投資
【授命暦843年 11/15 昼】
戸口で板の音がして、セイが顔を出した。
「失礼します」
ローザが先に立ち上がって、戸を引いてやる。セイは荷車を外に置いてきた格好のまま、土間に入ってきた。冬が迫り、外の風はもう乾いて冷たい。
僕の前の作業台には、粗い紙が数枚と、書きかけの紙が二、三枚。乾いたクレヨンが端に並んでいる。半月かけても、農法と酒造りの清書はまだ半分も埋まっていない。床の土に下書きをして、紙に移して、書き直して、というのを繰り返していた。
そもそも紙が全然足りていない。
「壺、ぜんぶ揃ってますね」
セイは小屋の隅の棚を見て、頷いた。月例の梨酒。婆さんに頼まれて昨日のうちに僕が並べておいた。
セイが懐から布袋を出して、銀貨を作業台の縁に並べた。僕は受け取って、すぐ自分の腰の袋へしまった。
「あ、ついでに、なんですけど」
セイが少し間を置く。
「冬の仕込みの分は、どれくらい作れそうですか」
「婆さんに聞かないと、正直分からない」
「ですよね」
セイは深追いしなかった。視線が、僕の肩越しに作業台の奥へ流れる。
作業台に歩み寄ると、セイは紙とクレヨンを手に取って眺めた。
「……これ、なんですか?」
「自家用の紙と、クレヨンだね。今、農法と酒造りをまとめている」
「農法と、酒造りですか」
「途中だから、あんまり見ないで。大事なことも書いてあるし」
「ああ、すみません。内容じゃなくて、紙と、そのクレヨン? のほうに興味がありまして」
セイは台に近づいて、紙の端を指でつまんだ。
「厚みも大体同じで、質も悪くなさそうですね」
「書ければいいから、そこまでこだわってないけど」
「このクレヨンというものは、書く道具ですか?」
「そう。その辺の書き間違えてるやつなら、試し書きしてもいいよ」
ローザが横に来て、作業台に肘をついた。
「字も書けるよ。普通の炭よりだいぶ書きやすい」
セイは紙の端にさらさらと字を書くと、「なるほど……」と声を漏らした。
セイは、紙を一枚そっと持ち上げて、軒先の光に透かした。それから、端に並んでいた黒い棒を一本つまむ。
「これはなんですか?」
「クレヨン。炭と粘土を練って乾かしたやつ」
「折れにくいんですか」
「炭よりは。落とし方にもよるけど、炭片みたいにすぐ割れたりはしない」
セイは棒を作業台に戻した。だが、まだ視線は紙とクレヨンの間を行ったり来たりしている。話題を畑の話にも、酒の話にも、戻そうとしない。
ローザが横で、僕に目だけで合図してきた。「これ、何?」と書いてある顔。
僕は、首を小さく振った。「分からない」。
⸻
セイが、紙の一枚を指して、口を開いた。
「壺の首の紐に挟んで、中身を書いて、日付を書いて……」
そう言って、セイは粗い紙を半分に折り、近くに置いてあった梨酒の壺の首にかかっている紐へ差し挟んだ。紙の端が紐の隙間に引っかかって、少し垂れる。だが落ちない。
「……これ、いいですね」
「壺に貼るってこと?」と僕。
「貼るっていうか、挟むんです。中身が分かれば、運んでるときに混ざらない」
セイはクレヨンを取って、その挟んだ紙にちゃっちゃっと短く字を書いた。「梨」「日付」「六」。下手な字だ。だが読める。
「炭片だと、書いているうちに先がぽろぽろ崩れますし、運んでいるうちに擦れて、字が読めなくなるんです。木板は重い。羊皮紙は……あれは、高すぎて僕みたいなのが使うものじゃない」
「使えるんだ、これ」
「使えると思います。取り違えが減りますから」
セイが言ってから、ローザが横で頷いた。
「便利でしょ。当たり前じゃん」
「いや、そんなに簡単じゃ——」
「何が? 同じ大きさに切ればいいって話でしょ」
ローザがあっさり切ってくる。
僕は、口を開いて、止めた。同じ大きさにする、というだけの話ではない。だが、ローザの目はもう「で、何が違うの」と言っている。
セイがそこへ続けた。
「あと、納品数の控え。次に頼む数の覚え書きにも使えます」
「え、そんな使い道でいいの?」
「使えますよ。村に来るたびに、紙が一枚あれば、何を、いくつ、いつ受け取ったかが残せます」
セイは紙のもう一枚を取って、下に置いた。
「紙は軽いです。木片より、持っていきやすい」
それから、クレヨンをもう一度手に取って、指の腹で軽く押す。
「これは、炭より折れにくいですね」
紙とクレヨンを別々に確かめる。なるほどな、商人でも使う状況が結構あるからな。
——これは、嫌な流れになるな。作業が増える
「同じ大きさで、百枚くらい欲しいです。もっとあっても良い」
「なかなかたくさんだね」
「あと、クレヨン……っていうんですか、これも同じ太さで何本か。十本くらい」
セイは僕とローザを順に見て、視線を作業台に戻す。
「難しいですか」
⸻
「いや、それだとまとまった道具が必要お金が要るし、今はその数を作れない。あとボロ布も足りないかな」
流石にきついので、大げさに言って、断る流れにした。行商のセイが先払いでお金を払うのは厳しいだろう。
セイは、一拍置いた。
「……では、先に置いていきます」
「えっ」
セイが懐に手を入れる。銀貨を取り出して、作業台の上に並べた。二十枚。
「えっ、いや、これは——」
だがセイは、銀貨を並べ終えてから、手を離した。
「同じ大きさで、束にして。クレヨンも何本か」
セイが、もう一度、発注の中身を口にする。
「次に来るときは、できている分だけでいいです。残りは、その次で」
「いや、その、」
「これで道具は発注できますね、ボロも届けさせてますので。宜しくお願いします」
セイが言って、目を細めた。柔らかい笑い方だ。
ローザが横で、作業台の銀貨と僕の顔を見比べている。
「じゃあ、いいんじゃない。頼まれたんだから」
「いや、でも」
「次に来るときに、できてる分だけって言ってるじゃん。何が困るの」
ローザは銀貨の一枚を指で軽くつついた。冷たい音が短く鳴る。
——先払い、いや、これは投資だ。巨大化すると、これも労働者を縛る強力な道具になる。
とはいえ、金は必要だし、現金収入が増えるのは短期的には良いことだ。
「……分かった。引き受ける」
僕は、低い声でそう言った。
セイは頷いて、銀貨を作業台に残したまま、両手を膝に置いた。
セイは少し恥ずかしそうにして、立ち上がった。梨酒の壺をひとつ持ち上げる。半月に一度の用件は、もう半分以上、別のものに変わってしまった気がする。
「じゃあ、半月後あたりに、また」
「うん」
「壺、荷車に積んできます」
セイが戸口をくぐって外に出る。残りの壺は僕とローザで戸口まで運んだ。六壺。重い。腰が軽く軋む。
最後の一壺を渡し終えて、セイが荷車の幌を結わえているのを見届けて、僕は小屋に戻った。
戸を閉めると、急に静かになる。
作業台の上には、
粗い紙が数枚と、書きかけの紙が二、三枚。
クレヨンが、布で拭いた跡を残したまま、端に並んで。
そして、セイの置いていった銀貨がある。
並んでいた。
ローザが拭き布を畳み直しながら、こちらを見ないで言う。
「ねえ、これ、できる?」
「……うん。たぶん」
「たぶんって何」
「同じ大きさでっていうのが、いまの漉き板から何枚取れるか分からない」
「足りなかったら、また板から作るんでしょ」
「板から作るの、けっこう面倒なんだけど」
「あんたがやるって言ったんでしょ。鍛冶屋に頼めばいいじゃない」
ローザは平然と言って、布を畳み終えた。
——やばいものを、受け取ってしまった気がする。
担当表の予備板は、壁に立てかけたまま。二段搾り桶も、隅に置かれたまま。冬の仕込みは、まだ何も決まっていない。
「お腹空いた。ご飯にしよ」
ローザが布を作業台の隅に置いて、立ち上がる。
「うん」
「銀貨、ちゃんとしまっといてよ。落としたら笑えない」
「分かってる」
僕は銀貨を腰の袋へしまってから、紙の上にクレヨンを一本だけ載せた。外で、セイの荷車が動き出す音がした。




