十三、翼が癒えたらお家にお帰り
カナコは岩山を登っていた。水色の絵傘には赤い金魚が二匹。追いかけ合いながら絵の中を泳いでいる。竹の柄は真っ直ぐで、カナコの白い手が握っていた。曇り空の雲は重たく、今にも雨が降り出しそうな様子である。裸足にノメリの下駄をつっかけて、岩と尖った小石の山路を登る。傷ひとつ付けずに、涼しい顔で斜面を行く。
崖端に着いた。峡谷の上である。崖下を流れる急流の音は、この高さまで届かない。カナコはしばらく崖下を覗いていた。それから急に力強く地面を蹴った。カナコの美しいおかっぱがふわりと広がった。広げた絵傘がほんのりと光る。カナコはゆっくりと降下する。
やがて谷底に着いた。音も立てずに着地したのは、急流の岸である。切り立つ岩壁の足元は傾斜のある地面になっていた。その先に急流がある。流れには、ところどころ頭を出した岩が見えた。向こう岸には細道が見える。カナコは日傘を広げたまま、激流の上に飛び出した。逆巻く川波を蹴り、水面に出た岩を踏み、姿勢を崩さずに渡る。平地を行くが如き動きである。
向こう岸の細道に入り、しばらく行くと木々の生い繁る山路になった。小寒い秋の陽射しが、色付いた葉に踊る。枝々に止まる小鳥たちは囀り交わし、小動物がカサコソと駆け回る。やや開けた場所に出た。濃い色の花々が、色鮮やかな絨毯のように咲いていた。草丈は様々だ。風が吹くと、地を這う植物が小さな桃色の花を覗かせる。
カナコは花畑の中程で足を止めた。ちりりんと涼やかな音が秋の森に響く。
「お迎えにあがりました」
たおやかに伸ばした白魚の如き指は、花に埋もれた仔龍に向けられていた。紫がかったグレーの鱗が、身体全体を覆っている。肩から生えた蝙蝠のような翼は、まだとても小さい。よく見ると、根元に血が滲んでいる。仔龍は、秋草の陰から、臆病そうな瞳をそっと覗かせていた。
「花咲く森の幼い龍の仔、次の世へと旅立つ時がきておりますよ」
カナコの声は事務的だ。相手が幼くても、人外であっても、導く対象である以上は変わらない。カナコは幽霊たちを渡し船まで連れて行くだけである。幽霊の引率に感情は不要なのだ。
「つぎのよ?」
幼いながらも上古の魔法生物だ。人間の言葉を解するようである。対するカナコは、曲がりなりにも神族である。どんな生物とも意思の疎通が出来るのだ。言葉の壁は初めから存在しない。
「そうです。あなたが生きていた時代は、気が遠くなるほど遠い遠い昔なのですよ」
仔龍はポカンと口を開けて、花の間からカナコを見上げている。クリクリとした円な瞳を見開いて、間抜けな様子で蹲っていた。
「さあ、ご覧なさい。忘れてしまったあなたの最期を、映し出して差し上げましょう」
カナコは花々をさっと撫でるような仕草をした。紺地に薄鼠の撫子が散る袂が、鮮やかな秋草の上を滑って浮き上がる。秋だというのに絽の単を身につけたカナコは、季節にも場所にもそぐわぬ出立ちだった。黒猫が風鈴に戯れる染帯に、小鳥の形をした硝子の帯留が異国の森で奇妙な存在感を見せていた。
仔龍が呆気に取られているうちに、花々の色が混ざり合い、滲み合い、渦巻いてひとつの情景を創り出した。
「あっ、お爺ちゃんたち!」
観ている仔龍の眼が輝いた。花畑には、花弁のモザイクで昔日の山路が描かれてゆく。
花咲く森には、上古紫龍と呼ばれる一族が住んでいた。神話の時代に生きた龍たちである。仔龍の誕生は極めて稀だ。数百年に一匹程度だった。その年、一匹の幼い上古紫龍が、初めての飛行訓練に飛び出した。その森には巨鳥も暮らしていた。彼等は獰猛で、仔龍は餌として狙われた。鋭い嘴で仔龍の翼の根元を狙い、三叉の鉤爪が翼と肩に深い傷跡を残した。
仔龍は山の上空でバランスを崩した。痛みに悲鳴をあげ、風に翻弄されながら落ちて行く。上古紫龍には魔法の力があった。だがそれは、生命と恵みを齎らす祝福の力だ。凶暴な鳥に反撃する手立ては持ち合わせていない。せめて追撃を躱そうと、必死に身体を捻るのみ。無事なほうの翼と手足をジタバタさせて、幼い龍は逃げ続けた。
そこへ、赤土色の飛龍に乗った老騎士が割り込んだ。飛龍には前脚がない。かわりに、翼の先端に蝙蝠爪がある。この種は神話の時代より後、英雄の時代に現れた。騎龍した老騎士は巧みな体捌きで、落ちている仔龍を飛龍の背中で受け止めた。飛龍と老騎士は一心同体の動きを見せた。襲いかかる巨鳥を避けて、老騎士が空中に跳び上がる。飛龍は旋回して難を逃れた。
「小僧、しっかり貼り付いてろよ」
嗄れ声の飛龍に応えて、上古紫龍の仔はぺったりと背中に伏せた。魔法の力でくっついたのだ。一方老騎士は、輝く剣を振り翳し、落下の勢いを載せて巨鳥を真っ二つに切り裂いた。巨鳥を斬った剣を空中で強く振ると、鮮血が雫となって青空に散った。血払いを済ませた刃は落下する鳥の巨大な羽で拭い、腰に吊るした鞘に納めた。それから背中を丸めて回転し、ひらりと飛龍の背中に戻る。
「ふたりともスゴイね!」
仔龍は伏せたまま叫んだ。嗄れ声の飛龍はただグツグツと笑った。老騎士は分厚い革の手袋で、仔龍の鱗を撫でた。
「なに、大したことじゃあないよ」
「ううん、スゴイよ!救けてくれてありがとう」
「それにしても、お前さん、上古紫龍の住んでるとこから、随分と離れちまったようだな?」
老騎士が気の毒そうに言った。
「送ってやりたいのはやまやまなんだが、お前さんらの巣があるとこは、魔法の壁があるから、上古紫龍以外には近づくことが出来ないよ」
「えー、だめなの?」
幼い龍は眼に涙をいっぱいに浮かべた。老騎士は優しく鱗を撫でた。
「ははは、翼にこんな大きな怪我をしても泣かなかった強い子が、お家恋しさに泣くのかい?」
老騎士の眼差しは、秋風を防ぐ膝掛けのようにふんわりとして温もりがあった。
「うん」
仔龍は鼻声で一言だけ答えた。
「まあいい。どれ、傷を見てやろう」
老騎士は飛龍の上でも自在に動けた。まるで地上にいるかのように、仔龍の受けた傷の様子を観察した。翼をそっと持ち上げて、何処にどんな傷を負ったのかを丁寧に確かめて行く。一通り確認した後は、腰につけた鞄から消毒液やら化膿止めやらを取り出した。手当も確かな手つきで迷いがない。全て飛びながらの作業であった。
「小僧、まだ自分の傷も治せないのに、飛ぶ練習を始めたのか?」
赤土色の飛龍に悪気はなかった。むしろ心配しているのだ。だが、仔龍は憤慨した。
「もう飛ぶ時期が来た、って大人たちが言ってた!」
「そりゃ随分と厳しいんだなあ」
「うん。上古紫龍は神代の一族だからね!」
仔龍は胸を張った。
「訓練てより、試練みたいな感じだな」
「しれん?」
仔龍は少し考えてから、首を横に振った。
「練習だって言ってたよ。くんれん、とか、しれんって言う言葉は聞いてない」
無邪気な仔龍に、老龍と老騎士は朗らかに笑った。
「そうかそうか、小僧、練習は大変なもんだな!」
「遠くまでよく観て、鳥が来たらすぐに逃げるんだぞ」
「うん!わかった!」
一人と二匹は手当てを終えて、しばらく飛行しながら雑談をした。
「お爺ちゃんのお家にも、子供はいるの?」
「残念ながらいないよ」
「小僧、ジジイは独り身なんだよ。だせぇだろ?」
「ひとりみ?だせぇってなに?」
仔龍の傷はズキズキと痛むが、優しい会話で気が紛れていた。
「ひとりぼっちで暮らしてるのさ。奥さんも子供も孫も、ぜんぜんいないんだ」
「ふうん」
「かっこ悪いだろ?」
「ちっ、忌々しい老ぼれ龍め」
老騎士は舌打ちをした。
「ひとりぼっちはかっこ悪いの?」
上古紫龍は群で暮らしている。子育ても養老も、皆でする。独り身という概念がない。
「ちっともかっこ悪くないぞ!むしろかっこいいんだ。孤高って言うんだぞ。坊や、覚えとくんだよ」
「ここうかあ!」
「ジジイのは孤立ってんだ。みっともねぇ」
「貴様」
「こりつはみっともないんだね?」
「そうとも限らん。烏合の衆に孤立させられたところで、痛くも痒くもないわ」
「へっ、強がりジジイ。小僧、こういうのを負け惜しみって言うんだぞ?わかったか?」
「クソ龍が!」
老いた飛龍は豪快に笑った。
「飛龍お爺ちゃんは?小さい仔いる?」
「いるぞ!優しくて勇敢なお婆ちゃん龍と、立派な子供達、可愛い孫も訓練中だ!」
「勝ち誇りやがって」
老騎士が口をへの字に曲げた。拗ねた子供のような様子に、仔龍はおかしくなってしまった。仔龍が明るく笑い出す。飛龍も楽しそうに笑った。終いには老騎士までもが、憂いのない笑い声を上げた。風を切って大空を翔ける赤土色の龍の背で、老騎士と仔龍は晴れやかな笑顔を交わした。
「送ってやれるのはここまでだ」
老騎士は、木々の疎な斜面を選んで上古紫龍の仔を下ろした。両手で優しく掬い上げ、そっと花畑の中に置いてやった。
「飛べるようになったら、家に帰るといい。ここからお前さんらの棲家は遠くない筈だ。怪我が治るよりも前に、誰かが迎えに来てくれるかもしれんぞ」
「お爺ちゃんたち、行っちゃうの?」
仔龍は縋り付くような眼で一人と一匹を見つめた。
「ごめんよ、戦に出かける途中なんだ」
老騎士が静かな声で答えた。
「そうだったの」
仔龍も、戦争というものは知っていた。大人たちから聞いただけではある。人間たちが豊かな土地を奪い合い殺し合う物語を耳にして、恐ろしいと思っていた。
「危ないよ?やめたら?」
仔龍は老騎士の武骨な靴先を、手に生えた爪でつついた。まだ柔らかい三角の爪だ。
「そうだねえ。やめられたらいいんだけど、そうもいかないんだ」
「むりなの?」
仔龍は食い下がる。親切な老騎士と飛龍が、生命の危機に晒されるのは嫌だったのだ。
「お爺ちゃんたちが防ぎに行かないと、この花咲く森の国は焼け野原になってしまうんだよ」
飛龍が説明した。
「それは嫌だなあ」
「奴等は凶暴で冷酷なんだよ。大人も子供も惨たらしく命を奪われて、動物たちでさえ見逃しては貰えないんだ」
老騎士も状況を教えた。
「そしたら、みんなで防がないといけないねぇ」
仔龍は諦めたように俯いた。
「もう幾つもの村や里が皆殺しになってしまった」
老騎士は、独り言のように呟いた。
「怖いねえ」
仔龍はぶるぶると震え始めた。赤土色の飛龍が、仔龍の顔を優しく舐めた。
「小僧、お前さんが大きくなる頃には、きっと戦もなくなってるさ」
飛龍は長生きである。上古紫龍ほどでは無いが、人間よりはずっと長く生きる。戦争の無い時代も知っているのだ。
「ほんと?」
「爺ちゃんが小さかった頃には、ここいらの人間たちは仲良く暮らしていたんだよ」
「仲良しがいいなあ」
「喧嘩もいつかは終わるもんだ。全部死んじゃってから、やっと終わる喧嘩もあるけどな!」
飛龍に悪気はない。タチの悪い冗談ではないのだ。悲惨な時代も生き抜いた豪のものは、全てを笑い飛ばすことができる。飛龍一族の仔たちなら、
「爺ちゃんすげえ!」
「あたしらも、どんな時でも笑えるくらい心を強くする!」
と、奮起しただろう。だが、幼い上古紫龍の仔には刺激が強すぎた。戦士として生きる飛龍一族の仔とは、感覚が違うのだ。真っ青になって黙ってしまった。
「チッ、老ぼれめ。赤ん坊になんてこと言いやがるんだ」
老騎士は顔を顰めて老いた相棒を叱ると、仔龍の背中をそっと撫でた。仔龍は眼をきょろりと動かし、老騎士の顔を見上げた。
赤土色の飛龍は、老騎士を乗せて旅立った。仔龍は花の中に埋もれて眠った。その夜は嵐が来た。傷口が濡れて、次の日には膿んでしまった。仔龍は高熱を出した。意識が朦朧としていた。やがて花は散り、葉や茎は枯れ果てた。もう動かない龍の仔を、真っ白な雪が覆った。春が来て、凍った身体が溶け出した。夏が来て、また秋が来て、初雪がちらつく頃には骨になっていた。骨は、嵐や大きな獣に運び去られた。
「チビ、家に帰ったようだな」
ある晴れた春の日に、一人と一匹が花畑に戻ってきた。長い戦を終えて、凱旋飛行の途中なのだ。休憩時間にひとっ飛び、仔龍の様子を見にきたのである。
「傷がかなり酷かったから、何年もかかるかと思ったが」
「へっ、ジジイ。小僧は上古紫龍だぜ?」
「そうだな。もう自分で治せる魔法を覚えたんだろうな」
骨がすっかり無くなっていたので、二人には仔龍の最期が解らなかったのだ。
「あの小僧、また会えるかな」
「上古紫龍がこっちまで来ることは殆どないからなあ」
「たまにここを覗いてみるか」
「そうだなあ。ここに限らず、ここいら辺りを飛んでれば、いずれ会える時もあるかもな。あいつも俺たちを探しに来るんじゃないか?」
一人と一匹は、再会の時を楽しみにして、花畑を後にした。
「彼等もとっくに旅立ちましたよ」
カナコは花びらのモザイク芝居を閉じて告げた。
「ええー」
龍の仔は残念そうに口を窄めた。カナコの指輪で、白銀の小さな鈴が鳴る。ちりりんと涼しげな音が、風に乗って梢まで届く。
「上古紫龍の幼い仔よ、因果を辿って参りました」
「いんが?」
龍の仔は幼すぎた。何も理解していなかった。
「困りましたね」
カナコは溜息を吐いた。
「今回は、ハヤセの出番じゃないし」
カナコは梢を見上げた。賑やかに色づいた木々の葉が、深みを帯びた秋の空に揺れている。雨雲はいつしか風に払われていた。もう一度溜息を漏らして、カナコは花畑に視線を戻した。色とりどりの秋草が、お喋りをする少女のように、身を寄せたり離したりしていた。龍の仔は相変わらずそこにいる。だが、もう地面に蹲ってはいなかった。
「よ」
龍の仔は、白いカスリを着流しにした青年の膝で寛いでいた。
「ハヤセ」
「うん、来たよ」
へらへら笑う青年は、腰まで花に埋もれていた。ハヤセの黒髪は、透き通った陽の粒を宿して緩やかに畝っていた。森の精霊だと言われても信じてしまうような姿であった。
「ハヤセ、その仔、連れて行きたいんだけど」
「うん、わかった」
ハヤセは何でもないように言って、仔龍を抱き上げた。幽霊に触れる陣法は、小枝に陰陽針を刺して組んだようだ。小枝はハヤセと仔龍を囲む大きな円を作り、空中に浮かんでいる。カナコは水色の絵日傘をくるりと回し、ハヤセと仔龍に背中を向けた。
「行こうか」
カナコが穏やかに言った。
「行こう」
ハヤセは気軽に応えた。仔龍を腕に抱えて立ち上がり、カナコに着いて行く。幽霊に触れる陣は、歩くハヤセと共に動く。散歩でもするような足取りだ。仔龍は、きょろきょろと周りの景色を見回していた。峡谷に出た時には、陽が落ちて薄闇が訪れていた。
「どこに行くの?」
仔龍は弾む声で尋ねた。
「次の世へ」
カナコは振り向かずに知らせた。
「つぎのよ?」
「次の世」
カナコはそれ以上説明しなかった。仔龍は、場所の名前かと思ったようだ。
「どんなとこなの?お花は咲いてる?」
好奇心剥き出しの質問に、カナコはいつもの受け答えをする。
「それは解らないのです。私達ふたりとも、管轄外ですから」
ハヤセは何も言わない。
「かんかつがい?」
仔龍には難しい言葉がたくさん出てくる。
「知ることが出来ないのです」
カナコは淡々と答えた。
「なんで?」
「そういう決まりなのです」
「きまり。掟?」
上古紫龍は神代に生まれた魔法種族だ。群には掟というものが存続する。
「掟、まあ、そんなところですね」
カナコの後ろ頭が軽く縦に揺れた。
「じゃあ、しょうがないね。どんなところか楽しみだなあ」
仔龍はあっさりと納得した。
「お爺ちゃんたちに、また会える?」
「それも解りません。管轄が違いますので」
「会えるといいなあ」
カナコは黙っていた。ハヤセは糸目を仔龍に向けて微笑んだ。
「そうだな。会えるといいな」
「ハヤセ」
未練を残せば悪霊化する怖れがある。カナコは鋭い声で警告した。
「怖い声出さないでよー、執着じゃないんだから」
ハヤセは揶揄うように言った。仔龍を優しくゆすってあやしている。幸せな望みは満ち足りた心から溢れたのだ。執念や妄念とは違う。それもひとつの解脱であった。
「そうは言っても」
カナコは眉を寄せた。ハヤセからは見えない。
「まあまあ、とにかく船に乗せりゃいいんだろ?」
ハヤセは呑気である。
「それはそうなんだが」
「いいから案内してくれよ」
へへっと笑って、ハヤセがカナコの前に回り込んだ。腰を屈めて顔を覗き込む。唇が触れそうな距離である。カナコは頬を赤らめて後ずさった。
「子供の前で」
カナコは珍しく膨れ面を作った。ハヤセはカラカラと笑い、軽やかな足捌きでカナコの隣に来た。白いカスリの裾が翻る。一行は峡谷を離れて、木の根が絡む平地にいた。山裾の森である。ハヤセの白い裾や袂に、薄っすらと緑のシミが出来ていた。
「ハヤセ、その着物、どの世界でも影響を受けるの?」
カナコは驚きをみせた。
「今まで気がつかなかった」
「へ?ああ、今、幽霊に触れる陣の中にいるから」
「それも掟だね?」
龍の仔は、ワカッタ!とばかりに身じろぎをした。
「その通り!君は賢いね」
「えへへ!賢い!」
龍の仔は得意そうに翼を震わせた。根元の傷は、命を落とした時のままだ。
「そうなのか」
カナコは感心して、隣りの糸目を見上げた。
「そうだよ」
ハヤセは軽い口調で言った。木々の幹にはキノコが生えている。蔓植物には、オレンジや紫の実が下がっていた。ハヤセは道々、木の実や草の実を摘み取っては、龍の仔やカナコに渡した。自分の口にも運ぶ。甘酸っぱい果物の香りが、宵闇の森に漂っていた。どこかで狼の遠吠えが聞こえる。梟も鳴き出した。仔龍はハヤセの胸元に、ぎゅっと頬を押し付けた。
「そんなにくっつくと鱗で痛いよ」
ハヤセは文句を言った。仔龍の鱗はまだ柔らかいのだが、重なり合った段差が擦れて痛いのだ。
「ごめんなさい」
仔龍は素直に謝った。
「これから気をつけてくれればいいよ」
「うん、気をつける」
「なに、気にすることはない。すぐ渡場に着くさ」
カナコは無表情で言い放った。
「酷いなあ、カナコ」
「傷になるわけでもあるまいに」
「痛いことは痛いんだよ」
ハヤセの眉がハの字に下がる。仔龍はキャッキャと笑った。傷が治るのを待ち続けていただけの幽霊である。生涯自分の翼で飛ぶことは出来なかったが、仔龍はそれでも、充分に幸せであった。憎しみも怨みも知らない無垢な魂は、自由なふたりに守られて、次の生へと旅立って行った。




