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新たな道具とローザのブチ切れ

GWに書きためておくぶんが風邪で飛んでしまったことと、序盤を書き直すという悪癖で時間を潰してしまいました。

【授命暦843年 8/25 朝】


 朝の村を出るとき、母が戸口で布を畳む手を止め、僕の方を見た。


「気をつけて行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 ローザは先に道へ出ていた。腰に小さな袋を下げ、髪は後ろで縛らずそのまま流している。


「それじゃ、行こ」


 それで終わり。僕は前金の銀貨を握って袋に押し込み、ローザの少し後ろに着いた。


 ギーセンまでの道のりは子どもが歩いてでも夜までは帰ってこれる。最初の橋を越えるまでは、道は緩やかな登り坂で、両脇は刈り終えた麦の畝が広がっている。穂の落ちた畝は薄茶色で、夏の終わりの色だった。


「布、結局どうしたの」


 ローザが歩きながら言った。背中越しの声。


「桶屋に頼んでもらう。婆さんが、市の日に行商人に当たってみるって」


「桶は」


「桶屋から、樽と一緒に追加で。話してある」


「濾しは」


「それも、桶屋。ただ目の細かい布が必要だから、布が先になる」


「今日のは」


「潰した後の汁を、澄んだ酒に近づける桶。ヴィルヘルムさんに頼む」


 ローザは振り向かない。聞き終わったら、ふっと前を向いたまま黙る。


「ねえ、ローザ」


「なに」


「最初に梨酒の試し飲みやった時のこと、覚えてる?最後は宴会になっちゃったやつ」


「……覚えてるよ。何でいきなり」

「あの時、君、二周目入ったあとに井戸端の石に背中つけて寝てたよね」

「やめて」

「翌朝起こしたら、何も覚えてないって——」

「やめて、本当に」


 ローザは肩を一度すくめた。背中だけが見える形で、首筋が少し赤くなったのが分かった。


「あの時さ、君が、次の仕込みに自分も立つって決めて——」

「言わないで」

「あれ、よく決めたなって、今でも思ってる」

「もう、急ごうよ。帰りが夜になっちゃうから」


 ローザは前を向いて歩き出した。僕も後をついていく。


 道は橋を越え、刈った麦の畝が終わって、林の入口にかかった。日陰になる。風が一段冷たくなる。


 ローザが口を開いた。


「『いつか皆が、自分の暮らしを自分で決められるようになる』って前に言ったよね」

「言ったかな。言ったかも」

「『字が読めれば、自分の取り分も自分で確かめられる。決まり事を、自分で読んで、自分で考えて、自分で言える。村の中で何が動いてるかも、紙に書けば誰でも追える。今、誰がどれだけ働いて、誰のところに何が落ちてるか——それを、僕じゃなくて、皆が自分で見られるようになる』とも言ってた」

「細かいことは覚えてないけど、僕なら言ってそうだね」


 ローザはじっとこちらを見ている。


 果実酒が銀貨になり、銀貨が道具になり、道具が次の仕込みを楽にする。余った手が字を覚える時間になる。

 これは、単なる便利さではない。剰余時間が生まれ、生産力が上がり、生産関係の側に小さな裂け目が入る。史的唯物論をこの村の道に持ち込むなら、順番はそこからだ。

 所有と記録を自分たちの手に戻せば、上から降りてくる決まりではなく、暮らしの側から決まりを書き直せる。


 ただ、それをそのまま言っても通じない。

 僕はかなり噛み砕いたつもりで言った。


「果実酒が銀貨になって、道具になって、手が少し空く。字が読めれば、自分たちで決められることも増える。順番にやれば、いつか皆が、自分の暮らしを自分で決められるようになる」


 ローザは黙って歩いている。


「あんたが言ってたあれに、騙されてあげようと思ってたんだけどね」


 ローザがふっと言った。


「うん」と、僕は反射で返した。紙の話より先に、市の話を挟むべきだと思っていた。足は止まらず、視線も前の木陰に向いたままだった。


 数歩進んでから、ようやくローザの言葉が遅れて届いた。足が止まった。


「騙してないよ」


 僕はそう言った。全く騙しているつもりはない。


「本当にそうなるはずなんだ。今やってることは、思いつきじゃない。果実酒は売れた。銀貨は集まった。道具も来た。次は紙、その次は印刷、その次は——」


「あんた、ちゃんと聞いてた?」


 ローザが言った。少し声が低い。


「聞いてたよ」と僕は答えた。「でも、本当に騙してない。これは、僕の願望じゃなくて必ず——」


「わたしの話、どこ置いたの」


 ローザが立ち止まった。


「言葉に埋もれて死になさい!」


 僕は止まった。


 ローザは僕を見ていなかった。前を向いて、もう一度歩き出した。


「ローザ」

「歩こ」

「なんで——」

「歩こって言ってる」


 僕はついていくしかなかった。


 何が起きたのか、よく分からなかった。


 ローザの背中は前にあって、少し早く歩いている。林の中の道は片側が崖になっていて、向こうの谷を流れる川の音が遠くから聞こえる。


「ローザ」

「うるさい。あんた知らない道でしょ。前、見て歩いて」


 それきり、ローザは黙った。


 林を抜けて、もう一つ橋を越えて、ギーセンの村が見えてくるまで、ローザは口を開かなかった。



【授命暦843年 8/25 昼】


 ヴィルヘルムの工房は、村の入口から少し入った、川沿いの一段低い場所にある。屋根は低く、入口の戸は外に開いていて、中から鉄を打つ音が聞こえていた。


「ここで待ってる」


 ローザはそう言って、工房の手前にある古い切り株に腰を下ろした。


「中に入らないの」

「あんたの話、長いから」


 それだけ言って、ローザは膝の上に手を置いた。指は動かない。


 僕は工房に入った。


 作業台の前で何かを叩いていて、奥にはヨハンと、もう一人若い職人が立っている。ヨハンは僕を見ると、ふいごから手を離して、軽く頭を下げた。


「またお前か、坊主」


 ヴィルヘルムが顔を上げた。前掛けの胸の煤を手の甲で一度払う。鼻を鳴らす。


「お忙しいところ、すいません」

「忙しいのは生まれてからずっとだ。んで、何だ」


 僕は作業台の脇に立った。


「作ってほしいのは、果実をさらに潰す道具じゃない。潰した後の汁を、澄んだ酒に近づける道具なんです」

「意味がわからねぇが、面白そうな響きだな」


 ヴィルヘルムさんは僕の方を見て、唇を一度すぼめた。


「絵、あるか」

「いえ、口で説明します」

「地面に書け」


 その辺に転がっていた棒を拾って、目の前に絵を書き始める。


「桶の中に布袋を吊るして、その上から板でゆっくり押すんです」


「下には、汁を受ける浅い部屋を作る。底には澱が溜まるから——」


「待て」


 ヴィルヘルムさんが言った。


「澱は底に溜まるんだろ。なら、抜き口は底か」

「底じゃない。底だと澱も一緒に出てしまうから、抜き口は底じゃなくて、少し高い位置につける」


 ヴィルヘルムさんが鼻を鳴らした。


「……ほう」


「押すためのねじは、木でもいいけど、できれば鉄で作ってほしい。戻らないように、鋸歯の輪と爪をつける。これで、少しずつ締められる」


 僕は鋸歯の輪と爪の形を、地面の隅に小さく描いた。


「一方向にだけ動く、ってことか」

「そうです。締めた分は、緩まないようになります」

「面白えな」


 ヴィルヘルムさんは、地面の絵に身を乗り出していた。


「汁を抜く口には、錫を引いた銅の管を使ってほしい」


 僕がそう言うと、ヴィルヘルムさんは一度顔を上げた。


「鉄じゃ駄目か」

「鉄だと錆びる。酸っぱい汁には向かないんです」

「……ふん」


 ヴィルヘルムさんは少しの間、何も言わなかった。それから、ぐっと首を縦に振った。


「それと、布は取り替えられるようにしたいんです」

「布袋を、外せるってことか」

「詰まったら、袋ごと外して洗える形に」


 ヴィルヘルムさんは地面の絵を見ていた。


 地面の絵を書き足しながら、入口の方が視界に入った。

 切り株のローザは、膝の上に手を置いたまま、工房とは反対の道を見ていた。足元の土だけが、円く踏みならされている。

 一度立ったのかもしれないが、聞ける空気ではなかった。


「名前」

「え」

「これに、名前付いてるのか」


 僕は少し考えてから言った。


「二段搾り桶——そのままですけど」


 ヴィルヘルムさんは、もう一度鼻を鳴らした。それから、奥に向かって叫んだ。


「面白い。すぐに作らせろ!」


 奥にいたヨハンが、肩を一度すくめた。

 声を上げたのは、ヨハンより少し年上に見える、髪を短く刈った若い職人だった。


「親方、鋤の刃が先です」

「うるせえ」

「もう待って貰ってます!」

「お前らで押さえとけ!」


 僕はその様子を笑って見ていた。


「とりあえず、これだけ先払いします」

「もらっとく」


 銀貨を三枚手付けとして、渡した。


「帰れ。あとはこっちでやる」

「お願いします」


 僕は工房を出た。


 工房の地面には、僕が描いた二段搾り桶の草図が残ったままだった。

 奥の若い職人の声がまだ聞こえていた。「親方、本当に——」何かを続けようとしている。ヴィルヘルムさんは「黙れ」とだけ返していた。



【授命暦843年 8/25 夕方】


 工房の外で、ローザはまだ切り株に座っていた。膝の上の手は動いていない。


「終わった」

「うん」


 ローザは立ち上がった。スカートの裾を一度払って、僕より先に道へ歩き出した。


「行こうか」

「うん」


 帰りの道は、来た道を逆にたどる。


 ローザは前を歩いていた。


 まだ工房の前を離れて数歩なのに、橋の板を踏む音が先に思い出された。刈った麦の畝は夕方の光で赤く、行きに見た薄茶色より硬く見えた。

 林の方からは、川の音だけが細く聞こえていた。

 ローザの背中の影が、僕の足元より少し前に伸びている。足音の間が、行きより半歩だけ遠い。


 とにかく道具はできそうだが、僕が怒られた理由は全然分からないままだった。

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