十四、夜明けは遠い夢
町外れの丘に、古びた洋館が建っていた。長いこと住むものもなく、荒れ果てていた。元は貴族の館だったとか、そこに住んでいた豪商一家が惨殺されたのだとか、さまざまな噂がある邸宅であった。この廃屋では、肝試しに訪れた者たちが、時折命を落としていた。朽ちた建物故、事故が起きても不思議ではない。訪問者は皆、この館に関する流言飛語を聞いて来た。死者の顔に恐怖が刻まれていても、自己暗示だと説明がつく。
真夏の丘が、茜色に染まっていた。遠くの山に帰る雁の群れが、編隊飛行を披露している。町には明かりが灯り、細くたなびく夕餉の煙も見えた。カナコは丘の中腹に佇んでいた。麓から、十二、三の少年少女がふざけ合いながら登ってくる。手には懐中電灯を握っていた。
「サム、怖いなら帰っていいんだぞ」
夕焼け色の巻毛頭をした少年が、後ろ向きに丘を登っていた。彼は、ポケットに手を突っ込んで、麦藁色の髪を短く揃えたソバカス少年を嘲笑う。ソバカス顔のサムは、うるさそうに眉根を寄せた。
「やめなさいよ、リュート」
栗色の髪を二本のおさげにきっちりと編んだ少女が言った。顔立ちは整っているほうだ。
「うるせぇな、優等生。誰だよキアラ呼んだの。つまんなくなんだろ?」
巻毛のリュートが声を荒げた。おさげのキアラは、リュートを睨みつけた。
「あたしだけど?文句ある?」
ゴージャスな金髪碧眼美少女が、キアラを抱きしめて凄んだ。見た目だけなら、キアラと敵対しそうなタイプだ。だが、二人の履いている靴は色違いのお揃いだ。歩きやすそうな編み上げ靴で、キアラが明るいブルー、美少女が黒である。
「キアラとジーナ、ほんと仲良いよなあ」
やや面長で厳ついタイプの少年が言った。肩の下まで伸びた真っ直ぐなその銀髪が、風に流れていた。
「でしょでしょ?」
ジーナが歯を見せて笑った。キアラは微かに頬を緩めた。菫色の瞳にも柔らかな光が灯る。
「仲良いの?」
リュートが意外そうに言った。こちらに興味が移り、サムから離れて少女二人に近付いて来る。
「トッド、なんでそんな事知ってんだよ?」
「いや別に、見てりゃわかんだろ?いつもくっついてんだから」
銀髪のトッドは、呆れたように眉を下げた。五人はカナコの脇を通り過ぎてゆく。見えていないのか、気にしていないのかは解らない。十二、三の少年少女である。見慣れない服装には目を惹かれる筈だ。中でもサムは、見たらすぐに何か言ってきそうである。しかし、五人とも無反応だった。カナコの傍を通り過ぎて、丘を登って行った。
カナコも五人を追う事なく、麓を見ていた。五人の子供達は洋館に辿り着いた。まだ陽は沈みきっていない。五人の影が長く丘に伸びている。洋館の鉄門を開けようとして、五人はまた揉めていた。茜色が殆ど消える頃、ハヤセがのんびりとした足取りでやってきた。
「よ、カナコ」
「ハヤセ」
軽い挨拶を交わすと、二人は洋館へと向かった。夜の帳が下り、星が瞬き始めた。細く鋭い三日月が、冷たい刃のように光っていた。風が丘の草を渡ってゆく。ざわざわと絶え間ない音をあげる。洋館をぐるりと囲む高い鉄の柵は、すっかり錆びていた。門には太い鉄の鎖が巻き付けられており、大きな南京錠がかけられていた。こちらも錆びついている。子供達は門を開くのを諦め、忍び込めそうな場所を探し始めた。
「おい、ここから入れるぞ」
リュートが叫ぶ。鉄柵に、朽ちて穴が空いた場所を見つけたのだ。柵を構成する数本の鉄棒が、錆びによって折れたのである。子供の身体なら通り抜けられるくらいの隙間が出来ていた。
五人の子供が、次々と洋館の庭に入り込んだ。庭は全く手入れがされていない。突然の侵入者に驚いて、虫や鳥が一斉に飛び立った。風の音に羽音が混ざって、不吉な鴉の鳴き声も上がる。子供達は思わず身を縮めた。
「うわぁ」
リュートが大声を出して空を見上げた。月を背景にして、小鳥と羽虫が群れ飛んでいた。
「ひいい」
サムが尻餅をついた。血を這う虫が脚に登ってくる。サムは飛び起きて、必死に虫を払った。
「きゃああ」
ジーナがキアラにしがみつく。ジーナの方が背が高く、ゴージャスな金髪の巻毛がキアラの頭を覆った。
「私たちに驚いて、鳥や虫が逃げただけよ」
「蛇が出るかもしれないな」
ジーナとトッドは冷静だった。懐中電灯で足元を照らす。
「枝も随分と出ているから気をつけましょう」
ジーナが、突き出した細枝を手で押し除けながら言った。積もった枯葉や枯れ枝が、子供達の足の下でパキパキと乾いた音を立てて割れる。重なり合った枝を潜り、伸び放題の下草を分けて、子供達は建物へと向かって行った。
「うわあああっ!」
リュートが一際大きな叫び声を上げた。皆がサムの方を見る。
「なんだよリュート」
サムの薄青色の瞳が、冷たくリュートを見つめた。リュートは苔色の双眸を見開いて、懐中電灯で館を指し示した。
「窓っ、窓っ!」
リュートは掠れた声を出す。子供達は一斉に館をふり仰ぐ。
「えっ?明かりが点いた?」
キアラが顔を強張らせた。2階の窓に、次々と明かりが点ってゆく。一階と三階の窓は、真っ暗なままである。
「ひええええ」
サムの顔が青褪めた。窓から誰かが覗いていたのだ。
「害虫退治業者か?」
トッドが落ち着いた表情で推測した。
「それなら車で来るんじゃないの?」
ジーナがキアラにしがみつきながら言った。
「えええっ、幽霊?」
サムの目は二階の窓に釘付けだ。
「やっぱり出るんだぁっ」
リュートが震え出した。その時、鉄門の鎖が音もなく解け、扉が大きく開いた。子供達は窓に注目しており、気が付かなかった。草を押し倒す音すら立てず、カナコは絵傘を片手に差して洋館に足を踏み入れた。ハヤセも後に続く。二階の窓に、人影が現れた。長い髪を靡かせて走る、痩せて小柄な人物だ。窓からは、上半身しか見えない。寝巻きらしきシンプルな服を着ているので、シルエットからは男女の区別がつかなかった。
「帰ろうか?」
ジーナが囁くように言った。
「肝試しの子かもしれない」
キアラが冷静に分析した。窓には大柄なシルエットも現れた。小柄な人物を追いかけて、みるみる距離を縮めて行く。
「そうかもな」
トッドは頷いて、再び歩き始めた。キアラが続き、張り付いているジーナも前へ進んだ。
「帰ろうよう」
サムが怯えて辺りをきょろきょろと見回した。
「弱虫の赤ん坊は帰んな!」
リュートは強がっているが、脚がガクガクと震えて上手く動かない。カナコとハヤセは、慌てる事なく歩いていた。二人が辿るのは、元は門から玄関まで続く道だった場所だ。
「子供達、帰ればいいのにねえ」
ハヤセが懐手で薮を見た。カナコもちらりと五人の子供達に目をやった。
「好きにすればいい。管轄外だ」
カナコの仕事は幽霊を三途の川の渡場まで連れてゆくことだ。障害となるものは取り除くが、現世の人間たちには関わらない。まして今回の子供達は、自発的に廃屋を訪れたのだ。カナコの業務とは関係がない。案内対象が引き起こした霊障により操られているなら、話は別なのだが。
「現世不介入、ってか?」
「ハヤセの仕事とは違うからな」
「けど、神様がそれでいいのかい?」
「神族だからって、誰彼構わず生死に関わっていたら、天命が滅茶苦茶に書き換えられて混乱するよ」
「それもそうか」
ハヤセは納得して、子供達については成り行きに任せることにした。怪我程度なら、夜中に廃屋侵入などという愚かな行為に及んだ教訓となるだろう。
「おお、派手にやってるね」
ハヤセは懐手のまま二階の窓を見上げた。一旦消えたシルエットが、大きめの窓に現れたところだった。その窓は部屋に付いているのだろう。家具の影もいくつか見えた。真夜中だというのに、カーテンは全開である。走り込んできた小柄な影と、追いかけてきた大柄な影の動きは丸見えだった。
追いかけてきた人物が、火かき棒を手にした。小柄な人物は、手当たり次第に物を投げつけている。火かき棒は何度も振り下ろされた。投げられた物が割れる音や、家具が火かき棒で壊される音が外まで響いて来た。子供達は震えながら窓に映るシルエットを見上げていた。
「通報したほうがいいんじゃない?」
キアラが提案した。
「え、でも、本当に人間かなあ?」
サムが首を縮めて呟いた。
「幽霊!ぜってぇ幽霊だぜ!この屋敷で人が殺されたって聞いた」
リュートが断言した。
「もう帰ろうよう」
ジーナは泣き出した。
「中に入って、人間だったら通報しよう」
トッドの発言に、残りの四人がギョッとした。
「ちょっとお、トッド!幽霊でも人間でも、危ないって!逃げたほうが良いよ!ねえ、帰ろうよ!」
ジーナが涙を流しながら懇願した。
「そうだよ。どっちでも危ないよ。通報するにしても、僕達が確かめる必要はないだろ」
「サムの言う通りだわ。入る必要ないと思う」
「うんうん。早く帰ろうよお」
ジーナはしきりに首を縦に振った。
「あんなに暴れてる大人、私たちだけじゃどうにもならないわ」
「幽霊だよ!幽霊!逃げようぜ!」
「やっぱり確かめてから」
なおも言い張るトッドを四方から捕まえて、子供達は外へと引き返して行った。
「ほーん、案外理性があんな」
ハヤセは、走り去る子供達の背中を眺めて顎を摩った。
「警察が来る前にカタをつけよう」
カナコはそう宣言して、ずんずんと玄関に近づいた。
「なんで?どっちでも良いだろ?どのみち俺たちのことは見えないんだし」
ハヤセは歩きながら、体を捻ってカナコの方を向いた。どうやら今回は着物に、現世の人間から姿を隠す陣法が組まれているようだ。カナコは片手を前に突き出した。白いペンキがすっかり剥げてささくれだった、古い木のドアが外に向けて開いた。中は暗くてよく見えない。隙間や穴から土や枯葉が吹き込んで、日の当たらない森の中のような臭いがした。虫や小動物も棲みついていた。
「うへぇ、子供らが入らなくて良かったなぁ」
二人がドアを潜ると、早速床板が抜けた。カナコは絵傘を開いて飛び上がる。天井の高い玄関ホールで、ハヤセは浮いているカナコを目で追った。カナコは、雫型のクリスタルが沢山下がったシャンデリアの下にいた。電気ではなく、蝋燭を立てる年代物だ。ハヤセは帯を擦って和蝋燭を取り出すと、シャンデリアの燭台に挿した。三段ある円形の燭台に、ハヤセの黒い焔が点った。一階の玄関ホールは吹き抜けで、三階までの回廊が照らし出された。二階は事件が起こっている場所である。
ハヤセは、二階の手摺にひらりと飛び乗った。膝を曲げてしゃがんだ姿勢である。手摺も所々朽ちて回廊や一階に落ちていた。ハヤセはまるで重さが無いかのように、この荒れ果てた洋館に影響を与えない。カナコは水色の絵傘を差したまま、二階の回廊に降りた。黒塗りの下駄が絨毯に触れると、カナコは絵傘を畳んだ。回廊から内廊下に出た時、暗闇の中で物が壊れる音が響き渡っていた。外から見えた明かりは、全く見えない。
カナコとハヤセは、廊下を進んで行く。カナコが一つの扉を開けると、外に面した広い廊下に出た。小さめの窓をいくつも過ぎた。窓の外に目をやると、丘の麓に町の灯りが遠く瞬いていた。窓ガラスは割れて殆ど無くなっていた。枠すらすっかり壊れて跡形もない窓穴もあった。広い廊下が狭くなり、並んだ部屋が現れた。カナコは迷いなく、騒音の発生源となっている部屋に踏み込んだ。
部屋に入ると同時に、金属の箱が飛んできた。部屋の中は、往時の様相を呈していた。腐った所も錆びた所もない。ただ、物が壊れて散乱していた。カナコとハヤセは、左右に跳んで金属の箱を避けた。次の瞬間、大柄な男が火かき棒を振り上げて、小柄な老人に飛びかかった。老人は窓際に追い詰められていた。火かき棒が振り下ろされた時、老人は必死の形相で加害者の首に手を延ばした。老人は、飛びかかられた勢いで窓ガラスを破って落下した。両手でがっちりと首を掴まれた加害者も、怒声と共に共に落ちてゆく。
「てめぇ離せぇぇ!」
「死なば諸共じゃ!」
その叫び声が、二人がこの世に遺した最後の言葉となった。すぐに鈍い音が聞こえ、部屋の明かりが消えた。凶行の夜が結束したのだ。月明かりにぼんやりと浮かぶ室内は、カビやキノコが生えていた。床には大きな穴が空いている。崩れ落ちていないのが不思議なくらいだ。
ハヤセは窓辺に立って庭を見下ろした。
「落ちた場所にはいないねぇ」
「廊下に出よう」
カナコは、水色の絵傘を抱えて先に立つ。
「床が抜けるから気をつけろよ」
「二度はない」
ハヤセに揶揄われて、カナコがムッとした声を出した。ハヤセは心が満たされた笑顔を見せて、カナコの肩に腕を回した。
「仕事中だ」
カナコは鋭い視線をハヤセに向けた。
「仕事はちゃんとしてるでしょ?」
ハヤセはヘラヘラしながら、カナコにくっついたまま歩く。廊下は薄暗い。夜風が破れたカーテンや落ちかけた鎧戸を揺らし、不規則な音を作っていた。小動物や虫が駆け回る音もする。何処かで何かが落ちた。金属がぶつかり合う音もした。数限りない大小の音が、得体の知れない集合体となって不安を煽る。
廊下の一部が、急に明るくなった。カナコは立ち止まらずに、明るくなった場所へと向かう。壁に残された燭台には、鼠に齧られた蝋燭の残骸が立っていた。明るい場所以外では、蝋燭は消えたままだ。明るい場所まで行き着く前に、突然鳥が飛び込んできた。カナコとハヤセは並んで一歩退がった。鳥は天井付近を飛び回っている。
ようやく明るい所に近づいたかと思ったら、灯りは点いた時と同じように突然消えた。二人が振り返ると、今度は反対側の奥に灯りが点った。
「面倒なことするなぁ」
ハヤセが鼻に皺を寄せた。カナコはその表情を見て苦笑した。
「そろそろ来るね」
「そうだね、カナコ」
二人が廊下を戻って行くと、奥の明かりが消えた。消えてすぐ、手前の一部が明るくなった。二人は立ち止まらずに進む。灯りは消えず、ドタドタという足音が背後から聞こえた。振り向いても暗闇ばかりで人影はない。明るい場所に目を戻すと、頭から血を流した老人が立っていた。生身の人間ではない。青白い顔をして、手はだらんと下げていた。眼から溢れる憤怒の炎が、暗闇に沈む廊下を焼き尽くさんばかりである。老人は足に向かうにつれて、透けてゆく。
「お迎えにあがりました」
カナコが静かに手を差し伸べた。ちりりんと涼しい鈴の音が響く。幽霊は眼球をぐるりと動かして、カナコの鳴らす白銀の小鈴を見た。
「クリムゾンヒルのローレンス・ムーアさん、次の人生へと旅立つ時がとうの昔に来ておりますよ」
事務的なカナコの声に、老人のコメカミに青筋が立った。
「なんだお前は!愚かな小娘が!」
老人とは思えない張りのある罵声だった。カナコとハヤセは思わず耳を塞いだ。背後から迫っていた足音は、音だけがカナコたちを追い越して行った。
「貴様!ビル!臆病者め!悪霊狩り如きを恐れて姿も見せられないくせに、このわしの命を取ろうとは、片腹痛いわ!」
老人幽霊が喚き散らした。ハヤセは癖のある黒髪をわざとらしく掻き上げた。
「あっしはしがない捉妖師でござい」
「ハア?何だぁ?」
血だらけの被害者老人が目を血走らせて凄んだ。ハヤセは当然びくともしない。老人幽霊は舌打ちをすると、煙のように霞んで消えた。同時に灯りも消えた。足音だけが闇の中で追いかけっこをしている。
「カナコ、あいつら停まらせる?」
ハヤセは頭をカナコの方へと傾けて尋ねた。
「いや、いい。様子を見よう」
カナコは水色の絵傘を開いた。絵の中で金魚が泳ぎ出す。水草もゆらゆらし始めた。二匹の金魚が立てる水音が、暗い廊下に木霊する。まるで洞窟の中を流れる川のようだ。壁や天井に反響し、水音は全身を包み込む。傘の中から聞こえる水音が囲むのは、カナコとハヤセだけではなかった。
「なんだそれは?」
「貪欲なデカブツめ。何にでも手を出そうとするんじゃないよ」
悪霊ふたりが、急に絵傘の際に現れた。興味津々のようである。
「無心傘と呼ばれています」
カナコは絵傘を開いたまま上へと投げた。身構える幽霊達は、傘の下に入ってしまった。
「おい、なんだ?」
大柄な男は、凶行の再現も忘れて傘を見上げた。
「何をする」
被害者も怒りを込めた眼差しを絵傘にぶつけた。
「因果を辿って参りました」
絵傘から水が溢れて滝のように流れ落ち始めた。カナコとハヤセは傘の下から離脱して、戸惑う幽霊たちを眺めていた。傘から落ちる水のカーテンは、回り灯篭のような光のショーを描き出す。壁や天井、廊下や柱に、始まりの夜が映し出された。
獣の牙のように鋭い三日月がかかる夜。小柄な老人が寝支度をしていた。広い屋敷だ。使用人も多く抱えている。寝る前最後の報告を受けて、執務室から寝室へと向かうところだ。突然、蝶番が軋む音がした。二階の外れには、外階段へと繋がる扉があった。老人は、庭の警備員が報告漏れにでも気がついたのだろうと思い、立ち止まった。廊下の灯りは少ない。夜中出歩くのは夜番の警備員だけなのだ。点けておく必要はない。手提げランプがあるので、当主が就寝した後には、防火対策で全て消される習慣であった。
老人は薄暗がりに目を凝らす。重たい靴音が聞こえてきた。特に忍ぶ様子もなく、大股で歩いてくるようだ。
「サムか?」
老人は人影へと声を掛けた。大柄な人影は、速度を上げて距離を詰めた。
「何のようだ?そんなに慌ててどうした?」
老人が眉を顰めた。夜中に粗暴な振る舞いをされて、気を悪くしたのだ。
「えっ、おいっ!」
老人が目を見開いた。サムが躊躇いなく殴りかかって来たのだ。老人は逃げ出した。小柄だが身軽で、大柄なサムからかろうじて逃げおおせているようだ。サムは拳をふるいながら、隙を見て老人の持つ鍵束を狙う。鍵束は、腰帯に提げられていた。サムの目的は強盗なのだ。
「サム、貴様、恩を仇で返すとは!」
「干物ジジイ、大人しく金庫の鍵を寄越せ!」
二人は長い廊下を走った。物音に驚いた青年が部屋の扉から顔を覗かせた。サムは通りすがりにその青年の頭を殴り、部屋の中に蹴込んだ。青年は家具に頭をぶつけて気絶してしまった。
「やめろ!落ち着けサム!警備員!」
老人は走りながら叫ぶ。警備員の急ぐ足音が聞こえてきた。老人は自室に駆け込んだ。扉を背中で抑えたが、大男の力には敵わない。やがて吹き飛ばされた。運良くベッドの上に落ちたので、怪我はなかった。老人は目についた花瓶や本をサムに投げつけた。サムは、暖炉の前にある火かき棒を手に取って振り回し始めた。揉み合いとなり、二人揃って窓から墜落し無惨な最期を迎えた。
「てめぇ離せぇぇ!」
「死なば諸共じゃ!」
互いへの怨みは二百年間膨らみ続けた。毎晩繰り返される惨劇を目撃した者は、恐怖で心臓が止まることもあった。夜中の騒ぎと不吉さに耐えかねて、館の一族は何処かに引っ越して行った。その後、館は住む人もなく朽ちていった。肝試しや不法占拠に来る人々も、幽霊の死闘に驚いて転落したり、帰宅してから気が触れたりした。当の幽霊二人は、互いへの憎しみしかない。侵入者たちが何をしていようと、どうなろうと、知ったことではなかった。実力のある悪霊狩りは、幸か不幸か来たことがない。それもあって、二人は次の人生へと旅立つ気などさらさらなかった。
「もう良いでしょう」
カナコが淡々と言った。
「二百年も繰り返していて、よく飽きないね」
ハヤセは呆れ顔である。幽霊たちは、二百年間で初めて闖入者に注意を向けていた。カナコが鳴らす指輪の鈴に惹かれてのことだろう。
「地獄に行くくらいなら、ここで毎日同じことを繰り返してたほうがいい」
老人が嘯く。
「それは私には解りかねます。管轄外ですので」
「なんだカンカツガイって!税金泥棒の木端役人が!」
「役人と言えなくはないですが、税金は現世のものなので、私には関係がないですね」
「なんだ小娘、生意気な!」
ハヤセは苦笑いをしている。
「なあカナコ、これ、俺要らないよね?」
「そうだねえ。悪霊というわけでも無かったね。部外者への攻撃は今までなかったし、私達に対しても罵倒してくるだけだから」
老人は水のカーテンを潜ろうとした。しかし傘の下からは出られなかった。
「おいっ!閉じ込めるな!」
老人の見開かれた眼に、黒い靄が漂った。
「あ、やべ」
「悪霊化しそうだね?」
ハヤセは念の為に陰陽針を取り出した。カナコは再び手首を振って、指輪の鈴を鳴らした。
「行きましょう」
「そのうち悪霊になって、どっかの拝み屋に消されちまうぞ」
ハヤセの脅しには、二人それぞれの反応を見せた。
「悪霊狩りのことか?怖くもない」
「何だと?被害者も加害者と同じ罰を受けるのか?理不尽な!」
老人は、肩からも黒い煙のようなものを出し始めた。
「貴様、サム、さっさと消されちまえ!」
「ジジイこそ消されろ!」
「今のところは消さなくていい。ただ私についてこい」
カナコは厳しく言い放つ。有無を言わさぬ口振りと、例外を許さぬ態度に、幽霊たちはタジタジである。
「まあなんだ。そろそろ夜明けを見てもいいんじゃないか?」
ハヤセの提案に、ふたりの幽霊がハッとした。
「そりゃいい。夜明けは随分と長いこと観ていない」
「ふん、鶏ガラジジイ。お前は観なくていい。消されちまえ」
カナコは水を収めて絵傘を手元に戻した。
「夜明けを再び見られるかどうか、それは解りかねます。私たち二人とも管轄外ですので」
「ハァ?何だって?」
老人が聞き咎めた。
「地の底に住む魔物や、海の底にある砂粒に生まれ変わるかも知れないからな」
「ははは!ザマァミロ!ジジイ」
殺人犯が、勝ち誇ったように嘲笑う。
「お前もだろうが!第一、解らないって言ってるだろ?頭に綿でも詰まってんのか?」
被害者が挑発した。カナコは三たび鈴を鳴らした。
「行きますよ」
カナコが歩き出すと、幽霊達は急に大人しくなって洋館の階段を降り始めた。どうやら夜明けを観たくなったらしい。互いに、相手はきっと地獄に堕ちて二度と太陽を拝むことがないだろうと確信していた。ニヤニヤと勝ち誇り、ある種解脱したふたりの幽霊に、ハヤセはやれやれと首を振った。それからカナコに手を振って、ひらりと窓から出て行った。




