第2話(5/19大幅改稿)
泥を蹴り飛ばし、俺は真っ直ぐに怪物の懐へと飛び込んだ。
先ほどまでのような、重い荷物に押し潰されるような感覚はない。全身の筋繊維が爆発的なバネのように躍動し、景色が引き延ばされたように後方へとすっ飛んでいく。
——ギシャァァァァッ!!
俺の異常な踏み込み速度に反応し、グリム・ウィーバーが奇声を発した。
直後、空気が「ヒュンッ」と鳴る。
本能が強烈な死の危険を告げた。俺は咄嗟に身を屈め、泥水の上を滑るようにスライディングする。
パキンッ、と。
俺が直前まで首を置いていた空間を通り過ぎた『何か』が、背後の太い鍾乳石に触れた瞬間——分厚い岩石がまるで豆腐のように音もなく両断され、ズズンッと崩れ落ちた。
(……糸、か)
血まみれの顔を上げ、俺は目を細めた。
バケモノの口から吐き出された、目に見えない極細の鋼糸。
それが今、この空間全体にレーザーセンサーのように張り巡らされていた。普通の冒険者なら、一歩でも動けば細切れの肉片に変わる、初見殺しの即死トラップだ。
だが、今の俺にはそれが見えた。
一時的なバフによって異常発達した視神経が、極細の糸に反射するわずかな洞窟の光の瞬きを、ハッキリと捉えている。
「随分と、セコい真似をするな」
俺は低く笑い、再び地を蹴った。
張り巡らされた即死の檻の中を、俺は重力と関節の可動域を無視したような異常な体術で潜り抜けていく。上体を反らし、首を捻り、地面スレスレを這うようにして、ミリ単位の隙間を猛スピードですり抜ける。
——ギィ……ッ!?
初見殺しのトラップを何事もなかったかのように突破してくる俺に、グリム・ウィーバーが明らかな焦りの声を上げた。
バケモノは糸を諦め、残された無傷の右の鎌を大きく振り被った。
その刃の表面から、シュウシュウと不気味な煙が立ち上っている。触れたものを瞬時にドロドロに溶かす、猛毒の腐食の鎌だ。
空気を溶かしながら、死の刃が俺の頭蓋に向かって振り下ろされる。
避ける余裕はない。
俺は、右腕の筋肉を限界まで収縮させ、鋼鉄以上の密度へと硬化させた。
「邪魔だッ!!」
防御などしない。俺は下からカチ上げるようにして、腐食の鎌の腹に向かって素手で強烈な裏拳を叩き込んだ。
——メキャァァァァッ!!
硬質な装甲が砕け散る甲高い音が、洞窟に響き渡る。
腐食の毒が俺の皮膚を焼くよりも早く、最適化された俺の異常な筋力がバケモノの鎌を粉々に打ち砕いていた。
バランスを崩し、大きくよろける巨大な体躯。
完全にガラ空きになった胴体。
俺はそのまま踏み込み、バケモノの胸郭に深々と拳をめり込ませようとした——その時だった。
『ピロリンッ』
極限の集中状態にあった俺のAR視界の端に、唐突に半透明のウィンドウがポップアップした。
それは、外部からの通信やシステムエラーではない。
『嘘だろ、見えない糸を避けてるぞ!?』
『高ランク魔物のカマを素手で折りやがった!?』
『待って、こいつ天狼のパーティの荷物持ちだろ? なんで!?』
『こいつ、笑ってやがる……!』
滝のように流れていく、大量のテキスト。
見覚えがある。これは——『配信のコメント欄』だ。
(……なるほどな)
視界の隅で、空中に浮かぶ小さなドローンカメラが俺の顔を執拗にズームしているのが見えた。
天狼が置いていった『サブチャンネル用』の予備ドローンだ。
あのクズは俺を囮にする際、わざわざ俺のARコンタクトをサブチャンネルの配信枠に強制同期させていたのだ。底辺のポーターがバケモノに怯え、泣き叫ぶ無様な死に様を、悪趣味な裏の視聴者たちに特等席で見せ物にするために。
だが天狼の思惑から外れ、生き残った俺をホストとして認識し続けたこのサブチャンネルは、今や尋常ではない勢いで世界中に拡散されているらしい。
天狼の悪趣味な設定が、完全に裏目に出たというわけだ。
『やばい、かっこよすぎる!』
『行けえええええええ! 殺せえええええ!』
『オレンジスーツの兄ちゃん、名前教えてくれ!!』
つい数分前まで、俺の血みどろの姿を見て「汚い」だの「無能」だのと嘲笑っていた視聴者どもが、今は手のひらを返したように熱狂し、俺の暴力をエンタメとして消費し、持て囃している。
画面の向こう側の、安全圏にいる無責任な連中。
俺の家族を見殺しにした、この腐った世界の象徴。
「……反吐が出るな」
俺はARに流れる熱狂的なコメントの数々を、心底見下したような、冷ややかな眼で一瞥した。
誰の期待にも応えるつもりはない。誰を楽しませるつもりもない。
ただ、邪魔な敵を完膚なきまでに叩き潰すだけだ。
「おい、余所見してやったぞ。どうした、反撃してこないのか?」
俺はドローンから視線を外し、両鎌を折られて震えるバケモノへと向き直る。
その瞳に宿るのは、理不尽な世界への怒りと、底なしの殺意だけだった。
「——さあ、第2ラウンドだ」




