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第21話

 S級冒険者・乾顕宗の背中が完全に迷宮の闇に溶け込み、その気配が途絶えてから数分後。

 張り詰めていた空気がようやく緩み、俺はその場にどさりと座り込んだ。


『九朗様! 肩の傷、かなり深いよ! すぐに止血と回復薬ポーションを投与して!』


「……ああ。分かってる」


 肩の傷口から『狂血』の棘を引き抜き、インベントリから取り出した上級ポーションを惜しげもなく振りかける。シュゥゥという音と共に肉が再生していくが、失った血と極限の集中による疲労は、そう簡単に拭えるものではなかった。

 乾顕宗——あれは、間違いなくこれまで出会った中で最強の「理不尽」だった。


「ストロボ・リープ……か。急造の戦術にしては、うまく機能してくれた」


『ええ。九朗様の音速の機動力と、ミリ秒単位の視覚破壊のコンビネーション。あのバケモノの直感を狂わせたのは、間違いなく九朗様の戦術の勝利ね。……でも、本当に生きた心地がしなかったわ』


 通信越しに響く詩音の声は、安堵で微かに震えていた。

 小さく息を吐き、改めて周囲を見渡す。

 そこは、血の池と化した地獄絵図だった。乾との激戦の痕跡だけではない。その前に俺自身が『性能テスト』と称して挽肉に変えた、3体のアーマード・オーガと15匹のブラッド・ハウンドの残骸が、辺り一面に散乱している。


「……さて。死闘の余韻に浸るのは終わりだ。ここからは失ったリソースの『現地調達』といくか」


 立ち上がり、血だまりの中を歩いて、巨大なアーマード・オーガの死骸の前に立つ。

 分厚い胸甲を力任せに割るのではなく、関節の接合部と装甲の隙間を的確に見極め、双短剣の刃を滑り込ませて抉り開ける。ポーターとして幾度となく魔獣を解体してきた手際は、自分でも呆れるほど無駄がなかった。

 最も色濃く因子が宿る赤黒く脈打つ『心臓』を素手で掴み出すと、続けて周囲に転がるハウンドの死骸からも、次々と心臓や新鮮な肉塊を切り出していく。


『お掃除屋さんが用意してくれた、A級とB級の特上コースだね』


「ああ。乾の言う通り、俺の基本スペックは低すぎる。これから迫る天狼たちを確実に屠るためには、手段を選ばず『燃料』を限界まで補給しておく必要があるからな」


 手にしたオーガの生の心臓を、躊躇いなく口に放り込む。

 ゴクリ、と喉を鳴らして飲み込んだ。

 通常の冒険者であれば、他者の生の因子を体内に取り込むと、因子濃度が上昇し一時的にバフがかかるものの、『因子排斥(拒絶反応)』によって全身の細胞が内側から破裂して死亡する。彼らが安全に強くなるには、地道に体を鍛えるか、ギルドに大金を払い、限界まで無害化・希釈された「強化血清ドーピング」をチビチビと打つしかない。


 だが、俺の【ERROR】は、その絶対の法則を完全に無視する。


『対象の完全沈黙、及び因子の吸収を確認。未解析因子の吸収率、100パーセント』

『生体データを更新したよ。九朗様に【一時バフ(超強化状態)】が付与されたわ』


 ズンッ……!!


 俺の身体が、一瞬だけ青白い光に包まれた。

 直後、致死量の劇薬を打ち込まれたかのような、心臓が爆発しそうなほどの奔流が全身の血管を駆け巡る。筋肉の繊維一本一本がミシミシと音を立てて再構築され、乾戦で負った疲労やダメージすらも、圧倒的な生命力の波に飲み込まれて消え去った。


「……ふぅ」


『信じられない……。オーガとハウンドの因子が、一切の拒絶反応なしに九朗様の細胞と同化してる。イレギュラーじゃないから永続的な成長には繋がらないけど、これだけの高濃度因子を蓄えれば、一時的な超強化バフの出力と持続時間は桁違いよ。文字通りの、極悪な『生ドーピング』だね』


 呆れたような詩音の報告を聞きながら、俺は残る心臓や肉塊を次々と胃袋へと流し込んでいく。

 スキルを獲得できる『イレギュラー』ではないため、新たな能力が発現することはない。だが、18体分もの上位魔獣の因子を丸ごと取り込んだ俺の身体は、破格の出力と長時間持続する超強化バフ状態に突入していた。長丁場の探索における「極限のリソース管理」を強いられてきた身からすれば、これ以上ない極上の補給だ。


「……とはいえ、借り物の力だ。激しく動いて因子を消費し尽くせば、いずれバフは切れる」

『ええ。もって数時間、激しい戦闘になればもっと早く切れるかもしれないわね』

「十分だ。それまでに全て終わらせる」


「これで、準備は整った」


 血に濡れた口元を手の甲で拭い、冷たい視線を上方へと向けた。

 乾の乱入によって、監視をしていた『掃除屋』たちは悲鳴を上げて逃げ去った。彼らは今頃、雇い主である天狼聖のもとに泣きつき、俺がいかに規格外の化け物であるかを報告しているはずだ。


「天狼は、自身のプライドと保身のためなら何でもする男だ。プロの暗殺者が逃げ帰ったと知れば、逆恨みと恐怖で冷静さを失い、自らの手で俺を始末しに動く」


『ええ、その通りだよ九朗様。すでに掃除屋たちの通信端末の追跡は完了してるわ。彼らは現在、ギルドの裏ルートを通って、ダンジョン上層へと移動中。おそらく、天狼と合流してもう一度こちらへ向かってくる気ね』


 詩音の言葉に、俺は目を細める。

 この迷宮ダンジョンの構造、敵の現在地、そして戦力。そのすべてを、俺と詩音は完全に掌握している。

 もはや天狼は、狩人などではない。俺という捕食者が張り巡らせた「見えない蜘蛛の巣」のど真ん中へと、自ら進んで飛び込んでくる惨めな獲物でしかなかった。


「……来い、天狼。因縁の精算をしてやる」


 新調したアッシュグレーのジャケットについた血を払い落とし、俺は暗い迷宮の奥へとゆっくりと歩き出した。

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