第7話:蹂躙、そして逆転の跳躍
巨大なグリム・ウィーバーが、怒りと混乱、そして得体の知れない恐怖の入り交じった金切り声を上げた。
ギチギチと硬質な漆黒の甲殻が擦れ合うおぞましい音が、反響して洞窟全体を激しく震わせる。
先ほどまでただの無力な餌として認識していた人間——文字通り虫けらのように腹を貫き、泥の中に沈めたはずの脆弱な存在が、突如として自分と同じ、あるいはそれ以上の強大な「捕食者」の気配を放ち始めたのだから無理もない。
空気の温度が変わっていた。
ヘドロと腐臭に満ちていた第七階層の空気が、九朗の身体から立ち昇る尋常ではない熱量によって、チリチリと焼け焦げるような匂いへと変質していく。
怪物は本能的な危機感に駆られ、残された七本の鋭利な鎌を、嵐のような勢いで九朗へと一斉に振り下ろした。
前後左右、あらゆる逃げ道を塞ぐ必殺の連続攻撃。空気を引き裂く鋭い風切り音が幾重にも重なり合い、絶対的な死の檻を形成する。並の冒険者——それこそ先ほど醜い悲鳴を上げて逃げ出した天狼聖やその取り巻きであれば、悲鳴を上げる間もなく細切れの肉片に変えられているだろう。
だが、泥の中に立つ九朗は全く動じなかった。
彼は深く、ひんやりとした空気を肺の奥底まで吸い込む。
感覚が、異常なほどに鋭敏になっていた。怪物の振り下ろす巨大な鎌の軌道が、まるでスローモーションのようにブレて見える。
彼自身の肉体に起きている変化。それは劇的という言葉すら生ぬるい。
未知の深層ロジックによって強引に再構築され、黒い光沢を帯びて膨張した両脚の筋肉。そこには、グリム・ウィーバーが本来持っていた驚異的な機動力の因子と、決して他者と交わらない九朗自身の孤高のエネルギーが、高密度に圧縮され、今にも爆発しそうなほどに脈打っていた。
長年、重い死骸を背負わされ、不適合者(不良品)だと嘲笑われ、理不尽に泥水を啜らされてきた鉛のような身体。
その果てしない重圧が、嘘のように消え去っていた。今の九朗にあるのは、世界そのものを蹴り砕けるのではないかというほどの、絶対的な万能感と冷たい狂気だけだ。
九朗は、迫り来る死の刃の雨を見つめながら、ただ「飛べ」という意志だけを自らの両脚に込めた。
『システム再構築完了。新規スキル【跳躍】発動』
——ドゴォォォォォォンッ!!
九朗が黒いブーツの足裏で地面を蹴った瞬間。
それは、もはや「ジャンプ」などという生易しい現象ではなかった。
強烈な火薬でも仕掛けられていたかのように、足元の分厚い岩盤がすり鉢状に広範囲にわたって粉砕され、数トンもの泥と土砂が天高く巻き上がった。
凄まじい反作用のG(重力)が九朗の全身を襲うが、怪物の因子によって再構築された強靭な細胞はそれをいとも容易く耐え抜く。
同時に、九朗の姿が怪物の視界から完全に「消失」した。
あまりの初速の速さに、グリム・ウィーバーの持つ優れた複数の動体視力眼球ですら、九朗の残像の端を捉えることすらできなかったのだ。
七本の鎌は虚しく泥の地面を抉り、怪物は戸惑うようにギョロギョロと首を巡らせた。
「……なるほど。これが『力』か」
九朗の静かな声は、遥か頭上——洞窟の天井付近から響いた。
たった一回の跳躍。それだけで、高さ二十メートル近い天井まで一瞬で到達したのだ。九朗自身も、己の脚に宿った規格外のエネルギーと鋼のようなバネに、微かに驚きを覚えていた。
重力に完全に逆らい、天井の岩壁に両足をピタリと吸いつけるようにして張り付いた九朗は、眼下で目標を見失って混乱している怪物を見下ろした。
そして、その一部始終を「目撃」している者たちがいた。
天狼が逃げ出す直前に稼働させていた、ギルド支給の最新型ドローンカメラだ。カメラは怪物の出現という緊急事態に際し、自動追尾モードを維持したまま、安全な高高度からこの人外の戦いを全世界に向けて生配信し続けていたのだ。
『え、は? 消えた?』
『今の爆発なに!? 地面がクレーターになってるんだけど!』
『おいおいおい、嘘だろ……あいつ天井に張り付いてるぞ!?』
『スキルなしのポーターじゃなかったのかよ!? なんなんだよあの動き!!』
『天狼の雷光よりよっぽどバケモノじゃねえか!!』
『スパチャ50,000ゼニー:ヤバいヤバいヤバい! 神回確定!!』
悲鳴と嘲笑で埋まっていたコメント欄が、一瞬にして驚愕と熱狂の渦へと変わっていく。
だが、九朗はそんなカメラの存在にも、無数の視線にも全く興味はなかった。
彼にあるのは、自らを底辺で弄んだ世界への底知れない怒りと、目の前の獲物を屠るという純粋な殺意だけだ。
「次は、こっちから行くぞ」
九朗は天井の岩盤を力強く蹴り出した。
再び空気を裂くような爆音が響き、天井が蜘蛛の巣状にひび割れる。
九朗の身体が、超音速の砲弾のような速度で一直線に落下する。風の抵抗すらも切り裂くその異常な速度。彼が狙ったのは、怪物が無防備に天へ向けて振り上げていた、大木のような鎌の関節部分だ。
——メシャァァァッ!!
九朗の黒いブーツが鎌の関節に直撃した瞬間、天狼の強力な魔法すら無傷で弾いた分厚い鋼鉄の装甲が、まるで脆い枯れ枝のようにへし折れ、嫌な音を立てて逆方向にひしゃげた。
質量×速度=絶対的な破壊力。
超音速に近い【跳躍】の勢いを全て一点に乗せたただの蹴りは、いかなる高度なエネルギーを使った魔法をも凌駕する、純粋で理不尽な「物理的暴力」と化していた。
ピギャアァァァァァァァッ!!
脚を一本完全に粉砕されたグリム・ウィーバーが、かつてない激痛に悶え、洞窟を揺るがすような絶叫を上げた。
怪物は狂乱し、口から強酸の粘液をデタラメに撒き散らし、腹部からは周囲の岩壁をも切断する強靭な鋼糸を乱れ撃つ。一滴でも触れれば骨まで溶け、糸に触れれば肉がスライスされる全方位の死角なき猛攻。
だが、九朗はすでにその場にはいなかった。
——ドンッ! ダンッ! ガンッ!!
洞窟の壁から壁へ。
九朗は【跳躍】のスキルのみを使い、壁を蹴り、岩柱を蹴り、三次元的で変幻自在なジグザグの軌道を描きながら、怪物の周囲を高速で飛び回る。
強酸の雨も鋼糸の網も、九朗の残像の遥か後方を虚しく薙ぎ払うだけだ。
壁を蹴るたびに落雷のような衝撃音が轟き、洞窟全体が局地的な地震のように激しく揺れる。ドローンカメラの映像すらもその衝撃波で激しくブレ続け、視聴者たちはその圧倒的なスピード感と暴力の連鎖に、ただ言葉を失うしかなかった。
怪物の赤い眼球が、四方八方から迫る九朗の動きを全く追いきれず、狂ったように痙攣する。
完全に、狩る側と狩られる側の立場が逆転していた。
「——終わりだ」
死角である怪物の真上を再び取った九朗は、急降下しながら、右手に握ったなまくらな鉄のショートソードを構えた。
刃の鋭さなど関係ない。必要なのは、この圧倒的な【跳躍】がもたらす超運動エネルギーを、剣の切っ先という一点に集中させることだけだ。
九朗はロケットのような速度で落下しながら、ショートソードを、怪物の脳天にある最も巨大な主眼へと真っ直ぐに突き立てた。
——ズバァァァァンッ!!
凄まじい衝撃波が洞窟内に吹き荒れ、足元のヘドロの沼が放射状に吹き飛んだ。
なまくらな剣は眼球を易々と貫き、分厚い頭蓋を砕き、怪物の脳髄を完全に破壊して、その巨大な胴体の下まで丸ごと突き抜けた。
ビクン、と巨体が一度大きく跳ねた後、グリム・ウィーバーは力なく泥の中に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
『対象の完全沈黙を確認。上位イレギュラーの未解析因子の吸収率、100パーセント』
『生体データを更新。九朗様の【因子濃度】および基礎身体スペックが、これまでの数十倍に跳ね上がりました』
視界の隅でシステムメッセージが流れるのを無表情に見つめながら、九朗は怪物の死骸の上に静かに降り立った。
返り血と、怪物の紫色の体液で全身が濡れている。だが、疲労感は全くない。それどころか、未知の因子が怪物の莫大な生命力を取り込んだことで、全身の筋肉の奥底からとめどない活力が溢れ出していた。
世界一の視聴者数を記録し、熱狂のるつぼと化している配信画面のことなど露知らず。
(……だが、まだ『仕事』は終わっていない)
九朗は暗い洞窟の奥——たった一人で自分を囮にして逃げ去っていった、あの男の方角へと、静かに、そしてひどく冷酷な視線を向けた。
* * *
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
一方その頃。
天狼聖は、足をもつれさせながら、暗い坑道を一心不乱に走り続けていた。
肺が焼け切れるように痛い。心臓が早鐘のように鳴り、喉から血の味がする。
少しでも身を軽くするため、見栄のために着込んでいた数百万円の白銀のブランド鎧は、道中に全て脱ぎ捨てている。今の彼は、泥と自らの恐怖のあまり漏らした汚物にまみれた、ただの惨めな下着姿の男だった。
「クソッ! クソッ! なんで俺がこんな目に! なんで俺がこんな理不尽な目に遭わなきゃならないんだ!!」
恐怖と屈辱で顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、天狼は悪態を吐き続けた。
彼はこれまで、安全な狩場だけを選び、ギルドの力で守られながら、カメラの前で「天才」を演じてきただけの男だ。本当の死の恐怖、予測不能な暴力というものに触れたのは、今日が初めてだった。
「あいつのせいだ……! あのノロマなゴミポーターの血が臭かったから、あんな化け物が寄ってきたんだ! そうだ、俺は悪くない! 俺は被害者だ! 俺は特別な血に適合した選ばれた存在なんだから、あんなゴミが俺の身代わりになるのは当然のことじゃないか!」
極限の恐怖は、彼の脆弱な精神を完全に歪ませていた。
背後から怪物の足音が聞こえるような気がして、何度も何度も振り返る。水滴が落ちる音にすら「ヒッ!」と情けない悲鳴を上げ、転んでは泥まみれになりながら這い進む。
「ギルドに帰ったら、あいつの遺族に慰謝料を請求してやる……! 俺の精神的苦痛と、この台無しになった企画の賠償金だ……!」
醜悪で自己中心的な妄言を喚き散らす天狼の目に、不意に、淡い光が飛び込んできた。
上の階層へと続く出口の光だ。あそこまで行けば強力な結界があり、下の階層のモンスターは追ってこられない。
「助かった……! ははっ、助かったぞ!!」
天狼は狂喜の声を上げ、泥にまみれた手を光に向かって伸ばした。
自分が生き残ったという絶対的な安堵。あんな化け物が、上の階層まで上がってくるはずがない。俺は助かったのだ。
——その、直後だった。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
天狼の目の前。出口の光を完全に塞ぐようにして、天井の岩盤を突き破り、何かが「超高速の隕石」のように落下してきた。
凄まじい衝撃波と爆風が坑道を吹き荒れ、天狼は「あぎゃっ!?」とカエルのような悲鳴を上げながら無様に後方へ吹き飛ばされ、泥水の中に尻餅をついた。
地震のように揺れる坑道。もうもうと立ち込める濃密な土煙。
その奥から、ゆっくりと、一つの影が立ち上がった。
「ヒッ……!? バ、バケモノ……追ってきやがったのか!?」
天狼は完全に腰を抜かし、ガタガタと痙攣しながら後ずさりした。
あんな重傷を負ったゴミポーターなど、数秒で食い殺されたに決まっている。やはり、俺を追ってきたのだ。俺の肉を喰らうために。
しかし、土煙が晴れたそこに立っていたのは、巨大な蜘蛛の怪物ではなかった。
「——誰が、バケモノですか」
酷く冷たく、静かな声。
怪物のドス黒い体液を全身に浴び、切っ先がひしゃげたショートソードを手にした九朗が、出口を塞ぐようにそこには立っていた。
彼の右脚には、天狼自身がナイフで深々と斬り裂いたはずの致命傷など一切ない。それどころか、その脚の筋肉は異様な黒い光沢を放ち、獲物を完全に追い詰めた肉食獣のような、極限の威圧感を放っていた。
「く、九朗……? お、お前、生きて……いや、その脚はどうした!? なんで一瞬でここに……!?」
天狼は信じられないものを見るように目を剥き、恐怖で歯の根をガチガチと鳴らした。
ありえない。あの怪物をどうやって撒いたのか。いや、それよりどうやって自分に追いついたのか。
混乱する天狼を余所に、九朗は無表情のまま、一歩、また一歩と天狼に近づいていく。
その歩みは、ポーター時代と何一つ変わらない、静かで淡々としたものだった。しかし、その小柄な身から放たれる絶対的な強者のプレッシャーは、先ほどのイレギュラーの怪物すらも遥かに凌駕し、天狼の魂を押し潰そうとしていた。
「天狼さん。一人でどこへ行かれるんですか?」
九朗は、泥に這いつくばってガタガタと震える天狼を見下ろし、極めて丁寧な敬語で告げた。
だが、その声には一切の感情がなく、絶対零度の殺意だけが込められていた。
「約束通り、囮としての仕事は最後まで全うさせていただきました。俺の命は、百万ゼニーの価値があるとおっしゃいましたね」
九朗は、血塗れのショートソードを天狼の鼻先に突きつけた。
「置いていかれては困ります。俺はまだ、あなたから約束の『百万ゼニー』を受け取っていませんから。……それとも、あなたのその命で、不足分を支払ってくださるんですか?」
「あ……あぁぁぁぁぁぁッ……!!」
それが「ただのスキルなし」などではない、自分など足元にも及ばない真の化け物であると本能で理解させられ。
天狼は、絶望のどん底で、喉を掻き毟りながら最も醜い悲鳴を響き渡らせた。




