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第5話:剥がれるメッキと、ゲスな本性

 圧倒的な質量と、鼓膜をすり潰すようなおぞましい咆哮。

 突如として分厚い岩壁を内側から粉砕して這い出てきたのは、ダンジョンの深層から迷い込んできた規格外のイレギュラー——漆黒の甲殻と八本の鋭利な鎌を持つ変異種の怪物、『グリム・ウィーバー』だった。

 体長は優に五メートルを超え、岩盤すらも容易く両断するであろう巨大な前脚の鎌からは、獲物を溶かすための猛毒の体液がボタボタと滴り落ち、腐食の沼地の泥を焦がして白煙を上げている。血のように赤い複数の眼球が、ギョロギョロと獲物を探すように蠢いていた。


 圧倒的な『死』の気配。

 この第七階層にいるはずのない上位モンスターの登場に、洞窟内の空気は完全に凍りついていた。

 だが、その張り詰めた空気を全く読めていない男が一人。


「ははっ、なるほど! ギルドの奴ら、今日の俺の配信を盛り上げるために『サプライズのボス』を用意してくれたってわけか! なかなか粋な計らいじゃん!」


 高価な特注の大剣を構えた天狼が、引きつったような、しかし歪な高揚感を浮かべた笑顔で一歩前に出た。

 彼の持つ索敵レーダー(無駄に高価なだけの旧式マジックアイテム)には、先ほどまでこの怪物の反応は一切映っていなかった。故に彼は、これを「ギルドが自分たちの配信の同接を伸ばすために、安全装置付きで仕込んだイベントボス」だと完全に勘違いしたのだ。


「みんな、見ててくれ! 俺たち『白銀の天剣』が、このグロテスクな化け物を一瞬でスクラップにしてやるぜ! そこにいるスキルなしの九朗くんも、俺の背中で一流の戦い方をしっかり学んでおくんだな!」


 天狼の周囲を飛ぶドローンカメラが、彼の上半身をヒロイックなアングルで捉える。

 配信のコメント欄は、未だ事態の異常性に気づいていない視聴者たちの能天気な言葉で溢れかえっていた。


『うおおおお! 天狼さんマジイケメン!』

『ここでサプライズボス戦とか熱すぎる!』

『あのポーター、ビビって腰抜かしてんじゃない?w』

『一撃で倒しちゃえ! 聖きゅん!』

『スパチャ10,000ゼニー:必殺技の演出期待してます!』


 天狼は大剣を高く掲げ、自身の持つ最大火力、スキル【雷光ライトニング】のエネルギーを限界まで練り上げた。

 剣の刀身が眩い青白さに発光し、薄暗い洞窟全体を真昼のように照らし出す。バチバチと弾ける放電現象とプラズマの轟音は、画面越しに見れば「最強の勇者の必殺技」そのものだった。


「消し飛べえええええッ!! 【ライトニング・バースト】!!」


 天狼の芝居がかった叫びと共に、極太の雷の柱がグリム・ウィーバーに向かって一直線に放たれた。

 鼓膜を破る轟音。目を焼く閃光。そして、もうもうと立ち上る焦げ臭い煙。


「ふぅ……決まったな。ちょっと出力を上げすぎたか。おい九朗くん、いまのド派手なエフェクトちゃんと見て——」


 天狼がドヤ顔でドローンカメラにピースサインを向けようとした、その瞬間だった。

 煙を切り裂き、巨大な黒い影が『無傷』のまま姿を現した。


「……は?」


 天狼の顔から、一瞬にして血の気が引いた。

 渾身の一撃の直撃を正面から受けたはずのグリム・ウィーバーの甲殻には、傷一つ、焦げ跡一つついていなかったのだ。

 天狼の雷は、視覚的なエフェクトが派手なだけのハリボテの魔法。異界の過酷な自然環境を生き抜いてきた「生物」が持つ、分厚い絶縁性の甲殻と強靭な抗因子の前では、ただの静電気ほどの意味も持たなかった。


 直後。

 グリム・ウィーバーの八本の脚の一つ——大木ほどもある鋭利な鎌が、不可視の速度で横薙ぎに振るわれた。


「え——」


 天狼のすぐ隣で「さすがリーダー!」と囃し立てていた取り巻きの魔法使いの上半身が、まるで濡れた紙屑のように、あっさりと両断された。

 ドサリ、という重い音と共に、泥の中に崩れ落ちる真っ二つの肉塊。数秒遅れて、切断面から間欠泉のように大量の鮮血と内臓が噴き出した。

 生温かく、鉄錆と便の入り混じった強烈な死の匂いがする血しぶきを顔面から浴びた天狼は、限界まで目を見開き、ガタガタと全身を痙攣させた。


「あ……あ……?」


 それは、安全な配信の演出でもなんでもない。彼が今まで徹底して避けて通ってきた、紛れもない「現実の理不尽な死」だった。

 ドローンカメラが血に染まる凄惨な光景を映し出し、コメント欄の空気が一変する。


『え……嘘だろ?』

『いまの、本物の血……?』

『ギャグだよね? ギルドの演出だよね!?』

『腕飛んでる! 内臓出てるって!!』

『やばいやばいやばい! 誰か警察かギルドに連絡しろ!!』


 パニックに陥り、爆発的な速度で流れ始めるコメント欄。

 そして、誰よりも早くパニックを起こし、精神を崩壊させたのは、他ならぬ「リーダー」である天狼自身だった。


「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!?」


 先ほどの爽やかで勇敢な勇者の面影など、見る影もない。

 天狼は百万ゼニー以上する高価な大剣を泥の中に無様に放り捨てると、涙と鼻水を顔中に行き渡らせながら、股間を濡らして後退りした。

 安全な場所から格下のモンスターをいじめていただけの彼もまた、本物の脅威を前にすれば、ただの無力で臆病な一般人にすぎなかったのだ。


 キチキチキチッ、と不快な摩擦音を鳴らしながら、グリム・ウィーバーが次の獲物——一番騒々しい天狼に標的を定め、巨大な鎌を振り上げる。


(……殺される。俺が、俺が殺される……! 冗談じゃない、俺は選ばれた天才なんだ、こんな薄汚い泥の中で死んでたまるか……!)


 極限の恐怖と死の気配の中で、天狼の濁った視界が、先頭付近の泥の中で立ち尽くしている九朗の姿を捉えた。


「そうだ……お前だ。お前は囮だ!! 俺が百万も払ってやったんだから、俺の盾になって死ねぇッ!!」


 狂乱し、完全に理性を失った天狼は、懐に隠し持っていた護身用のサバイバルナイフを引き抜くと、逃げざまに九朗の右脚の太ももを背後から深々と切り裂いた。


「——ッ!」


 予期せぬ背後からの凶行。

 肉を断ち切る鈍い感触と共に、九朗は苦悶の表情を浮かべ、ヘドロの沼の中に崩れ落ちた。

 太ももの太い血管を斬り裂く深い裂傷。ドクドクと赤黒い血が泥水の中へ流れ出し、強烈な血の匂いが洞窟内に充満していく。


「あははははは! 餌だ! 最高級の生肉の匂いだぞ化け物! そいつを食ってる間に、俺は逃げる! 俺は選ばれた特別な人間なんだよおおおぉぉッ!」


 天狼は醜く顔を歪めて叫ぶと、足を斬られて動けなくなった九朗を置き去りにして、一目散に出口の方角へと這いずるように逃げ出した。残された取り巻きたちも、自らの武器を捨て、泣き叫びながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。


 静まり返る洞窟。

 聞こえるのは、泥と血にまみれて倒れ伏す九朗の荒い呼吸音と、彼をじっと見下ろす巨大なグリム・ウィーバーの不気味な息遣いだけだ。

 カメラのマスターである天狼が逃げたことで、AI搭載のドローンカメラも自動的に彼を追従して飛び去り、唯一の光源すらも失われた。九朗の姿は全世界の配信画面から完全にロストし、深い闇の中に取り残された。


「……っ、ぐ……」


 九朗は痛みに脂汗を流しながら、斬られた右脚を強く押さえた。

 指の隙間から、止めどなく血が溢れ出ていく。

 深刻な出血。周囲は完全な闇。そして、目の前には即死級のイレギュラーモンスター。

 逃げ道はない。戦う力もない。文字通りの、絶対的な死の淵だった。


(……ここで、終わりか)


 暗闇の中で赤く光る、怪物の複数の眼球を見つめながら。

 九朗の瞳には、一切の「恐怖」や「諦め」が浮かんでいなかった。

 そこにあるのはただ、冷たく、底知れないほどの、純粋な【憎悪】だけだ。


(ふざけるな……。ふざけるな。こんな所で、あんなゴミ屑みたいな奴らに囮にされて、何一つ報われないまま、俺は死ぬのか……?)


 家族の仇を討つこともできず。

 ただ理不尽にシステムから搾取され、権力者に捨てられ、最後は泥の中で異界のバケモノに噛み砕かれる。

 そんな惨めな結末を、九朗の魂が許すはずがなかった。


「……食えるもんなら、食ってみろよ……ゴミが……ッ」


 九朗はなまくらな鉄のショートソードを握り締め、這いつくばったまま、絶望的な体格差の怪物に向かって怨念そのもののような鋭い殺気を放った。


 その直後。

 グリム・ウィーバーの研ぎ澄まされた巨大な鎌が、九朗の細い体を、無慈悲に深々と貫いた。


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