第2話:届かない復讐と、唯一の光
冒険者ギルド本部の一階ロビーは、まるで異国の超高級ホテルのエントランスのように煌びやかだった。
磨き上げられた大理石の床に、開放感のある吹き抜けの天井。壁面に設置された巨大なホログラムモニターには、その日最も稼いだ『人気配信者ランキング』や、大手企業によるスポンサー広告が華やかに映し出されている。
ここは、一握りの成功者たちが富と名声をひけらかし、大衆がそれに熱狂するための場所だ。
「きゃーっ! 天狼さーん! こっち向いて!」
「今日の配信も最高でした! 雷光のタイミング、神がかってましたね!」
「天狼さん、大手ポーションメーカーとの専属契約の噂について一言お願いします!」
ロビーの中心では、討伐報告を終えたばかりの『白銀の天剣』のメンバーたちが、熱狂的なファンとメディアのカメラに囲まれていた。
リーダーの天狼聖は、オーダーメイドの白銀の鎧を煌めかせながら、カメラに向けて爽やかな営業スマイルを振りまいている。彼の後ろでは、取り巻きの魔法使いや剣士たちが鼻高々に胸を張っていた。
彼らにとって、ダンジョン探索は命がけの戦いなどではない。自分たちの承認欲求を満たし、莫大な富を稼ぐための「ファンミーティング」に過ぎないのだ。
そんな光り輝く狂騒の空間の片隅を、壁を這うようにして歩く影があった。
井藤九朗だ。
分厚いオレンジ色の科学耐性スーツは、モンスターの血と泥に塗れ、ひどい悪臭を放っていた。彼が通るたび、きらびやかな装備に身を包んだ冒険者たちや、着飾ったファンたちは露骨に顔をしかめる。
「うわ、ポーターかよ。こっち来んな、臭えな」
「あんな底辺の不適合者、裏口から回せばいいのに。せっかくの天狼さんの空気が汚れるわ」
「しっ、見ないの。ああいう負け組と目が合うと運が下がるわよ」
向けられるのは、蔑視と嫌悪。モーゼの十戒のように、九朗の進む道だけがサッと開けていく。
だが九朗は何も言わず、深く俯いたまま、ただ無言で歩みを進めた。スーツのヘルメットの奥で、無機質な視線だけを足元に落としている。彼にとって、この無遠慮な罵倒はもはや日常のBGMでしかなかった。
重い足取りで裏口近くの買取カウンター——ポーターたちが死骸(素材)を納品する地味な窓口——へ向かうと、そこには一人の女性が立っていた。
「九朗さん、今日もお疲れ様です。……お怪我はありませんでしたか?」
彼女の名前は雨宮晴香。
ギルドの受付嬢である彼女は、この冷たい場所で唯一、九朗を「石ころ」ではなく「人間」として扱ってくれる存在だった。
栗色のふんわりとしたミディアムヘアーに、少し垂れ目がちな優しい瞳。彼女が身にまとっているギルドの公式制服は、九朗のオレンジスーツとは正反対の洗練されたデザインだが、彼女の豊満な胸元のせいか、ブラウスのボタンがいつ弾けてもおかしくないほどタイトに引き伸ばされていた。
「……ええ、大丈夫です。問題ありません。今日の納品リストはここに」
「そんな、大丈夫なわけないじゃないですか。ほら、ヘルメットのバイザーにヒビが入ってますし、足も引きずって……ちょっと待っててください」
晴香は慌てた様子でカウンターの奥に引っ込むと、救急箱と、一本の温かい缶コーヒーを持って戻ってきた。
周囲の目を盗むようにして、彼女の細く白い手が、泥に塗れた九朗の分厚い耐性グローブの上に缶コーヒーをそっと押し付ける。
「あそこの天狼さんのパーティ、最近ポーターにすごく無茶なことさせてるって噂で聞きました。ギルドの監査部にクレームを入れましょうか? 私、匿名で書類書けますよ」
眉を下げる晴香に、九朗は小さくかぶりを振った。
「お気持ちだけで十分です。クレームを入れたところで、上位冒険者(カースト上位)の彼らが罰せられることはありません。むしろ、告発した者が仕事を干されるだけです。……私は、生きていくためにお金が必要なので」
「……でも、九朗さんがボロボロになっちゃうのは、私、見ていて辛いです」
「ご心配には及びません。慣れていますから。……コーヒー、いただきます」
九朗は短くそれだけ言うと、逃げるようにカウンターを後にしようとした。
彼女の優しさは、九朗にとって唯一の光だった。だが、今の自分にはその光すらも眩しすぎる。何も持たない、才能の器が空っぽの無力な自分が、彼女の好意に応えられるはずがなかった。
「あっ、九朗さん、待ってください!」
背中を向けた九朗を、晴香の切羽詰まった声が引き止めた。
九朗が振り返ると、彼女は周囲を気にしながら、声を潜めて言った。
「あの……ギルドの掲示板に、新しい『パッチテスト』の被検体募集が張り出されたんです。九朗さん、以前も適合試験を受けて、ダメだったって言ってましたよね……?」
「……ええ。私の体は『ドラゴンの血』を受け入れる器がない、完全な不適合者だと診断されました。二度と受ける資格はないはずですが」
「今回は違うんです。海外の深層で発見された『新種のドラゴン』の血を使った、特殊な臨床試験らしくて。……ただ、これ、絶対に推奨はしません。報酬は桁違いに高いんですけど……死亡率が、異常に高いんです。拒絶反応で細胞が崩壊して、確実に死ぬって言われてて……」
晴香は「だから絶対に申し込まないでくださいね」と念を押すつもりだったのだろう。
だが、九朗のヘルメットの奥の瞳は、その言葉を聞いた瞬間、獲物を見つけた獣のように鋭く細められた。
「新種の血……死亡率が異常に高い、ですか」
「は、はい。だから九朗さんは絶対に——」
「貴重な情報をありがとうございます、雨宮さん」
九朗は深く一礼すると、今度こそ足早にその場を立ち去った。
残された晴香は、彼の背中から漂う、これまで見たこともないような切迫した空気に、思わず息を呑んだ。
* * *
深夜。
ギルド本部から遠く離れた、第十三地区のスラム街の一角にあるボロボロの安アパート。
隙間風の吹き込む四畳半の部屋で、九朗はようやく分厚いオレンジスーツを脱ぎ捨てた。
「……ッ、痛ぇな」
洗面台のヒビ割れた鏡に映った自分の体を見て、九朗は自嘲気味に息を吐く。
痩せこけた体には、今日オークの死骸を背負わされてできた新しい擦り傷と、天狼に蹴り飛ばされた時にできたドス黒い青痣がくっきりと残っていた。
それだけではない。過去数年間の過酷な労働で負った無数の生々しい傷跡が、彼の肌をキャンバスのように覆い尽くしている。
九朗はベッドの端に腰掛け、晴香から貰った缶コーヒーのプルタブを開けた。一口飲むと、微糖の甘さと温かさが、冷え切った内臓にわずかに染み渡っていく。
ふと、九朗の視線が壁の一点に吸い込まれた。
色褪せた壁紙に、画鋲で一枚の古い新聞記事が留められている。
『第十三地区・ダンジョン魔群氾濫事件——犠牲者多数』
数年前、突如としてダンジョンの結界を破り、モンスターが地上へ溢れ出した未曾有の災害。
九朗はその事件で、両親と幼い妹を一度に失った。
記憶の中の光景は、今も鮮明にこびりついている。
崩れ落ちた家の瓦礫の下で、ただ助けを求めることしかできなかった無力な自分。
目の前で、巨大な異形の獣が、父親の頭をスイカのように噛み砕いたあの音。
母親が妹に覆い被さり、生きたまま肉を千切られていった凄惨な光景。血だまりの中で動かなくなった家族の冷たい手の感触。
そして、全てが終わった後、遅れてやってきた「上位冒険者」たちが、残されたモンスターの死体を指差して「よし、こいつの皮は高く売れそうだぜ」と笑っていたあの顔。
(復讐してやる。家族を奪ったあのバケモノどもを……それを娯楽として消費するこの狂った世界ごと、俺が必ずぶっ壊してやる)
だが——現実は残酷だ。
九朗は己の網膜に浮かび上がる、虚無のような初期ステータス画面を睨みつけた。
『所有スキル:なし』
『状態:疲労蓄積、軽度の打撲』
どれだけ強い殺意を抱こうと、血を受け入れる「器」がない不適合者には、モンスターの強靭な表皮に傷一つ付けることはできない。
「……新種の、ドラゴンの血」
九朗は、晴香の言葉を反芻しながら、己の震える拳を強く握りしめた。
死亡率がどれほど高かろうと関係ない。このままゴミのように一生を終えるくらいなら、確実な死の危険を冒してでも、その「一縷の望み」にすがるしかない。
たとえそれが、後戻りのできない地獄への片道切符だとしても。




