第8話:狂騒の帰還と、滑稽な掌返し
地下迷宮から地上へと繋がるゲートを抜けた瞬間、九朗の網膜に投影されているARコンタクトが、かつてないほどの激しい警告音を鳴らした。
だがそれは、生命の危機を知らせるシステムエラーではない。
『未読メッセージ:99,999+件』
『通知:あなたの戦闘クリップが全世界トレンド1位を獲得しました』
『通知:スポンサー申請が4,500件届いています』
『通知:ギルド本部より、特別面談の要請が——』
次から次へとポップアップする通知ウィンドウを、九朗は無表情のままスワイプして視界の端へと追いやった。
九朗が【跳躍】のみでグリム・ウィーバーを蹂躙したあの数分間の戦闘映像は、天狼が置き去りにしたドローンカメラを通じて、リアルタイムで数千万人の目に触れていた。その後、映像は「最弱ポーターの覚醒」「天狼の無様すぎる逃走劇」というセンセーショナルな見出しと共に切り抜かれ、SNS上で爆発的に拡散され続けているらしい。
「……鬱陶しいな」
九朗は小さく舌打ちをした。
彼にとって、世界からの称賛などどうでもよかった。有名になりたいわけでも、承認欲求を満たしたいわけでもない。ただ、理不尽に家族を奪ったこの狂った世界に復讐するための「力」が欲しかっただけだ。
返り血とヘドロで汚れきったオレンジ色の科学耐性スーツ。その重みは以前と変わらないはずなのに、今の九朗の足取りは羽のように軽かった。体内を巡る怪物の因子が、彼の細胞を常に活性化させ、絶え間ない活力を供給し続けているからだ。
九朗は、気絶したまま泡を吹いている下着姿の天狼を、その辺の警備隊にゴミのように放り投げると、そのまま冒険者ギルドの支部へと足を向けた。
まだ、やるべき「事務処理」が残っている。
* * *
ウィィィン、という無機質な電子音と共に、ギルドロビーの巨大な自動ドアが開く。
常に数百人の冒険者たちでごった返し、怒号と笑い声と酒の匂いが入り交じる、喧騒に満ちた空間。
——だが、オレンジ色のスーツを着た九朗が足を踏み入れた瞬間。
まるで時が止まったかのように、ロビーの喧騒が「ピタリ」と消え失せた。
静寂。
数百人の視線が、一斉に九朗へと突き刺さる。
昨日までであれば、その視線には「嘲笑」や「見下し」、あるいは「視界に入れる価値もない」という無関心が含まれていた。
だが今は違う。
彼らの瞳に浮かんでいるのは、明らかな『畏怖』と、得体の知れないバケモノを見るような『恐怖』、そして——欲望に塗れた『打算』だった。
(……薄ら寒い連中だ)
九朗は内心で冷たく吐き捨てながらも、表情には一切出さず、淡々とした足取りで受付カウンターへと向かって歩き出した。
その瞬間、まるで堰を切ったように、周囲の冒険者たちが群がってきた。
「お、おい九朗! いや、九朗くん! 生きてたんだな! 心配したぞ!」
「あ、あの配信見たわよ! あんた、凄かったじゃない! なんであんな力隠してたのよ!?」
「なあ九朗、俺たちのパーティに入らないか!? 報酬は特例で四割……いや、五割でどうだ!?」
「うちのクランに来い! 今なら幹部待遇で迎えるぞ!」
昨日まで九朗とすれ違う際にわざと肩をぶつけてきたり、「不良品が」と唾を吐きかけていたような連中が、顔にへばりつくような愛想笑いを浮かべて九朗を取り囲む。
あまりの滑稽さに、九朗は底冷えするような殺意を抱いた。
こいつらは、力を持たない人間を平気で踏みにじる。そして相手が自分より強いと分かった途端、尻尾を振ってすり寄ってくる。天狼と同じだ。この社会に生きる連中の大半は、どこまでも腐りきっている。
九朗は立ち止まり、群がる冒険者たちへ向けて、ゆっくりと頭を下げた。
「皆様、身に余るお誘い、誠にありがとうございます」
静かで、淀みのない、完璧な敬語だった。
しかし、その声には一切の感情がこもっていなかった。マイナス数十度の冷気が吹き抜けたかのような絶対零度の声色に、熱狂していた冒険者たちの背筋にゾクリとした悪寒が走る。
「ですが、俺はただの『スキルなし』の欠陥品です。皆様のような輝かしい才能を持った素晴らしい冒険者の方々と肩を並べるなど、おこがましくて到底できません。俺のようなゴミが混ざれば、皆様の完璧なパーティの足を引っ張ってしまうだけですので」
「い、いや! そんなこと……!」
「それに」
九朗は顔を上げ、すり寄ってきた男の一人——昨日、すれ違いざまに九朗の足を引っかけようとした男の目を見据えた。
濁った黒い瞳。その奥底でゆらゆらと燃える、殺意の眼差し。
「俺は、他人の背中を守るような器用な真似はできません。……俺の後ろに立つ者は、巻き添えになって『死ぬ』かもしれませんから。それでも構わないというのであれば、喜んでお供させていただきますが?」
「ヒッ……!?」
一瞬だけ九朗から漏れ出した、グリム・ウィーバーすらも屠った本物のプレッシャー。
それに当てられた男は、情けない悲鳴を上げて後ずさりし、尻餅をついた。他の冒険者たちも、本能的な恐怖に顔を引き攣らせ、モーゼの十戒のようにサァッと九朗の周囲から退いていく。
「ご理解いただけて何よりです。それでは、失礼いたします」
九朗は再び完璧な一礼をすると、何事もなかったかのように歩き出した。
「お、お待ちしておりました! 井藤九朗様!!」
受付カウンターに近づくと、今度はギルドの支部を統括する恰幅の良い支部長が、額に滝のような冷や汗を流しながらすっ飛んできた。
彼は昨日、九朗を「投資分の価値もないバグ体質」と吐き捨て、借金返済のために強制的に天狼の囮として死地へ送り込んだ張本人である。
「この度は……その、当支部の手違いにより、大変危険な階層へと派遣してしまったこと、深く、ふかァァくお詫び申し上げます!! 天狼聖の悪質な嫌がらせについては、ギルド本部からの指示により、現在厳しく調査を行っておりまして……!」
「頭を上げてください、支部長」
九朗は、土下座せんばかりの勢いで頭を下げる支部長を見下ろし、極めて事務的なトーンで告げた。
「手違いなどではありません。俺はポーターとして、契約通りに荷物を運び、そして天狼さんから直接『百万ゼニー』で囮の依頼を受け、それを全うしただけです。俺のような底辺に仕事を与えてくださった支部長には、感謝こそすれ、恨みなど一切ありませんよ」
「あ、ああ……! なんと心の広い……! そ、それでは、特例措置として九朗様を一気にAランク冒険者へ昇格させる手続きを——」
「不要です」
九朗のピシャリとした拒絶に、支部長の言葉が止まった。
「ギルドの規律を乱すような特別扱いは結構です。それよりも」
九朗は、血塗れの手をスッと差し出した。
「天狼さんからいただくはずだった『囮としての追加報酬(百万ゼニー)』と、ポーターとしての本日の日当。それだけを、今すぐこの口座に振り込んでいただけますか。シャワーを浴びたいので、これ以上無駄な時間を過ごしたくないんです」
「ひぃッ! は、はい! ただちに!!」
九朗の纏う見えない殺気に圧倒され、支部長は震える手で端末を操作し、瞬時に送金処理を完了させた。
ARコンタクトに、口座への入金完了通知が表示される。
九朗はそれを無表情で確認すると、「ご丁寧な対応、ありがとうございます」とだけ言い残し、支部長を一瞥することもなく背を向けた。
(……反吐が出る)
掌を返し、媚びへつらい、権力と力にすり寄るだけの群れ。
この空間にいるだけで、本当に吐き気がしてくる。九朗は足早にギルドの出口へと向かおうとした。
だが、その前に。
この広大なロビーの中で唯一、九朗が探していた姿を見つけた。
「——井藤、さん……?」
カウンターの片隅。
九朗の生還を全く信じられず、涙目で呆然と立ち尽くしている受付嬢——雨宮晴香の姿があった。
九朗がゴミ扱いされていたポーター時代から、唯一彼を人間として扱い、温かいコーヒーを淹れてくれていた女性だ。
九朗の歩みが、初めてそこで止まった。
張り詰めていた冷酷な空気が、ほんのわずかだけ緩む。
「……雨宮さん。ただいま戻りました」
「あ……あああ……っ!」
九朗の無事な姿を確認した瞬間、晴香は大粒の涙をポロポロとこぼし、カウンターから身を乗り出すようにして両手で口を覆った。
「よ、よかった……! 本当に、本当によかったです……! 私、どうしようかと……っ!」
「すみません、ご心配をおかけしました。……でも、俺は生きています」
九朗の言葉には、周囲の連中に向けた冷たい敬語とは違う、微かな「温度」があった。
彼女の涙だけは、打算でも自己保身でもなく、純粋に九朗の命を心配して流してくれたものだと分かっていたからだ。
「……今日は少し、疲れました。また明日、手続きに来ます」
「は、はい……! あの、お怪我は……!?」
「大丈夫です。傷一つありませんから」
九朗は小さく一礼し、今度こそギルドの自動ドアを抜けて、夜の街へと歩き出した。
自分の世界が、今日を境に完全に変わってしまったことを、九朗は理解していた。
世界中が自分に注目している。ギルドも、他の冒険者も、自分を利用しようと蠢いている。
だが、九朗の目的は一つもブレていない。
この腐った世界で家族を奪った全てを叩き潰す。
(まずは……この血の匂いをどうにかしないとな)
冷たい夜風が、九朗の火照った身体を撫でる。
彼はまだ知らなかった。
この夜の静寂の裏側——広大なネットの暗海の中で、九朗という存在に魅了され、異常なまでの愛と執念を滾らせた『狂気の天才』が、すでに九朗のアパートの住所を割り出すための追跡を開始していることに。




