壺は三つ、空も三つ、しらふは僕だけ
【授命暦843年 1/22 朝】
冬の朝は息が白い。
土間の隅に布をかぶせた壺が三つ、所在なげに並んでいた。
婆さんが土間に下りてきて、壺の腹に手のひらを当てた。
「冷えすぎると、酒になる前に傷むよ」
その注意を聞くのは、たしかこれで、年が明けてから四回目だ。
僕は黙って藁を巻き直した。一度は厚く巻きすぎて壺の底に黴を走らせ、婆さんに鼻で笑われた。それから二月の終わりまで、僕にできるのは藁の厚みを足したり引いたりすることだけだった。
僕のうろ覚えの理論は婆さんの手仕事よりも遙かに役に立たず、従うことの方が多かった。単に他にすることが多かったのもあるが。
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【授命暦843年 3/15 昼】
三月に入ると、土間に薄い陽が差すようになった。
「これ……三つ、やっと揃ったね」
布の端を撫でた婆さんが、短くそう言った。
「腐っちゃいない。酸味はあるが、恐らく酒になったよ」
布を撫でただけで、出来が一度に分かるらしい。何だか分からないが婆さんの鼻と、布の端と、指先の感触の方が役に立つようだ。
イェニーが奥から出てきて、壺の腹に手の甲で触れた。指の腹ではなく、手の甲で。
「……温いわね」
それだけ言って、鍋の前へ戻った。
ローザが反省板の前から下りてきて、壺を一つずつ覗き、口を指差して数えた。
「三つ、できたのね」
それから僕の方を見た。
「これで、売れるかな?」
僕は壺の口に指を入れて、ほんの少しだけ舐めた瞬間。
「手を入れるんじゃないよ」
「ムーアダメ」
「バカじゃないの?」
同時に罵倒が襲いかかってきた。雑菌が混ざるから当たり前のことだ。教えていた側が一番出来が悪い。
気を取り直して味わうと、舌の先に、ほど良い酸味と、後ろに残る薄い甘さがあった。最初に試した時より渋が丸い。アルコール度数もそれなりある気がする。前世では酒をほぼ飲まなかったし、子どもの体なので詳しくはわからないが。
「多分、美味しいし、飲めると思う。完成したと思う」
恐る恐る言った。
「これでやっと終わりかい。お金になったら、何か礼を持って来るんだよ」
婆さんも口調を裏腹に少し嬉しそうだ。
「セイに、見せようかな」
と僕が言うと、ローザはこちらを見て。
「お金になるかな」
とやや不安げに言葉を紡ぐ。
「大丈夫だと思うよ」
特に根拠はないが僕は答えた。
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昼を少し過ぎて、セイが家まで来た。
月の市の下見で村に入っていたらしい。婆さんが朝、井戸端で「今日辺り壺を開けるよ」と漏らしていたから、その話が回ったのだろう。
「ムーアさん、酒を見せてもらえます?」
セイは敷居の手前で履物の土を払って、それから入った。僕が頷くより先に、ローザが触っていない方の壺から小皿に酒を一口分だけ移して、セイの前に置いた。手早かった。
セイは皿を持ち、匂いを嗅ぎ、一口で飲み干した。
一瞬考えたあと、目を見開いた。
「——売れます」
短かった。
「街に運びます。壺一つ、銀貨三枚は出します。来月、これの倍いけますか?」
「……倍?」
「いや、できれば八つ。八つまでなら運べます」
「運べる?」
「積み荷の関係で運べる上限です。あればもっと持って行きたいですね」
「八つも、間に合うかな」
「間に合わせてください。売れますよこれ」
セイは敷居の方を向いて、ふと立ち止まった。
「そんなに急いでも仕方ない」
ローザがあきれたようにつぶやく。
「うーん。最近よく思うんですよ。物を売ってお金を受け取るじゃないですか」
「当たり前だね」
「もうちょっと聞いて下さい。お金のままだとなんか損してる気がするんです。眠ったままというかなんか」
「お金は寝ないし減らないでしょ」
ローザが冷静に突っ込みを入れる。
「動いてない金にはなんだか、価値が無い気がするんです」
セイは自分の言葉に少し驚いたような顔をした後に頷いた。
「お金は常に動かした方が、良いって商売をしていると思うんですよ」
僕は、その言い方に一瞬だけ引っかかった。資本の回転、というやつだ。
若い商人が、誰にも教わらず感覚で、その入口を撫でている。
「——いや、それは、つまり……」
言いかけて、止めた。
通じない上にやぶ蛇だ。資本主義の手先に教えてやる必要なんかない。
資本主義の手先の手先の僕はなんだという話ではあるが。
「じゃ、また来月」
セイはそれだけ言って、出て行った。
土間に三つの壺が残った。倍。できれば八つ。
僕は舌の先にまだ残っている薄い酸を確かめながら、少し笑った。
「壺一つだけ、村の人にも味を見てもらおうかな」
言ってから、僕は壺を見た。
三つある。来月の市に出すには少ない。けれど、梨を拾ってきたのも、壺を分けてくれたのも、藁を都合してくれたのも、村の誰かだった。果実は本来、それを生み育てた共同体のものだ。最初の壺一つを、銀貨に換える前に、まず村に返す。
僕の中で、それは理屈として通っていた。三つのうち一つぐらい、同志に分けるのが筋だ。
一つだけ。
僕は、そこで自分に言い聞かせた。
「手伝うよ」
ローザは短くそれだけ言った。いつもより優しい顔をしているような気がした。
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井戸端に杯を置いたのは、夕方だった。
最初は、近所の五、六人だった。婆さんが井戸の縁に小さな桶を据え、僕がその中に壺一つ分の酒を移した。僕が昼に指を入れた壺だ。長く置けないなら、今日の試飲に回すしかなかった。
壺一つで、杯にして二十ほど。
五、六人で、一口ずつなら十分だと思っていた。
「ちょっとだけ、味見してもらおうかと——」
言いかけたところで、誰かが振り返った。
「お、酒?」
「飲んでいいのか?」
わらわらとあっという間に人が集まってくる。
杯が一巡しないうちに、村人が連れてきた家族、その家族が呼びに行った隣人、井戸の音を聞きつけて立ち寄った爺さん、夕飯の支度を放り出してきた女衆——
「ひと口ずつ、ね」
「これは、試飲だから」
食べ物を持ち込むものが現れ、あっという間に宴の様相になってきた。
僕は声を張った。
「そんなに量はありませんよー。お試しくらいです」
「おう、いくらでも試してやるよ!」
別の誰かが笑い、輪が一段大きくなった。
ハインリヒが匂いに釣られて来たのは、夕方の遅い頃だった。
「お、酒がついにできたのか?」
桶を覗き込み、列をちらっと見た。
「こっち、詰まってるっすね。向こうにも桶、置いた方が早いっすよ」
「そんなことをしなくていいんだよ。ただの試飲なんだから」
「でも、向こうの人、まだ匂いしか嗅いでないっすよ」
「匂いだけでも良いでしょ。自分で作ったものでもないし」
「ムーアは前に、みんなで豊かになりたいって熱弁してたっすよね」
「……」
それを言われると弱かった。
ハインリヒは家の土間から小さな桶をもう一つ持ってきて、井戸端の反対側へ置いた。僕が止める前に、杯の流れが二つに分かれる。
「これ、いい匂いするわ。なんつーかさ、こう、酸っぱさの後ろに、なんかこう、まるさがあるっていうかな」
減る速さも、順調に二倍になった。
頭を抱えそうになったが、村人の輪はもう桶の周りに固まりかけていた。
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【授命暦843年 3/15 夕方】
夜になる頃には、井戸端に二十人を超える村人が集まっていた。
桶は、三つに増えていた。誰かが水用の桶を空けて持ってきたらしい。全く要らない親切だ。
アンナは、誰かに勧められた一杯目で顔が真っ赤になった。
「お酒、初めてです」
小さく言って、井戸端の隅にしゃがみ込み、糸を撚り始めた。糸を持ってきていたらしい。酔っても糸の手は止まらなかった。
イェニーは、家の鍋を奥に下げてから、井戸端に出てきた。杯を受け取らず、輪の縁に立ったまま、桶の減りを目で測った。
「あんなに頑張っても、無くなっちゃうのはすぐなんだねぇ」
と、ニコニコしていた。
ローザの方へ視線を投げた。ローザは杯を返す手を一瞬止めたが、すぐに次の杯を取った。
イェニーは、それ以上は何も言わなかった。
ハインリヒは陽気だった。桶を動かし、杯を配り、自分も飲み、誰かに肩を叩かれて笑い、また桶の横へ戻った。途中で僕の隣を通り過ぎながら、反対側の桶を顎で指して、
「向こう、また詰まってるっすよ」
と短く言って、また人の輪の方へ戻っていった。
ローザは、最初のうちは飲んでいるというより、確かめていた。
杯を受け取り、匂いを嗅ぎ、一口だけ含んで、すぐ隣へ回す。
夕闇が濃くなり、井戸端の石が冷え、焼いた芋の皮が足元に落ちる頃、桶の底に澱が見え始めた。二つ目の壺を開けたのは、僕だった。井戸端の向こうで、まだ杯を持っていない人たちがこちらを見ていたからだ。
「あと少しだけ」
ため息をつきながら、提供した。
ローザはいつも通り無口で、歩いていたがどことなく動作が遅い気がする。
酔っ払ったアンナの手元を見て、赤い顔で糸を撚る指をしばらく眺めていたが、何も言わなかった。
ハインリヒが桶の脇で杯を受け取る人を並ばせると、ローザはそちらを見た。
「ハインリヒ、桶、置くの、雑、ガサツ」
ハインリヒが笑った。
「雑っすか。いきなりだな」
「でも、こぼさない」
皆が笑った。
夜更け、ハインリヒが土間の方から三つ目の壺を抱えて戻ってきた。僕が、
「それは、売る分なんだよ」
と言いかけたとき、壺の蓋はもう外れていた。ハインリヒは桶の縁に壺を据えながら、
「最後に、少しだけっすよ」
何を言っているんだこいつは。お前はそもそも作った側ではない。
僕は止めようと手を伸ばしたが、壺はもう傾いていた。途中で止めるには軽くなりすぎていた。
近くにいたローザに声をかける。
「お前も何か言ってやれ」
そうすると、ローザはにへらと笑った。なんだこいつ。別人か?
「おーい」
「なぁにー」
何のことはない。単なる酔っ払いだ。
その場でくるくると回りながら、唐突に言葉を紡ぎ始めた。
「布、ちょっと撫でただけで、すっぱい匂い、強いか、弱いか、わかる。わたし、嗅いでも、わかんないのに、婆さん、わかる、すごい」
「イェニー、壺、ここに置いた。炉から近すぎない、戸にも近すぎない、鍋の道、ふさがない。わたし、そこ、見ない。イェニー、家の冷えるところ、ぜんぶ知ってる」
ローザは、井戸端の輪を歩き始めた。
「アンナ、糸、繋ぐの、上手。最初は、できなかったのに、もう、わたしより、繋ぐの、丁寧。アンナ、すごい」
アンナが糸を撚ったまま、顔だけ赤くして、ローザを見上げた。
「ハインリヒ、待ってる人、見てる。桶、増やした、こぼさない、雑だけど、こぼさない。ハインリヒ、そこ、見てる」
ハインリヒが桶の横で、口を開けて、ローザを見た。
「ムーアの字、丁寧。板、字が、揃ってる。ムーアの字、好き」
ローザは僕の前を通り過ぎながら、そう言った。
——ちょっと、待ってくれ。
その時、杯が一つ、僕の前に来た。
受け取って、桶の縁に戻した。
今日は、見ておく側だと思った。
だが、ローザはそのまま一周して、また婆さんがいた場所——もう婆さんはいない場所——の前に立ち、まだそこにいるかのように続けた。
「婆さんの手、すごい、布、撫でただけで——」
二周目が、始まっていた。
飲まなかったわけじゃない。飲む暇がなかった。
桶の足元が濡れていないかを見て、アンナの肩に布を掛け、婆さんが家へ戻る道に石がないか確かめ、井戸の縁に座った子どもを一人、井戸から引き離し——そうしているうちに、僕の手元の杯は、いつも誰かの手に移っていた。
ここで僕まで酔ったら、誰も全体を見ていない。井戸端の輪も、桶の減りも、子どもの位置も、誰も数えない。
それは、たぶん、もっと不味いことになる。
だから僕は、しらふで全部、見届けることにした。
ローザの一周目で言った台詞、二周目で繰り返し始めた台詞、ハインリヒの陽気な笑い、アンナの真っ赤な顔と糸の撚り目、婆さんが黙って帰った背中、イェニーが鍋を見ながら笑った一瞬、井戸端の杯の数、桶の中の酒の減り方——僕の中に、全部、残った。
三つの桶の底が、どれも見えた。
来月の市までに、八つ。
セイが昼に口にした数字が、頭の中で点滅した。
ローザは、二周目の途中でしゃがみ込み、井戸端の石に背を預けて、目を閉じた。すぐに寝息を立て始めた。
村人は、満足そうに、三々五々帰っていった。「いい酒だった」「ムーアさんの家の酒は柔らかい」「また呼んでくれ」と、口々に言いながら。
「また呼んでくれ」と言われて、僕は、力なく頷いた。
夜は、深かった。
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【授命暦843年 3/16 朝】
朝の土間に、空の壺が三つ、並んでいた。
並べたのは僕だった。井戸端から空の桶を洗って戻し、空の壺を布で拭いて、口に布を被せ直し、土間の隅に並べた。三つとも、空だった。布を被せる意味は、もはやなかった。
反省板の左下、「冷」の隣に、ローザの字で「**酒**」の一文字が書き足されていた。
ローザが、奥から出てきた。
髪が片側に潰れていて、顔がむくんでいた。土間を見回し、空の壺を一つずつ目で追った。
「……昨日、わたし、なんか、喋った?」
僕は、しらふで全部、見ていた。
全部、覚えていた。
「喋ったよ」
「……どれくらい?」
「井戸端を二周した」
ローザの顔の赤みが、酒の残りではない方向に変わり始めた。
「婆さんの手を褒めた。イェニーの壺の置き方を褒めた。アンナの糸を褒めた。ハインリヒの桶の置き方が雑だけどこぼさない、と褒めた。僕の字を、丁寧で、揃ってる、好きだ、と言った」
ローザは口を開けて、また閉じた。
「……ぜんぶ?」
「ぜんぶ」
ローザは両手で顔を覆った。覆ったまま、土間の壁に頭を押しつけた。
「もう、外、出ない」
「出てもらう」
僕は壺を見た。空の壺が三つ。昨夜の井戸端の景色——三つの桶、二周目に入ったローザの長い読点、三つ目を抱えてきたハインリヒの顔——が一通り頭を巡って、ようやく腹が立ってきた。
「昨日、井戸端で飲んだ人には、次の仕込みを手伝ってもらう」
声が、普段より一段低かった。
ローザは顔を覆ったまま、首だけ動かして僕を見た。
「……誰が?」
「少なくとも、僕が覚えている分は。お務めに影響が出ない範囲でやらせる」
僕は反省板を引き寄せた。「冷」の隣の「**酒**」の文字の下に、炭で書きつけながら、口で続けた。
——梨。
「梨を拾う人」
——壺。
「壺を洗う人」
——水。
「水の量を見る人」
——布。
「布を洗う人。分ければ、壺一つ分くらいは返せるはずだ」
奥でイェニーが立ち上がる気配がして、
「……片付けは、わたしがやるよ」
と短く言った。
その声に重なるように、アンナの声が小さく聞こえた。
「……ちょっと、頭、痛いです」
僕は壺の口の布を一度、撫で直した。
「来月までに、倍——あの三つを、倍」
呟いた。
ローザが顔を覆ったまま、指の隙間からこちらを見た。
「……誰が飲んだか、覚えてるの」
「覚えてる。残念なことに、僕はしらふだったからね」
「飲み過ぎたツケは確実に払って貰うことにするよ」
「今日のムーア、なんかちょっと怖い」
「いーや僕はとっても優しいよ」
ローザは引いていたが、実際には最初ほど怒っていないことも事実だ。
何ならこういうのもたまには悪くないと思った。ただ、大人としての責任は果たして貰う。




