『協業』を始めようとしたら、ローザが髪の毛一本分で全員を置いていった
【授命暦843年 1/20 昼】
結論から言う。分業の利益を講義する前に、当の分業の必要が、土間の筵の上に勝手に発生していた。
順番が、おかしい。
——僕が、まだ何一つ、口にしていないのに。
「水、足しとくね」
返事はない。
土間の隅、水封壺の伏せ鉢の縁に、水の輪がまだ薄く残っていた。朝に足した分が、半分ほど減っている。僕は柄杓を傾けて注ぎ足した。水の輪が戻る。
水、朝、夕。昨日も、今日も、明日も、この壺の水の線を見ていれば間違いはないはずだ。そう、婆さんから教わったのは、一週間ほど前のことになる。
壁際の板にはまだ、「口」「袖」「布」「空気」「水、朝、夕」が刻まれている。最後の一行だけが、ほかよりひとまわり大きい。ローザが書かせた痕だ。
土間の真ん中には筵が敷かれ、その上にローザが座って錘を回していた。左手で綿の塊から繊維を引き出し、右手で錘を回す。指先が細かく動いて、引き出される糸の太さは変わらない。ずっと見ていても変わらない。
その隣に、今日初めての顔が座っている。
アンナだ。婆さんの孫嫁で、うちの糸紡ぎの輪に加わるのは今日が最初だった。家でも少しはやっている、とは聞いている。ただ、ほとんどが繕い物のための短い糸で、長く均一に引くような紡ぎ方は、教わってこなかったらしい。
「よろしくお願いします」
アンナは膝の上で手を揃えて、ローザと、それから奥の鍋の前にいるイェニーに向かって、丁寧に会釈した。
「わたしがやれば早いのに」
ローザが、独り言のように呟いた。
僕は水を足し終わって、邪魔にならない場所に座り直した。
ローザが綿の塊を少し崩して、アンナに渡した。婆さんは筵の端で先に錘を回していて、イェニーは鍋の前で柄杓を握ったままこちらを見ていた。ローザ、婆さん、アンナの三人が筵の上で同時に錘を回し始めた——その最初の一拍だけ、三人の手の運びがすっと揃って見えた。そう見えたのは一瞬で、すぐに差が出始める。
僕は何も言わなかった。
「こう、引っ張って、揃えて」
ローザが、アンナの手元に自分の手を添えて、短く実演する。
アンナは動きを追った。真似したのだが、引き出された糸は太い。途中で節が立って、錘の重みで捩れる。太いところと細いところの境目が、ぐにゃりと歪んでいる。
「違う。こう」
ローザがもう一度やって見せた。
アンナが真似する。今度は細くなりすぎて、途中で切れた。
ローザは、切れた糸を指先で拾い上げて、しばらく見ていた。
「何が、違うの」
本人が、一番不思議そうだった。
僕はしばらく黙って、そのやり取りを見ていた。ローザは別の言い方を探そうとしているが、出てこない。アンナは顔を赤くして、もう一度糸を巻き直している。婆さんは筵の端で黙って自分の糸を引き続け、イェニーは壺の方を一度だけ見て、また鍋へ目を戻した。
——仕方ない、と思った。
「……多分、ローザは」
僕は、言葉を選びながら口を開いた。
「指で、糸を感じながら微調整している——んだと思う」
アンナが、目を上げた。
「……感じて微調整、ですか」
「うん。たぶん」
アンナは、膝の上の切れた糸の断片を二本つまみ上げた。指でしごく。もう一本、しごく。
何度か繰り返してから、首を傾げた。
「……どっちも、同じ、です」
ローザが錘を止めた。
「え」
「触っただけでは、細いか太いかが、わかりません。よっぽど違えばわかりますけど」
「……え」
ローザが目をまるくした。
僕は、隅で黙って頷いていた。
時間帯が、昼から午後へ移っていく。アンナはローザの横でずっと錘を回していて、ローザはその綿を足したり、切れた糸を拾ったりしている。
ローザの糸は、長く、細く、均一に伸び続けていた。
アンナの糸は、太くなったり、細くなったりを繰り返し、三度目にまた切れた。
四度目で、ローザは錘を置いた。
「太さが、髪の毛一本分、ずれたら」
真顔だった。
「普通、わかるでしょ?」
アンナは黙った。
普通は分からない、と僕は思った。分からないから、同じ場所に集まって、同じ手元を見て、何度もやる。マニュファクチュアとは、本来そのための形態だ。
順番が、おかしい。
婆さんが、筵の端で自分の錘を止めた。静かに手を膝に置いて、ローザの方を見る。
「ローザ」
婆さんの声は短い。
「髪の毛一本分、ってのは——どれくらいだい」
ローザは、親指と人差し指を立てて、その間をほんの少しだけ開いた。
「これくらい」
婆さんは、自分の親指と人差し指を、同じように、ほんの少しだけ開いてみせた。
「これくらい、かい」
「そう」
「……あたしゃ、わかんないよ。それ、あんただけだ」
婆さんは、自分の手を膝に戻した。それ以上は、何も言わなかった。
ローザが、口を半分開けたまま止まった。
——止まったのは、一瞬だった。
「でも、アンナ。引くとき、糸の中に固いとこ、あるの、わかるよね」
アンナが、首を振った。
「節、ですか」
「節じゃない。節になる前の、固くなりかけてるとこ」
アンナが、もう一度、首を振った。
婆さんは、アンナの膝の上の、切れた糸の束に目を落としていた。
「糸の太さの、細かい差を、指で感じて、その場で、紡ぎながら直してる——らしい」
ローザが、こちらを見た。
「……それ、みんな、できるんじゃ、ないの」
「できないよ」
短く、答えた。言い過ぎたかな、と思って、付け足した。
「……少なくとも、ここにはローザしかいないみたいだ」
ローザは黙っていた。
それからしばらく、アンナの手元に綿を足したり、切れた糸を拾ったりしていた。その手つきは、さっきより、早くて、雑だった。
「——手で、糸の本数、数えてるんじゃないの?」
ローザが、顔を上げて、今度はイェニーに向かって言った。
「紡ぎながら、何本かなんとなく、指先で、数えてるでしょ?」
イェニーは、鍋の柄杓を握ったまま、首を傾けた。
「ねえ、ローザ」
「なに?」
「……あんた、変だよ。それ」
イェニーは、家族の口調で、短く返した。
「……わたし、そんなこと、してたの?」
ローザが、小さく言った。
「うん。気づかないで、してる」
僕は、それだけ返した。
ローザは、綿の塊を両手で握り直した。顔が、ほんのり赤くなっていた。俯いて、膝の上の筵の毛羽を、引き抜いた。
それから、長いあいだ、何も言わなかった。
アンナも、婆さんも、イェニーも、手を止めなかった。ただ、ローザの方を、時々見ていた。鍋の湯気は続いている。外で風が鳴った。
僕は、隅で膝を抱えたまま、板の「水、朝、夕」の文字を目で追っていた。
【授命暦843年 1/21 昼】
翌日の昼、土間にはまた筵が敷かれていた。
昨日と同じ顔が、昨日と同じ場所に座っている。アンナは手を膝に揃え、婆さんは筵の端で錘を回し、イェニーは鍋の柄杓を置いて、手を拭きながらこちらへ来る。
ローザは、まだ何も言わずに、自分の錘を手に持っていた。
僕は水封壺の縁の水が減っていないか確かめてから、柄杓を脇に置いて、壁際に座った。
「……ねえ」
ローザが、口を開いた。
「昨日、わたし、気づかないで、いろいろ、してたんでしょ」
僕を見てはいなかった。筵の毛羽に目を落としたまま、言葉だけが、こちらへ来た。
「うん」
「……じゃあ」
ローザは、綿の塊を一度、膝の上で握り直した。
「わたしがやれば早い、って、昨日、思ってた」
「……うん」
「人は違うから、同じにならないのは——当たり前、だったんだね」
僕は返事をしなかった。
ローザは、そのまま続けた。
「それぞれに、合ったやり方で、やるしか、ないね」
「……みんなで、やれば、良いんだよね」
最後の一言は、僕の方を見て言った。
——協業、と口が動きかけて、僕は飲み込んだ。
僕は、ゆっくり頷いた。
「……それがいい。みんなでやろう」
それ以上は、言わない方がいいと思った。
ローザが錘を回し始めた。アンナが、その手元を見ている。
「じゃあ、わたしは——」
アンナが、自分の綿の塊を少し崩しながら言った。
「太くても、いい糸から、作ります。繕い物用の、短いやつから」
婆さんが、それを聞いてから、筵の端で口を開いた。
「……あたしゃ、短いのを繋げる方を、やろうかね。長く引くのは、ローザに任せるよ。あたしの指じゃ、届かない」
イェニーは、鍋の火加減を見ながら、少し間を置いて返した。
「……わたしは、出来たのを、布の側で使うよ。太さが違う方が、畝によっては、都合のいい場所もある」
ローザは、錘を回しながら、三人の声を、一つずつ受けた。
「……うん」
筵の上には、それぞれの手の前に、それぞれの綿の塊と、それぞれの糸の束が、少しずつ分かれて置かれていった。長い糸、短い糸、太い糸、細い糸。昨日までは、長くて均一な糸が一本だけ、ローザの手元に生まれていただけだった。今日は、四人分の綿の塊と、四種類の糸の束が、筵に並んでいる。
僕は、壁際の板を引き寄せた。
「口」「袖」「布」「空気」「水、朝、夕」の下に、まだ少し余白があった。
そこへ、炭で、小さく一つの言葉を書き足した。
任せる
ローザがこちらを見て、少し笑った。
鍋の湯気は続いている。水封壺の水は、減っていない。
ローザは、今、僕の予定よりもはるか先をもの凄いスピードで走っている。
——追い越されている、と思った。
僕はまだ何も説明していない。板にはただ、「任せる」が、水より小さい字で並んでいる。
早い。早すぎる。
マニュファクチュアと発話もしていないのに、その必要性だけが、土間に四つの綿の塊として並んでしまった。
段階を、飛ばすな。
思ったよりも速い速度で、資本主義が迫ってくると感じた。




