第4話:悪意の晒し上げと、高額な罠
翌日。冒険者ギルド本部の喧騒に包まれたロビーに、九朗の姿があった。
彼が身につけているのは、昨日までの分厚く悪臭を放つオレンジ色の科学耐性スーツではない。ギルドの購買部で誰でも買える、一番安価で薄っぺらい初心者用の革鎧だ。腰には、モンスターの硬い皮など到底切れそうにない、なまくらな鉄のショートソードが一振り。それが、現在の九朗が持つ全財産だった。
昨日のパッチテストの結果、九朗は高価な『新種のドラゴンの血』の代金として莫大な借金を背負わされ、実質的なモルモットとして強制的にギルドの末端(Fランク冒険者)に登録された。
だが、スキルがバグを起こし【ERROR】となったままの能力ゼロの彼にできることなど、何一つとして存在しない。九朗は無表情のまま、ロビーに設置された巨大なホログラム掲示板を見上げていた。そこに張り出されている討伐クエストや採集クエストは、どれも最低限の攻撃スキルや防御スキル、あるいは魔法適性を持っていることが前提のものばかりだ。
ただの一般人と何ら変わらない身体能力のまま、スライムやゴブリンの群れに突っ込めばどうなるか。答えは明白だ。数分後には全身の肉を齧られ、骨の髄までしゃぶり尽くされてダンジョンの養分になるだけだ。
完全に「詰み」の状況だった。
(……どうする。このままでは、クエストを受注することすらできない。月末には莫大な借金の利子がのしかかり、結局は一生地下労働施設に送られて解剖されるだけだ)
九朗が暗い瞳で掲示板の文字を追っていた、その時だ。
「やあやあ! 探したよ、九朗くん!」
背後から、鼓膜をひどく逆撫でする、わざとらしいほどに爽やかな声が響いた。
振り返ると、そこには白銀のブランド鎧を眩しく煌めかせた大人気パーティ『白銀の天剣』のリーダー、天狼聖が立っていた。彼の周囲には、今日もギルド支給の最新型ドローンカメラが機嫌良く旋回している。
九朗の網膜が、反射的に不快感で歪みそうになるのを、強靭な理性と冷たい意志で押さえつける。
「……天狼さん。俺に何か御用でしょうか」
「いやあ、ギルドの受付で聞いたんだ。君、ついにポーターを卒業して正規の冒険者になったんだって? おめでとう! いやぁ、俺も自分のことのように嬉しいよ!」
天狼はカメラのレンズを強く意識しながら、大げさな身振りで九朗の肩をバンバンと叩いた。その裏で、彼の手のひらが九朗の肩の骨をミシリと痛めつけるほど強く握り込まれていることに、視聴者は誰も気づかない。
その直後、天狼はドローンカメラに向かって愛嬌たっぷりのウインクを飛ばした。
「みんな、聞いてくれ! 彼は長年俺たちのポーターとして下働きをしてきたんだけど、昨日ついに適性テストに受かったんだ! でも……可哀想に、不運なバグのせいで発現したスキルが【無し】になっちゃったらしいんだよね」
天狼の芝居がかった言葉に合わせるように、九朗の視界の端で、天狼の配信枠のコメントが滝のような勢いで流れ始めるのが見えた。
『うわ、無能じゃんw』
『スキルなしで冒険者とか自殺志願者?』
『てかこいつ、昨日のオレンジスーツのノロマじゃんw』
『天狼さん優しすぎ! 底辺の相手してあげるなんて!』
『スパチャ5,000ゼニー:天狼さんマジ聖人!』
悪意と嘲笑のコメントが乱舞する中、天狼はカメラの死角でニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、九朗の耳元に顔を近づけた。
「そこでだ。今日は俺たち『白銀の天剣』の特別企画として、君の記念すべき『初ダンジョン探索』を全面的にサポートしてあげようと思ってね。もちろん、君に危険な戦いはさせない。俺たちの後ろをついてくるだけでいい。……しかも、特別ゲストの出演料として、破格の『百万ゼニー』を君に支払うよ」
「……百万、ですか」
九朗の瞳が、僅かに動いた。
百万ゼニー。それは、九朗がポーターとして数年血反吐を吐いて働いて、ようやく稼げるかどうかの大金だ。当面の莫大な借金の支払いを凌ぎ、まともな防具やトラップ解除ツールなどの装備を揃えるには十分すぎる額だった。
だが、当然ながら裏がある。
天狼のような自己顕示欲と虚栄心の塊が、ただの善意で大金を払うはずがない。これは間違いなく、無能な九朗を危険地帯に連れ込み、モンスターに怯えてパニックになり泣き叫ぶ無様な姿を配信に映して、「底辺を助ける心優しい俺たち」を演出するための、悪辣極まりない『晒し上げ企画』だ。
もし少しでも九朗がミスをすれば、あるいは「動画的な見映えが良い」と判断されれば、生きた囮として怪物の群れに放り込まれる可能性すら十分にある。
(……だが、今の俺には選べる札がない。この金が手に入らなければ、どのみち数日後には借金で破滅する)
殺意が湧くほどの危険な罠だと百も承知で、高額な報酬という名の毒餌を食いちぎるしかない。九朗は深く静かに息を吸い込んだ。
「……ええ。お引き受けいたします。微力ながら、天狼さんたちの配信のお役に立てるよう努めさせていただきます」
「ははっ、固い固い! まぁ、気楽に行こうぜ! スキルなしの君は、絶対に俺たちの『前』を歩かないようにね!」
ドローンカメラに向けて親指を立てる天狼の底意地の悪い笑みを見つめながら、九朗は深く、丁寧すぎるほどのお辞儀をした。
* * *
数時間後。第十三地区特級ダンジョン『東京アビス』——中層上部・第七階層『腐食の沼地』。
「ほらほら九朗くん、危ないよ! そっちの沼は猛毒を持ったヒルが出るから!」
「……申し訳ありません。すぐ下がります」
コンクリートが溶け落ち、強酸の沼と猛毒の胞子が舞うダークファンタジー的な腐海の中。天狼の甲高い声が薄暗い洞窟内に響く中、九朗は膝まである粘り気のあるヘドロに足を取られながらも、淡々と敬語で謝罪した。
事前に「後ろをついてくるだけでいい」と言っていたのは、当然のごとく真っ赤な嘘だった。天狼たちは「初心者の先導」と称して、罠や不意打ちの危険が最も高い先頭(斥候役)を、あえてスキルを持たない丸腰の九朗に歩かせていたのだ。
沼に足を取られ、泥にまみれ、小さな毒虫に刺されて顔をしかめる九朗の惨めな姿が、ドローンカメラによって絶えず全世界に生配信され続けている。
「あっ、危ない!」
背後から天狼のわざとらしい叫び声が上がった直後、九朗のすぐ横の泥沼に【雷光】の魔法が着弾し、泥水が爆発するように跳ね上がった。
「……ッ」
「ごめんごめん! 泥の中にアシッドスライムが隠れてたから、つい反射的に撃っちゃった! 九朗くんに当たらなくてよかったよ!」
ドローンカメラに向かって舌を出してみせる天狼だが、その目は全く笑っていない。わざと九朗の至近距離に魔法を撃ち込み、彼が怯えて泥に尻餅をつく無様な姿を狙っているのだ。
『うわー、九朗ビビりすぎw』
『スキルなしマジで足引っ張ってんなw』
『天狼さんの介護配信じゃん』
『百万の価値ねぇだろこいつ。さっさと食われろよ』
天狼たちは安全な後方から、時折現れる低級モンスターを派手な魔法で吹き飛ばしては、視聴者からの黄色い声援と多額のスーパーチャットを浴びていた。
九朗はただの「ピエロ」であり「歩くトラップセンサー」だ。上位陣の有能さを引き立てるためだけの、惨めな生贄。
だが、九朗は決して感情を顔に出さず、ヘドロを啜るようにして彼らの指示に従い続けた。胸の奥で煮え滾るような暗い炎を、冷たい敬語と無表情の分厚い壁の裏に隠して。
必ず生きて帰り、あの百万ゼニーを手に入れる。その意志だけが、九朗の魂を支えていた。
「よしよし、いいペースだ! みんな、スパチャありがとう! 次のエリアはもっとグロいのが出るから、九朗くんのリアクションに期待しててね!」
天狼がヘラヘラと下劣に笑いながらドローンカメラに手を振った、その時だ。
(……ん?)
長年ポーターとしてダンジョンの底辺を這いずり回り、幾度も死線をくぐり抜けてきた九朗の「生存本能」が、けたたましい警鐘を鳴らした。
おかしい。
先ほどまで絶えず聞こえていた、毒虫の羽音や低級モンスターの這い回る音が、ピタリと止んでいる。
腐臭に満ちていた空気の温度が、急激に、まるで氷点下のように下がっていく。肌の粟立つような、圧倒的で濃密な「死」の気配が、前方から膨れ上がっていた。
「……天狼さん。止まってください。何かが……来ます」
「はぁ? 何ビビってんだよスキルなし。俺の索敵レーダーには何も映って——」
天狼が不機嫌そうに振り返りかけた、次の瞬間。
鼓膜を破るような凄まじい地響きと共に、彼らの真横の分厚い岩壁が、まるで薄いビスケットのように内側から粉々に吹き飛んだ。
「——ッ!?」
降り注ぐ無数の岩の破片。もうもうと立ち込める酸性の土煙を切り裂いて姿を現したのは、この中層エリアには絶対に存在するはずのない異形だった。
巨岩のような漆黒の甲殻。八本の鋭い大鎌のような脚。そして、血のように赤い複数の眼球が、ギラギラと天狼たちを見下ろしている。
それは、ダンジョンの階層ルール(生態系)から逸脱し、下の階層から這い上がってきた規格外の怪物——『イレギュラー(変異種)』だった。




