに入れりゃ、穂ももう少し持つ」


 老人も井戸の縁に手をついたまま、低くうなずいた。


「半日ありゃ違う」


 心臓が跳ねた。二日かけて選んだ言い方が通じたからじゃない。返ってきたのが新しい理解じゃなく、「半日ありゃ違う」という、村の大人自身の言葉だったからだ。彼らはやはり知っていた。


 頷きが重なる。思っていたより簡単に、皆の関心がこちらに向いた気がした。


 桶を提げた母親も、足を止めたままこちらを見ている。石垣の若い男も、目を細めた。


 ——ここで止めるはずだった。当たり前を口にさせれば、それで十分だったはずだ。どう隠すかまで言えないなら、この先へ踏み込むべきじゃない。それは分かっていた。なのに、皆が頷くのを見て、今なら問いの形にすれば、もう一歩先の話までしても大丈夫だと勘違いした。


 せめて、あと一言だけ。


「だったら、明日の朝だけでも、見つからずに先に自分の畑へ入る半日があれば——」


 言い切る前に、背中を硬い土塊が強かに打った。


 鈍い音がして泥が砕け散る。息が詰まって、前に半歩よろけた。


「その先を言うな、この馬鹿!」


 ローザの声が、すぐ後ろから飛んだ。


 振り返ると、ローザが井戸端のすぐ手前まで踏み込んでいた。背負っていたはずの薪の束は足元に放り出され、投げた腕がまだ下りきっていない。胸が、走った後みたいに大きく上下していた。


 「遠くから見てる」と言ったあの位置から、いつの間に、ここまで。


 ローザは僕越しに老人たちへ顔を向け、声を張った。


「病み上がりが調子に乗ってるだけ! 聞かなかったことにして!」


 声が、いつもより半音上ずっていた。


 老人が肩越しに道のほうを見てから、大きく息を吐いた。


「……坊主、今のは泥で済んでよかったと思え」


 中年の男も、腕を組んだまま声を落とした。


「半日ありゃ違う。そりゃ違う」


「だが、その半日を誰がくれる。勝手に抜けりゃ、グリュンに目をつけられる。何されるかわからん」


 反論が喉まで上がったが、背中の痛みでうまく息が吸えない。


 桶を提げた母親が、子どもの手を強く引いてじりじり後ずさった。


「うちはやめとくよ。明日の分まで減ったら困るから」


 老人は井戸の縁から手を離さないまま、低く言った。


「俺の爺さまの頃にもいた。口を揃えりゃ何とかなるって言ったやつが」


「畑に戻ってこなかった」


「坊主、悪いこと言わねえ。まず飯が増える手立てを持ってこい。その話はその後だ」


 老人が足早に自分の桶に水を汲み、そそくさと背を向けた。中年の男も滑車に手をかける。


「そうだ。口だけじゃ目をつけられるだけだ」


 水を汲み終えた者から順に、逃げるように井戸端から離れていく。


 ローザも、投げた腕をようやく下ろした。地面の薪の束を黙って拾い上げ、背負い直す。こちらを見ないまま、井戸端を抜けて道の脇へ歩き出した。村外れまでは行かず、少し先の木陰で足を止めたのが、目の端に映った。


 残ったのは、石垣に寄りかかった若い男だけだった。鎌の柄の焦げ跡を、親指で撫でている。


 目が合った。


「——名前は」


「ハインリヒだ」


 短く名乗って、また鎌の柄に目を落とした。


「……言ってることは、わかる」


 心臓が跳ねた。二度目だ。だが今度は、跳ね方が違った。


 正しい言葉に頷いた大人たちが目を背ける、あの重い沈黙がまた来るのかと身構えてしまったのだ。


「けど俺が聞きたいのは、『半日あればいい』じゃなくて、半日をどうやってひねり出すかなんだよ」


「目をつけられずに、な」


 言葉が出なかった。


 ハインリヒは鎌を肩に乗せた。


「それが出るなら、また聞くわ」


 背を向けて、足早に去った。


 井戸端に、僕だけが残った。


 水が滴る音だけがしている。背中の痛みが、遅れて熱を持ち始めた。



「死んでないなら返事して」


 背後から声がした。


 ローザだった。さっき抜けた木陰のほうから戻ってきている。薪の束を背負い直したまま、裸足の足が湿った土を踏んでこちらへ歩み寄ってくる。


「……遠くから見てたんじゃ」


「見てた。途中までは」


「途中で出てきたね」


「出てきた」


「巻き込まれたくないって、言ってたよね」


「言った」


 ローザはそこで初めて目を逸らした。井戸の縁の濡れた石に視線を落として、すぐに僕に戻す。


「止めるにしても、もうちょっと優しいやり方があったんじゃないかな」


「なかったよ。間に合わせるのが先」


 容赦がない。


「あんた、あと一言で村じゅう巻き込むとこだった」


「背中が痛い」


「死んでないなら平気」


 ローザは背負った薪の束の紐を握り直し、道の向こうを顎でしゃくった。


「それに、さっきそこからグリュンが曲がってきてた」


「……グリュン」


「足音は向こうの道へ逸れていったけど。あのまま続けてたら、今ごろイェニーおばさんまで巻き込んでた」


「それを先に言ってほしかった」


「言ってる間にあんたが言うから」


 それはそうかもしれない。


「爺さんたち、優しかったね」


「……泥の塊が飛んできた後に言う?」


「わたしが投げたからだよ。爺さんは投げてないでしょ」


 そういう優しさ、なのか。


「……みんな、半日あれば違うって分かってた」


「分かってるよ。だから動けないの」


 ローザはきっぱりと言い切った。


「半日抜けたら明日の分が減る。グリュンに見つかれば、家まで巻き込まれる。頷いたって、半日は湧かないでしょ」


「……」


「半日抜ける不安を埋める手立てがないなら、誰も賭けないよ」


「——今の、あんたに似てない言い方したね」


「婆ちゃんの受け売り」


 それだけ言って歩き出した。背中の薪の束が少し揺れる。三歩ほど行って、振り返らずに付け足す。


「これから、そういう危ない独り言は、人のいないところで小さい声でやって。あんたが消えたら、イェニーおばさんが困る」


 去っていく足音を背中で聞きながら、僕も逃げるように井戸端を離れた。



 痛む背中を引きずって歩き、村外れの木の下に座り込んだ。


 夕暮れの風が乾いた草を撫でている。遠くで鴉が鳴いた。


 膝の上に両手を置いた。掌がまだ熱い。拳を握りすぎていた。


 ——最初は、彼らがうすうす分かっている不満を口に出させるだけでよかった。半日ありゃ違うと誰かの口から出れば、そこから少しは、仕方ないと諦める気持ちが弱まる。そのくらいで十分だと、本気で思っていた。


 そこまでは当たった。皆、すぐに頷いた。


 間違えたのは、その頷きを、実際に動ける合図だと勘違いしたことだ。返ってきた言葉をつなげれば、話をもう一歩先まで進められると思ってしまった。


 でも違った。ここで一歩先へ出れば、減るのは明日の飯で、次に飛んでくるのは泥では済まないかもしれない。聞いてくれた大人たちに、一日余計に怯える理由を増やしかけた。


「……存在が意識を規定する、か」


 講義で使っていたときより、ずっと冷たく、現実そのものに聞こえた。言葉の前に、暮らしの順番がある——正しい理屈より先に、明日の飯の心配が来る。そこを外したまま頷きを集めても、人は動けない。


 助けに走ったあの夜の田中のときも、足りなかったのは励ましじゃなく、逃げ切るための手立てだったのかもしれない。


 祝福がどう働いているのか。ローザの温かい水も、老人の石割りも、その仕組みにつながっている気はする。だが今は、そこまで追っていられない。


 足元の草を引き抜いた。根が簡単に抜けた。


 何を言えば伝わるか考える前に、半日を確保する手立てを探さなければならない。


 立ち上がった。膝が少し笑う。


 夕焼けの残りが麦畑の先に沈んでいく。村へ戻る道を歩き始めた。


 明日も鐘が鳴る。賦役がある。鎌を振る。その手を止めずに、どこで時間を盗めるかを考えるしかない。

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