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第15話

 千葉ダンジョン周辺の安宿が立ち並ぶエリア。

 その一角にある、壁が薄く隙間風の吹き込む築四十年のボロアパート。その暗い四畳半の部屋で、俺は視界の端に点滅し続けるARコンタクトの「新着メッセージ通知」を、感情の抜け落ちた冷たい瞳で見つめていた。


『通知(未読):99,999+件』


 それは、異常な数字だった。

 たった一日。いや、天狼聖が自身の保身のために仕掛けた「見世物配信」が全世界に向けて放映されてから、わずか十数時間しか経過していない。

 だが、その短時間で俺を取り巻く環境は劇的に、そして醜悪なまでに反転していた。


『井藤九朗様へ。先日の配信を拝見いたしました。素晴らしい身のこなし、そして圧倒的なカリスマ性。当トップクラン「黄金の暁」は、あなたのような本物の逸材をずっと探しておりました! つきましては破格の待遇で——』

『九朗くん! 覚えてるかな、三年前に同じパーティでポーターをやった佐藤だよ! あの時は色々あったけど、俺はずっと君の才能を信じてたんだ! 今度一緒に飯でも——』

『株式会社アーセナルの広報担当です。ぜひ弊社の専属アンバサダーとして、年間一億ゼニーの大型契約を結ばせていただきたく——』

『先日は少し言葉が過ぎたかもしれないな。君の隠された「才能」を見抜けなかったのは、私の不徳の致すところだ。ついては、改めて千葉支部専属の「A級探索者」として再契約を結びたい。悪い話ではないはずだ』


 次から次へと流れてくるスパムのような通知。

 俺はベッドの上で胡座をかきながら、それらの文面を斜め読みし、薄く、極めて冷酷な笑みを浮かべた。


「……吐き気がするな。手のひらを返す音が、ここまで鼓膜を叩いてきそうだ」


 俺の呟きは、誰に聞かせるわけでもなく暗い部屋に溶けていく。

 だが、怒りはなかった。あるのは、冷笑と、人間という生物の底知れない現金さに対する深い軽蔑だけだ。

 つい先日まで、自分を「能力ゼロの不良品」と嘲笑い、ゴミのように扱い、理不尽な違約金と借金を背負わせて死地へと追いやった連中。自分を「人間の盾」にして我先に逃げ出した上位冒険者たち。

 それが、どうだ。

 俺が【跳躍】の一撃でイレギュラーを蹂躙し、天狼の雷光すらも上回る規格外の力を見せつけた途端、彼らは一斉に尻尾を振り、すり寄り、甘い汁を吸おうと群がってきている。


 強大な力を持てば、世界はひれ伏す。

 力のない弱者は、ただ踏みにじられる。

 過去の魔群氾濫で家族を見殺しにされたあの日の絶望。安全圏にいた強者たちが、助けを求める弱者の声を無視して結界を閉じたあの日から、この世界の理は一歩も変わっていない。


「利用できるうちは、持ち上げておくさ。だが——」


 俺が全てを一括で削除しようと視線を動かした、その時だった。

 ピロリンッ、と。

 外部からの通信を完全に遮断するよう設定しているはずのARコンタクトに、暗号化された専用の秘匿回線からの着信が入った。

 この世で唯一、俺の網膜へ直接アクセスを許可されている存在からのコールだ。


『——おはようございます、私の九朗様』


 耳元で直接囁かれているかのような、甘く、ねっとりとした熱を帯びた少女の声。

 田井中詩音。

 世界最高峰の頭脳を持つハッカーにして、俺に異常なまでの愛と執着を向ける「最強の狂信者」。


「あぁ。そっちの状況はどうだ、田井中」


 俺が淡々と返すと、通信の向こうで詩音がふふっ、と嬉しそうに笑う気配がした。


完璧パーフェクトだよ。今朝だけで、九朗様のアカウントに群がってきた企業やクランからのウザい勧誘DM、数万件をファイアウォールで全て弾き落としておいたわ。……中には、悪質な特定ツールや位置情報取得ウイルスを仕込んできた底辺メディアのサーバーもあったから、親切にこちらからもウイルスを流し込んで、社内のメインフレームを物理的に全部燃やしておいたの』

「……やりすぎるなよ。足がつくぞ」

『心配しないで。ロシアのプロキシを経由して、米軍のダミーサーバーを十五回ほど踏み台にしているから、私に辿り着く人間はこの地球上に存在しないわ。私は九朗様の影。誰にも見つからないし、誰にも九朗様の邪魔はさせない』


 どこか誇らしげに、褒めてほしそうに語る詩音の声。

 天才的な頭脳を持ちながら、彼女の行動原理はただ一つ——「九朗の役に立つこと」だけに極振りされている。


『それより、九朗様。……聞いてほしいな』

「なんだ」

『あの鬱陶しい連中の中には、ギルドの支部長——九朗様を「不良品」呼ばわりしたアイツからのメッセージも紛れてたの。「A級で再契約してやる」なんて、上から目線のふざけた内容。……私、ムカついちゃって。九朗様をあんな目に遭わせたクセに、今更すり寄ってくるなんて。だから、あいつの周辺を徹底的に洗ってやったの。そしたら出るわ出るわ、天狼からの裏金とか、ギルド資金の横領とか、真っ黒な証拠の山。……いつでも本部の監査部とマスコミに一斉送信できるようにセットしてあるわ。九朗様が「やれ」って言ったら、ボタン一つであの豚の人生、終わらせてあげる』


 ふふっ、と無邪気に笑う詩音。その笑い声の裏には、俺以外の人間に対する容赦のない冷酷さと残虐性が隠されていた。

 俺は小さく鼻で笑う。


「どうせなら、一番高いところまで登らせてから……天狼もろとも、特大の舞台で突き落としてやる。その時までカードは切るな」


 その言葉を聞いた瞬間。

 通信越しの詩音の息遣いが、ハッ、と目に見えて荒くなった。


『あっ……あぁ……っ! 素敵……! 嬉しい……。九朗様に、そうやって一番都合のいいように使ってもらえるのが一番嬉しい……! もっと、もっと私を使って……九朗様の手足として、便利な道具として、ボロボロになるまで使い潰して……っ!』


 彼女のヤンデレ気質は、もはや病的な領域に達している。「愛されたい」のではなく、「利用されたい」。己の全てを捧げ、俺という復讐者のパーツの一部に組み込まれることこそが、彼女にとっての至上の悦びなのだ。


「期待している。……ところで、天狼はどうなった?」


 俺が感情を交えずに問いかけると、詩音はひときわ楽しそうな声を出した。


『ああ、あの金髪の雑魚? 彼は今、スポンサー企業からの違約金請求——締めて五億ゼニーを叩きつけられて、大慌てで資産隠しに走ってるわ。おまけに、彼のファンクラブ会員の98%が一斉に退会して、その大半が九朗様の非公式ファンサイトに流れてきてる。表向きは社会的な死ね』

「……違約金を踏み倒す気か。あいつの肥大化したプライドがこのまま終わるとは思えん。隠した裏金で何か仕掛けてくるかもしれない。引き続き監視しておけ」

了解アイ・コピー。彼のスマホのカメラとマイク、それにGPSはずっとバックグラウンドで強制起動させてあるから、トイレに行くタイミングから寝言まで全部把握してるわ。……もし九朗様に牙を剥くような真似をしたら、今度は裏社会のヤクザに彼の借金情報を流して、生きたままマグロ漁船に乗せてあげる』


 淡々と恐ろしいことを口にする詩音。だが、次の瞬間、彼女の声のトーンが急降下した。甘い熱が消え去り、極寒の吹雪のような冷たい声色に変わる。


『……でも、九朗様。一つだけ、すごく不愉快なことがあったの』

「不愉快、とは?」

『あの雨宮晴香ってギルドの受付嬢。あいつからも九朗様の個人回線にメッセージが来てたわ。「九朗くん、動画を見ました。改めて……あんまり無理をしないでくださいね。いつでも相談に乗りますから」だって。……虫唾が走るわ。あんな安い同情で九朗様の気を引こうだなんて。私が彼女のスマホのバッテリーをハッキングして、耳元で過熱爆発させておきましょうか?』


 本気の殺意だった。

 詩音は、俺の周囲に存在する「他の女」の影を極端に嫌う。天才的な頭脳を持つ彼女が、嫉妬という最も原始的な感情に振り回され、IQを一気に低下させる瞬間だった。


「やめろ。雨宮には手出しをするな」

『……どうして? あんな女、九朗様には不釣り合いよ。胸が無駄に大きくて重心バランスが悪いし、知能指数も平均値ギリギリの凡人だし、そもそも——』

「雨宮はまだ利用価値がある。ギルド内部の動向や、末端の探索者たちの動きを探るための貴重な『パイプ』としてな。俺が完全に表舞台から姿を消せば、逆に不自然だ。彼女との繋がりは、適度に維持しておく方が得策だ」

『……九朗様がそうおっしゃるなら。でも、もしあいつが九朗様にこれ以上色目を使うようなら、今度こそ社会的に消去デリートしますからね』


 不満げに口を尖らせる詩音の姿が目に浮かぶようで、俺は小さくため息をついた。

 扱いづらい猛獣だが、その有用性は計り知れない。


「それで、本題はどうなった?」


 俺が冷徹な声で話を切り替えると、詩音は再び咳払いを一つして、優秀なオペレーターの顔へと戻った。


『うん、こっちも完璧だよ。昨日九朗様が狩ったイレギュラー——『ルミナス・ジェリー』から採取した発光器官と粘体メタマテリアル。あれを、ギルドの正規ルートを通さずに、私の持っているダークウェブの闇市場ブラックマーケットに流したわ』

「ほう」

『普通にギルドで換金すれば、買取査定で足元を見られてせいぜい二十万ゼニーってところ。でも、あそこまで高純度なイレギュラー素材は、海外の非合法なPMC(民間軍事会社)や兵器開発を行う裏組織が喉から手が出るほど欲しがるの。……独自のオークション形式にして、いくつか偽の入札サクラで価格を限界まで吊り上げてから落札させたわ』


 詩音の言葉と同時に、俺のAR視界の端に、新たに開設されたスイス銀行の匿名口座の残高がホログラムとして表示される。


『落札額——締めて、五千万ゼニー。すでに複数の暗号資産を経由して洗浄ロンダリング済みの、完全にクリーンなお金だよ』


 五千万ゼニー。

 一流のAランク冒険者が、命を懸けて数ヶ月かけてようやく稼ぐような莫大な金額が、たった一体のイレギュラーを狩っただけで転がり込んできたのだ。


「……五千万、か」


 俺の目が、獲物を前にした肉食獣のように細められた。

 天狼から脅し取った百万ゼニーなど、おままごとに等しい金額。

 これだけの莫大な資金があれば、もうひしゃげた安いショートソード一つで戦う必要はない。復讐を遂行するための「牙」を揃えることができる。


『九朗様。ギルドの安っぽい支給品なんて、九朗様にはもう相応しくない。市販の武器じゃ、九朗様のあの異常な脚力と筋力——【ERROR】の出力に耐えきれずに、すぐに根元から折れちゃうから』

「あぁ。俺もそう思っていたところだ。昨日も、ナイフをクラゲの中枢に突き立てた瞬間に、刀身が曲がりかけた。今の俺の踏み込み速度に、ただの鉄の塊ではついてこれない」

『でしょ? だから、私が最高の「職人」を見つけておいたの。ギルドに無許可で兵器級のカスタム武装を作っている、地下のガンスミス(武器屋)さん。九朗様のために、今日の午後で特別にアポイントも取ってあるよ』


 どこまでも気が利き、どこまでも有能な狂信者。

 俺はベッドから立ち上がり、部屋の隅に無造作に掛けられていた、血と泥にまみれたオレンジ色のスーツに手を伸ばした。

 それを着ようとする俺の動作をカメラ越しに見ていた詩音が、怪訝そうな声を上げる。


『……九朗様? 五千万ゼニーもあるんですから、そんなボロボロで汚いオレンジスーツ、もう捨てちゃえばいいのに。私が最高級のタクティカルウェアを——』

「いや、防具は新調するが、この『オレンジのズボン』だけはそのまま使う。あるいは、同じオレンジ色で特注する」

『どうして? 目立つ色だし、何よりそれは九朗様が底辺のポーターとして不当な扱いを受けていた頃の……』

「だからだ」


 俺は、オレンジ色の生地についた落ちない血痕を強く握りしめた。


「これは俺の原点だ。このスーツの色を見ている限り、俺は自分が底辺で泥水を啜っていたことを、他人にゴミのように扱われた絶望を、決して忘れない。復讐の熱を冷まさないための、言わば『呪い』のようなものだ」


 俺は暗い情念を込めて、そう言い放った。

 それを聞いた通信越しの詩音は、一瞬の沈黙の後、うっとりとした、まるで麻薬に酔いしれるような吐息を漏らした。


『あぁ……九朗様。そういうところ、本当に……好き。最高に狂ってて、美しいわ……』


 詩音の賛美を背に受けながら、俺は黒いブーツに足を通す。

 ただ一つ、己の復讐と殺戮を完璧にサポートする狂気のナビゲーターと共に、俺は冷たい笑みを浮かべて「新たな牙」を求めるべく、地下の暗闇へと歩み出した。

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