生産手段を共有化する以前に、魔法の祝福が領主の畑にしか降らなかった
【授命暦842年 3/10 朝】
鐘の音はいつもと同じはずなのに、今日はやけにはっきり聞こえた。
「ムーア、早くおいで。今日は祝福の日だよ」
イェニーの声に焦りがあった。よそう手つきまできびきびしている。昨日と同じように、汁は薄かったのに。
「祝福って、昨日の——」
「豊穣の祝福。司祭さまが畑に下ろしてくださるんだよ」
「下ろすって、何を?」
「力だよ。土が潤って、穂がよく実る。領主さまのお計らいなんだよ」
領主さまのお計らい。力。穂が実る。
生産力を高める技術が、領主の恩恵として与えられている——そう考えれば筋は通る。単純に興味深い。
「ムーア、なんでそんなにニヤニヤしているの?」
「にやにやしてないよ」
「してるよ」
見ると、膝に薄い汁が落ちていた。
外に出ると、村人が広場へ向かっていた。いつも畑に向かう朝より、みな口数が少なかった。
ただ、急いでいた。足取りは重いのに、遅れまいとして皆いつもより早足だった。
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【授命暦842年 3/10 昼】
広場の地面は踏み固められていた。青い香草を焼く匂いが薄く漂っている。
前に立っているのは白い布を肩から垂らした司祭と、その横にグリュン。
ナッソー伯は広場の奥、石段の上で腕を組んでいた。
司祭が祈り、グリュンが人を従わせ、ナッソー伯は石段の上からそれを見下ろしている。三人の役割は、はっきり分かれていた。どちらがどちらに頭を下げるでもない。ただ、同じ仕組みを保つために、それぞれ別の役目を担っているように見えた。
「皆、膝をつけ。顔を上げるな」
グリュンが声を張った。
「始めます」
司祭の声には抑揚がなく、ひどく事務的だった。村人は誰も顔色を変えない。
慌てて見よう見まねで膝をつく。
ローザは端にいた。膝はついているが、無表情で眺めている。
司祭が両手を上げた。祈りの言葉が流れる。聞き取れない古い言葉だ。
青い香草の匂いが鋭くなった。
——そのとき、急に膝へ強い重みがかかった。
地面に押しつけられるような感覚が、一瞬あって消えた。指先が冷たい。さっきまで朝日で温まっていた手の甲が、急にかじかんでいる。
気のせいかと思う。だが、隣のイェニーが小さく息をついた。額にうっすらと汗が浮いている。前列の男の肩が上下していた。走った後みたいな荒い呼吸だ。その隣の女も。膝をついて祈っていただけなのに、広場のあちこちから、息を詰めてから吐き出すような音がした。香草の煙が届かない広場の端でも、膝をついたばかりの者まで、同じように肩が上下していた。
直営地の方を見た。
穂が艶を取り戻していた。さっきまで乾いて見えた葉先に、濡れたような緑が戻っている。風が吹くたび、その畑だけ葉の表面が朝日にきらりと光った。
本当に、変わった。
驚いて、思わず息をのんだ。前の世界で、豊作を祈る言葉はいくらでも聞いた。でも、祈りのあとで土の色まで変わるところなんて見たことがない。こんな力が本当にあるなら、飢えを減らせるのではないか——と、一瞬だけ思った。
きれいだ、とすら思った。
境界の石垣を挟んで、向こうは濃い緑、こちらは薄い緑。同じ土、同じ雨。違うのは、祝福の配分だけだ。
向こうが先に実れば、刈る順番も向こうが先になる。こっちに回るころには、畑のいちばんいい半日が削られる。
さっきまで湧いた期待が、そこで少し冷めた。
「勝手に頭を上げるな!」
グリュンの怒鳴り声が飛んだ。慌てて視線を落とす。
膝の重さは、土の湿気じゃない。祈っていただけなのに、半日畑に出た後みたいだ。隣の男が立ち上がるとき、膝が笑っていた。イェニーの唇の色が、朝より白い。
穂は太っていた。それと引き換えみたいに、人の顔色は悪くなっていた。人の体力が、そのまま向こうの畑に移ったように見える。まだ決めつけるには早い。でも、そう疑うには十分すぎる眺めだった。
奇跡みたいだと思った、そのすぐ横で、人の息が上がっている。ありがたい祝福だと思うには、どうしても嫌な違和感が残った。
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儀式が終わると、そのまま領主の畑仕事に回された。
祝福を受けた直営地は、朝とは別物だ。土の色が深い。穂は重く垂れかけて、昼前なのに朝露みたいな湿り気が残っている。
刈り取る麦は昨日よりはるかに立派だった。だが、鎌を振る腕の疲れだけは、昨日と変わらず重い。
隣の畝で麦を刈っていた老人が、邪魔な拳大の石を拾い上げ、ぽんと割った。
きれいに。
指先で表面をなぞると、石はあっさり二つに割れた。
昨日も同じ畝にいた老人だ。たぶん昨日も同じように麦を刈っていた。でも昨日の僕は、手首の痛みに必死で、隣の手元なんか見ていなかった。
「……今の、どうやったの」
老人は振り向きもしなかった。
「割れやすい筋がある。長く触ってりゃわかる」
コツ、と言い切った。
でも、あの割れ方は普通じゃない。指でなぞっただけで、石が素直に二つに分かれた。
今朝の儀式を見た後だから、気になるのか。それとも、昨日まで見えていなかっただけなのか。
鎌を振りながら、ばらばらだった考えが、そこで一つにつながり始めた。腕は重い。掌の皮もひりつく。それでも頭だけが勝手に走る。
魔法が生産手段だとしたら——いや、畑をどの順で実らせるか、その順番そのものに関わっているのかもしれない。土を耕してから収穫するまでのあいだに、この世界特有の力が入り込んでいる。石を割る指先の小技とは、たぶん別だ。畑一面を変え、人の体の重さにまで影響するような力——
「危ない」
横から手が伸びて、鎌の柄を押さえられた。ローザだった。
「指、切るよ」
「……ごめん」
「考えるのは手を止めてからにして。昨日もそれで麦踏んでたでしょ」
踏んでいた。見られていた。
「いや、今朝の祝福——みんな、体が重くなってただろう。つまり……」
「鎌もったままで話すの怖いから辞めて。あと長そう」
まだ半分しか喋っていない。
「その顔、前にも見た。難しい話を始める前って、すぐ分かる」
この子はいつから、僕が理屈をこね始める前の顔を見分けるようになったんだ。
「……みんながあんなにしんどそうなのに、領主さまの畑だけ先に良くなるのって、おかしくないかな」
「おかしくないよ。当たり前でしょ」
「当たり前?」
「領主さまの畑が先。わたしたちは残り。ずっとそう」
ローザは鎌を振り直した。切り口が揃っている。
「それがおかしいと思わないの」
「思ったら何か変わるの」
返す言葉が出ない。
「ほら、また止まってる」
鎌の柄の尻で肩を小突かれた。
「あんた、鎌持ってるのに頭は別のこと考えてるでしょ。考えてるだけじゃ、麦は刈れないよ」
ぐうの音も出ない。
「そこ、手が止まってるぞ。働け!」
グリュンが飛んできた。
鎌を振り直す。ローザはもう自分の列に戻っている。すれ違いざま、聞こえるか聞こえないかの声で、
「次、しゃべるときは刃、下ろしてからにして」
と言い残した。
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【授命暦842年 3/10 夕方】
帰り道のことだ。
少し先を歩いていたローザが足を緩め、横に並んだ。それから革袋を差し出した。
「水。先に飲んで」
受け取って口をつけた。
ぬるい。——いや、温かい。
革袋の外側に触れる。外まで温もりがある。
「……これ、温かいね」
ローザの指が、革袋の紐を結ぶ途中で止まった。
「そう?日向に置きっぱなしだったからじゃない」
答えるまでに、半拍あった。目線は僕ではなく、自分の指先に落ちていた。
それから、いつもより少し早足で先に歩いていった。
だが、あの革袋は、たしか朝は木の幹の影に寄せてあった。少なくとも、日なたに置きっぱなしではなかったはずだ。
ローザ自身は、温かいことに驚いていなかった。ただ、「日なたに置いていた」という説明だけが、少し遅れて出てきた。
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【授命暦842年 3/10 夜】
夜、小屋に戻っても頭が冴えていた。体は重い。脚はだるい。掌のひりつきは、もう慣れ始めている。
イェニーは鍋の底を木べらでこすっていた。焦げを削ぐ音がする。
「疲れたでしょ、今日は」
「うん。……母さん、今朝の祝福なんだけど」
「きれいだったねえ」
そっちか。
「司祭さま、今年はお声が澄んでたよ。去年は喉を痛めてらしたから」
「……うん。でもさ、祝福のあと、みんな息が上がってたよね」
「祝福の日は、終わると体が重いよ。毎年そうだもの」
毎年そう。
「……それで、祝福が領主さまの畑ばっかり先に良くなるのって」
「ばっかりってことはないよ。残りもいただくでしょ」
残り。——当たり前の順序で、残りという言葉が口から出てくる。
「ちょっとくらい分けてもらえたらって、思うことはあるけどね」
振り向いた顔は疲れていた。馬鹿にする顔ではない。困る顔だった。
「でも、ないものは増えないよ」
昨日も聞いた言葉だった。
「祝福がなきゃもっと取れないしねえ。去年遅れた時はひどかったもの」
「遅れたことがあるの?」
「雨が少なくてね。司祭さまも礼拝が多いから、大変なんだよ」
母は、村人の負担より先に司祭の苦労を気にしていた。
鍋の底を一度こすり直し、椀に注がれる。薄い。
「母さんの分、減ってない?」
「わたしはいいんだよ。昼にちょっとつまんだから」
つまんだ、と言う時の声の軽さで、昼もろくに食べていないのだろうと思った。
「……ありがとう」
「何が」
「ご飯を多めにしてくれて」
「毎日のことでしょ」
犬が遠くで鳴いている。
犬がまた鳴いた。
昼のあいだ、何度か思い出していた。朝の畑は、たしかにきれいだった。あの緑を見た瞬間だけは、この世界には本当に奇跡があるのだと思った。老人の石割りも、ローザの革袋の温もりも、前の世界にはなかった力の気配としては同じだ。
でも、いま小屋の暗さと薄い粥の前で考えると、胸が冷える。石を割る指先や、水に温もりを残す手元の工夫と、畑一面の色を変える祝福は別だ。後者には、どの畑を先に実らせるかを決める力まで含まれている。
前の世界の搾取は、作ったものを取り上げる仕組みだった。ここで起きているのは、もっと手前に見える。働いた後の取り分を削るんじゃない。働く人間の体力そのものが先に奪われて、領主の畑へ回されている——そう疑わざるを得ない。こんな搾取の形は、前の世界の講義では扱わなかった。
それを「祝福」と呼ぶせいで、何が起きているのか見えにくくなっている。露骨で、たちが悪い。
それでも皆は、「そういうものだ」と受け入れてしまう。このまま考えるだけで終われば、僕まで、何も疑わず黙って働く側に回ってしまう。せめて、あの畑の色の違いだけでも、誰かがはっきり口にしなければいけない。
イェニーの寝息が聞こえ始めた。
体の重さが、まだ抜けない。




