表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/31

分業と石版

【授命暦843年 3/17 朝】


 石版を抱えて家を出た。今日は酔っ払いにツケを払わせる日だ。


 賦役はない。とはいえ、朝から畑を見に行く二日酔いどもがいるはずもない。代わりに、奥さんや子ども、兄弟が畑を見ていることだろう。


 その人たちに昨夜の酔っ払いどもの所業を説明し、酒造りを手伝わせてもいいか尋ねたところ、全員から、実に「快く」同意を得られた。中には「血が出るまで絞ってくれ」というありがたい言葉までいただいた。


 鐘の音に二日酔いの頭をノックされながら、連中はそのうち集まってくるだろう。


 さて、健やかなる労働の日々を始めよう。僕は怒っている。


 抱えている石版には、昨夜のうちに炭で工程と係を書いておいた。「潰す」「洗う」「濾す」「仕込む」「見張る」「朝夕の水汲み」と縦に並べ、その横に、井戸端で潰れていた村人の名前を割り振ってある。


「人、集まってるかな」


 土間で布をたたんでいたローザに、僕は声をかけた。


「間違いなく集まってる。家族に鬼の形相で行けって言われてるはずだから」


「あんた、何したの? 顔が仕事前じゃない」


 怪訝な顔でローザがこちらを向いた。


「いや、お宅の旦那さんがたが今朝起きてこないのは、昨夜の宴で我が家の酒を勝手にかっくらったせいだ。手伝わせてもいいですか、と聞いただけ」


「旦那の代わりに、朝の仕事、した。奥さんたちは怒ったよね。そりゃそう」


「その通り。奥さんの怒りを無視できる勇者だけが、今日の仕事をサボれる。ただ、そいつはたぶん死ぬ」


 ローザは無言で布をたたんだ。そういえば、こいつも加担した一人だった。


「僕はローザに怒ってないよ。たくさん褒めてくれたしね」


 ローザは目をむいて布を投げつけてきた。


「さて、向かおうか」


「……わかった。もう言うな」


 道中、ローザは完全に無言だった。昨夜の言動は、こいつにとって相当な致命傷だったらしい。もういじるのはやめておこう。


 井戸端には、もう人が集まっていた。十人を少し超えていただろう。ハインリヒが樽の縁に手を置いて笑った。


「ムーア、今日は何だ」


「お前らが飲んだ酒をもう一回造るんだよ。二倍必要だから」


「倍ね。なかなかのやりがいがあるね」


「他人事みたいなことを言うな」


「ちょうどいいわ。今は鍛冶屋んとこに行く用事もないし」


 少しムカついてきたので、無視して井戸端の中央に移動した。


「潰す係。洗う係。濾すのと仕込むのは、婆さんとイェニーが見る。見張りは交代で——」


 目が死んでいるやつらがゾンビみたいに僕を見ていた。二日酔いでの労働は辛かろう。


 村のおっさんが「ふうん、潰せばいいのか」と言って、もう桶のほうへ歩き出していた。横から別の男が「俺は運ぶのが得意だから運ぶよ」と言って、樽を担ぎに行った。


「順番が——」


 言いかけた僕の横で、ハインリヒが樽を肩に担いだ。


「まあ、やりながら覚えるって、こういうやつだよな」


 陽気に言って、樽を運んでいった。


 順番とか工程みたいな感覚がない。早くも不安になった。



 井戸端で梨を潰す音を背に、僕は土間へ回った。土間の縁には婆さん、奥の柱のそばにはイェニー、その柱の影にはアンナがいた。


 婆さんが、村人の女に布を見せていた。


「布、こう」


 説明が短い。手のひらを伏せ、布の端を撫で、その向きのまま桶に被せる。それだけだ。


 女は布を引き寄せて、自分のやり方で被せ直した。布の端が井戸側に垂れ、桶の縁から指一本分はみ出していた。婆さんはため息をついた。


「井戸側に垂らすと、風が入って冷えるからね」


 土間の奥でイェニーの声がした。村人の男が壺を抱え、土間の真ん中に置いた。


「真ん中のほうが便利じゃねぇか?」


「真ん中だと、少し冷えるかもしれないね」


「梨は寒がらないだろ」


 イェニーは困ったような顔をして笑っていた。


「アンナ、見てもらえるかい」


 イェニーが奥の柱の影に向かって短く言った。


 アンナが女の横で、布の端を指で撫でて見せた。


「こっちが井戸側、こっちが火の近い側です。布の端を井戸側に垂らすと、風が入って冷えます。冷えると、中の酸が強くなって味が悪くなります」


 女は黙って、布を撫で直した。


「イェニーさんが言っていたのは、こっちです」


 アンナはもう壺の脇にいた。男に向かって、壺の置き場を指で示した。男は渋々、壺を寄せた。



【授命暦843年 3/19 昼】


 セイが井戸端に立っていた。


「どんな具合ですか」


 軽い声だった。両手は空いていた。視線は梨の籠と樽の周りを一周して、僕のほうに戻ってきた。


「ぼちぼち」


 僕がそう答えたところで、ハインリヒが樽を担いで通り過ぎた。


「セイか。お前のせいで俺たちは朝から働きっぱなしだよ」


「人のせいにするな。働いているのはお前らが飲んだからだ」


「え、お酒飲んじゃったんですか?」


「そうなんだ。お裾分けしたら、いつの間にか大宴会。残ったのは空っぽの壺だけ」


「それって間に合うんですか?」


「分からないけど、できるだけやる」


「ってわけで、セイは酒が欲しいんだよな?」


「あ、はい」


「じゃあ持て」


 ハインリヒが、近くの男にあごで合図した。男は、桶を一つ、セイの腕に押しつけた。


「いや、これは僕の仕事では……」


「お前は酒が欲しい。手も足もある。十分だ」


 別の男が、梨の籠をセイの反対側の腕に押しつけた。セイの両腕が塞がった。


「僕は、様子を見に来ただけで」


「一緒に、酒を間に合わせようぜ」


「……二倍と言ったのは、僕ですけど」


 セイは苦笑していた。


「そうだろ。だから持て」


「……持ちます。持てばいいんですね」


 セイは、桶と籠を抱え直して、土間のほうへ歩いた。


 途中で止まった。


「これ、どこに置けば」


「そこは仕込み待ちの場所だ」


 別の男が、セイの足元を指した。セイは半歩戻って、空いている隙間に桶を置こうとした。その隣に、別の男が壺を据えようとしていた。


「その壺は、塩用だよ」


 婆さんが土間の奥から短く言った。セイが手を止めた。


「酒を入れる用じゃないよ。塩が染みてるからね」


「……そう、ですか」


 セイは桶を脇に下ろした。男が引っ込めた壺のほかにも、誰かが持ってきた壺が土間の縁に並んでいた。僕は、その数を数えた。塩用が三つ。仕込み用が二つ。仕込み用のうち一つは、もう塩の匂いがする。


「樽、どこに置く」


 別の村人が、樽を担いで土間に入ってきた。


 僕は並んだ壺と樽を見て言った。


「これしかないってことか」


「うちにあるのは、それだけだね」


 婆さんが答えた。


 セイは、土間の縁に荷を並べ直して、息をついた。井戸端のほうから、また「セイさん、こっち」と声がかかった。セイは肩を落として、井戸端のほうへ歩いた。



【授命暦843年 3/20 夕方】


 セイは昨日から、まだ村を出られていない。荷馬車のそばまで行くたび、誰かが次の桶か籠を押しつけた。


 石版を膝に置いて、書き込みを見た。


 大本の段取りはまったく役に立たず、現場では猛烈な非効率だけが量産されていた。


 村人が、土間の奥から呼んだ。


「壺、もう一個出してくれ」


 婆さんが、土間の隅から答えた。


「うちの壺は、塩を入れる用だよ。酒を入れたまま置いとく用じゃないよ」


「だから、もう一個」


「ないよ」


 壺が足りない。


 僕は井戸端を見回した。


「樽は小さいのしかない。誰かに大きいやつを借りてきてくれ」


 大きい樽もない。


 僕は裏手に回った。搾るための器具を、誰が用意するのか、まだ聞いていない。聞かないまま、ここまで来てしまった。裏手には、空の桶と、欠けた籠と、誰かが置いた藁束しかなかった。


 村人たちは、潰した梨を布に包み、顔を真っ赤にして懸命に搾っていた。


 ある程度の量になると、人力で搾るのは大変すぎるなと思った。


「濾すのに使う布、貸してくれ」


 別の声が井戸端から飛んできた。婆さんが土間から答えた。


「さっき渡しちまったよ。そいつからもらってくれ」


 各自がばらばらに工程を進めているせいで、布の枚数が足りていない。いや、そもそも足りていない気がする。


 セイが、井戸端の縁に座って、息を整えていた。腕の内側に、籠の縁の跡が赤く残っていた。


「……これも、足りないんですか」


 セイが、抱えていた壺に目を落として言った。塩用の壺だった。


「足りていないのは確かなんですが、今は空くのを待っている感じですね」


「なるほど」


 セイは短く返したきり、もう何も言わなかった。


 問題だらけだ。



【授命暦843年 3/22 夕方】


 夕方の井戸端に、村人が数人集まっていた。

 セイはこの日も井戸端の縁に座っていた。もう誰も客扱いしていなかった。


 最初に口を開いたのは、樽を担いで一日中歩いていた男だった。


「搾るのは無理だ。腕も腰も、もう持たねえ」


 誰かが小さく笑い、別の男が続けた。


「布、もう穴だらけだ。ここんとこな」


「壺も、村中探し回ったけど足りねえ」


「樽が小さくて、何度も移し替えてる。一回で済まねえ」


 愚痴で済ませられる話ではなかったが、何が起きているかは分かった。


 婆さんが、土間の縁から短く言った。


「梨は、押してほっとけば勝手に搾れる」


「押す?」


「足で踏めば布から漏れるだろ。重しでも、てこでもいい。押して放っておく」


 樽を担いでいた男は、頷いたきり、しばらく何も言わなかった。


「布は、うちにあるだけ。それ以上、ないよ。濾すのは、目の細かい布。村じゃ織れないね」


 イェニーが、奥から付け足した。


「壺は普段そんなに使わないし、大きいやつは水を入れてたりして、あんまり空いてないわね」


 壺はそれなりに大きいし、素焼きとはいえ手に入れるのは大変だな。


「樽は、手先の器用なやつが板を合わせて箍を打てば、大きいのも作れる」


 婆さんが、最後に言った。


 僕は、石版に字を書き足した。「搾り器」「樽」「壺」「布」。その横に、それぞれの相談先を書いた。


 搾り器と樽の箍は、鍛冶屋。壺は、窯元。布は、市。


 書き終わって、婆さんを見た。


「何もかも足りてない。道具がいると思う」


「村だけじゃ無理だね。鍛冶屋と、窯元と、市だ」


 婆さんが、土間の縁についた藁くずを払いながら言った。


「……どうする、の? 銀貨、足りる?」


 ローザが、隅から短く聞いた。布を持ったままだった。


「そうだなぁ。まず搾り器と樽なら、鍛冶屋に相談できるかもしれない」


 僕が答えた。


 セイが、井戸端の縁から、息を吐くように言った。


「樽は、どこかで余っているかもしれません。搾り器は……さすがに、鍛冶屋でしょうね」


「そうなるでしょうね」


「ただし」


「ただ、何ですか?」


「我が村には金がない。前払いは可能ですか?」


「ただ働きのうえに前払いですが、作れなかったら怒りますよ、本当に」


 セイは渋々、銀貨を差し出してきた。


「それ、分けるのか」


 残っていた村人の一人が、銀貨を見て言った。


「村で作った酒の金だろ」


「……ええと」


 僕は、返事に詰まった。


「そうだよ。坊主の金じゃない。村で作った酒の金だ」


 婆さんが、あっさり言った。


「じゃあ、分けるんじゃねえのか」


「分けたら、食い物にして終わりだよ」


「それでも、いいんじゃねえのか」


「悪かないね」


 婆さんは否定しなかった。ただ、僕の方を見た。


「けど、この坊主なら、もう少し先の使い方を考えるだろ」


「僕が、ですか」


「あんたが考えな」


 村人は、少し黙った。


「……婆さんがそう言うなら」


「まあ、酒を言い出したのは兄ちゃんだしな」


 銀貨は、僕のものではない。けれど、僕の懐に入った。



【授命暦843年 3/23 夕方】


 三々五々、村人が帰っていった。


 井戸端には、使えない壺と、小さすぎる樽と、運びきれなかった籠が残った。土間には、洗い待ちの布が積んであった。鍋の音は止まっていた。婆さんは奥に引っ込み、イェニーは火の始末をしていた。


 石版を、井戸端の脇に立てかけた。


「……人だけじゃ、足りないんだな。手があっても、道具がない」


 横に座っていたローザが、短く言った。


「……鍛冶屋、行こう。手も見せる」


 ローザの両手は赤かった。あいつなりに責任を感じて、一生懸命やったんだろう。


「それなら、僕は明日で失礼して——」


 セイが言いかけたところで、井戸端の向こうから声がかかった。


「あんた、まだいたのか」


「明日も来るんだろ」


 セイは、口を半分開いたまま止まった。すっと踵を返すと荷馬車のほうに向かっていった。


 ローザが無言で立ち上がって追いかけたが、セイは途中から全速疾走して荷馬車に乗り込んでしまった。


「……逃がした。足、速い」


 こいつが言うと妙に怖いな。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ