分業と石版
【授命暦843年 3/17 朝】
石版を抱えて家を出た。今日は酔っ払いにツケを払わせる日だ。
賦役はない。とはいえ、朝から畑を見に行く二日酔いどもがいるはずもない。代わりに、奥さんや子ども、兄弟が畑を見ていることだろう。
その人たちに昨夜の酔っ払いどもの所業を説明し、酒造りを手伝わせてもいいか尋ねたところ、全員から、実に「快く」同意を得られた。中には「血が出るまで絞ってくれ」というありがたい言葉までいただいた。
鐘の音に二日酔いの頭をノックされながら、連中はそのうち集まってくるだろう。
さて、健やかなる労働の日々を始めよう。僕は怒っている。
抱えている石版には、昨夜のうちに炭で工程と係を書いておいた。「潰す」「洗う」「濾す」「仕込む」「見張る」「朝夕の水汲み」と縦に並べ、その横に、井戸端で潰れていた村人の名前を割り振ってある。
「人、集まってるかな」
土間で布をたたんでいたローザに、僕は声をかけた。
「間違いなく集まってる。家族に鬼の形相で行けって言われてるはずだから」
「あんた、何したの? 顔が仕事前じゃない」
怪訝な顔でローザがこちらを向いた。
「いや、お宅の旦那さんがたが今朝起きてこないのは、昨夜の宴で我が家の酒を勝手にかっくらったせいだ。手伝わせてもいいですか、と聞いただけ」
「旦那の代わりに、朝の仕事、した。奥さんたちは怒ったよね。そりゃそう」
「その通り。奥さんの怒りを無視できる勇者だけが、今日の仕事をサボれる。ただ、そいつはたぶん死ぬ」
ローザは無言で布をたたんだ。そういえば、こいつも加担した一人だった。
「僕はローザに怒ってないよ。たくさん褒めてくれたしね」
ローザは目をむいて布を投げつけてきた。
「さて、向かおうか」
「……わかった。もう言うな」
道中、ローザは完全に無言だった。昨夜の言動は、こいつにとって相当な致命傷だったらしい。もういじるのはやめておこう。
井戸端には、もう人が集まっていた。十人を少し超えていただろう。ハインリヒが樽の縁に手を置いて笑った。
「ムーア、今日は何だ」
「お前らが飲んだ酒をもう一回造るんだよ。二倍必要だから」
「倍ね。なかなかのやりがいがあるね」
「他人事みたいなことを言うな」
「ちょうどいいわ。今は鍛冶屋んとこに行く用事もないし」
少しムカついてきたので、無視して井戸端の中央に移動した。
「潰す係。洗う係。濾すのと仕込むのは、婆さんとイェニーが見る。見張りは交代で——」
目が死んでいるやつらがゾンビみたいに僕を見ていた。二日酔いでの労働は辛かろう。
村のおっさんが「ふうん、潰せばいいのか」と言って、もう桶のほうへ歩き出していた。横から別の男が「俺は運ぶのが得意だから運ぶよ」と言って、樽を担ぎに行った。
「順番が——」
言いかけた僕の横で、ハインリヒが樽を肩に担いだ。
「まあ、やりながら覚えるって、こういうやつだよな」
陽気に言って、樽を運んでいった。
順番とか工程みたいな感覚がない。早くも不安になった。
⸻
井戸端で梨を潰す音を背に、僕は土間へ回った。土間の縁には婆さん、奥の柱のそばにはイェニー、その柱の影にはアンナがいた。
婆さんが、村人の女に布を見せていた。
「布、こう」
説明が短い。手のひらを伏せ、布の端を撫で、その向きのまま桶に被せる。それだけだ。
女は布を引き寄せて、自分のやり方で被せ直した。布の端が井戸側に垂れ、桶の縁から指一本分はみ出していた。婆さんはため息をついた。
「井戸側に垂らすと、風が入って冷えるからね」
土間の奥でイェニーの声がした。村人の男が壺を抱え、土間の真ん中に置いた。
「真ん中のほうが便利じゃねぇか?」
「真ん中だと、少し冷えるかもしれないね」
「梨は寒がらないだろ」
イェニーは困ったような顔をして笑っていた。
「アンナ、見てもらえるかい」
イェニーが奥の柱の影に向かって短く言った。
アンナが女の横で、布の端を指で撫でて見せた。
「こっちが井戸側、こっちが火の近い側です。布の端を井戸側に垂らすと、風が入って冷えます。冷えると、中の酸が強くなって味が悪くなります」
女は黙って、布を撫で直した。
「イェニーさんが言っていたのは、こっちです」
アンナはもう壺の脇にいた。男に向かって、壺の置き場を指で示した。男は渋々、壺を寄せた。
⸻
【授命暦843年 3/19 昼】
セイが井戸端に立っていた。
「どんな具合ですか」
軽い声だった。両手は空いていた。視線は梨の籠と樽の周りを一周して、僕のほうに戻ってきた。
「ぼちぼち」
僕がそう答えたところで、ハインリヒが樽を担いで通り過ぎた。
「セイか。お前のせいで俺たちは朝から働きっぱなしだよ」
「人のせいにするな。働いているのはお前らが飲んだからだ」
「え、お酒飲んじゃったんですか?」
「そうなんだ。お裾分けしたら、いつの間にか大宴会。残ったのは空っぽの壺だけ」
「それって間に合うんですか?」
「分からないけど、できるだけやる」
「ってわけで、セイは酒が欲しいんだよな?」
「あ、はい」
「じゃあ持て」
ハインリヒが、近くの男にあごで合図した。男は、桶を一つ、セイの腕に押しつけた。
「いや、これは僕の仕事では……」
「お前は酒が欲しい。手も足もある。十分だ」
別の男が、梨の籠をセイの反対側の腕に押しつけた。セイの両腕が塞がった。
「僕は、様子を見に来ただけで」
「一緒に、酒を間に合わせようぜ」
「……二倍と言ったのは、僕ですけど」
セイは苦笑していた。
「そうだろ。だから持て」
「……持ちます。持てばいいんですね」
セイは、桶と籠を抱え直して、土間のほうへ歩いた。
途中で止まった。
「これ、どこに置けば」
「そこは仕込み待ちの場所だ」
別の男が、セイの足元を指した。セイは半歩戻って、空いている隙間に桶を置こうとした。その隣に、別の男が壺を据えようとしていた。
「その壺は、塩用だよ」
婆さんが土間の奥から短く言った。セイが手を止めた。
「酒を入れる用じゃないよ。塩が染みてるからね」
「……そう、ですか」
セイは桶を脇に下ろした。男が引っ込めた壺のほかにも、誰かが持ってきた壺が土間の縁に並んでいた。僕は、その数を数えた。塩用が三つ。仕込み用が二つ。仕込み用のうち一つは、もう塩の匂いがする。
「樽、どこに置く」
別の村人が、樽を担いで土間に入ってきた。
僕は並んだ壺と樽を見て言った。
「これしかないってことか」
「うちにあるのは、それだけだね」
婆さんが答えた。
セイは、土間の縁に荷を並べ直して、息をついた。井戸端のほうから、また「セイさん、こっち」と声がかかった。セイは肩を落として、井戸端のほうへ歩いた。
⸻
【授命暦843年 3/20 夕方】
セイは昨日から、まだ村を出られていない。荷馬車のそばまで行くたび、誰かが次の桶か籠を押しつけた。
石版を膝に置いて、書き込みを見た。
大本の段取りはまったく役に立たず、現場では猛烈な非効率だけが量産されていた。
村人が、土間の奥から呼んだ。
「壺、もう一個出してくれ」
婆さんが、土間の隅から答えた。
「うちの壺は、塩を入れる用だよ。酒を入れたまま置いとく用じゃないよ」
「だから、もう一個」
「ないよ」
壺が足りない。
僕は井戸端を見回した。
「樽は小さいのしかない。誰かに大きいやつを借りてきてくれ」
大きい樽もない。
僕は裏手に回った。搾るための器具を、誰が用意するのか、まだ聞いていない。聞かないまま、ここまで来てしまった。裏手には、空の桶と、欠けた籠と、誰かが置いた藁束しかなかった。
村人たちは、潰した梨を布に包み、顔を真っ赤にして懸命に搾っていた。
ある程度の量になると、人力で搾るのは大変すぎるなと思った。
「濾すのに使う布、貸してくれ」
別の声が井戸端から飛んできた。婆さんが土間から答えた。
「さっき渡しちまったよ。そいつからもらってくれ」
各自がばらばらに工程を進めているせいで、布の枚数が足りていない。いや、そもそも足りていない気がする。
セイが、井戸端の縁に座って、息を整えていた。腕の内側に、籠の縁の跡が赤く残っていた。
「……これも、足りないんですか」
セイが、抱えていた壺に目を落として言った。塩用の壺だった。
「足りていないのは確かなんですが、今は空くのを待っている感じですね」
「なるほど」
セイは短く返したきり、もう何も言わなかった。
問題だらけだ。
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【授命暦843年 3/22 夕方】
夕方の井戸端に、村人が数人集まっていた。
セイはこの日も井戸端の縁に座っていた。もう誰も客扱いしていなかった。
最初に口を開いたのは、樽を担いで一日中歩いていた男だった。
「搾るのは無理だ。腕も腰も、もう持たねえ」
誰かが小さく笑い、別の男が続けた。
「布、もう穴だらけだ。ここんとこな」
「壺も、村中探し回ったけど足りねえ」
「樽が小さくて、何度も移し替えてる。一回で済まねえ」
愚痴で済ませられる話ではなかったが、何が起きているかは分かった。
婆さんが、土間の縁から短く言った。
「梨は、押してほっとけば勝手に搾れる」
「押す?」
「足で踏めば布から漏れるだろ。重しでも、てこでもいい。押して放っておく」
樽を担いでいた男は、頷いたきり、しばらく何も言わなかった。
「布は、うちにあるだけ。それ以上、ないよ。濾すのは、目の細かい布。村じゃ織れないね」
イェニーが、奥から付け足した。
「壺は普段そんなに使わないし、大きいやつは水を入れてたりして、あんまり空いてないわね」
壺はそれなりに大きいし、素焼きとはいえ手に入れるのは大変だな。
「樽は、手先の器用なやつが板を合わせて箍を打てば、大きいのも作れる」
婆さんが、最後に言った。
僕は、石版に字を書き足した。「搾り器」「樽」「壺」「布」。その横に、それぞれの相談先を書いた。
搾り器と樽の箍は、鍛冶屋。壺は、窯元。布は、市。
書き終わって、婆さんを見た。
「何もかも足りてない。道具がいると思う」
「村だけじゃ無理だね。鍛冶屋と、窯元と、市だ」
婆さんが、土間の縁についた藁くずを払いながら言った。
「……どうする、の? 銀貨、足りる?」
ローザが、隅から短く聞いた。布を持ったままだった。
「そうだなぁ。まず搾り器と樽なら、鍛冶屋に相談できるかもしれない」
僕が答えた。
セイが、井戸端の縁から、息を吐くように言った。
「樽は、どこかで余っているかもしれません。搾り器は……さすがに、鍛冶屋でしょうね」
「そうなるでしょうね」
「ただし」
「ただ、何ですか?」
「我が村には金がない。前払いは可能ですか?」
「ただ働きのうえに前払いですが、作れなかったら怒りますよ、本当に」
セイは渋々、銀貨を差し出してきた。
「それ、分けるのか」
残っていた村人の一人が、銀貨を見て言った。
「村で作った酒の金だろ」
「……ええと」
僕は、返事に詰まった。
「そうだよ。坊主の金じゃない。村で作った酒の金だ」
婆さんが、あっさり言った。
「じゃあ、分けるんじゃねえのか」
「分けたら、食い物にして終わりだよ」
「それでも、いいんじゃねえのか」
「悪かないね」
婆さんは否定しなかった。ただ、僕の方を見た。
「けど、この坊主なら、もう少し先の使い方を考えるだろ」
「僕が、ですか」
「あんたが考えな」
村人は、少し黙った。
「……婆さんがそう言うなら」
「まあ、酒を言い出したのは兄ちゃんだしな」
銀貨は、僕のものではない。けれど、僕の懐に入った。
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【授命暦843年 3/23 夕方】
三々五々、村人が帰っていった。
井戸端には、使えない壺と、小さすぎる樽と、運びきれなかった籠が残った。土間には、洗い待ちの布が積んであった。鍋の音は止まっていた。婆さんは奥に引っ込み、イェニーは火の始末をしていた。
石版を、井戸端の脇に立てかけた。
「……人だけじゃ、足りないんだな。手があっても、道具がない」
横に座っていたローザが、短く言った。
「……鍛冶屋、行こう。手も見せる」
ローザの両手は赤かった。あいつなりに責任を感じて、一生懸命やったんだろう。
「それなら、僕は明日で失礼して——」
セイが言いかけたところで、井戸端の向こうから声がかかった。
「あんた、まだいたのか」
「明日も来るんだろ」
セイは、口を半分開いたまま止まった。すっと踵を返すと荷馬車のほうに向かっていった。
ローザが無言で立ち上がって追いかけたが、セイは途中から全速疾走して荷馬車に乗り込んでしまった。
「……逃がした。足、速い」
こいつが言うと妙に怖いな。




