普通って何?
【授命暦843年 10/30 昼】
朝のうちは家の手伝いをして、昼前に小屋へ来た。婆さんは家で繕い物、母さんは畑にいる。
今日はローザと二人で、作った紙に、今までのノウハウを書き残すことになっていた。
紙を作れたなら、次はそこに何を書くかだ。ぼくの頭の中だけに置いておくと、忘れるし、説明するときにも毎回言葉がばらつく。
作業台には、乾いたクレヨンが数本並んでいる。
軒先の板で乾燥させていたものが、十二日経って、表面のつやはもう消えていた。念のため朝のうちに火を起こして、近くでさらに乾燥させておいた。
一本つまんでみる。指に少し粉がつくけれど、形は崩れない。
そのままでは滑るので、細い麻紐を巻いて、鉛筆のように持てるようにしてみた。見た目はかなり不格好だが、指で直接持つよりはずっといい。
紙の余白に線を引いてみる。
細い。
思ったより、よく書ける。
「おお」
思わず声が出た。
「なに、その声」
「いや、ちゃんと書けたんだよ」
「ちゃんと書くためのものじゃないの?」
「そうだけど、実際に書けると別だよ」
ローザに渡してみると、ローザは少し慎重に持って、紙の隅にさらさらと自分の名前を書いた。
「おお!」
「ローザも言うじゃん。炭とは段違いだよね」
「手が真っ黒にならないのがいい」
「あと、こすってもすぐには消えない」
「間違えたら?」
「流石に消せないので、二重線とかで消すくらい」
「それは仕方ないか」
二人で顔を見合わせて、しばらく紙の上の線を眺める。たった一本の線なのに、妙に大きなことをした気分になる。
「で、何から書くの」
「農法からにしようと思う。酒造りは、そのあと」
「農法って、畑のこと?」
「そう。ぼくが今やってることを、あとで見返せるようにする」
「じゃあ、最初から紙に書くの?」
「いや、清書する前に整理したい」
ぼくは小屋の床の、固く踏まれた土の上に、細い棒で字を書いた。
土を耕す。
種を選ぶ。
種を蒔く。
肥料を入れる。
育てる。
刈り取る。
「これが大枠」
「項目だけ見ると、普通だね」
「普通のことは書かないようにしよう」
そう言うと、ローザはすぐにこちらを見た。
「普通って何?」
「えーと、種をまくとか、畝を作るとか」
「種をまくときに工夫してないの?」
言われて、ぼくは口を閉じた。
している。
かなりしている。
「……塩水で、詰まっている種を選んだり、事前に水に浸したりしてる」
「それ、普通じゃないよね」
「そうだね」
「あんたにとっての普通は、みんなと違うでしょ」
「確かに。間違いない」
「最初から信用できない」
「そこまで言う?」
ローザは棒を受け取って、地面に書き加えた。
塩水で種を選ぶ。
水に浸したあとに蒔く。
「塩水で選ぶって、どうやるの」
「水に塩を溶かして、種を入れる。軽くて浮いたやつは捨てる。沈んだやつを使う」
「浮いたら悪い種なの?」
「全部がそうとは限らないけど、軽い種は中身が詰まってないことが多い」
ローザの目が細くなった。
「書き残す意味ある?」
「ある。たぶん」
「たぶんじゃ困るでしょ」
「でも、まだ正確には決められてない。だから、今は『浮いた種は捨てる』『沈んだ種は洗って使う』って書く」
「洗うの?」
「塩が残るとよくなさそうだから」
「それも書く」
ローザは、少し考えながら地面に線を足した。
沈んだ種を洗う。
その後、水に浸す。
「どのくらい水に浸すの」
「一晩くらい」
「一晩くらい、って何?」
「夕方に浸して、朝に蒔く」
「最初からそう言って」
「はい」
ローザはうなずいて、棒を地面にこつんと置き直した。
「畝はどうしてるの?」
「水はけが悪いから、高くしてる」
「どのくらい?」
「ぼくの肘の少し下くらいかな」
「わたしの畑より高いじゃない」
「そうだと思う」
「なんで言わなかったの」
「隠してるわけじゃなくて、聞かれると出てくるんだよ」
「じゃあ、全部聞く」
「お願いします」
もう一行、〈畝・肘の少し下の高さ〉と書き加わった。
「畝を高くすると、何がいいの」
「雨が降っても、水がたまりにくい。根が腐りにくくなると思う」
「思う?」
「そこは、ちゃんと比べたわけじゃない。でも低い畝よりは育ってる」
「じゃあ、『水がたまりにくい』までにしておく」
「慎重だね」
「あんたが雑だからでしょ」
「返す言葉がない」
ローザは棒の先で、地面の字を軽く叩いた。
「種はどんな感じで埋めてるの」
「えーっと、指二本分くらい」
「指二本分」
「浅すぎると鳥に食べられるし、深すぎると芽が出るのが遅い」
「それも普通?」
「言ってない」
「言いそうな顔をした」
「顔で判断しないでほしい」
ローザは無視して、〈種は指二本分〉と追記した。
「間隔は?」
「作物による」
「はい、だめ」
「だめ?」
「それだと後で読んでもわからないでしょ」
「そうか」
「麦なら?」
「麦は、詰めすぎない。手のひら一つ分くらい空ける」
「豆は?」
「豆はもう少し広い。育つと葉が広がるから」
「根菜は?」
「根が太る分、さらに広くしたほうがいい」
ローザは途中で手を止めた。
「これ、作物ごとに紙を分けたほうがよくない?」
「そのほうがいい」
「最初から大きく分けすぎ」
「ぼくも今そう思った」
紙を使う前に地面へ書いておいてよかった。いきなり清書していたら、すぐにぐちゃぐちゃになっていた。
「あとは骨粉を肥料として撒いてるかな」
「肥料?」
「植物が育ちやすくなるもの」
「それはどう作るの?」
「動物の骨を焼いて、粉にしてる」
「焼くのはなんで?」
「砕きやすくなるのと、生のままだと臭うし、腐るから」
「それを、そのまま振りかけてるの?」
「いや、種を蒔く前に土に混ぜてる。根に直接当たりすぎるとよくない気がするから」
「気がする」
「そこは、まだ確かめてない」
「でも、混ぜてるんだね」
「うん」
ローザは、〈骨を焼く・砕く・土に混ぜる〉と書いた。
「量は?」
「畝一本に、両手でひとすくいくらい」
「両手って、あんたの?」
「ぼくの」
「わたしの手だと少ないね」
「じゃあ、器で決めたほうがいいか」
「そういうのを書き残すんでしょ」
「その通りです」
言われっぱなしだった。
ただ、ローザの言うことは正しい。
ぼくは知っているつもりで、実際にはかなり感覚でやっている。自分だけでやるならそれでもいいが、人に伝えるなら全然足りない。
「それで次は?」
「あとは、雑草を抜いたり、土寄せをして、倒れにくくするとか」
「いつ抜くの」
「芽が出たばかりのころ。作物と雑草の区別がつくようになってから」
「早すぎると?」
「間違えて作物を抜く」
「遅すぎると?」
「雑草に栄養を取られる」
「それも書く」
「はい」
ローザは、こちらに棒を返さずに字を増やしていった。
雑草は早めに抜く。
作物と見分けてから。
土寄せをする。
倒れにくくする。
「土寄せは、どれくらい?」
「茎の根元が隠れるくらい」
「埋めすぎたら?」
「たぶん、よくない」
「たぶんが多い」
「研究途中なんだよ」
「便利な言葉だね」
「使っていきたい」
「だめ」
二人して笑った。
しばらく地面に書いたものを見下ろす。
最初は六行だけだったのに、今は文字があちこちに伸びて、矢印まで生えている。整理するために書いたはずなのに、むしろ畑の中みたいになっていた。
「二度と普通とか言わないで」
「努力する」
「努力じゃなくて、禁止」
「禁止か」
「禁止」
「……わかった。普通は禁止」
ローザはうなずいて、ようやく紙のほうへ目を向けた。
「これ、紙に書くとしたら、どう分ける?」
「まず、共通のこと。種の選び方、畝の作り方、肥料」
「作物ごとのことは別?」
「別。麦、豆、根菜で分けたい」
「紙、足りる?」
「足りない」
「最初から問題じゃない」
「だから、最初の一枚は見本にする。全部は書けない」
「紙作りも、もっとやらないとね」
「そうなる」
ローザは少しだけ嫌そうな顔をした。
紙作りは楽ではない。水も使うし、叩く作業もあるし、乾かす場所も必要だ。書けるようになった瞬間に、書くための紙が足りないとわかるのは、少し皮肉だった。
「じゃあ、酒造りは?」
「それも書こうと思ったんだけど、婆さんに聞かないと正直わからんところ多いよね」
「……まぁ確かにそうね。わたしもなんとなくになっちゃう」
「酒のほうが、危ないしね。失敗すると飲めない」
ローザは笑って、棒を置いた。
「思ってたより、書けることが少ないね」
「ぼくも、思ってたほど知らなかった」
「知らないっていうより、ちゃんと言葉にしてないんじゃない?」
「それはある」
「明日聞くよ」
「あんた、休むって発想やっぱりないでしょ」
「あるよ。たまには」
ローザは短く息を吐いて笑い、クレヨンの先を布で拭いた。
それから、折れないように一本ずつ作業台の端に並べる。
紙にはまだ、ローザの名前と、試し書きの線しかない。
でも、床の土には、畑と酒のことがごちゃごちゃに広がっている。
ぼくはそれを見て、ようやくわかった。
知っていることを書くのは、思ったより難しい。
けれど、書こうとしなければ、何を知らないのかもわからない。
「まずは、畑の共通部分から清書しよう」
「普通禁止で」
「普通禁止で」
ローザがうなずいたので、ぼくは最初の一枚を、作業台の真ん中に置いた。




