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『委託生産』で酒を作ろうとしたら、一壺目は腐り二壺目は酢になった

風邪引いていたのと、詰め込みすぎたので過去最大に難航しました…

【授命暦843年 1/6 昼】


 昼前、梨を山ほど抱えて土間に戻った。


 村境の斜面から拾ってきたトリーア梨だ。籠二つ分。渋くて食えないから、冬のあいだ雪に埋もれて放ってある。膝まで雪をかき分けて拾い集めたので、腕が重い。


 籠を下ろすと、土間の奥から婆さんがこちらを見ていた。


 イェニーが膝の悪い婆さんを、朝から家に呼んでくれていた。


「あんた、こんな食べられもしないもんを拾ってきたのかい。こんなに」


 婆さんは、座ったまま首を伸ばして籠の中を覗き込む。斑点の浮いた皮が、籠の口まで盛り上がっている。


「食べられないから、拾ってきた」


「食べられないから?」


 イェニーが、糸車の前から顔を上げた。


「井戸端の日に出せるものを、もう少し増やしたい。糸だけだと手が足りないし、豆も薪も、家で使う分が先にいる。外から買ってくるんじゃなくて、村に転がってるものを、村の手で何かに変えたい」


「それで、昨日の梨を本当に拾ってきたの。手、足りるの?」


 いつの間にか来ていたローザが、キョロキョロと家を見ながら話しかける。


「そう。どうせ誰も食べないし、いろいろ試さないといけないから」


「籠二つ分も。最初から多くない? 運ぶ方も考えなよ」


「失敗するかもしれないから、多めにした。生では売れない。でも、酒にできれば別だ」


 ローザが、そこで少しだけ眉を動かした。


「これを——潰して、置いておけば、酒になる。たぶん」


 具体的な手順までは分からない。


「勝手に?」


 イェニーが、糸車の前から振り返った。


「大筋は知ってる。でも、細かいところは試すしかない」


「大まかな計画だねえ」


 イェニーは糸車から手を離し、籠と土間の隅を見比べた。


「しかも、確かめる場所は、うちの土間なんだね」


「外だと凍っちゃうんだよね。そしたら、たぶん駄目だから家の中でやりたいんだよね」


「中だと腐ったら匂うよ」


「失敗して臭くなるかもしれないけど、うまくいけば酒の匂いになる予定なんだ」


「予定ねえ」


 正しい。


 表の板の間で、ローザが糸を撚る手を止めずにこちらを見ていた。


「で、壺を見る人は決めたの。置くならそこからでしょ」


 ローザが、糸から目を上げずに言った。


「母さんと婆さんに頼みたい。僕は昼にいないから、朝と戻ってから見る。壺を洗うのも、こぼした梨を拭くのも、僕がやる」


「そんなことだろうと思ってたよ。だから先に言いなよ」


「うん。だから、頼みたい」


「そこを先に言うところでしょ」


 ローザは少し笑った。


「皮に、酒になる元がいる。目には見えないけど、いるはずなんだ。梨を洗いすぎるとそれまで落ちる気がするから、潰してそのまま使いたい」


「目に見えないものを、土間の隅に置くのかい」


 イェニーが言った。


「置くのは梨。見えないものは、梨にくっついて勝手についてくる、はず」


 僕はもう一度、婆さんを見た。


 婆さんは、籠の中の梨を一つ摘み上げて、指で表面を撫でた。そのまま鼻先に近づけて、少し嗅いだ。


「……聞いたこと、ないねえ」


 短く、それだけ言った。


 婆さんも、梨の酒は聞いたことがないらしい。


「だから、やってみたい」


 僕は、屈んで籠の梨を一つ掴んだ。


「先に言っておくね。こぼしたら拭いてね」


 イェニーが言った。


「拭く。潰した梨が土間に落ちたら、僕が拾って、僕が拭く」


「梨の汁は、足の裏に付くとずっとべたつく」


「あと、鍋のそばでは潰さない。ローザの糸の近くにも持っていかない」


「鍋から離す。糸からも離す。籠の前だけで潰す」


「あたしの足元にも置かないでおくれ。膝が悪いと、またげないんだよ」


 婆さんが、籠の向こうから付け足した。


「婆さんの足元にも置かない。転ばないようにする。……じゃあ、籠の前だけで潰す」


「最初に場所を決める話でしょ。転んだら梨どころじゃない」


 ローザが言った。


 イェニーが、糸車を止めて立ち上がった。


「置き場は……土間の隅でいいね。あそこは乾くから」


 そう言って、戸口とは反対の、炉の熱が薄く届く隅を、迷わず指した。冷気が入らず、熱もこもらない。そういう場所だから乾くのだろう。


「じゃあ、そこで。鍋へ行く道は塞がないように置く」


「二つ置くなら、鍋へ行く道は空けておくからね」


 イェニーが、土間に見えない線を引くように指を動かした。


「二つも置くの。通れる?」


 ローザが顔を上げる。


「一つだけだと、失敗したときに何が悪かったか分からない。二つ並べれば、同じように仕込んだつもりでも違いが見えるかもしれない」


「二つとも失敗したら?」


「二つとも、やり方が悪かったと分かる。嬉しくはないけど、次に直すところは探せる」


「強い言い方」


「結果は弱いよ」


 婆さんは、籠の縁に手を添えたまま、特に何も言わなかった。


 蔵から素焼きの壺を二つ引っ張り出して、土間の隅に並べた。二つ並べて試せばいい。同じ梨を、同じ場所に、同じ日に詰めて、同じように待つ。


「同じにしたいって顔してる」


 ローザが言った。


「同じにしないと、比べられない。梨も場所も日もできるだけ揃えて、それでも違いが出たら、その違いを見たい」


「同じにしたら、どっちがどっちか分からなくならない?」


「それは板に書く。一番目と二番目で印を分ける。書かないと、僕がたぶん忘れる」


「板が増えた。なくさないでね」


「板は大事。書かないと、僕が忘れる」


「板にも仕事させるんだ。まあ、あんたより忘れないし」


 ローザはそう言って、糸に戻った。


 梨を潰すのは思っていたより力が要った。


 拳で押し潰すと、皮の内側から酸っぱい匂いが立つ。指の間から果肉と種が滑り落ちる。


「これ、本当に梨かい」


 イェニーが横から覗き込んだ。


「梨だよ。梨にしては硬いけど、梨だと思って拾ってきた」


「石じゃなくて?」


「石なら酒にはならない。これは硬いけど、梨だよ」


「梨でも、なるか怪しいけどねえ」


 イェニーはそう言いながら、次の梨を僕の前へ転がした。


「手伝ってるのか、疑ってるのか、どっち」


「両方」


 イェニーは平然と答えた。


「器用だな。僕は潰すだけで手いっぱいなのに」


「疑いながら手伝うくらいなら、できるよ」


 返す言葉がなくなったので、僕は梨を潰した。


 イェニーが横で木の匙を差し出してくれて、僕はそれで皮ごとすり潰して、一つ目の壺の口から押し込んだ。二つ分、同じ手順で、同じ分量にするつもりだった。


「同じ分量って言ったけど、今の梨、大きかったでしょ。片方だけ多いよ」


 ローザが板の間から言った。


「見てたの? 糸を撚りながら、梨の大きさまで見てるのか」


「潰れる音が違った。変な顔しないで」


 ローザは糸を撚る手を止めない。


「音で分量は分からない——はずだけど、見直すと少し多い。音で分かったわけじゃない。見直したら、僕にも多く見えた」


 僕は壺の口から果肉を少しだけ掻き出した。


「見れば分かるなら、先に見ればいいのに。手を汚す前に」


「音では分かってない。そこは譲らない」


 一つ目を詰め終わると、僕は壺の口を覗いた。縁に果汁が垂れている。指先で拭おうとして、余計に広がった。


「そこ、汚したままにしないでね」


 イェニーがすぐ言った。


「今、拭く。壺の口に残ると、たぶんよくない」


「袖では拭かないでね」


 イェニーの声が、僕の手元へ飛んできた。


「袖では拭かない。手元に布がなかったから、少し考えただけだ」


「さっき拭きかけてたよ」


「まだ拭いてない。考えただけで止めた」


 結局、指の背で一度だけ縁を撫でた。汁はだいたい取れたが、縁の内側には、細く光るものが残っていたかもしれない。


 二つ目を詰めるときは、先に縁を気にかけた。指で押し広げる前に、手のひらで受けた。一つ目より、口はきれいに詰められた気がする。


 婆さんが麻布をほどいて寄越した。


「口は、こうしておくんだよ」


 一つ目の壺の口に布を一枚かぶせ、端を壺の縁にくぐらせるようにして、婆さんは短く手本を示した。塵や虫は入れたくない。家の中で塩漬けや漬物を置くときの、婆さんがいつもやっている手つきだ。婆さんの布は、壺の縁に沿ってわずかに余裕が残っている。


「ありがとう」


 僕は、婆さんが被せた一つ目は、そのままにした。二つ目は、自分で被せた。


 やってみると、どうも、ぴんと張ってしまう。婆さんの方はもう少し緩んでいたはずだ。引っ張ってから戻そうとすると、今度は縁から外れる。結局、最初より強めに張ったまま結び直した。加減が分からない。


 板の間から、ローザが目だけで「やったの」と聞いてくるので、顎を引いて頷いた。


「たぶんで、土間の隅を二つ潰したの。通り道は残した?」


 ローザが、壺ではなく土間の隅を見て言った。


「壺二つ分だけだよ。人が通るところは残してあるし、鍋にも糸にも届かない」


「失敗したら、匂いも二つ分?」


「まだ匂ってない。匂う予定はあるけど、できれば酒っぽい方の匂いにしたい」


「匂う予定はあるんでしょ」


「……ある。そこは否定できない」


「じゃあ、ちゃんと見て。母さんに押しつけないで」


 ローザの言うことは、もっともだった。


「見る。置いたからには、悪い匂いにならないように毎日確かめる」


「最初から、そう言えばいいのに。頼むならそこまで言う」


 ローザはそれだけ言って、糸に戻った。


 壺が二つ、土間の隅に並んだ。


 婆さんは、壺から少し離れたところに座ったまま、指先で膝をさすっている。


「見てやってくれる?」


 僕が聞くと、婆さんは、壺の方をちらりと見てから、ゆっくり頷いた。


「……匂うまでは、待つんだよ」


 それだけ言った。


 匂うまで、とはどういう意味だろう。いつ匂うのか。どんな匂いがすれば次に進めるのか。


「その、匂う、というのは、酒の匂いを待つのか、駄目な匂いを見つけるのか、どっちなんだろう。できれば、来る前に少し知っておきたい」


「匂うまでは、まだ分からないねえ」


 婆さんは、壺から目を離さない。


「匂いにも、色々あると思うんだけど」


「匂いはいろいろあるねえ」


「どれを待つの」


「来れば、鼻が分かるよ」


 婆さんは、そこを動かさない。


「来る前に分かりたい。来てからだと、たぶん捨てるか喜ぶかのどちらかになる」


「来る前の匂いは、まだ来てないよ」


 婆さんは、そこで話を終えた。


 隠しているのではない。来ていない匂いを、来る前の言葉にできないだけだ。


 正しい。正しいが、何も進まない。


「板に、何て書くの。忘れないように」


 ローザが言った。


「一番目は土間の隅。二番目も同じ。違いを減らしたいから、まずは同じと書く」


「同じだけだと、あとで見ても分からなくならない? あんた、すぐ忘れるし」


 ローザが、板に残る文字を想像するように目を細めた。


「同じにしたいから。同じにしたつもりで、違ったところを後で探す」


「同じにしたいものほど、違う顔するよ」


「縁起でもないけど、たぶんその通りでもある」


「梨の方が先に悪い匂い出すと思う。だから先に見て」


 その言い方が当たりそうで、僕は黙って板を置いた。


---


【授命暦843年 1/10 夕方】


 数日して、賦役から戻った夕方のことだ。


 土間に入るより先に、匂いで気づいた。


 戸口の手前で、一歩、止まる。


 甘い。酸っぱい。あと、駄目。


 僕の鼻でも分かる。これは駄目だ。


 土間に入ると、婆さんはもう壺の前にいた。片方の壺の布を半分めくって、鼻を近づけている。


「……これは、駄目」


 短く、そう言った。


 それ以上は言わない。婆さんの答えは短い。短すぎて、理由が入る隙間がない。


 ——冷えたのか。布か。僕が触りすぎたのか。


 頭の奥で、原因を並べ直しかけた、そのときだった。


 イェニーが、鍋を火から下ろして、こちらへ来る。


「そう。じゃあ、捨ててくるね」


「待って。捨てる前に、少しだけ中を見る。何が悪かったか、今見ないと分からなくなる」


「見るのかい」


 イェニーが壺を持ち上げかけたまま、こちらを見る。


「原因を。匂いが駄目なのは分かるけど、どこから駄目になったのか見たい」


「鼻がもう原因を嫌がってるよ」


「鼻は嫌がらない。僕の顔が嫌がってるだけだ」


「嫌がってる顔だよ。鼻より正直」


 ローザが板の間から言った。袖で鼻を押さえている。


「ローザは遠いだろ。そこまで届いてるなら、だいぶ駄目だけど」


「ここまで臭いんだから、もう十分でしょ。土間に残す方が駄目」


「……それは、だいぶ駄目だ」


「だから早く捨てて。母さんが鍋を戻す前に」


 ローザは袖の陰で短く結論だけ置いた。


 イェニーは、僕が壺の口を覗く分だけ待ってくれた。


 壺の縁に、黒っぽい筋がある。最初に梨汁を広げたあたりだ。内側にも、べたついた汁が乾きかけて、そこから嫌な匂いが立っている。


 ああ、と喉の奥で声が出た。


「口だ。壺の口の汁を、僕がちゃんと拭いてなかった」


「壺の縁が汚れてたってこと? そこ、次は見るんでしょ」


 ローザが言った。


「壺の口。縁に梨汁が残って、そこから腐ったんだと思う」


「じゃあ、次は壺の口をきれいにするんでしょ。話を伸ばさない」


 ローザは短くまとめた。


「そう。次はそこを先に直す」


「話すなら、外でいいかい。匂いの近くで長くなるよ」


 イェニーが言った。


「じゃあ、捨てる」


「待って、壺はあとで洗うから。中身は捨てていい」


「洗うのは誰」


 イェニーは壺を持ったまま、そこだけ確認した。


「僕が洗う。匂いが残るなら、僕が何度でも洗う」


「それならいいよ」


 イェニーは壺を両手で持ち上げて、戸口の外へ運んでいく。雪の上に、潰した梨の残骸がぼとりと落ちる音がした。


 ——早い。


 原因を考える間もなかった。


「次は、口を拭く。壺の縁に汁を残さない。布にも触れさせない」


 僕は、婆さんの方を向いて言った。


 同じ日に、同じ梨を、同じように潰した。なのに片方だけ駄目になった。もう片方は、まだ布の下で知らん顔をしている。


 ——一つ目の方が、口を汚した方だ。


「同じにしたつもりでも、違ったね。そこは見えた」


 板の間からローザが言った。


「違った。一つ目は、僕が口を汚した」


「じゃあ、そこから直せばいいでしょ。捨てた分は次で返す」


「うん。壺は洗う。匂いが残ると言われたばかりだから、ちゃんと洗う」


「よく洗いな」


 婆さんが、膝を一度だけ撫でた。


「口は、ちゃんと拭くんだね」


「拭く。あと、布は梨汁に触れないようにする。口のところに汁が残ると、そこから先に駄目になる気がする」


「それなら、布は少し浮かせるんだよ」


 婆さんは布の端に指をかけた。


「浮かせる? ぴんと張る方がきれいに見えるけど、それだと真ん中が下がるのか」


「ぴんと張ると、真ん中が下がる」


 婆さんは、残った方の壺の布の端を、指先で軽く持ち上げて、結び直してくれた。今度は、僕が被せたときより少し緩く、壺の縁に沿ってわずかに余裕が残る。


「こうしておくんだよ」


「待って、板に書く。口を拭く。布を汁につけない。あと、僕が見た目だけで布を張りすぎない」


 僕は板の切れ端を探した。こういうときは書いた方がいい。


「口を拭く。布を汁につけない。ここまでは、次の壺で僕がやる」


「袖で拭かない、も書いておいたら」


 イェニーが、空の壺を戸口の内側へ戻しながら言った。


「それは書かなくても覚えてる。袖で拭くのは、もう失敗の名前みたいになってる」


「さっき忘れかけた」


「忘れかけただけで、実際には拭いてない」


「それも書きな」


 婆さんが言った。


 僕は板に、小さく「袖で拭かない」と刻んだ。


「字が小さい。忘れる気でしょ。大きく書きなよ」


 ローザが言った。


「大きく書くことじゃない。大きく書くと、僕が袖で拭いたみたいに見える」


「一番大きく書いた方がいいことだと思う」


 婆さんは、壺の口のあたりで指を一度、縁に沿わせた。指で壺の縁の内と外を軽く拭うような、短い動作だ。


「湿ってるところは、全部拭くんだよ」


 婆さんの指は、壺の縁を止まらず一周した。


「全部? 見えているところだけじゃなくて、指で触ったところも含めて?」


「残ってると、手に付くよ」


「拭いたつもりで、手の方に汁を移してるということか」


「その手で、別のところへ付けるんだよ」


 言われてみると、その通りだった。僕はさっき、拭くつもりで汁を広げた。


 イェニーが、残った壺を土間の壁から少し奥へ動かした。


「次は、少し奥へ寄せておくからね。鍋へ行くとき、袖が当たるから」


「袖で拭かないため? 僕の袖が信用されていないのは分かったけど、壺の置き場まで変えるのか」


「あなたの袖は、少し心配だねえ」


 口を拭く。布を汁につけない。袖で拭かない。置き場を少し奥。


 三つのつもりが、四つになった。


「それも板に入れるの」


 ローザが聞いた。


「入れる。入らなかったら、板をもう一枚探す」


「板の方が先にいっぱいになりそう」


 確かに、板にはもう「口」と「袖」が並んでいた。


---


【授命暦843年 1/13 昼】


 二つ目の壺は、腐らなかった。


 戸口で匂いを嗅いでも、前のような駄目な甘さはない。


 これは、いけるのでは。


 僕は少しだけ胸を張った。まだ何もしていないのに。


 婆さんは、布を少しめくって鼻を近づけ、短く嗅いでから戻した。


「今のは、酸っぱい方に、行ったね」


 婆さんは、そう言った。


 胸が、その場でしぼんだ。


「酒の方ではなく? 腐っていないなら、少しは近づいたと思ったんだけど」


「酸っぱい方に行ったね」


 婆さんは、僕の期待を少しも拾わなかった。


「酒は、少しも? 匂いの端だけでも、酒の方に寄ってない?」


「酸っぱい方に行ったね」


 婆さんは同じ返しをよこすだけだった。


「酸っぱい方は、戻らない? ここからもう一度、酒の方へ行くことはないのか」


「戻らないねえ」


「一度、酢みたいになったら、戻らないってこと?」


 ローザが、糸巻きを膝に置いた。


「たぶん。腐るのとは違うけど、酒でもない。酸っぱい方に進んだら、もう別物なんだと思う」


「じゃあ、失敗は失敗でしょ」


「失敗は失敗。ただ、腐った壺とは理由が違う気がする。酸っぱいという言葉で、何か思い出しそうなんだ」


 分からない。


 でも、酸っぱい、という言葉が頭の奥で何かに引っかかった。


 酒を放っておくと酢になる——前世で聞いた覚えがある。ワインは空気に触れ続けると駄目になる、と。


 布。


 虫と塵は防いだ。けれど、空気は入った。入り続けた。


「……布だ。布だと、空気が入りすぎる」


 ——二つ並べておいてよかった。腐った一つ目だけなら、口の汚れで終わっていた。腐らなかった二つ目が残ったから、布の失敗まで見えた。途中で婆さんが布を直してくれたが、入った空気は戻せない。


「布が悪かったのかい」


 イェニーが鍋の方から言った。


「布そのものは悪くない。虫と塵を止めるにはよかった。でも、空気まで通しすぎた。間違えたのは僕の使い方だ」


「じゃあ、次はどうするの」


 イェニーは鍋の蓋を少しずらしたまま聞いている。


「空気を減らす。壺の中に外の空気が入り続けると、酒じゃなくて酢の方に行くんだと思う」


「空気は返事しないよ」


「知ってる。だから、空気が入りにくい口に変える」


「相手が見えないものばかりでしょ」


 ローザが言った。


 僕は、布の端を指で持ち上げた。酸っぱい匂いが、また少し出た。


「虫を入れたくなくて布にした。でも、空気が入りすぎた。酒になりかけても、空気に触れ続けると、酢になる。たぶん」


「また、たぶんに戻った」


 ローザが、すぐにそこだけ拾った。


「戻ってきた。まだ確かめてないから、断定するとまた外す」


「それも板に書くの?」


「書く。口と袖と布の隣に、空気も足す」


 僕は板を引き寄せた。口。袖。布。空気。


 書けば書くほど、失敗の数が増える。


「次は、空気を入れない。虫だけじゃなくて、外の空気そのものを止める」


「蓋をするのかい」


 イェニーが言った。


「する。布ではなくて、木の蓋で口を塞ぐ」


「布はしてるじゃないか」


「もっとする。布じゃなくて、木の蓋で閉める。隙間は粘土で塞ぐ。外から入る道を、できるだけなくす」


「しっかり塞ぐってこと?」


 ローザが、木蓋の方を見た。


「そう。外から空気が入らないようにしたい」


「それで壺の中は大丈夫なの」


「大丈夫だと思う。まずは、空気を止めたい」


 そう言いながら、僕は空になった一つ目の壺に、近くにあった木蓋を当ててみた。ぴったりではない。縁の片側が浮く。押し込むと、中に残っていた空気が逃げて、蓋の端がぷしゅ、と小さく鳴った。


 ローザが顔を上げた。


「今、音がしたよ」


 ローザは糸巻きを持つ手を止めた。


「今のは、蓋の隙間から空気が抜けただけだ」


「壺が嫌がってるんじゃないの」


「違う。中の気が出ただけ。嫌がったわけじゃない」


「じゃあ、閉めたらもっと出るんじゃないの?」


 僕は木蓋を押さえたまま、言い返せなくなった。


 中から気が出る。


 酒になるときは泡が出て、蓋を押し返す——前世で、そういう光景を見たことがあった。


 完全に塞いだら、壺か蓋が負ける。


「……駄目だ。閉めきったら、今度は中の気が逃げない。酒になるときは泡が出るはずだから、それを閉じ込めたら蓋が浮くか、壺が割れる」


「忙しいねえ」


 イェニーが言った。


「空気は入れたくない。でも、中から出る気は逃がしたい。外からは入れず、中からは出す。そういう口が要る」


「わがままだねえ」


 イェニーは、鍋より壺の方が手のかかるものに見えてきたらしい。


「酒の方がわがままなんだ。腐るな、酸っぱくなるな、でも息は出せ、という話だから」


「酒、まだできてないよ」


 ローザが正しく言った。


 僕は木蓋から手を離した。


「水を使う。外から入る空気は水で止めて、中から出る気だけ、水をくぐらせる」


「今度は水を使うのかい」


「使う。蓋の周りを水でふさぐ。水なら、外の空気を止められるはずだ」


 婆さんが、そこで初めて少しだけ顔を上げた。


「水は、減るよ」


 婆さんの声が、短く入った。


「減ったら足す。水が切れたら、空気が入る」


「あんたは忘れるねえ」


「忘れない。……と言うだけだと信用されないのは分かってる」


「昨日、薪を足すの忘れた」


 イェニーが言った。


「あれは別だけど、信用を減らした話ではある」


「一昨日は、鍋も忘れたでしょ」


 ローザが言った。


「あれも別。別だけど、板に書く理由にはなる」


「忘れるなら、板に書きな」


 婆さんが言った。


 僕は黙って、板に「水」と刻んだ。


 イェニーが、背後で鍋の蓋を開ける。湯気が立ち上がって、土間の奥の方で薄く散る。昼飯の支度が始まっている。


「次の壺は、どこに置くんだい」


 婆さんが、鍋の方を見ずに、僕に聞いた。


「水が凍らないところ。炉に近すぎると乾く。戸口に近いと凍る。あと、誰かが蹴らない場所」


「注文が増えたねえ」


 婆さんが呟いた。


 イェニーが即座に割り振った。


「母さんが場所を見るね。あなたは壺を持ってね」


「僕も考える。持つだけだと、また置き場を人任せにしたことになる」


「持ちながら考えてね」


 僕は、壺を持つ方になった。


 ——壺だけでは始まらない。昼飯のあと、もう一度斜面へ行くことにした。


---


【授命暦843年 1/13 夕方】


 夕方、戸口の内側に新しい梨の山が積まれた。


 午後のあいだに、もう一籠分、村境から拾って戻ってきた。雪の斜面を二往復するうちに日が傾いて、戻ってきた頃には、戸口の外の光が赤くなっていた。


 梨の山の横に、洗った壺が置かれている。


 イェニーが、土間の隅の荷を少し寄せて、炉から遠すぎず、戸口から近すぎない場所を空けていた。鍋へ行く道は残っている。ローザの糸にも届かない。僕の袖が当たりにくい。


「次は、ここにしようね」


 イェニーが、土間の一点を指さした。


「炉から少し離れてる。水が乾ききらないように、ということ?」


「そうだよ」


 イェニーは短く頷いた。


「戸口からも離れてる。凍らないように」


「そうだよ」


 また、同じ頷き。


「鍋からも離れてるのは、僕の袖のため?」


「あたしが通るから」


「それが一番大事?」


「一番大事」


 異論はなかった。


 三つ目の壺に入れる梨を潰すころには、僕の手はもう酸っぱい匂いに慣れていた。慣れたくはなかった。


「その手で板を触らないで」


 ローザが言った。


「触らない。梨を潰した手で板を触ると、あとで字まで酸っぱくなりそうだから」


「さっき触ろうとしたでしょ」


 ローザは板を少し自分の方へ寄せた。


「板が近かった。手が勝手に行ったわけじゃない」


「手が近づいたんでしょ」


「板も少し近づいてきた気がした」


「板は自分から来ないでしょ」


 梨を詰め、壺の口の縁を拭く。今度は袖ではなく、湿らせた布を使った。婆さんが見ているので、指が止まりかけても止められない。


「そこは、もう一度拭くんだよ」


 婆さんが言った。


「どこ。今度は見落としたくない」


「今拭いた汁が、まだ残ってるよ」


 婆さんは、光っている場所を指で示さず、目だけで示した。


「見えない。僕にはただ拭いた後に見える」


「そこが光ってるよ」


 僕は壺の縁を少し傾けて見た。確かに、薄く光っている。


「今なら見える?」


 ローザが聞いた。


「見えた。言われてから見ると、確かに細く光ってる」


「婆さんの方が先に見つけてる」


 ローザが小さく言った。


「そこは認める。言われてから見えた」


「いつも、言われてからでしょ」


 僕は黙って、もう一度拭いた。


 そのあと、壺の口の周りに粘土を細く置いた。低い輪にして、指で押さえる。壺の肩に、小さな土手を作るようなものだ。


「土間で池は作らないでね」


 イェニーが言った。


「壺の上だけ。土間に池を作ったら、僕が全面的に悪い」


「水は下へ行くものだよ」


 イェニーは土間を指した。


「だから土手を作る。壺の口の周りだけ、水が留まるようにしたい」


「土手が負けたら?」


「拭く。土手が負けたら、僕も負けたことにして拭く」


「誰が」


「僕が拭く。ここはもう先に言っておく」


「それならいいよ」


 この家の許可は、だいたい洗う人間で決まる。


 僕は壺の口より一回り大きい浅い鉢を、逆さにしてかぶせた。鉢の縁が粘土の輪の内側に落ちる。その周りへ、手桶の水を少しずつ注ぐ。


「それ、水を壺に入れてるの」


 ローザが戸口の内側から覗き込んだ。


「入れてない。外に置いてる」


「外に置いた水が、何をするの」


「番をする。外の空気は水で止めて、中から出る気は水をくぐって出る。入口を塞ぐんじゃなくて、一方だけ通す」


「水が壺の中に入らない?」


「入らないように、鉢を伏せてある」


「変なの。水が外で見張るんだ」


「変でも、空気が入りっぱなしよりはまし」


 ローザは納得していない顔で、水の輪を見ていた。


 婆さんは、鉢の縁を指で軽く押した。水が輪の中でゆっくり揺れる。


「水が浅いねえ」


 婆さんが、鉢の縁を押したまま言った。


「もっと? 浅いと、隙間から空気が戻る?」


「浅いと、少し戻るよ」


 僕が手桶を持ち上げると、イェニーがすぐに言った。


「入れすぎると、持ったときこぼすよ」


 イェニーが手桶の傾きを見ている。


「動かさない。置いたら、その場所で見張る」


「あなたは動かしそうだからね」


「動かさない。動かしたくなったら、先に誰かを呼ぶ」


「昨日も壺を覗くために動かした」


「あれは少し。少しでも水ならこぼれる、という話だよね」


「水は少しでこぼれる」


 正しい。


 僕は少しだけ水を足した。水の輪が、鉢の縁を細く囲んだ。


「これで、外からは入らない。中からは出る。はず。うまくいけば、水のところで小さく泡が出ると思う」


「はずが多い。見る人を決めないと駄目でしょ」


 ローザが言った。


「減ったら足すんだよ」


 婆さんが言った。


「それも書いた。水が減ったら足す、朝と夕に見る」


「朝も夕も見るんだよ」


 婆さんはもう一度、同じことを刻ませるように言った。


「書く。大きく書く」


「大きく書くんだよ」


「……書く。袖より大きく書く」


 僕は板を引き寄せた。手は拭いた。ちゃんと拭いた。


 板に「水、朝、夕」と刻む。


「今度は字が大きい」


 ローザが言った。


「言われたから。水を忘れたら、この仕組みごとただの変な蓋になる」


「袖より大きく書いてる」


「水の方が大事だから。袖も大事だけど、今日のところは水が番をしてる」


「袖も大事だよ」


 イェニーが、鍋の方から言った。


 壺からは、まだ何の音もしない。鉢を伏せた口の周りで、水だけが薄く光っている。


 僕は、土間の柱に背を預けて、しゃがんだ。雪の斜面を二往復したあとで膝が重い。腐った壺一つと、酸っぱい方に行った壺一つと、水で口をふさいだ三つ目。三日でやったことは、それだけだ。


「……婆さん、強いな」


 僕は、柱に頭をもたせかけたまま、短く呟いた。


「水のことを言ってるの?」


 ローザが、すぐ横に立っていた。糸を巻いた木切れを片手に持っている。


「水の深さも、壺の口も。僕が考えたつもりのものを、最後は婆さんが指で確かめる」


「また婆さんに直されたんでしょ」


「直された。明日、水がなくなっていたら、もっと直される」


 婆さんは、鉢の縁をもう一度だけ指で押した。水が小さく揺れて、また止まる。


「朝も夕も見るんだよ」


「書いた。大きく書いた」


「見るんだよ」


「見る。朝も夕も、水が残っているか見る」


 土間の奥で、鍋の湯気が続いている。イェニーが蓋を叩く小さな音がする。


 三つ目の壺は、土間の隅に置かれている。口の周りには水があり、板には大きく「水、朝、夕」と刻まれている。決まっている。

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