第5話(5/19大幅改稿)
下層でのサバイバルは、まさに泥沼の地獄だった。
バフが切れた身体は鉛のように重く、動かすたびに激痛が走る。
その状態で、暗闇から次々と襲い来る魔獣を相手にしなくてはならない。三つ首の魔犬、岩のように硬い甲殻を持つ百足、姿を持たない影の怪物。
上層の魔物とは比較にならない膂力と速度を持つ奴らを、俺はグリム・ウィーバーの鎌の破片と、細胞が再構築された肉体のポテンシャル、そして【跳躍】のみで捌き続けた。
何度肉を抉られただろうか。
何度毒を浴び、血を流しただろうか。
時間の感覚すらない永遠とも思える死闘の末、俺はついに限界を迎えた。
「……はぁっ、がッ……!」
ドサリと、冷たい泥水の中に崩れ落ちる。
肺が焼けるように熱い。指先ひとつ動かせない。身体中の血が抜け落ちていくような寒気が俺を包み込んでいた。
上空を旋回するドローンカメラの赤いランプだけが、虫の息になった俺を無機質に見下ろしている。
(……ここまで、か)
口の中に、ヘドロの悪臭と、自分の血のひどい鉄の味が広がった。
あの日、ダンジョンからモンスターが溢れ出る『魔群氾濫』で家族を失ってから、俺の人生はずっとこんな味だった。
底辺を這いずり回り、泥水を啜り、誰かに踏みつけられるだけの日々。
バケモノの肉を喰らってまで足掻いたが、結局、俺の人生はこの暗い奈落の泥の中で終わるらしい。
瞼が重い。意識が闇に溶けそうになる。
だが、完全に意識を手放しかけたその時——ふと、鼻腔を『ある匂い』が掠めた気がした。
血の臭いでも、泥の臭いでもない。
香ばしくて、少し焦げくさくて、けれどとても温かい匂い。
安物の、インスタントコーヒーの匂いだ。
『——九朗さん。はい、これ』
泥まみれの脳裏に、鮮明な映像が蘇る。
誰もが俺を「無能なゴミ」として扱うギルドの中で、唯一、俺を人間として扱ってくれた受付嬢の晴香。
彼女が内緒で淹れてくれた、紙コップに入った安いコーヒー。
冷え切った身体に染み渡るその温もりと、彼女の困ったような、けれど優しい笑顔。
『……あんまり無理しないでくださいね。生きて帰ってきてください』
その声が、耳の奥で響いた。
冷たかった心臓の奥に、ポッと小さな火が灯るのを感じた。
「…………」
俺は、無意識のうちに強く奥歯を噛み締めていた。
こんな泥の中で、バケモノに食い殺されて死ぬ?
冗談じゃない。
「……あぁ……また、あのコーヒーが……飲みたい……」
それは、世界を救うような立派な大義名分なんかじゃない。
生きるか死ぬかの極限状態において、あまりにもちっぽけで、ささやかな執着。
だが、空っぽだった俺の心をこの世界に繋ぎ止めるための『アンカー』としては、それで十分すぎた。
ドクンッ、と心臓が強く脈打つ。
温かな記憶のすぐ裏側にへばりついている、ど黒い感情——天狼への復讐心が、一気に発火する。
俺から全てを奪った理不尽な世界。
俺を囮にして見捨てたゲス野郎。
あんな奴らが安全な場所で笑っていて、どうして俺がこんな泥の中で死ななければならない。
「俺は……ッ!」
俺は泥水の中に両手を突き立て、無理やり上体を起こした。
千切れかけた筋肉の悲鳴を意志の力で捻り潰し、立ち上がる。
血まみれの顔を上げると、暗闇の奥から新たな魔物たちが俺を喰らおうと迫ってきていた。
だが、不思議と恐怖はなかった。
俺の瞳に宿る狂気と、底なしの憎悪のオーラを前に、知能の低い魔物たちが一瞬ビクッと怯んで足を止める。
「……生きる。生きて、這い上がって、必ず、復讐してやる……!」
俺は欠けた鎌の破片を握り直し、大きく息を吸い込んだ。
這いつくばる時間は終わった。
俺は再び【跳躍】のスキルを発動し、暗闇の最深部から、地上への反逆の階層を駆け上がり始めた。




