第26話
千葉ダンジョンの薄暗い廃墟エリア。
瓦礫と泥水、そして五十人のならず者たちがうめき声を上げる地獄の中心で、天狼聖の瞳は焦点が定まらず、口元が痙攣していた。
奴の安いプライドが砕け散ったことは明白だった。
だが、怯えて後ずさる天狼の視線が、俺の身体を舐め回すように動く。
先ほどまで俺の全身から立ち昇っていた、あの異常な因子が霧散している。おまけに俺はわずかに肩で息をしており、自分でも疲労を感じていた。
(そうか……! あの異常なスピードと力は、何かの使い捨て魔導具か、一時的なバフスキルだったんだ! しかも反動が来ている!)
天狼の顔に、下劣な歓喜の笑みが戻る。
奴の目論見は手にとるようにわかった。ここで俺を殺せば、すべては闇の中だとでも思っているのだろう。
「は、ははははっ! 馬鹿め、調子に乗って力を使いすぎたな! 今のお前なんざ、俺の敵じゃねぇぇっ!」
天狼は泥水の中から愛剣を拾い上げ、B級上位冒険者としての全ステータスを解放して地を蹴った。
九朗の首筋へと、容赦なく鋭い袈裟斬りが振り下ろされる。
だが。
「ステータスに頼りきった大振りな剣だ。……お前の剣術は、俺には当たらない」
九朗は、天狼の刃を半歩のステップだけで躱した。
そして、流れるような体捌きで天狼の懐へと潜り込む。
「なっ……!?」
黒い短剣で天狼の剣の腹を的確に叩いて軌道を逸らし、がら空きになった手首の関節を正確に蹴り上げる。
「がはっ……!?」
剣を弾き飛ばされ、体勢を崩した天狼の顔面へと、俺は強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
鼻梁が砕ける鈍い音。天狼は血を噴き出しながら無様に転がり、泥水の中に顔から突っ込んだ。
ステータスに頼りきり、安全圏からしか攻撃してこなかった偽りの英雄と、最弱のまま泥水の中で生き抜いてきた俺。その純粋な「フィジカルと経験の差」が、残酷なまでに露呈した瞬間だった。
「ひっ、ひぃぃぃ……ッ!」
戦う意志を完全にへし折られた天狼は、尻餅をついたまま無様に後ずさる。
B級冒険者としての矜持など、とうの昔に消え失せていた。
「ま、待ってくれ! 謝る! 俺が悪かった!」
天狼は震える手で泥水に額を擦りつけるようにして土下座した。
かつて九朗の顔面を踏みつけ、ポーターを盾にして生き延びた男の、あまりにも見苦しい命乞いだった。
「金ならある! 五億の違約金を払ったことにして、支部長と一緒に裏で隠蔽した隠し資産がたっぷりあるんだ! お前を殺すために雇ったこの連中の報酬も、この違法な結界の代金も、全部お前にやる! 倍……いや、三倍払う! だから命だけは——ッ!!」
「……ペラペラと、よく喋る男だ」
俺は、天狼の懇願を冷酷な瞳で見下ろしていた。
手には抜刀された『特殊機巧双短剣』が握られたままだ。許すつもりなど毛頭ない。
「俺が欲しいのは、お前が隠し持っている裏金じゃない。晴香さんを巻き込んだ『慰謝料』だ。……お前の命以外に、それで清算できるものがあるのか?」
黒い短剣の切っ先を、天狼の喉元に突きつける。
ヒィッ、と天狼の喉から情けない悲鳴が漏れた。
*
『——ふふっ。完璧な自白、録音れましたよ。九朗様』
不意に、俺のARコンタクトに暗号化された通信が入った。詩音の声だ。
視界の隅に小さなポップアップウィンドウが展開され、そこには俺と天狼の姿が「完璧なカメラアングル」で映し出されていた。
頭上でホバリングしている天狼のドローンカメラが、いつの間にか詩音によって完全にハッキング(乗っ取り)されている。
『泥水の中で命乞いをして、自分の余罪を全部暴露する元英雄……。あはは、最高のコンテンツじゃないですか』
「詩音。……まさか」
『ええ。もう全部、世界中に【ライブ配信中】です』
詩音の狂ったような笑い声と共に、ARコンタクトの視界に、大手動画配信プラットフォームのコメント欄がオーバーレイ表示された。
その信じられない滝のような流速に、俺は思わず目を細めた。
『通知:大炎上中の【白銀の天剣】天狼聖の「現在」がライブ配信中です』
詩音がプラットフォームのアルゴリズムを強制ジャックし、世界中の端末に無理やり通知を送りつけたらしい。
俺の視界の中で、コメントが弾幕のように流れ続ける。
「は? なんだこれ。天狼が土下座して泣いてるぞ?」
「待って、その後ろに転がってるのって……PK部隊じゃないか!?」
「全員血まみれで倒れてる……嘘だろ、あいつら五十人近くいるぞ!」
「おい、天狼に剣を突きつけてるあのオレンジ色のスーツ……!」
「あれ、前の炎上動画で天狼に囮にされてた『ポーター』じゃないか!?」
「なんであいつが生きてるんだよ!」
「ていうか、あのポーターが天狼と五十人のPK部隊を全滅させたってことか……!?」
画面端の視聴者カウンターが、配信開始からわずか数分で百万を突破していた。
その数字は今なお天文学的な勢いで膨れ上がっている。
ただのポーターだと思われていた俺が、B級上位冒険者とその軍勢を文字通り「一人で」圧倒しているという現実。
そして何より、自分を囮にした卑劣な英雄に対して、圧倒的な暴力で慰謝料の取り立てを行っているという、ダークでカタルシスに満ちた構図。
世界中の人間が、画面越しの俺から目を離せなくなっていた。
「ひっ、許してくれ、井藤! 俺が間違っていた! 心から謝罪する! お前は素晴らしい冒険者だ、俺のパーティの副リーダーにしてやる! だから——」
現実の目の前で、天狼が涙と鼻水にまみれた顔で俺の靴にすがりついてくる。
俺は一切の感情を交えずに、その顔面を容赦なく蹴り飛ばした。
「がはっ……!?」
天狼の身体が泥水の中を無様に転がる。
「お前の謝罪に、一ゼニーの価値もない」
俺の冷たい声が、乗っ取られたドローンのマイクを通じて全世界のスピーカーへと響き渡る。
名声と富をほしいままにしていた偽りの英雄が、最弱のポーターによって完全に『処刑』された瞬間。
コメント欄は、かつてないほどの熱狂と歓喜の渦に包まれていた。
『やっちまえ!!』
『天狼ざまぁぁぁぁっ!!』
『最高に狂ってやがる! このポーター、マジで何者だよ!?』
『同接三百万超えたぞ! 世界記録だ!!』
『ああ……最高ですよ、九朗様! 世界中が、あなたの力に、あなたの残酷さに、熱狂してる……!』
インカム越しに、詩音のエクスタシーに震える声が響く。
彼女の独断と狂信によって引き起こされた、全世界への『ゲリラ初配信』。
それは、「最弱職のポーター」が、名実ともに世界一の配信者として産声を上げた瞬間だった。




