第28話
千葉ダンジョンのエントランスを抜けると、外はすでに完全に日が暮れていた。
涼しい夜風が、血と泥にまみれた俺の頬を撫でる。
俺たちが地上へと帰還する頃には、ダンジョン周辺はすでに警察車両とギルドの重装甲車、そして大量のメディアのフラッシュで埋め尽くされていた。
天狼聖と、彼に癒着していた千葉支部長の逮捕。
五百万人の同接を記録した「オレンジ色の死神」による一方的な蹂躙劇。
世界を揺るがすその大事件の中心にいた俺たちだったが、俺は騒ぎになる前に、混乱に乗じてひっそりとギルドの裏口から抜け出していた。
「……送るのは、ここまでで大丈夫ですか?」
人気の少ない裏路地で、俺は隣を歩く晴香さんに声をかけた。
晴香さんは立ち止まり、俺の方へと向き直る。
彼女は深く、深く頭を下げた。
「井藤さん。本当に……本当に、ありがとうございました。あなたが来てくれなかったら、私、今頃どうなっていたか……」
「……謝らなければならないのは、俺の方です」
俺は晴香さんに向かって、静かに頭を下げた。
「俺の天狼への復讐に、無関係なあなたを巻き込んでしまった。本当に申し訳ありませんでした。それに、俺が理不尽な泥水をすすっていた時に、唯一温かいコーヒーを淹れてくれたのは、晴香さんだけでしたから。あなたを助けるのは当然のことです」
頭を上げ、晴香さんの顔を見つめる。復讐に血道を上げる俺の冷えた心に、目の前の彼女の無事な姿が、確かな温度を運んでくれるのを感じていた。
晴香さんは涙ぐみながら、真っすぐに俺の目を見つめ返してきた。
「私、決めました。……これからは私が、あなたの背中を支えます」
「え?」
「あなたはきっと、これからも一人で無茶をして、傷ついてしまうから。だから、専属のマネージャーとして……いえ、あなたの『仲間』として、私が全力でサポートさせてください!」
その力強い言葉に、俺は思わず言葉を失い、わずかに目を見開いた。
これまで誰からも「使い捨てのゴミ」や「石ころ」としてしか扱われてこなかったこの俺に、初めて向けられた真っ直ぐな『信頼』。
俺はふっと、憑き物が落ちたように小さく笑みがこぼれるのを感じた。
「……ありがとうございます。晴香さん」
それは、最弱のポーターだった俺が、生まれて初めて『味方』を得た瞬間だった。
*
同時刻。
五百万人の同接という歴史的快挙は、ギルドの上層部だけでなく、様々な界隈の「大物」たちの目にも留まっていた。
都内の高級タワーマンションの一室。
ダボダボのパーカーから豊満な胸と太ももを覗かせた、登録者数ナンバーワンのトップVTuber『星宮キラキ』は、モニター越しに九朗の圧倒的な暴力を見つめ、口を半開きにしていた。
「え、何このオレンジの人……強すぎて草超えて森超えて……宇宙なんだけど!」
さらに、西新宿のペントハウス。
世界最大のダンジョン資源開発企業を束ねる財閥令嬢、セシリア・西園寺は、胸元の大きく開いた高級スーツ姿で、ワイングラスを揺らしながら優雅に微笑んでいた。
「天狼の結界を物理的に粉砕する脚力……それに、あの身のこなし。間違いありませんわ。彼は『規格外』の宝の山ですわ。どんな手を使ってでも、私の専属に引き抜いて差し上げますわ」
透き通るような青い瞳に、強い独占欲と野心が燃え上がる。
そして、日本の首都・東京の中央にそびえ立つ、冒険者ギルド世界総本部・最上階。
巨大な円卓を囲むように、世界中のトップランカーや各国のギルドマスターたちが、ホログラム通信を通じて緊急会議を開いていた。
『……信じられん。たった一人で、B級上位の天狼と五十人の精鋭を無傷で制圧しただと?』
『それに、このオレンジスーツの男の動き……完全に「人間」の域を超えている。』
『ただちに彼の身元を特定しろ! 我が国のギルドに引き抜くのだ!』
世界が「井藤九朗」という存在を巡って、かつてないほどの熱狂と混乱の渦に飲み込まれようとしていた。
*
——そして、その熱狂の陰で、静かに蠢く『悪意』があった。
東京の地下深く。一般の地図には存在しない、極秘の生体研究所。
薄暗い部屋のモニターに、九朗が天狼を圧倒する映像が繰り返し再生されていた。
革張りの椅子に深く腰掛けた白衣の男——、御堂鋼一。
「素晴らしい……。あの時のパッチテストで『不適合(ERROR)』の烙印を押された不良品が、まさかこれほどまでに完璧な『変異』を遂げるとはな」
モニターの中で、ストロボ・リープを発動し、結界のコアを粉砕する九朗の姿。
それは、鋼一が長年追い求めてきた「人間の限界を超える生体実験」の、究極の成功例だった。
かくして、最弱のポーターだった俺は、底辺から世界を揺るがす配信者としてその第一歩を踏み出した。
この力(ERROR)が、いずれさらなる巨大な闇を引き寄せることになるかもしれない。だが、俺の決意が揺らぐことは、もう二度とない。




