第23話
ギルド千葉支部の一階。
忙しく冒険者たちが行き交うロビーで、ひときわ周囲の目を引く白銀の鎧があった。
『白銀の天剣』のリーダー、天狼聖である。
彼は甘いマスクに爽やかな笑みを浮かべ、受付カウンターに立つ新人受付嬢、晴香に声をかけていた。
「——というわけで、今日これからダンジョン上層で行うPR撮影に、ギルドの公式な立会人として君に同行してもらいたいんだ」
晴香は困惑して目を瞬かせた。
「えっ……わ、私ですか? でも、私はまだ新人ですし、探索や戦闘の訓練などは一切受けていないのですが……」
「心配はいらないよ。場所は完全に安全が確保されたエリアだし、何より僕たちが君を全力で守るからね」
天狼は、まるで熱心なファンに向けるような甘い声で囁く。
「それに、これは支部長からの強い推薦でもあるんだ。君のいつも丁寧で真摯な接客態度は、ギルドのイメージアップにぴったりだとね。君にとっても悪い話じゃないはずだよ?」
「そ、そんな、支部長が……」
晴香は迷った。
確かにB級パーティからの直接の指名であり、支部長の名前まで出されては、一介の新人受付嬢に断る権限などない。
だが、晴香の胸の奥には、拭いきれない不安と不信感があった。
天狼聖という男は、先日拡散された動画によって「ポーターを囮にして逃げた卑劣漢」として社会的に大炎上している最中だ。にもかかわらず、支部長が裏金などの癒着で彼を庇うようにギルドのPR撮影を強行しようとしていること自体が、ひどく不自然で気味が悪かったからだ。
それに、晴香にはもう一つ、気にかかっていることがあった。
(……井藤さん、大丈夫かな)
先日、ダンジョンから奇跡的な生還を果たし、恐ろしいほどの力でモンスターを圧倒する動画が世界中に拡散された彼。
無事に帰還し、借金からも解放されたはずの彼だが、あの血に濡れた動画の中で見せた、全てを壊してしまいそうなほど冷たく暗い瞳が、晴香の脳裏に焼き付いて離れなかった。
いつも傷だらけで、それでも誰に対しても丁寧な敬語を崩さない不器用な彼が、どこか引き返せない危険な暗闇へと向かってしまっているような気がしてならないのだ。
晴香がそんな心配をしていることなど露知らず、天狼は急かすように晴香を促した。
「さぁ、行こうか。素晴らしい撮影になること、僕が保証するよ」
「……分かりました。お供させていただきます」
晴香が頭を下げてカウンターを出た瞬間。
天狼の瞳の奥に、獲物を罠に掛けた狡猾で下劣な光が宿ったことを、彼女は知る由もなかった。
*
同時刻。ダンジョン中層付近。
薄暗い岩穴の中、俺は自身のステータス画面を虚空に呼び出し、確認していた。
アーマード・オーガやブラッド・ハウンドの因子を『生ドーピング』として体内に蓄積した結果、俺の身体能力は一時的に常軌を逸した領域へと跳ね上がっていた。だが、これは時間制限のある借り物の力だ。無駄な戦闘は避け、リソースの消耗を抑えなければならない。
そう分析していた、その時。
耳元のインカムから、いつもは平坦な詩音の声が、わずかに緊迫感を帯びて響いた。
『——九朗様。緊急事態』
「どうした、詩音」
『天狼が動き出したよ。奴はご自身の莫大な個人資産を裏ルートに流し、借金まみれのB級・A級下位のならず者たちを、五十人規模で雇い入れた。さらに、空間と通信を完全に遮断する違法魔導具『空間封鎖結界』まで手配済み』
詩音の報告を聞いても、俺の表情はピクリとも動かなかった。
「五十人の兵隊に、逃げ場をなくす結界か。俺を確実に殺すために、随分と金と手間をかけたな」
俺は冷静に頭を動かす。数の暴力と結界による退路の遮断。正面から力任せにやり合うのは馬鹿のすることだ。だが、ダンジョンを知り尽くしたポーターとしての目で見れば、その包囲網にはいくらでも綻びがある。
「逃げ場のない結界ということは、奴らもそこから逃げられないということだ。地形を使い、ヘイトを操れば、五十の軍勢などただの邪魔な障害物でしかない」
『問題は別のとこ』
「なに?」
『天狼は、九朗様を確実にその結界の中に誘い込むための『極上のエサ』を用意した』
「エサ……?」
『はい。つい先ほど、ギルドの受付嬢である雨宮晴香が、天狼たちのパーティに連れ出された。名目はギルド公式のPR撮影だけど……行き先は、結界が張られる予定の第八階層の廃墟エリアです』
ピタ、と。
俺の足が完全に止まった。
血に濡れたオレンジスーツの奥で、俺の心臓が、これまでとは全く違う嫌な音を立てて跳ねた。
——『お疲れ様でした! お怪我はありませんでしたか?』
——『温かいコーヒー、淹れておきましたから。少し休んでくださいね』
誰もが俺を「不適合者の石ころ」や「使い捨てのモノ」として扱い、泥水をすすらされてきた理不尽な日々。
すれ違う誰もが俺を見下し、嘲笑うだけの世界で。
彼女だけが、ただ一人、俺を「人間」として扱ってくれた。
たった一杯の、紙コップに入ったインスタントの温かいコーヒー。そして、心からの労いの言葉。
それは、家族を失い、復讐のためだけに生きてきた暗闇のような俺の日常における、唯一の細い光だった。
「……詩音」
俺の声のトーンが、一段、いや、底知れない深淵の底まで落ちた。
それは感情に任せた怒りではない。胸の奥が急速に氷結していくような敵意だった。
『九朗様』
「現在地から、第八階層の廃墟エリアへの最短ルートを出せ。余計なモンスターはやり過ごしつつ、一時バフの最高速度で突っ切る」
『……天狼の罠だと分かっていても、行くの?』
「俺は、俺を人間扱いしてくれた恩人を見捨てるほど、腐りきっちゃいない」
俺は両手に『特殊機巧双短剣』を強く握り直した。ギリッと、奥歯が砕けそうなほどの力で噛み締める。
俺の中にあった「天狼への復讐」という目的が、今は完全に「晴香さんの救出」へと切り替わっていた。
自分を罠にハメたことはいい。自分を侮辱し、蹴り飛ばしたことも、今の時点ではどうでもいい。
だが、自分に向けられた薄汚い悪意に、あの無垢な晴香さんを巻き込むことだけは、絶対に、絶対に許さなかった。
「あのゴミ野郎……その汚い罠ごと、底無し沼に沈めてやる」
ドンッ!!
爆発的な踏み込みと共に、俺の姿が音の壁を突き破り、迷宮の闇の奥へと消えた。
*
一方その頃。
現実世界の薄暗い自室。壁一面に配置されたモニター群の中心で、詩音は九朗の生体データがかつてないほどの数値を叩き出しているのを見て、うっとりとしたため息を漏らしていた。
「ああっ……素晴らしいわ、九朗様。誰かのためにそこまで本気で怒れるなんて。貴方は本当に、どこまでも気高くて、強くて、美しい……」
画面には、天狼が購入した『空間封鎖結界』のシステム構成図や、彼が持ち込んだ自作自演配信用のドローンカメラのハッキングコードが、凄まじい速度で流れていた。
九朗が望むのは、ただ晴香さんの救出のみ。己の力を誇示することなど、あの方は微塵も考えていないはずだ。
だが、詩音の目的は違う。
彼女は、愛する九朗の圧倒的な美しさと強さを、そしてあの方を虐げてきた世界の腐敗を、すべて白日の下に晒すつもりだった。
「天狼。貴方は九朗様の強さを知らないから、あんなくだらない罠を張るのよ」
詩音は冷たい笑みを浮かべ、キーボードを叩く速度を上げる。
「自分が『英雄』としてモンスターを討伐する姿を全世界に見せびらかしたくて、結界のシステムにわざわざ『配信用の通信の抜け穴』を空けておくなんて。これほどハッキングしやすいお粗末な罠はないわね。自己顕示欲が自身の首を絞めるなんて、まさに三流の悪党にお似合いの末路よ」
詩音の漆黒の瞳に、狂気じみた愉悦の光が宿る。
彼女は誰にも知られることなく、一つの『新規チャンネル』を開設した。
誰も知らない、しかしもうすぐ世界中の視線を集めることとなる真っ白な画面。
「九朗様はただ、お好きなように蹂躙して。後のことは、私がすべて完璧にプロデュースしてあげるから」
それは、世界を揺るがすこととなる異常な配信が、一人の天才ハッカーの独断と、狂信的な愛によって産声を上げた瞬間だった。
「さあ、始めましょう。世界で一番残酷で、最高に熱狂的なエンターテインメントを」




