第9話:暗海に蠢く狂気、そして退屈な天才
深夜。
千葉県某所にある、築四十年の古びた木造アパートの一室。
薄暗いバスルームで、九朗は冷たいシャワーを頭から浴びていた。
赤黒くこびりついていたグリム・ウィーバーの体液とヘドロが、排水溝へと吸い込まれていく。
汚れが落ちた後の己の肉体を鏡で見た九朗は、小さく息を吐いた。
ほんの数時間前、巨大な鎌で完全に貫通されていたはずの腹部には、傷跡一つ残っていない。それどころか、長年のポーター生活で酷使し、栄養失調気味だった身体の線が、別人のように変貌していた。
無駄な脂肪が削ぎ落とされ、黒い光沢を帯びた鋼のような筋肉が全身を覆っている。明らかに人間の限界を超えた「別種の生物」へと最適化された肉体。
(……これが、『喰らう』ということか)
九朗は濡れた髪をかき上げ、視界の端に浮かぶARコンタクトのステータス画面を呼び出した。
以前はただの文字化けだった【ERROR】の項目の下に、今ははっきりと新たな文字列が浮かび上がっている。
『深層ロジック展開:【ERROR】』
『獲得因子:グリム・ウィーバー(変異種)』
『獲得スキル:【跳躍】』
通常、冒険者はパッチテストで適合した「一つのドラゴンの血」に由来する決まったスキルしか使えない。それが絶対のルールだ。
だが、九朗の身体の中にあるシステムは、明らかにそのルールを逸脱している。
相手の因子を喰らい、自身の肉体を再構築し、能力を永続的に奪い取る。
それはまさに、神が定めた世界の理を冒涜する『悪魔』のような力だった。
「……上等だ」
九朗は鏡に映る、酷く冷たい自分の瞳を見つめた。
天狼から強奪した百万ゼニーのおかげで、当面の生活費やギルドへの負債はなんとかなる。だが、そんな端金で満足するつもりはない。
強大な力を持った特権階級の冒険者たちが、安全圏から笑いながら弱者を踏みにじる世界。過去の魔群氾濫で家族を見殺しにされたあの日の絶望を、九朗は一秒たりとも忘れたことはない。
復讐するためなら、悪魔にでも化け物でもなってやる。
決意を新たに、九朗はバスタオルを羽織って狭い部屋へと戻った。
* * *
その頃。
九朗という「未知の怪物」の出現に、世界のインターネット上は未曾有のパニックと熱狂の渦に包まれていた。
『おい見たかよ今日の天狼の配信! なんだよあのオレンジのポーター!?』
『強力な攻撃魔法をノーダメで弾くバケモノを、跳び蹴り一発で粉砕したぞ!?』
『動きが速すぎてカメラのコマ送りでも残像しか見えねぇ!』
『「スキルなしの不良品」って紹介されてたよな? ギルドの隠し玉か!?』
SNSのトレンドランキングは『#オレンジの悪魔』『#天狼お漏らし逃亡』『#最弱ポーター』といったワードで完全に独占されていた。
世界中の特定班やゴシップメディアが、こぞって九朗の正体を暴こうと血眼になっている。しかし、冒険者ギルドも馬鹿ではない。世界的価値のある超大型ルーキーの情報を他国や他組織に奪われないよう、即座に「井藤九朗」に関する個人情報のプロテクトを最高レベルの『S級機密』へと引き上げていた。
表のネットを探っても、九朗の素顔はおろか、年齢すら出てこない。
だが——。
そんな強固な情報統制すらも、彼女にとっては「児戯」に等しかった。
* * *
カチャ、ターン。
カチャカチャ、ターン。
都内の地下深く。複数の分厚い防音扉と生体認証ゲートを抜けた先に存在する、異常なほど冷房の効いたサーバー・ルーム。
青白いLEDの光だけが照らすその暗室の中央で、一人の少女が六つの巨大なモニターに囲まれて座っていた。
「……退屈」
少女——田井中詩音は、無機質な声で呟き、キーボードから手を離した。
重めの黒髪ロングヘアに、整えられた姫カット。透けるような色白の肌。黒のテックウェアにチョーカーとフリルを合わせた、退廃的なゴスガールの装い。
もし街を歩けば誰もが振り返るほどの美少女だが、彼女の漆黒の瞳には「ハイライト」が一切存在しなかった。
田井中詩音は、天才である。
それも、人類の歴史上でも数年に一人しか生まれないような、本物の『規格外』だ。
三歳でプログラミング言語を完璧に理解し、十歳で某国の軍事用ファイアウォールを遊び半分で突破した。彼女の頭脳にかかれば、世界中のあらゆるシステム、防犯カメラ、銀行口座、果ては国家の最高機密すらも、裏庭を散歩するような感覚で覗き見ることができた。
しかし、何でも簡単に分かりすぎてしまうからこそ、彼女の人生は圧倒的な「虚無」に支配されていた。
他人の嘘も、社会の裏側も、世界の構造も、すべてが単調なコードの羅列にしか見えない。生きている人間の生々しさを感じたことがない。
ただ息をして、モニターを眺めるだけの、死んでいるのと同じ退屈な日々。
「あーあ。今日も世界は、予想通りでつまらない……ん?」
詩音は、自動収集させていた「本日最もトラフィックが急増した動画」のリストから、一つのクリップ映像を再生した。
それは、天狼の配信から切り抜かれた「九朗がグリム・ウィーバーを蹂躙するシーン」だった。
コメント欄には『最強!』『速すぎる!』といった文字が弾幕のように流れている。
しかし、詩音の興味を引いたのはそこではなかった。
「……違う。ここじゃない。」
詩音はマウスを操作し、シークバーを「巻き戻し」た。
蹂躙シーンではない。その直前。
上位冒険者たちに見捨てられ、暗闇の中で怪物の巨大な鎌に腹を貫かれ、大量の血を吐いて泥の中に倒れている九朗の姿。
死の淵。普通なら泣き叫び、命乞いをするか、絶望して意識を手放す場面だ。
だが、ドローンカメラがズームで捉えた九朗の瞳は——全く死んでいなかった。
(奪われて、たまるか。ただ死んで、たまるか……!)
声には出していない。しかし、画面越しの彼の目には、世界へのど黒い復讐心と、狂ったような生への執着が宿っていた。
そして次の瞬間、九朗は自らを貫く怪物の肉に素手で食らいつき、その血肉を引きちぎって飲み込んだのだ。
「あっ……」
その光景を見た瞬間。
詩音の心臓が、ドクンッ、と大きく跳ねた。
何事にも動じなかった彼女の細い指先が、微かに震える。
「あ、ああ……! なに、これ……!」
理解できない。計算できない。論理的じゃない。
どうしてあんなに無惨に踏みにじられて、泥水を啜らされて、死にかけているのに、あんなにも「強い瞳」ができるのか。
理不尽な暴力に対して、自ら化け物に成り果ててでも生き残ろうとする、あの圧倒的で生々しいエゴイズム。
完璧に構築された退屈な世界を、暴力と狂気でぶち壊す「エラー」。
「みいつけた……っ!」
詩音の頬が紅潮し、ハイライトの消えた瞳の奥に、ねっとりとしたドス黒い熱が灯った。
人生で初めて感じる、脳髄が焼き切れるほどの強烈な『熱狂』。
彼女はモニターに映る血まみれの九朗の顔に、愛おしそうにそっと指先を這わせた。
「私の九朗様。やっと、生きる意味を見つけた。……あなたに、すべてを捧げる。あなたの邪魔をするものは、私が全て排除する」
荒い息を吐きながら、詩音は熱に浮かされたようにキーボードを叩き始めた。
まずは、彼がどこの誰で、どこに住んでいるのかを特定しなければならない。
ギルド本部のデータベースに侵入するのは三秒で終わる。だが、それではログが残り、彼女の「九朗様」にギルドの警戒が向かってしまう可能性がある。それは美しくない。
「裏口は使わない。もっと確実で、誰にも気づかれない方法で……あなたを丸裸にしてあげる」
詩音の指先が、狂ったような速度でキーボードの上を舞う。
彼女が標的にしたのは、今日九朗を見捨てて逃げた天狼聖の「過去三年分の配信アーカイブ映像」すべてだった。
「天狼は承認欲求の塊。配信の頻度も時間も異常。つまり、彼と同じパーティで荷物持ちをさせられていた九朗様も……過去の映像の背景に、必ず何度も映り込んでいるはず」
数千時間に及ぶ膨大な動画データを、詩音は自作のAIプログラムに放り込み、背景の隅に映る「オレンジ色のスーツ」だけを抽出・トラッキングしていく。
狂気のストーキング・プロセスが、今、静かに幕を開けた。




