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18/19

『協業』を始めようとしたら、ローザが髪の毛一本分で全員を置いていった

【授命暦843年 1/20 昼】


結論から言う。分業の利益を講義する前に、当の分業の必要が、土間の筵の上に勝手に発生していた。


順番が、おかしい。


——僕が、まだ何一つ、口にしていないのに。


「水、足しとくね」


返事はない。


土間の隅、水封壺の伏せ鉢の縁に、水の輪がまだ薄く残っていた。朝に足した分が、半分ほど減っている。僕は柄杓を傾けて注ぎ足した。水の輪が戻る。


水、朝、夕。昨日も、今日も、明日も、この壺の水の線を見ていれば間違いはないはずだ。そう、婆さんから教わったのは、一週間ほど前のことになる。


壁際の板にはまだ、「口」「袖」「布」「空気」「水、朝、夕」が刻まれている。最後の一行だけが、ほかよりひとまわり大きい。ローザが書かせた痕だ。


土間の真ん中には筵が敷かれ、その上にローザが座って錘を回していた。左手で綿の塊から繊維を引き出し、右手で錘を回す。指先が細かく動いて、引き出される糸の太さは変わらない。ずっと見ていても変わらない。


その隣に、今日初めての顔が座っている。


アンナだ。婆さんの孫嫁で、うちの糸紡ぎの輪に加わるのは今日が最初だった。家でも少しはやっている、とは聞いている。ただ、ほとんどが繕い物のための短い糸で、長く均一に引くような紡ぎ方は、教わってこなかったらしい。


「よろしくお願いします」


アンナは膝の上で手を揃えて、ローザと、それから奥の鍋の前にいるイェニーに向かって、丁寧に会釈した。


「わたしがやれば早いのに」


 ローザが、独り言のように呟いた。


 僕は水を足し終わって、邪魔にならない場所に座り直した。


 ローザが綿の塊を少し崩して、アンナに渡した。婆さんは筵の端で先に錘を回していて、イェニーは鍋の前で柄杓を握ったままこちらを見ていた。ローザ、婆さん、アンナの三人が筵の上で同時に錘を回し始めた——その最初の一拍だけ、三人の手の運びがすっと揃って見えた。そう見えたのは一瞬で、すぐに差が出始める。


僕は何も言わなかった。


「こう、引っ張って、揃えて」


ローザが、アンナの手元に自分の手を添えて、短く実演する。


アンナは動きを追った。真似したのだが、引き出された糸は太い。途中で節が立って、錘の重みで捩れる。太いところと細いところの境目が、ぐにゃりと歪んでいる。


「違う。こう」


ローザがもう一度やって見せた。


アンナが真似する。今度は細くなりすぎて、途中で切れた。


ローザは、切れた糸を指先で拾い上げて、しばらく見ていた。


「何が、違うの」


本人が、一番不思議そうだった。


僕はしばらく黙って、そのやり取りを見ていた。ローザは別の言い方を探そうとしているが、出てこない。アンナは顔を赤くして、もう一度糸を巻き直している。婆さんは筵の端で黙って自分の糸を引き続け、イェニーは壺の方を一度だけ見て、また鍋へ目を戻した。


——仕方ない、と思った。


「……多分、ローザは」


僕は、言葉を選びながら口を開いた。


「指で、糸を感じながら微調整している——んだと思う」


アンナが、目を上げた。


「……感じて微調整、ですか」


「うん。たぶん」


アンナは、膝の上の切れた糸の断片を二本つまみ上げた。指でしごく。もう一本、しごく。


何度か繰り返してから、首を傾げた。


「……どっちも、同じ、です」


ローザが錘を止めた。


「え」


「触っただけでは、細いか太いかが、わかりません。よっぽど違えばわかりますけど」


「……え」


ローザが目をまるくした。


僕は、隅で黙って頷いていた。


時間帯が、昼から午後へ移っていく。アンナはローザの横でずっと錘を回していて、ローザはその綿を足したり、切れた糸を拾ったりしている。


ローザの糸は、長く、細く、均一に伸び続けていた。


アンナの糸は、太くなったり、細くなったりを繰り返し、三度目にまた切れた。


四度目で、ローザは錘を置いた。


「太さが、髪の毛一本分、ずれたら」


真顔だった。


「普通、わかるでしょ?」


アンナは黙った。


普通は分からない、と僕は思った。分からないから、同じ場所に集まって、同じ手元を見て、何度もやる。マニュファクチュアとは、本来そのための形態だ。


順番が、おかしい。


婆さんが、筵の端で自分の錘を止めた。静かに手を膝に置いて、ローザの方を見る。


「ローザ」


婆さんの声は短い。


「髪の毛一本分、ってのは——どれくらいだい」


ローザは、親指と人差し指を立てて、その間をほんの少しだけ開いた。


「これくらい」


婆さんは、自分の親指と人差し指を、同じように、ほんの少しだけ開いてみせた。


「これくらい、かい」


「そう」


「……あたしゃ、わかんないよ。それ、あんただけだ」


婆さんは、自分の手を膝に戻した。それ以上は、何も言わなかった。


ローザが、口を半分開けたまま止まった。


——止まったのは、一瞬だった。


「でも、アンナ。引くとき、糸の中に固いとこ、あるの、わかるよね」


アンナが、首を振った。


「節、ですか」


「節じゃない。節になる前の、固くなりかけてるとこ」


アンナが、もう一度、首を振った。


婆さんは、アンナの膝の上の、切れた糸の束に目を落としていた。


「糸の太さの、細かい差を、指で感じて、その場で、紡ぎながら直してる——らしい」


ローザが、こちらを見た。


「……それ、みんな、できるんじゃ、ないの」


「できないよ」


短く、答えた。言い過ぎたかな、と思って、付け足した。


「……少なくとも、ここにはローザしかいないみたいだ」


ローザは黙っていた。


それからしばらく、アンナの手元に綿を足したり、切れた糸を拾ったりしていた。その手つきは、さっきより、早くて、雑だった。


「——手で、糸の本数、数えてるんじゃないの?」


ローザが、顔を上げて、今度はイェニーに向かって言った。


「紡ぎながら、何本かなんとなく、指先で、数えてるでしょ?」


イェニーは、鍋の柄杓を握ったまま、首を傾けた。


「ねえ、ローザ」


「なに?」


「……あんた、変だよ。それ」


イェニーは、家族の口調で、短く返した。


「……わたし、そんなこと、してたの?」


ローザが、小さく言った。


「うん。気づかないで、してる」


僕は、それだけ返した。


ローザは、綿の塊を両手で握り直した。顔が、ほんのり赤くなっていた。俯いて、膝の上の筵の毛羽を、引き抜いた。


それから、長いあいだ、何も言わなかった。


アンナも、婆さんも、イェニーも、手を止めなかった。ただ、ローザの方を、時々見ていた。鍋の湯気は続いている。外で風が鳴った。


僕は、隅で膝を抱えたまま、板の「水、朝、夕」の文字を目で追っていた。


【授命暦843年 1/21 昼】


翌日の昼、土間にはまた筵が敷かれていた。


昨日と同じ顔が、昨日と同じ場所に座っている。アンナは手を膝に揃え、婆さんは筵の端で錘を回し、イェニーは鍋の柄杓を置いて、手を拭きながらこちらへ来る。


ローザは、まだ何も言わずに、自分の錘を手に持っていた。


僕は水封壺の縁の水が減っていないか確かめてから、柄杓を脇に置いて、壁際に座った。


「……ねえ」


ローザが、口を開いた。


「昨日、わたし、気づかないで、いろいろ、してたんでしょ」


僕を見てはいなかった。筵の毛羽に目を落としたまま、言葉だけが、こちらへ来た。


「うん」


「……じゃあ」


ローザは、綿の塊を一度、膝の上で握り直した。


「わたしがやれば早い、って、昨日、思ってた」


「……うん」


「人は違うから、同じにならないのは——当たり前、だったんだね」


僕は返事をしなかった。


ローザは、そのまま続けた。


「それぞれに、合ったやり方で、やるしか、ないね」


「……みんなで、やれば、良いんだよね」


最後の一言は、僕の方を見て言った。


——協業、と口が動きかけて、僕は飲み込んだ。


僕は、ゆっくり頷いた。


「……それがいい。みんなでやろう」


それ以上は、言わない方がいいと思った。


ローザが錘を回し始めた。アンナが、その手元を見ている。


「じゃあ、わたしは——」


アンナが、自分の綿の塊を少し崩しながら言った。


「太くても、いい糸から、作ります。繕い物用の、短いやつから」


婆さんが、それを聞いてから、筵の端で口を開いた。


「……あたしゃ、短いのを繋げる方を、やろうかね。長く引くのは、ローザに任せるよ。あたしの指じゃ、届かない」


イェニーは、鍋の火加減を見ながら、少し間を置いて返した。


「……わたしは、出来たのを、布の側で使うよ。太さが違う方が、畝によっては、都合のいい場所もある」


ローザは、錘を回しながら、三人の声を、一つずつ受けた。


「……うん」


筵の上には、それぞれの手の前に、それぞれの綿の塊と、それぞれの糸の束が、少しずつ分かれて置かれていった。長い糸、短い糸、太い糸、細い糸。昨日までは、長くて均一な糸が一本だけ、ローザの手元に生まれていただけだった。今日は、四人分の綿の塊と、四種類の糸の束が、筵に並んでいる。


僕は、壁際の板を引き寄せた。


「口」「袖」「布」「空気」「水、朝、夕」の下に、まだ少し余白があった。


そこへ、炭で、小さく一つの言葉を書き足した。


任せる


ローザがこちらを見て、少し笑った。


鍋の湯気は続いている。水封壺の水は、減っていない。


ローザは、今、僕の予定よりもはるか先をもの凄いスピードで走っている。


——追い越されている、と思った。


僕はまだ何も説明していない。板にはただ、「任せる」が、水より小さい字で並んでいる。


早い。早すぎる。


マニュファクチュアと発話もしていないのに、その必要性だけが、土間に四つの綿の塊として並んでしまった。


段階を、飛ばすな。


思ったよりも速い速度で、資本主義が迫ってくると感じた。

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