九、飛雪散華
雪が降っている。吹雪の手前、風が出て来た。蓮池の向こう岸では、松が枝葉を鳴らし始めた。蓮池も今や薄い氷に覆われて、枯れて縮れた蓮の葉や茶色い種も、雪斑になって俯いていた。雪はまだ、全てを覆い尽くすことが出来ず、躍起になって降ってくる。殊に池の中程に設えた水上亭の内側は、壁もないのに一切雪の跡が見えないのだった。
「鳥もすっかり帰っちゃったねぇ」
ハヤセは亭の手摺に腰掛けて、曇りのない硝子の徳利を灯りに翳した。水上亭の屋根には、鎖で吊るした灯籠があるのだ。黒黒と闇に沈む池の中で、水上亭だけがぽっかりと浮かび上がっている。淡い灰み青紫の徳利は、面白みのない形をしていた。実用性の高い日用雑器だ。ハヤセは徳利の首のところを親指と人差し指で摘んで、顔の前にもってくる。
「カナコ、この色は、月白と呼ぶそうだね」
ハヤセの肩は、かろうじて屋根の下に収まっていた。一方カナコは手摺に肘を張って、しどけなく寄りかかっていた。カナコにしては珍しい姿勢だ。ハヤセにはよほど気を許しているのだろう。白い右手の甲に傾けた頬を預けて、左手を池の上へと差し出している。優雅に窪ませた掌に、雪がひとひら、またひとひらと落ちては溶ける。カナコが床に敷いた繻子の座布団には、大きく蓮の花が刺繍してあった。ノメリの下駄は下座に脱いで、きちんと揃えられていた。
「うん。儚く朧な色だねぇ」
「弔いかい?」
徳利越しにカナコを覗いて、ハヤセが尋ねた。カナコは振り向いて、やはり徳利越しにハヤセを覗き返した。
「いいや、そんなつもりはなかったんだが」
「偶然だったのか」
「今夜は雪だと聞いていたから。月の見立てで持って来たのさ」
カナコの種明かしに、ハヤセは拍子抜けした顔をした。
「なんだ、そうだったのか」
ハヤセは闌干に硝子徳利を置いて立ち上がった。見えない月の替わりにされた、飾り気のない徳利が闌干の上で寒そうに取り残された。カナコは池の上から手を戻す。徳利を取るでもなく、戻した左手を返して膝の上に落とした。
ハヤセは水上亭の片隅に陰陽針で陣法を組む。
「今度は何を思いついたんだい?ハヤセ?」
「まあ、見てなよ」
陣が発動すると、櫓太鼓が現れた。透けているので幻である。櫓太鼓用のバチが一本と、大拍子用に似た細い竹のバチが二本。速めのリズムで太いバチが太鼓を叩き始めた。途中から細いバチでパラパラが入る。霰混じりの大雪だろうか。
「雪音のつもりかい」
カナコがクツクツと笑った。
「ここ、雪花国じゃ、そういう表現があるんだってさ」
「知ってるよ」
「月も見立てなら、雪だって虚音でいいんじゃないか?」
カナコの笑い声が、クククからハハハに変わった。
「思い切れない妄念の影でも出てきそうだよ」
「笑うなよ。ドロドロよりはドンドンに聞こえるだろ?」
「その間ってとこかねえ」
カナコは袂で口元を隠して笑い続けた。
「なんだよ。この陣法はまだ改良が必要だな」
ハヤセは投げやりに糸の端を放り出す。途端に陣は崩れて、幻の音も消えた。ハヤセが手摺の方へ戻って来た。手摺に巻きつけてある細い鎖を手繰り寄せる。氷を削るシャリシャリという音に混じって、雪を分ける微かな音もした。見れば、池の氷を鎖に繋がれた竹籠が滑って来る。ハヤセが引き上げて蓋を開けると、中には月白の硝子で作られた、徳利と揃いのお猪口が入っていた。
「カナコ、笑ってないで飲もう。お猪口も頃合いだよ」
カナコは寄りかかっていた半身を起こし、差し出された竹籠からお猪口を一つ取る。
「ひんやりと心地よい」
「だろ?」
ハヤセは竹籠を置いて、徳利を持った。カナコはお猪口に両手を添えて差し出した。ハヤセは空いた方の腕をカナコの肩に回した。カナコは仄かに朱の差した頬を俯けて、透明な酒を受ける。梅花醸の馥郁たる香りが雪の水上亭を満たしてゆく。
「米焼酎に梅の花をつけたのかい?」
「そう。氷砂糖も入れた」
「雪花国にはなさそうな酒だが」
「今夜は辛口の清酒って気分じゃ無かったんだよ」
ハヤセがヘソを曲げた。カナコはからかうような目付きでハヤセを見た。
水上亭から池の面へと降りる階段は雪を被いで、使う人もない。蓮の中へと漕ぎ出す船も、春まで船小屋で眠っている。池の氷が溶ける頃、船は階段の下まで遊覧客を迎えに来ることだろう。雪で視界が遮られ、水上亭の周囲に人がいるのかどうかは見えない。ただ、人声や足音は聞こえなかった。蓮池で、カナコとハヤセはおそらく二人きりだ。たわいの無いお喋りをしながら、雪の蓮池を肴に花酒を傾ける。
「カナコ、内傷はもうすっかりいいのかい?」
「治ったよ。神界に行って来たから、なんてことなく治った」
「へえ、良かった」
ハヤセは心配事が無くなって、晴れやかな顔つきになった。
「あんまり無茶すんなよ」
「そうは言っても、事故なんて起こるもんだろ」
「それはそうだが。今度からは、早めに声かけてくれよ」
「ありがとう。そうするよ」
実際には、今後もギリギリまで呼ぼうとしなさそうな口ぶりだ。偶然に現場が被る時の外は、カナコが前もって助っ人を頼んでおくとは考えられない。ハヤセは諦めて天を仰ぎ、自分のお猪口にも花酒を注いだ。
赤い鹿子の手絡で飾った結綿も愛らしく、十代半ばのお嬢さんが橋を渡って来た。提灯を提げた婆やさんに手を預け、足元を確かめながら進んでいた。後ろから傘を差し掛けるのは、背の高い痩せ気味の女性だった。お嬢さんが身に纏う黒字の大振袖には、紅と白との枝垂れ梅が大きく織り出されていた。金襴緞子の帯は丹の地に雪輪や竹が目にも鮮やかだ。帯は華やかなお嬢さんらしくだらりに結んでいた。
水上亭の入口で、三人の女が立ち止まる。
「ひとさし舞って差し上げましょうか」
ニッと笑う口元は、良いところのお嬢様とは思われぬ艶やかさを見せた。カナコはクイと酒を飲み干し、ノメリの下駄を突っかけて手摺を離れた。ハヤセが、空になった腕を残念そうに眺めた。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたよ」
カナコは事務的な態度で三人を迎えた。腰を屈めていた婆やさんは、怪訝な顔でカナコを見上げた。傘を差し掛ける係の女性は、どこを見ているのか解らない。煌びやかな装いのお嬢様は、背筋が寒くなるような艶笑を見せた。白い雪の中で、ぽってりと紅を差した口元が浮き出して見える。招き入れられて、お嬢様が水上亭の敷居を跨ぐ。
婆やさんが提げている提灯が、ふっと消えた。水上亭の外は、途端に真っ暗になる。そちらへ一歩踏み出せば、自分の鼻先すら見えないだろう。灯りの中に入って来たのは、お嬢様だけである。カナコの脇を通り抜け、水上亭中央に作り付けられた石の円卓に着く。太鼓型の椅子にすとんと腰をおろしたが、垂れの長い帯やら大振袖の袂やらの面倒を見てくれる人はいない。お付きの二人は闇の中で黙っている。否、水上亭の入口で待機しているのかどうかさえ判らない。姿はまるで見えぬ。そこにはもういないかも知れない。
水上亭をぐるりと囲う腰高の手摺には、相も変わらずハヤセが腰掛けていた。結綿のお嬢様とカナコのやりとりに口を挟まず、独り硝子のお猪口を傾けていた。ほんのり甘い梅の花酒をちびりちびりと舐めながら、ハヤセは成り行きを見守っている。水上亭中央の卓では、お嬢様が澄まし顔で座っていた。舞の申し出をした割りには、なんの仕度もする気配がない。蓮池の方を向いて雪を眺めてばかりいた。カナコは二人に背中を向けていた。入口付近で外の闇を見つめている。
カナコから手の届く場所に、傘が広げて干してあった。水色に金魚二匹と水草が描かれた絵傘である。カナコは冬でもこの傘を差している。
「もし、そこなお人」
お嬢様が肩越しにカナコへ声を掛けた。
「何用です?」
カナコは背を向けたまま応じた。
「呼魂鈴に無心傘、この世のお人には見えませぬが、貴女様は如何なる御縁でこちらにおいでなされましたか?」
「どこでその名を?」
「ほほ、人の世を離れた者には、自ずと知ることも多いのですよ」
お嬢様は、己がこの世に属さない存在であることを隠そうともしなかった。
「闇と結んで聞く便りなど、ろくな物でもあるまいに」
カナコは振り向きもせず非難した。お嬢様は蓮池に目線を戻して、口を閉じた。入口の外側で、提灯がぽっと点った。ややあってもうひとつ。ふたつ。点る速度は次第に上がった。闇に隠れて橋があるはずの所に、気がつけば無数の提灯が浮かんでいた。持つ人の姿は見えない。もう増えるのは止んだかと思う矢先に、提灯は一斉に裂けた。腹のところを横一文字にぱっくりと割って、一面の提灯が炎を上げた。
ハヤセがひらりと飛び上がり、カナコの隣に降り立った。陰陽針を取り出すハヤセを、カナコは片手で制した。ハヤセは大人しく針をしまった。カナコは絵傘に手を伸ばし、縁にぐるりと突き出した骨に指をかけた。炎を吹き出しながら水上亭に提灯が飛び込んで来る。ころころと石の床を鳴らす絵傘が、低目の提灯を吸い込んだ。真っ直ぐな竹の柄を軸にして、絵傘は大きく曲線を描く。下駄の踵で柄を跳ね上げて、カナコは水色の絵傘を片手に受けた。
「因果を辿って参りました」
告げながら、カナコは傘を傾けて左右に振った。回転する水色の絵傘は、休みなく提灯を呑み込んでゆく。
「雪花国梅枝城下生薬屋の娘、月白堂お常」
燃える提灯をすっかり絵傘の中に閉じ込めると、漸くカナコはお嬢様の方を向いた。大振袖のお嬢様は、動じもせずに返事をした。
「はい、わたくしでございます」
カナコは指輪を飾る白銀の鈴をちりりんと鳴らす。指はお嬢様を指していた。
「お迎えにあがりました」
「かのお方は、どちらにいらっしゃるのかしら?」
「四百年の昔に彼岸へと渡りましたよ」
お嬢様がピクリと片眉を上げた。
「その様な事を仰られても、お呼びに応えることは出来ませぬ」
「旅立つ時が来ています」
「桜吹雪の中で彼の方と、蓮池に船を漕ぎ出すお約束を致しました」
「その時、何を渡したのです?」
カナコが淡々と問いかける。
「何?何って、それは」
お嬢様がそわそわと袂を膝に引き上げ、揃えた指でシワを伸ばす仕草を始めた。カナコは蓮池に降る雪を指差して、水上亭の中を横切った。
「憐れなおツネ、よくご覧」
「なによ」
お常は拗ねた小声で反発した。手摺まで戻ったカナコは、雪の蓮池に向かって窓を拭くような仕草をした。降りしきる雪の中に、参詣客で賑わう神社の参道が映った。人混みの中にはお常もいた。
「あっ」
お常は、目付きの悪い男にぶつかられてよろめいた。
「危のうございますよ」
乙女と見紛う紅顔の美少年が、しなやかな動作でお常を支えた。粗末な木綿の着流しながら、どこか気品を湛えている。歳の頃は十八、九、目元涼しく鼻筋の通った、一本差しの浪人である。元はどこかの若君だろうか。
「まあ、ありがとう御座います」
お常は頬を染めて上目遣いに若者を見た。若者は品良く微笑んだ。
「何、困った時はお互い様で御座いますよ」
「わたくしは、月白堂の娘お常と申します」
不用心に名乗るお常に、お供達が慌てた。
「生薬屋さんのお嬢様でしたか」
「まあ、うちをご存知なの?」
お常は、黒目がちな目をぱっちりと見開いた。
「ええ、月白堂と言えば、雪花国一の薬種問屋さんでしょう?」
「恥ずかしながら、皆様そのようにお褒めくださるようで御座います」
「誰でも屋号くらいは存じ上げておりますよ」
「ほほ、嬉しいこと」
話が弾みかけたのを怪しんで、婆やさんが帰宅を促す。
「お嬢様。旦那様がお待ちですから、さあ」
お常は名残惜しそうに振り返りながら、一団の奉公人に連れられて、その場を後にした。
場面は変わって、お常が琴の師匠から手紙を受け取っていた。
「まあ、鷹之丞様から」
「しっ、はやくお返事を、見咎められぬ内に」
幾度か恋文が交わされて、ある時また、出会った神社の縁日に来た。神社のある森で、鷹之丞は涙を目に浮かべていた。
「父が病に倒れ、お取り潰しになったのです」
「まあ、なんてこと」
お常は溢れる涙を袖口で拭った。鷹之丞も、手拭いを取り出して自分の目頭を抑えていた。
「月白堂さんの評判を伺って梅枝城下まで来てはみたものの、良い薬は手が出ませんから、父の病は酷くなる一方なのです」
「きっとお力になれます。何というお薬でしょうか?」
鷹之丞は目を見張り、口籠る。
「ええ?そんな」
「どうぞ仰って下さいまし。お持ち致しますから」
「でも」
「お父君の為ですもの」
「それだと言っても」
「このままでは、命に関わるのでしょう?」
鷹之丞はその言葉を待っていたかのように、心を決めた顔になる。
「そこまで言って下さるのなら」
鷹之丞は守り袋をお常に渡した。中の紙切れには、薬の名前が書き付けてあった。
「お任せください」
お常は得意そうに微笑んで、そそくさと参道へと去った。
次に示されたのは、生薬屋の店先である。紙を巻いて暗くした蝋燭を頼りに、人影が現れた。人影は、夜中にそっと薬箪笥に手をかける。不届き者の影は、劇薬を素早く守り袋に入れて立ち去った。その次の場面は、蝉時雨を浴びた神社の裏山である。浪人鷹之丞がお常と向き合っていた。二人きりで立っている。お常は背後を気にしながら、守り袋を鷹之丞の手に押し込んだ。
「鷹之丞様、蓮池にお船が出ておりますけれど」
押し込んだ後で、お常がねだった。鷹之丞は甘い声で囁いた。
「桜の花時になったら乗せてあげますよ」
「春はずいぶん先ではございませんか?」
「その頃には、父上の病が良くなっていることでしょう」
お常はしょげた。
「蓮の花陰を渡れないのは残念ですけれど、仕方のないことですねえ」
「花吹雪の中を漕いで行くのは如何でしょうか?」
「まあ!春にはそんな素敵なことができるのですね」
お常は簡単に丸め込まれた。それからいく日も経たない内に、お大臣様の宴席で大勢の重臣が毒に倒れた。それは、お常が渡した劇薬だった。厳しい捜査が始まった。町の噂はお常の耳にもすぐに届いた。だが、お常はまさか鷹之丞に渡した薬が事件に使われた毒薬だとは思わなかった。やがて調べがついて、鷹之丞は引き回しのうえ磔獄門晒し首とお裁きが下された。鷹之丞は偽名であった。
月白堂は主人が責任を問われ、娘とともに同じ極刑を受けた。手引きをした琴の師匠も牢に繋がれた。この人は手紙の中継ぎをしただけで、何も知らなかった。その為、極刑は免れた。
「騙されたのだ」
カナコが無慈悲に指摘する。
「何かの間違いです。ほら、花吹雪が風に舞っていますから、もうすぐ鷹之丞様からお誘いのお便りを頂ける筈です」
「残念。雪だよ。花びらじゃない」
ハヤセが口を挟んだ。お常は片眉を吊り上げた。
「花の散りしく景色と見れど、あたら眺の雪ぞ散りなん」
ハヤセが嫌味ったらしく口遊む。カナコは感情の無い声で言った。
「雪ですらなかったのだ」
降りしきる雪の中に浮かぶ情景では、鎖に繋がれたお常が足を引きずっていた。城下町を引き回される間中、野次馬から石の礫を投げつけられていた。背中にはじわじわと赤い染みが広がってゆく。
「病気の城主なんてのも、初めっから居なかったのさ」
お常は耳を抑えた。
「全部デタラメだったんだよ」
「知りません、解りません」
お白洲でお取り調べを受ける鷹之丞が、再び映し出された。
「天蓋城馬方の息子鳥吉。主君を刺して刀を奪い、鷹之丞と名を変えて、梅枝城下で大臣を訪ねたものの騙りとして拒まれ、士官が叶わず逆怨みをし、あろうことか関係のない役人たちにまで毒を盛り、多くの人の命を奪った。極悪非道、冷酷無比、許し難し。よって、極刑と致す!」
鷹之丞こと鳥吉が犯した数々の悪業が、繰り返し映される。お常は半狂乱になって頭を振っていた。
「知りません!解りません!」
処刑の情景も繰り返される。ふぶき始めた雪の蓮池に、真夏の処刑場から血飛沫が飛び散った。お常は堅く目を閉じる。
「ほんとうに解りたくないのは何だ?」
カナコが静かに尋ねた。お常はつと眉を寄せた。
「解りたくないこと?」
「憐れなおツネ。お前が知りたくないのは何だ?」
水上亭に提がった灯籠が大きく揺れた。
「知らない、知らない」
「誰の心も知らなかったんだねえ」
ハヤセが独り言を漏らして、花酒を口に運ぶ。
「いいえ、違うわ!鷹之丞様のお心は存じております!鷹之丞様とわたくしは、二世を誓った仲ですもの。心を知らないなんて、言わせない」
「でも嘘だったのだ」
「知らない!違うわ!よしんば違わなかったとしても、鷹之丞様のお役に立てるなら、何だって出来るわ!」
豪華に結んであっただらりの帯が、崩れて傾いていた。
「鷹之丞様!何処に?わたくし、お届け致しましたわ!ねえ、お役にたてたでしょう?お喜びくださったでしょう?おそばに置いてくださるでしょう?」
お常は階段に駆け寄った。手摺の一部が戸になっている。特に施錠はされていない。雪の積もった戸を開けて、お常の裾が階段を降りる。それまで長い裾に隠れていたお常の足は、履物どころか足袋も見えない。底しれぬ闇の塊がちらりと見えるだけだった。
「ほら、花吹雪が蓮池に舞っておりますわ。ねえ、お船に乗せて下さるのでしょう?」
お常は鳥吉がそこにいるかのように、何かに縋る仕草をした。
「お常。妄念を捨てて旅立つのです」
カナコが指輪の鈴を鳴らした。灯籠がカタカタとなる。手摺も振動して、硝子徳利が倒れて落ちた。ハヤセはすかさず受け止めた。
「カナコの月は守ったよ」
「黙っていろ」
カナコに苦笑いされて、ハヤセはふざけるのをやめた。
「このままだと毒の風が吹き荒れて、花見の客も、舟遊びの客も、月見の客も、雪見の客も、みんなみんな、この世から居なくなってしまうよ?」
「それだっていいんです!」
お常は叫んだ。嗄れ声になっている。
「無理なんです。どうしても。思い切ることができません。やっぱり心は本当だったんだって、思ってしまうのです」
「それを妄執と言うのだ」
カナコは根気よく説得を試みた。
「愚かだね」
ハヤセは月白の徳利から揃いのお猪口に酒を注いだ。
「馬方なのに鳥吉とは此れ如何に。般若湯には天蓋を。止まない雪に憂いを洗い流して、どうせ嘘偽りに生きるなら、いっそ夢幻に生きればいいのさ」
酒をグイッと煽り、ハヤセは続ける。
「遊びに飽きて夢から醒めたら、船に乗ればいいんだよ」
「ですから、船には鷹之丞様と」
お常もなかなかの頑固者だ。諦めない。
「その船じゃあないよ。今生の後で蓮の花陰を進めるなんて、思わないことだな」
「妄念に囚われて、魂魄が砕け散ってもいいのか?」
二人とも容赦ない。お常が、枯れて雪を被った蓮池を恨めしそうに凝視している。ハヤセはちょっと気の毒になり、慰めを言った。
「いつの世にか、比翼連理の殿方と、極楽浄土の蓮池に船を浮かべる時もあることだろうよ」
「いや、勝手なことを言うな、ハヤセ。それは我々には解らない。二人とも管轄外だ」
通告でも勧告でもない。カナコは単に事実を述べた。それが却ってお常の頑なな心を動かした。
「いつの世にか?旅立てば、次があるのね?」
「彼岸のことは良く知らないが、少なくとも、今生にしがみついている間は、生まれ変わる機会が全くないのだ」
「それは困りますねえ?」
ザンバラ髪に解けかけた帯のお嬢様が、急に真顔で呟いた。生まれ変わっても再会できるか解らない。だが、ここに居座れば、転生のチャンスは永遠に失われる。再会出来ないということだ。
「それじゃ、お願い致します」
呆気なく受け入れた。ハヤセは下唇を突き出して、変わり身の速さに不快感を示した。カナコはやっと仕事にかかれるので、落ち着いて頷いた。カナコが絵傘を回すと、水上亭の周りを隠していた暗闇が嘘のように消えた。橋は池の岸へと続く。雪は既に膝までの深さになっていた。カナコは一旦絵傘をすぼめると、バサッと開いて風を起こした。風と共に傘から奔流が噴き出した。橋の上から雪が消えた。
「こちらから、どうぞ」
お常の幽霊を連れて、カナコが水上亭を出る。その背中にハヤセが呑気な声をかけた。
「酒が残ってるから、ここに戻って来いよー」
ハヤセの表情には、労いと賞賛と、寄り添い支え合う真心が浮かんでいた。




