第27話
俺の蹴りを受け、泥水に顔を沈めた天狼は、這いつくばったまま狂ったように喚き散らしていた。
「あ、あああ……っ! 頼む、殺さないでくれ! 俺にはまだ輝かしい未来があるんだ! こんなところで終わるわけにはいかないんだ!!」
鼻血と泥で顔面を汚し、かつての美麗な面影など欠片も残っていない。
そんな天狼を見下ろしながら、俺はつまらなそうに黒い短剣を太もものホルスターへと収めた。
「安心しろ。お前のことは殺さない」
「……え?」
天狼が間抜けな声を漏らし、すがりつくように顔を上げた。
俺は視線を向けたまま、静かに告げる。
「俺は、モンスターしか殺さないと決めている。お前のような薄汚いクズでも、一応は人間だからな」
「あ、あぁ……! ありがとう、ありがとう井藤! さすがは俺が見込んだ男だ! すぐに追加の金を——」
「だが」
歓喜に顔を歪めた天狼の言葉を、俺の声が遮った。
「命を取らないというだけで、お前を『許す』とは一言も言っていない。……上を見てみろ」
俺が顎でしゃくった先。
天狼が自らの自作自演配信のために持ち込み、今は詩音に乗っ取られている小型ドローンが、彼らの頭上で静かにホバリングしていた。
「な、なんだよ。ドローンがどうしたって——」
その直後。
ドローンのレンズ下部から、空中に立体的なホログラムスクリーンが投影された。
『——速報です! 現在、大手配信プラットフォームにて、B級パーティ【白銀の天剣】のリーダー・天狼聖氏のゲリラ配信が世界同時中継されており、同時接続数は驚異の五百万人を突破——』
『映像には、PK部隊の雇用、違法魔導具の使用、さらに千葉支部における大規模な裏金工作の自白が鮮明に記録されており、ギルド本部は即座に特別査察を決定——』
『警察庁も重大犯罪として動き出しており、彼と癒着していたとされる千葉支部長にもすでに捜査のメスが——』
投影されたのは、世界中のニュース番組の速報、そしてプラットフォームを埋め尽くす何百万件もの「天狼への罵詈雑言」。
「な……んだ、これ……?」
天狼の瞳孔が限界まで見開かれ、顔面からすべての血の気が引いていくのがわかった。
「お前が自作自演のために開けておいた通信の抜け穴。そこから、お前の醜い自白と命乞いを『全世界』に向けて生配信させてもらった」
「ぜん……せかい、だと……?」
「もうすぐ警察とギルド本部の査察官がここへ来るだろう。お前の悪事はすべて露呈した。千葉支部長という後ろ盾も、隠し持っていた資産もすべて凍結される。お前に残されたのは、世界中からの軽蔑と、一生出られない冷たい檻の中だけだ」
カタカタと、天狼の奥歯が鳴った。
それは死の恐怖ではなく、『すべてを失うこと』への根源的な恐怖だったのだろう。
名声、富、権力、そして「白銀の英雄」としての未来。奴がこれまで他者を踏み台にして築き上げてきたすべてが、たった今の「全世界配信」によって完全に、そして永遠に破壊されたのだ。
「あ、あああ……あああああああああああっ!!!」
天狼は頭を抱え、獣のような悲鳴を上げて泥水の中をのたうち回った。
これからの人生、奴は刑務所の中で世界中から永遠に嘲笑され続ける。
冒険者資格の永久剥奪どころではない。それは「社会的な死」という、抜け出すことのできない無限の地獄だった。
「嫌だ! そんなの嫌だ! 頼む、井藤! いっそ俺を殺してくれ!! お願いだ、ひと思いに殺してくれぇぇぇっ!!」
泥まみれの手で俺の脚にしがみつき、涙と鼻水を流しながら「殺してくれ」と懇願してくる。
奴にとって、これからの人生を生き恥を晒して生きるくらいなら、ここで死んだ方がマシなのだろう。
だが、俺はすがりつく天狼の手を無造作に蹴り払った。
「断る。お前は法と社会の底辺で、その無価値な人生を一生後悔しながら生き続けろ」
俺はもう、泥水の中で泣き喚く哀れな男を見ようともせず、そのまま踵を返して晴香さんの元へと歩み寄ろうとした。
その無防備な背中を見た瞬間——天狼の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
「俺の人生を終わらせておいて……てめぇだけいい気になってんじゃねぇぇぇっ!!」
狂乱した天狼が、泥水の中から自らの白銀の長剣を拾い上げ、絶叫と共に跳躍した。
全魔力を込めた、彼の最高火力のスキル。
「死ねェッ! 【白銀閃】!!」
音速で放たれた白刃の閃光が、背を向けた九朗の首筋へと容赦なく振り下ろされる。
晴香が悲鳴を上げる間すらなかった。
だが——。
「……」
俺は振り返りすらしないまま、身体をわずかに半歩だけズラした。
白銀の刃が、俺のオレンジ色のスーツと数本の髪の毛だけを『紙一重』でかすめ、空を切る。
渾身の一撃を躱され、完全に体勢を崩した天狼の鳩尾に向けて——俺は振り返りざまに、黒い短剣の峰を容赦なく叩き込んだ。
——ゴフッ!
鈍い衝撃音。天狼は白目を剥き、胃液を吐き出しながら泥水の中へと崩れ落ち、完全に意識を刈り取られた。
血と泥で汚れきった俺は、短剣の汚れを払ってホルスターに収めると、瓦礫の陰で立ち尽くしていた晴香さんの元へと歩み寄る。
「……お待たせしました。もう大丈夫です、晴香さん。帰りましょう」
血と泥で汚れきった姿。それでも、彼女に向ける俺の声は、かつて受付窓口で話していた時と同じように、穏やかになるよう努めた。
晴香さんは震える手で目元の涙を拭うと、大きく一つ頷き、俺が差し出した手をとった。
背後からは、気絶した天狼を取り囲むように、結界が解除されたことで突入してきた警察やギルド査察官たちの怒号が響いている。
だが、俺は一度も振り返ることなく、光の差し込むダンジョンの出口へと向かって歩き出した。
俺たちが去った後の廃墟エリアには、ドローンのカメラだけが静かに宙に浮き、この「伝説の始まり」とも言える結末を、世界の五百万人の視聴者へと映し出し続けていた。




