絶対的剰余価値の搾取を、全身の筋肉痛で理解した
【授命暦842年 3/3 朝】
鐘が鳴った。重く低い音だ。頭の奥までずんと響いた。
「ムーア、おはよう。今日は領主さまの畑だよ。食べたらすぐに向かってね」
イェニーはそれだけ言って、足早に出て行った。
今日は先に領主の畑で働く日だ。鐘が鳴ったら行く。行かなければどうなるかは、わざわざ誰かに聞かなくても分かる。
昨日の夕方には市を作るところまで考えていたのに、朝になれば、鐘ひとつで領主の畑へ向かわされる。今はまず、この暮らしの決まりから逃れられない。
飯を流し込んで、家を出た。
鐘に合わせて、村人が次々と道に出てくる。鍬を担いだ男。鎌を持った女。眠そうな子ども。腰の曲がった老人までいる。
誰も急いでいない。やりたくもない仕事に頑張る道理はない。
前の世界の僕なら、これを「封建領主に対する農奴の無償労働義務」と一言で片づけていただろう。だが、そんな一行でこの無力感は伝わらない。
領主の畑は、村の畑よりましだった。土の色が濃い。水路も近い。畝もまっすぐだ。
見比べれば、うちの畑が痩せた方だということだけは嫌でも分かる。
鎌を渡された。木の柄は汗で黒ずみ、手の形に少し凹んでいる。何人もの手を渡ってきたのだろう。
刃を親指の腹でそっと撫でる。
「思ったより、なまくらだな」
「その持ち方だと、麦が潰れるよ」
横からぶっきらぼうな声がした。
ローザだ。昨日の丘で、僕の理想社会論を「もっと怖い」と即答してきた相手。今日は小さな鎌を腰に差して、こちらを見ている。
「ああ、昨日の……」
「そんなことより、親指を巻き込みすぎ。柄の尻を少し余らせて」
「……詳しいね。持ち方だけでそんなに変わるのか」
「そっちが知らなさすぎるだけ。手、痛めるよ」
「昨日もそれ言われた気がする」
ローザは呆れたように肩を落とした。
「知らないことが多すぎるでしょ。見てから振って」
グリュンの声が飛んだ。ナッソー伯に使われていて、この村の領主の畑仕事を仕切る男だ。
「おい、ローザ。口より手を動かせ」
ローザは無言で列に戻る。面倒そうな顔のまま、手だけは迷いなく鎌を振り始めた。
言われた通りに持ち直すと、さっきより手首が楽だった。
⸻
「そこのガキ、遅れるな」
グリュンだ。革帯を巻き直しながら、列を見回す。
「列をそろえろ。止まるな。手を休めた分だけ、日が暮れても終わらんぞ」
泣くのはお前じゃないだろう、とは言わなかった。言って得する場面ではない。
思ったほど簡単には切れない。二度目でようやく麦束が倒れる。まだ十回も振っていないのに、前腕の内側がじわじわ張り始めた。
前の体なら準備運動にもならない。だが今の体では、十回も振らないうちに前腕が張って、すぐに重くなる。
隣で老人が咳き込んだ。麦を刈る速度が遅い。数列ぶん遅れていた。
「止まるな!」
グリュンが怒鳴った。
「脚を動かせ! 次の列へ回れ!」
老人は何も言わず、肩を震わせながら列を移った。
老人をかばおうとして、思わず足が前に出た。
止めた。今ここで飛び出しても、殴られて終わりだ。
わかるが、腹は立つ。
自分の口に入るわけでもない畑で、疲れだけがたまっていく。これこそが、マルクスが剰余労働と呼んだものだ。
「……これじゃ明日、体が持たないな」
口から漏れた。近くの女が怪訝な顔でこちらを見る。
「何て?」
「ああ……違う。腹が減るって意味で」
「最初からそう言いなよ。余計なこと口にしてると叱られるよ。今は腹の話だけでいい」
何が起きているのかは、腕のだるさだけで十分わかった。
⸻
【授命暦842年 3/3 昼】
昼前になり、刈り取った麦を各自が乱雑にまとめている。あちこちを行き来して無駄が多いのが気になる。
「刈った束をここでまとめずに、端にまとめてから運んだ方がいいんじゃないか?」
思わず口に出してしまう。
グリュンが振り返る。
「何だと?」
「刈る列と運ぶ列を分ければ、全体の手数が減ると思うんです」
「お前の仕事は刈ることだ。余計な口を出すな」
まったく聞き入れる気がなかった。
「取り分が足りなければ俺が叱られるんだ。勝手に段取りを変えるな」
背を向けかけて、付け足した。
「足が出たら、お前の家の畑から取り立てるからな」
家の畑から取り立てる。——僕が余計なことを言ったせいで、家の収穫が削られ、イェニーの椀がさらに薄くなるということだ。
この男にも上がいて、取り分を揃えられなければ自分が叱られるのだろう。余計な口出しを嫌がるのも当然だ。
「そうですね。申し訳ありませんでした」
僕は謝って、自分の仕事に戻った。
しばらくして、刈り取った麦束が荷車に積まれ始めた。朝から刈って、運んで、積んで。荷車は領主の館へ向かう。
麦は一束も自分のものにならないのに、腕の痛みだけがこちらに残る。
荷車が遠ざかる。車輪の軋みを聞いた瞬間、奥歯に力が入った。
なんなんだこれは。喉まで文句が出かかった。
「言わない方がいいよ」
荷車に麦を積みに来たローザが、僕の横で立ち止まって言った。
「まだ何も言ってない」
「でも、今すごく面倒なこと考えたでしょ」
「……いや、間違ってはないと思う。筋は通ってる」
「正しいから何。今は腹は増えないよ」
「何って——」
「あんたがすっきりして終わりならいいけど、困るのは家とか村だよ」
言い返しかけたが、やめた。
ローザは麦束を持ち直して、面倒そうに言った。
「周り巻き込まないで。まだ何もできないくせに。まず自分の列を終わらせなよ」
反論できなかった。この村で、子どもにできることは少なすぎる。
⸻
昼過ぎに、いったん今日の領主の畑仕事は終わった。家に戻ると、腕も足も棒のようだ。
イェニーが何やらしようとしている。
「手伝うよ」
「疲れ切った顔してるよ。病み上がりなんだから、休んでいて」
「休んでると、自分が役立たずみたいに思えてくるんだ」
イェニーは困った顔をしたが、小ぶりの斧を渡してきた。
「じゃあ、薪割りをしておいて」
薪割りも難しい。斜めに刺さって上手く割れず、何度も繰り返すことになる。
「節を正面から叩いてるよ。少しずらしてごらん。目に逆らうと割れないから」
イェニーが僕の手から斧を受け取り、薪の断面を指でなぞった。木目が一本、端から端まで走っている。斧を返されて、その線に沿って振り下ろすと、ぱきりと割れた。
「……割れた」
「お父さんも最初はそうだったよ」
お父さん。——この体の父は、もういない。顔は浮かぶのに、声は思い出せなかった。
イェニーは、いつものことのように言った。斧を渡す手も、木目を見る目も慣れきっていた。父親がいないこの家では、それがもうイェニーの役目になっているのだと分かった。
領主の畑で一日使われたあとで、僕は薪一本まっすぐ割れない。さっきまで考えていた理屈が、急に空々しく思えた。
夕食は朝よりさらに薄かった。
イェニーは半分ほど食べたところで椀を置いた。昼の脅しの重さを、そのときようやく実感した。僕がまた余計なことを言えば、真っ先に減るのはイェニーの食事だ。
「もういいの?」
「これで十分だよ」
「十分じゃないよ。……母さん、これじゃ朝までもたないんじゃないかな」
「ムーア」
イェニーが額に手を当ててきた。
「まだ熱があるのかい?」
「熱じゃないよ。……足りてない。どう見ても」
「足りないね」
あっさり返された。
「でも、ないものは増えないよ。明日の朝に回すから」
⸻
【授命暦842年 3/3 夕方】
食事を終えると、二人で家の畑へ出た。
道の途中で、ローザが自分の畑の端で鎌を振っているのが見えた。
速い、というより迷いがなかった。朝、僕に教えたのと同じ持ち方だ。柄の尻を少し余らせ、親指を巻き込みすぎない。切り口が揃っていて、無駄な力が入っていない。
周りに手伝う人影はなかった。あの広さを、一人でやっているのか。
朝の列では、もっと面倒そうな顔をしていた。
足を止める。
「何か用? 手、止められないけど」
ローザがこちらを見た。
「……自分の畑だと、そんなに違うんだね」
「違うよ。自分の畑だから」
それだけ言って、また鎌を振った。
そのまま歩き出すと、イェニーが小さな声で言った。
「あの子は一人だよ」
それ以上は言わなかった。
家の畑は石が多く、土が浅い。鍬を振り下ろす。鎌より重い。だが午前よりはましだった。
イェニーが雑草を抜きながら言う。
「今年はまだましだよ」
「これで?」
「去年は春の雨が少なくてね。聖堂の祈りが遅れたら、もっとひどかった」
「祈り?」
「畑がよく実るように祈る祝福さ。領主さまのお言いつけで、司祭さまが畑に祝福をくださるんだよ」
疑いのない声だった。イェニーにとって祈りは、雨や季節と同じで、あるかないかを言い争うものではないらしい。
本当に畑が変わるのかは、まだ見ていない。だが、領主の畑が先で、村の畑が後だという順番を、皆が疑っていない。その順番に逆らえない時点で、それだけで人を従わせる力になっていた。
「領主さまの畑は、よく実るんだね」
「あちらは大事な土地だからね。水も近いし、祝福も先にいただける」
「祝福も、先に領主さまの畑へ行くんだね」
反論も説明も喉まで出かかったが、口にはしなかった。今ここで理屈の名前をつけても、母親の疲れが増えるだけだ。
「ムーア、手が止まってるよ」
日が傾くころには、腕も脚も別人のものみたいに重くなっていた。
藁の寝床に腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けた。
掌を開いた。豆は潰れていた。鎌にも鍬にも細かいコツがあって、そのぶん体への負担も大きいのだとようやく分かってきた。
眠りかけた頭の隅に残ったのは、潰れた豆の痛みと、祝福ですら領主の畑が先だという事実だった。本当に土が変わるのかはまだ知らない。だが、領主の畑が先で、村の畑が後だと誰も疑っていない。どの畑が先に世話されるかまで決められているのなら、明日、その順番がどう守られているのか見ないわけにはいかなかった。そう思っているうちに、意識は遠のいていった。
ブックマークなどは励みになります。できれば宜しくお願いします。
感想は小躍りします。




