三、砕夢残響
青緑色の寝台に、美しい女性が仰臥していた。どうやら氷で出来た寝台のようだ。ぐるりと刻まれた文字は呪文だろうか。ここは天井の高い洞窟で、寝台の周囲には鮮やかな花々が飾られていた。頭に狐耳を生やした青年が、泣き腫らした目で寝台の枕辺に座っていた。耳の先は紫色で、大きな袖の宋代風衣裳を身に纏っていた。服も紫色である。髪は狐色、毛先だけ明るい紫だ。男性にしては長く、女性よりは短い髪を真っ直ぐに垂らした背中には、うっすらと霜が降りていた。
「青楓」
青年は横たわる女性に囁きかけた。吐く息が白くなる。
「毒はすっかり解けたのに、どうして目を覚ましてくれないんだ」
青年は、懐から絹の小布を取り出した。刺しかけの刺繍は、文字のように見える。一文字は完成していて、「流」と読めた。あと一息の文字は、かろうじて「霜」を形作っていた。深みのある青色に明るい紫の文字が、若々しく映えていた。
「ほら、これ、完成したらくれるって言ったじゃないか」
青年の美麗に釣り上がった目から、涙がぽろぽろと溢れ落ちてゆく。
「ねえ、目を開けてよ」
青年は錦の小布を懐に戻して涙を拭うと、つと立ち上がった。部屋の隅にある木箱を開けて、七弦の琴を抱えて戻る。うっすらと黄金色の光を帯びた小型の琴である。
「ほら、青楓の好きな曲だよ。早く歌ってよ。君の歌が無いとこの曲は、まるで車輪の外れた馬車みたいだよ」
青年が紡ぎ出す琴の音は、眠くなるように平穏な、春の午後を思わせる。だが確かに、一つ所に留まって、走ろうにも走れない焦燥感も感じられた。
「青楓。僕はとてもとても君を想っているんだよ」
物言わぬ美女の唇は色褪せて、頬に赤みは少しもなかった。冷たい地下の窟には、寄り添う歌を失った琴の音がいつまでも響いていた。
冷気の立ち込めた氷洞がある。万毒を解くと言われる天山雪蓮はここにある。睫毛に霜が降りる程の寒さに耐えて、地底湖まで辿り着いた者だけがお目にかかれる高貴な花だ。その花は百年に一度だけ開く。純白の絹に薄青の紗を引いたような花姿は、観る者の心を洗い清めるようだった。近づけば仄かに薫る。香りは気高く爽やかで、側に寄れば気分が良くなった。この花は分厚い氷の下に咲く。摘み取る為には、蓮全体を少しも傷つけずに氷を割らなければならない。
効能が記録されているからには、誰かが手に入れて研究したのだ。どうやって摘んだのか、いつの時代のことなのか。千年前に滅びた王朝の薬草図鑑「百毒千解」に載っている。作り事だとするには、あまりにも正確な図鑑であった。上下巻の下巻は失伝した。だが、少なくとも現存部分について、天山雪蓮以外の薬草は、稀少なものも含めて、全て事実だと証明されている。
「この花の蕾に、七日七晩心頭血を垂らせば、開いた花が千日冥という奇毒を解毒できるそうだ」
「この花だけで万毒を解ける訳じゃあないのか」
「使い方次第では、ってことだ」
四角く切り出した氷の前で、カナコとハヤセが立っていた。カナコは閉じた絵傘を抱え、ハヤセは懐手だ。どちらも氷に顔を寄せてじっくりと観察していた。
「しかし、心臓から血を取るんだろ?命に関わるんじゃないか?」
「さてな。死なない呪術があるのか、命と引き換えに解毒するのか」
氷の中では、薄水色に光る拳大の蓮が咲いていた。天山雪蓮に似た姿だ。しかし、少しだけ違う。
「カナコ、うっすらと赤い絞りが入っているよ?」
「千日冥の解毒剤は、落梅雪蓮というそうだ」
「落梅?ああ、血を滴らした班模様を、紅梅が散った様子に喩えてるのか」
「そうだろう」
ハヤセは顔を顰めた。
「悪趣味だな」
「奇毒を唯一解ける薬だからな。普通の神経では作れない物でもおかしくはない」
「なんて悪辣なんだ」
「千日冥は、毒虫が齧って唾液がついた梅の新芽を主原料とするらしい」
「それを解くのが落梅雪蓮かあ。えげつない名付けだねぇ」
ハヤセは花から目を上げてカナコを見た。
「その毒虫ってのも、どうせ血かなんかで育てるんだろ?」
ハヤセはうんざりと口を歪めた。
「ハヤセ、毒人というものを知っているか?」
「ああ。毎日様々な種類の毒を喰らわせ、毒液に浸からせて育て上げる生体兵器だろ」
「そうだ。酷い場合は、胎児の時から毒を盛られると聞いた」
カナコも顔を曇らせる。
「毒人の血で育てた虫ってことか?」
「毒人の血でしか育たない虫の唾液が必要らしい」
ハヤセが大袈裟な溜息を吐いた。
「ハアー。重ね重ねの凶悪行為だねぇ」
「全くだ」
カナコが細く美しい三日月眉を寄せた。
「で、何でこんなもん持って来た?」
「なに、お客さんからの頼みでね」
「願いを叶えたら旅立つ、ってか?」
「そんなとこだ」
「我儘だねぇ」
懐から片手を出して、ハヤセはやや尖った顎に手を当てた。
「さてね。私は回って来た仕事をこなすだけさ」
「流石カナコ、クールだね」
「そうか?そうでも無いと思うのだが」
ハヤセは黙ってニコリと笑った。
「そこでだ、ハヤセ」
カナコが真剣にハヤセを見た。
「何だ?手伝えって?」
「いや、ついで仕事がちょっとどっちつかずでな」
「ん?」
ハヤセはこてんと首を傾げた。
「本来なら、重生者は私の管轄外なんだが」
「だよねぇ?」
「私に回って来た理由が幾つかあってな」
ハヤセは興味深そうに、カナコの方へと向き直った。
「人生やり直しの資格を得た奴が、元々後一歩で不老不死の神仙に昇格する筈だったのがひとつ」
「すると、重生者扱いなのか、修仙者扱いなのか、堕神扱いなのか、ってなるね」
「そうだ」
「堕神なら、こっちに回ってきそうだ」
「うん。現場に最終判断を任せて、場合によっては捉妖セクションに引き継げ、ってことで、移管権限の委任状も預かってる」
カナコは封緘のある黄色い封筒をぴらぴらと振って見せた。
「該当者が、やり直す前に勝ち筋を完全に確認してから、過去に戻りたいって願い出たのがひとつ」
「えっ?重生者って、上が決めた時点に戻されるまでは、自分が資格を得たことすら知らない筈では?」
ハヤセの糸目が驚きで開き、銀灰色の瞳が覗く。天窓から射す陽光を跳ね返して、玉虫色にも見える。
「修仙者が修行の途中で起こしたイレギュラーだから、担当官と直接話す機会があったんだよ」
「てことは、やっぱり修仙セクションの管轄じゃないのかい?」
カナコは眉を寄せた。
「それがな、そいつは元々普通の狐だったんだが」
「ほう」
ハヤセは話の帰結を予想しながら頷く。
「普通の狐が資質を見出されて、青丘の皇室に養子として迎えられたんだ」
「九尾一族絡みかよ」
ハヤセは嫌そうに口を尖らせた。
「そうなんだ。で、そいつは、狐妖となるまで修行して、さらに狐妖が妖仙となり神にまで登る程の逸材だった」
「うんうん、何となく見えて来た」
「冷酷非情で狡猾な、色仕掛けを本性とする青丘の狐妖たちの中で、かなり異質な存在だった」
ハヤセは、テーブルの上にあった土瓶から、勝手に茶を注いだ。カナコも特に咎めなかった。
「異分子は排斥されるものだ。九尾の血族でもないのに皇族の養子となれば、能力が低い皇族から不満が出る」
「半殺しにでもなったのか?」
「その通りだ。優秀で見目も良かったからな。トラブルは政治的な面だけではなかった。想いを拒否された皇女を初めとして、心変わりした恋人やら妻やらを持つ男どもが、絶え間なく襲撃していたのさ」
カナコはめんどくさそうに経緯を話した。
「しかし、半神くらいにはなってたんだろ?」
ハヤセはカナコにも茶を淹れた。二人は差し向かいに腰を下ろす。
「まあな。そこまでに何回も襲われて、対処する内に益々徳を積んだから、まあ、塞翁が馬ってやつかもしれんな」
カナコは茶に口をつけて、言葉を継いだ。
「ある時瀕死で澤に倒れていたら、人間の娘に救われた」
「あー」
やっぱり、というようにハヤセは座り直した。
「まあ、察したとは思うが、お決まりの筋書きで、半神は修行の道を踏み外して恋情を抱いたんだ」
「そこで、堕神への道も開いたってことか」
「うん、そういうことだ」
カナコは土瓶を手にして、ふたりの茶器に継ぎ足した。
「彼女は該当者の弱みでもあり、また、しつこく婿にしようと狙う奴等にとっては、敵でもある」
「で、毒を盛られた、と」
ハヤセはごくりと茶を飲んだ。
「そうだ。該当者は半神だから、心頭血を七日七晩滴らせても命に別状はなかった」
「ほう、この落梅雪蓮の来歴だね?」
カナコは肯首した。
「そうなんだ。だけど、解毒した後でも恋人が目覚めず、絶望と復讐心に満たされた挙句、犯人を仕留めて完全に成神への梯子が外された」
「カナコに話が来た、ってことは、命が尽きたんだよな?」
「恋人を目覚めさせる為に、何度も何度も落梅雪蓮を作ってたら、終いにゃ命の灯火も消えるってものさ」
ハヤセは苦笑いした。天山雪蓮が花開くのは百年に一度である。氷の地底湖で蕾が付く数も多くはない。
「どのくらいの年月、心頭血を流し続けていたんだい?」
「少なくとも一千年は続けたようだ」
「そんなにかけても、他の方法が見つからなかったのか」
「とうとう見つからないまま息を引き取ったから、素直に旅立てなかったんだろう」
「そりゃ天帝が憐れむのも納得だなあ」
「重生は上の決定だから詳細は解らないが、とにかく、心遺りを無くしてから戻し、全うしたら案内することになってる」
「本当に無くせるのかぁ?」
ハヤセは疑わしそうに、氷の中で咲く斑らの蓮を眺めた。カナコは茶器を手にして席を立つ。ハヤセも自分の使った分を持って、カナコの後に従った。
二人が氷の洞窟に到着すると、長閑な箏の音が流れて来た。だが不思議と胸が締め付けられるような感じがした。その音色には、欠けてしまった何かを焦がれ求める痛みが渦巻いていた。寝台のある空間を見つけると、二人は入り口で足を止めた。琴を弾いていた狐耳の青年が、手を止めて顔を上げた。
「因果を辿って参りました」
カナコは事務的な文言を口にする。狐耳の青年がカナコの指輪に目を向けた。
「水先案内人?人違いだ」
「青丘養子第六皇子、狐半神、流霜さん」
カナコは狐耳の青年を指さして、指輪に付けた銀の鈴を鳴らす。流霜の体から、紫色の靄が立ち昇る。殺気を滲ませ、身体が強張っていた。
「天帝様は、青楓が毒を盛られるよりも前の時間に戻してくださると仰ったぞ」
「対策は終わったのですか?」
カナコの問いに、流霜は敵意を消した。
「終わりました」
カナコはハヤセを見た。
「ハヤセはどうする?」
「ついてくよ」
流霜がハヤセを睨んだ。妖怪と捉妖師は敵同士である。
「立ち去れ、捉妖師」
ハヤセはへらへらと薄笑いを浮かべて、流霜に説明を試みた。
「まあ落ち着きなさいって、幽霊くん」
流霜は苛立ちを見せた。ハヤセは構わず続けた。
「今の状態だと、疑いようもなく渡守セクションの管轄だけど、戻った後にどうなるか解んないからねえ」
カナコは同意した。
「うん。修行の道に戻るか、復讐心を消せずに悪鬼となるか、善良な妖怪として、愛する人とその生を全うするか」
「三番目に決まっている」
「何事も、やってみなきゃ解んないもんだよ?」
「ふん、捉妖師如きが偉そうに」
「流霜さん、驕りは慢心を招き視野を狭め破滅へと繋がるものだ」
カナコの口調が厳しくなった。ハヤセは憐れむように流霜を見た。
「こりゃもう、天界に昇る道には戻れそうにないねぇ」
「戻る気などない」
「そういう意味じゃないよ」
ハヤセは首を何度か横に振った。
「まあいい。とにかく戻して貰え」
カナコは冷淡な口調で促した。流霜は大人しく首を縦に振った。それから寝台の傍まで歩いて行き、横たわる美女の手を取った。
「青楓。かならず君と幸せになるからね。もう少しだけ待っていて」
青楓の手を握ったまま、流霜は天を仰いだ。
「天帝さま、お願い致します。青楓が毒を盛られる前の時間に戻して下さい!」
その刹那、室内の花が散り、氷が砕けて鮮やかな色を映し出した。沁み入るような琴の音が響き、旋律に優しい歌が寄り添った。気がつけば、満開の桃林の中に立っていた。カナコとハヤセは桃の枝に立ち、樹下の一対を見下ろしていた。一人は耳の先と毛先が紫色の狐妖仙で、もう一人はどう見ても普通の人間だ。燻んだ水色に染められた胸高のスカートを着て、袖口が大きく開いた暗い紅色の上衣を羽織っていた。結い上げた髪では、鮮やかな紫色が美しい、歩揺と呼ばれる髪飾りがゆらゆらと戯れていた。
「何だあいつ、ちっとも嬉しそうじゃないな?」
ハヤセは、咲き誇る桃花の間から恋人達を覗いて眉を寄せた。
「むしろ絶望しているな。毒を盛られる直前なんじゃないか?」
「なるほどねえ」
二人は成り行きを見守っている。花陰の一対は、手を取り合って向かい合わせに立っていた。
「どうしたの?流霜」
「いや、どうもしないよ」
「そう?何かあったんでしょう?」
流霜は、明らかに様子がおかしい。青楓が心配するのも当然だ。
「いや、まて」
カナコは青楓の持つ酒壺に目を留めた。
「もしかしたら、もう毒を呑んだ後やもしれぬ」
「えー?天帝も酷いことするねえ」
「委任状まで渡される筈だな」
「高確率でこっちの仕事になるってかあ?」
「神への道に立ち還る試練ってやつさ」
カナコは凪いだ表情で言った。
「出来が良すぎるってのも考えもんだな」
「皆どこかしら憐れなものだよ」
「しつこくチョッカイ出された挙句に、転べばそこまでの奴だったとか何とか言われる。終いにゃ俺達に託されるなんて、気の毒だねえ」
ハヤセは桃の花を千切って、樹下へと降らせた。
「青楓」
初めの衝撃を乗り越えて、流霜が青楓に切り出した。両腕を掴んで、必死に訴える。
「それ以上呑んじゃだめだ。その酒には奇毒が入っている」
「え?やあねえ!おかしな冗談」
青楓は取り合わない。わざと呑もうとすらした。流霜は仙術を使って酒壺を割ってしまった。
「ちょっと!何をするのよ!バカ狐!」
「いいかい、よく聞いて。今から八日目の朝、解毒剤を届けるから、それまではなるべく静かに過ごしていて」
「はあ?わけわかんない。久しぶりに逢えたのに、酷い!」
流霜の目から涙が溢れた。
「お願いだ!七日七晩、大人しくしていて!」
「え、えええ」
青楓は怯えを見せたが、同時に不安そうでもあった。
「大丈夫?流霜。何があったの?」
「だから!毒なんだよ!その酒は!」
涙声で繰り返す流霜に、青楓も漸く事態を理解した。
「わかった。呑まない。静かに過ごすわ」
「そうしてくれ。頼むよ」
肩で息をしながら懇願する流霜を、青楓はよしよしと慰めた。
紫色の光を残して、流霜は氷洞の地底湖に移動した。カナコとハヤセもついてゆく。ふたりとも大袈裟な動作は何もしなかった。桃の木の枝を飛び降りると、着地した場所に流霜がいた。どうやら場所だけではなく時間も跳び越えて来たようだ。折良く天山雪蓮の蕾が付いている。流霜は、手のひらから紫色の靄を出して、氷に向けて放った。靄は氷に染み込むと、無傷の蕾を切り出した。
「あれを咲かせるのか」
ハヤセは真横に傾いて、カナコに囁きかけた。カナコは無言で肯首した。見ていると、紫色の靄を針のようにして、流霜が自分の胸を刺した。針についた血を蕾に垂らすと、蕾を置いてまた移動した。
今度は煌びやかな部屋にやってきた。そこには、艶かしい紅色に染めた尖った爪の若い女がいた。女は、絹張りの椅子に寝そべっていた。赤茶色の髪から、同じ色の狐耳が生えている。女は金色の小瓶に顔を近づけ、煙のようなものを浴びている。
「人の魂だ!悪妖め、成敗してくれる!」
飛び出しそうになるハヤセの肩を、カナコが抑えた。
「ハヤセ、先ずは様子を見ろ」
流霜に気がついた女が、嬉しそうに身じろぎをした。次の瞬間、流霜は紫色の靄を放ち、女を消し去ってしまった。
「犯人?」
ハヤセがカナコに訊く。
「そうだ」
カナコは短く答えた。流霜が次にやって来たのは、地底湖の手前にある窟だ。青緑色に光る、大きな氷の塊がある。流霜は紫色の靄を使って塊を寝台の形に仕上げた。それから、慎重に文字を彫りつけてゆく。
「千日冥はゆるゆると身体を蝕む奇毒で、五百日たつと混迷し、千日経つと冥界送りになるそうだ」
「混迷する前に解毒出来れば、その先は仲良く過ごして普通に旅立てるかもな」
「さてどうなることやら」
カナコは静かに作業を眺めた。ハヤセは時々流霜の近くまで行って、物珍しく覗き込む。
「狐の妖術じゃなさそうだねえ。流石は半神にまで登った男だ」
寝台に文字を刻み終わると、仙術で次々と花を開かせた。睫毛も凍る氷窟に、春の野山の花が咲く。微かな香と華やかな芳香が混ざり合って、心も軽くなるようだ。
次の日、流霜は心頭血を蕾に垂らすと、青楓の前に現れた。
「わっ、びっくりさせないでよ」
「へへ、ごめん。会いたかった?」
「昨日会ったばっかりでしょ」
流霜は青楓を抱きしめた。服装と体格差により、青楓を包み込むような体裁になる。
「ねえ、これ、観てていいの?」
ハヤセが気まずそうに、肘でカナコを突く。
「急変するといけないから」
カナコは平然と見張っている。
「それもそうか」
ハヤセは諦めたように眉を下げた。流霜は千年分の想いを浴びせていた。青楓にとっては、出会ってから一年程度である。少し恐ろしくも感じているようだ。
「君と過ごすこの一瞬一刻が、僕にとっては何よりも大切なんだ」
「大袈裟ねえ」
なにしろ千年目覚めなかった恋人である。流霜の反応を病的とは言い切れないだろう。
そうして八日目の朝が来た。流霜は、青楓を氷の寝床に寝かせて、見事に開いた落梅雪蓮を翳した。雪と紅梅が舞うように、白と赤との光の粒が青楓に降り注ぐ。
「成功だ」
嬉しさのあまり、流霜の尾がもさりと現れた。青丘皇族の血は流れていないが、卓越した才能により、尾は九本に分かれていた。先は全て紫色だ。青楓は起き上がり、愛おしそうに尻尾を撫でた。流霜は九本の尻尾を器用に操り、青楓を毛に埋めた。
カナコとハヤセは、油断なく控えている。
「なあカナコ、これ、もしかして、二人の命が尽きるまで観てなきゃなんない?」
「ハヤセ、言うな」
「うん」
ハヤセは黒い帯の柄から和蝋燭を取り出した。頭の上に浮かべて黒い炎を灯すと、咲き乱れる春の野花に埋もれて腰を下ろした。
「何だ?」
「これ?」
「うん」
「時間の外にいられるようにしたんだよ」
「ハヤセ、歳とるのか?」
カナコは驚いて目を見開いた。
「とるよ」
「そうなのか」
カナコは少し残念そうに瞼を下げた。綺麗に揃った漆黒の睫毛が、鋭い瞳に影を落とした。ハヤセは目尻を下げて軽く笑う。
「そうだよ」
五百日目が近づいた。青楓は次第に顔色が悪くなって来た。それに気がついた流霜は、再び落梅雪蓮を作った。努力の甲斐があり、完全に意識を失うことはなかったが、青楓の体調は悪いようだ。千日目が近くなる。青楓は時々急に倒れて、そのまま数日眠り続けるようになった。
「流霜。何か隠し事してない?」
「してないよ」
とうとう千日目の朝が来た。その日、陽が沈む時に青楓は冥府へと旅立つだろう。
「駄目だ、確かに効果はあるのに、一体何が足りないんだ」
落梅雪蓮の光を降らせながら、流霜は血走った目で呟いた。
「流霜、もういいのよ」
「大丈夫だよ。きっと治してみせるから」
「ねえ、それよりあなたのお琴が聴きたいわ」
弱々しく寝そべったまま、青楓は笑顔を作った。
「いいよ!青楓の望みは何だって叶えるよ!」
流霜はいそいそと七弦琴を調弦し、しなやかな指を踊らせた。
「舞えや踊れや桃の花」
掠れた声が琴に合わされた。元気な頃の明るい声を思い出し、流霜は涙を抑えきれない。
「また来る春を望みつつ、後に残るは枝ばかり」
流霜の琴に涙の雫が絶え間なく落ちる。
「砕け散る夢の欠片を集めれば、去りゆく花の姿して」
流霜の耳先が力なく垂れた。
「春の陽射しに微睡めば、流れる水の音を聴く」
青楓の声はどんどん小さくなってゆく。
「触れて霞と消えてゆく幻だけを抱きつつ」
七弦琴が狂おしく掻き鳴らされた。青楓は励ますように流霜を見ている。
「舞えや踊れや桃の花、戻らぬ春の忘れじの君」
最後の音を弾き終わると、流霜は転げるように寝台に駆け寄った。
「青楓!やめて!僕をひとりにしないでくれ!どうか置いていかないで」
「落ち着きなさいな、バカ狐」
「そうだよ!僕はバカだから!青楓がいないと間違えちゃうよ!」
「大丈夫、流霜は、すごい狐、だも、の」
青楓は、言いながら眠りに落ちた。日没には遠い時刻だ。息はまだある。それでも青楓と話をする事は望めなくなった。カナコとハヤセは、花の中で見守っている。洞窟の外で陽は落ちて、氷の洞窟に慟哭が響き渡った。カナコもハヤセも黙っていた。
朝が来て、夜が来て、また朝が来て、一千年が過ぎていた。流霜は落梅雪蓮を作り続けた。青楓の色褪せた唇は、最早開くことがない。
「お迎えにあがりました」
カナコが進み出た。ハヤセは花の中に控えている。
「人違いだよ」
流霜が答えた。穏やかで落ち着いた声だった。彼にはまだ体温がある。
「いいえ、貴方ではありません」
「え?」
カナコは寝床に向かって、白くたおやかな手を差し伸べた。白銀の鈴が鳴る。仰向けの美女から、透けた青楓が起き上がった。
「青楓!」
青楓の魂は、流霜が掻き抱く腕を擦り抜けてしまう。
「青楓、ごめんね」
「いいのよ」
「僕のせいで、一千年を二回分、引き留めてしまったんだね」
「気にしないで。私のことは忘れてね」
「いいや、忘れないよ。何でだか寿命は延びてしまったんだけど、この愛を断ち切ることなんて無理だ」
「勝手になさい、バカ狐。私はもう行くから」
「青楓」
紫色の毛先がしおしおと項垂れる。
「この生を終えたら、必ず君の元へ行くよ」
「好きにしたらいいわ。じゃあね」
「うん、またね」
そもそもは、引き留められていた青楓を呼びに来たのだ。そのついでに、管轄が未定だった重生資格者の面倒も見るように頼まれていた。重生による改変の影響で、流霜がまだ魂になっていないので、連れて行くのは青楓だけである。カナコは青楓の魂と共に、洞窟を出て行った。ハヤセは流霜に手を振ると、下駄を鳴らして追いかけた。
「何?ハヤセ?」
「別に?今回は幽霊さんと長いお付き合いだったからさ。俺もお見送りしたいんだ」
「そうか」
「うん」
吹雪の高山を、三つの影が歩いてゆく。激しい風の音にも負けず、ちりりんと鈴は響いていた。




