第12話
「……は?」
俺は、思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
右手に握ったサバイバルナイフは、いつでも彼女の急所を貫ける位置にある。しかし、標的であるはずのゴスガールの少女——田井中詩音は、俺の殺気などそよ風程度にしか感じていないかのように、鼻歌交じりでキッチンへと歩き出していた。
「冷蔵庫、何もないね。お水と……賞味期限切れの栄養ゼリーだけ。まあ、自炊なんてする余裕なかったんだもんね。大丈夫、今日は特売の豚バラ肉を買ってきたから」
詩音は俺の部屋の狭いキッチンに立つと、スーパーの袋から手際よく食材を取り出し、持参したらしい調味料を並べていく。
コンロの火がつき、ごま油とニンニクの香ばしい匂いが、無機質で血の匂いが染み付いていた部屋に広がっていく。
俺はナイフを下段に構えたまま、壁を背にしてその光景を観察していた。
異常だ。
彼女の歩き方、筋肉の付き方、呼吸のテンポ。どれをとっても武術の心得など微塵もない、ただの脆弱な少女だ。ギルドの末端のチンピラにすら力負けするだろう。
しかし、その「瞳」だけは常軌を逸している。俺という暴力の塊を前にしても、恐怖の欠片すら存在しない。あるのはただ、狂信的なまでの熱と、どろりとした執着だけ。
「……毒でも盛るつもりか」
俺が冷たい声で問うと、詩音はフライパンを振りながらふふっと笑った。
「私が九朗様にそんなことするわけないじゃない。……あ、でも、私の愛情という名の毒なら、たっぷり入ってるかも」
「…………」
俺は無言でナイフを強く握り直した。会話が全く成立しない。
数分後。俺の部屋にある小さな折りたたみテーブルの上に、湯気を立てる豚肉のスタミナ炒めと、炊きたての白米が並べられた。
詩音は向かいに正座し、両手を頬に当てて恍惚とした表情で俺を見つめている。
「さあ、冷めないうちに食べて」
「……」
「疑い深い九朗様も素敵。ほら、安全だよ」
詩音は俺の箸を手に取ると、豚肉を一切れ自分の口に運び、飲み込んだ。そして、その箸を嬉しそうに俺へと差し出す。
間接キスなどという甘酸っぱい次元ではない。他人が勝手に上がり込んで作った正体不明の料理だ。
しかし俺は、無表情のままその箸を受け取ると、肉を口に運んだ。
(……美味いな)
悔しいが、何年間もまともな食事をとっていなかった俺の胃袋に、その味は暴力的なまでに染み渡った。
黙々と米を掻き込む俺の姿を、詩音は瞳のハイライトを消したまま、蕩けるような笑顔で見つめ続けている。
「……食った。約束通り、質問に答えろ」
俺は箸を置き、再び冷たい声で切り出した。
「どうやってこのアパートを特定した。ギルドのデータベースをハッキングしたのか」
「ううん、そんな三流みたいな真似はしない。もっと確実に、九朗様を丸裸にしたの」
詩音は自慢気な笑みを浮かべ、身を乗り出した。
「天狼の過去三年分の配信アーカイブを全部クロールしてね、九朗様が背景に映っている映像だけを抽出したの。そこから、マイクが拾った『京成線の踏切』と『千葉港のサイレン』の時差で千葉県の海浜エリアに絞り込んで……さらに九朗様が寄りかかっていた『電柱の影の長さ』と日時から、太陽の仰角を計算して、三つのアパート群まで特定したわ」
詩音の言葉に、俺の目がわずかに見開かれた。
彼女はまるで「今日の夕飯のレシピ」でも語るかのような軽いトーンで、恐るべき情報収集技術(OSINT)のプロセスを並べ立てていく。
「最後は、カーブミラーの反射を『超解像アルゴリズム』で復元して、九朗様が持っていた千葉市指定のゴミ袋を確認。ダメ押しで、天狼の鎧に映り込んだ『外階段のサビのパターン』をストリートビューと照合して……この204号室に辿り着いたの」
「…………」
俺は絶句した。
魔法やチートスキルなどではない。完全に現代科学と情報戦の極致。
たった数秒の背景映像から、音と影と反射を利用してピンポイントで部屋番号まで割り出すなど、人間業ではない。目の前にいる少女は、狂っているが、間違いなく人類最高峰の天才ハッカーだ。
「……目的はなんだ。ギルドの密偵か。それとも、天狼の信者で俺に復讐しに来たのか」
「違うよ、九朗様」
詩音は首を横に振った。その瞳に、今まで以上に重く、真っ黒な感情が渦巻く。
「私はずっと、世界が退屈だった。なんでも分かりすぎて、全部がコードの羅列に見えて、死んでいるのと同じだった。……でも、九朗様がドローン越しに見せてくれた、あの『生への執着』。血反吐を吐いて、泥水を啜って、自分の腹を貫く怪物を喰らってでも生き残ろうとする、あの醜くて美しい『狂気』……!」
詩音は身を乗り出し、俺の手に自分の冷たい手を重ねた。
「あれを見た瞬間、私の中で世界が壊れたの。あなたは、この退屈な世界に現れた唯一の『バグ(希望)』。……だから、お願い」
詩音は俺の手を握りしめ、恍惚とした表情で懇願した。
「私を、愛してくれなんて言わない。ただ、あなたの復讐のための『最も便利な道具(犬)』にして。世界中のどんなシステムでもハッキングして、あなたの敵を社会的に抹殺してあげる。だから……私を、都合よく使い潰して」
それは、究極の「利用されたがり」だった。
恋人になりたいわけではない。俺の隣を歩きたいわけでもない。ただ、俺という狂気の一部になり、一番の「駒」として消費されたいという、常軌を逸した重すぎる献身。
俺は、重なった彼女の手を振り払うことはしなかった。
俺の脳内で、冷徹な計算が猛スピードで回っていた。
過去の『魔群氾濫事件』。家族を見殺しにしたギルドの腐敗層や、その裏にいる特権階級の連中を引きずり下ろすには、個人の暴力だけでは限界がある。強固なセキュリティに守られた情報網を破るための「最強の眼」が必要だった。
目の前の少女の頭脳は、俺の復讐においてこれ以上ないピースとなる。
「……俺は、誰のことも信じない。自分の復讐のためなら、どんな人間でも平気で切り捨てるぞ」
「うんっ! それでいいの! 捨てられるまで、一生懸命尻尾を振るから!」
俺の脅し文句すらも、詩音にとっては最高のご褒美であるかのように、彼女の顔がぱぁっと輝く。
「……ただ」
詩音はふと、声のトーンを不自然に落とした。
彼女の漆黒の瞳に、極めて人間臭く、ドロドロとした感情が浮かび上がる。
「一つだけ、約束して。あの、ギルドの受付嬢……雨宮晴香とかいう女。あいつと仲良くするのはやめて。あんな低スペックな女と接点を持つのは、九朗様の復讐プロセスにおいて、タイムロスの観点から非常に非効率的だから。リスク管理としても問題があるし、そもそも胸が無駄に大きくて重心のバランスが悪いし——」
「……」
さっきまで冷酷な天才ハッカーとしての顔を見せていたのに、急に早口になって論理破綻したクレームを並べ立てる詩音。
どう見ても、ただの激しい『嫉妬』だった。
俺への愛が重すぎるあまり、他の女が近づくだけで頭の良さを放り投げてしまい、感情を剥き出しにしてムキになっているのだ。
(……面倒なことになったな)
俺は内心で深くため息をついたが、顔には出さなかった。
何はともあれ、戦力としてはこれ以上ない。
俺はナイフを下ろし、冷徹な敬語に戻って口を開いた。
「分かりました。田井中詩音……あなたの能力、俺の復讐のために最大限『利用』させてもらいます」
「っ——! はい、九朗様っ……!」
俺の「利用する」という言葉を聞いた瞬間、詩音は最高のエクスタシーに達したかのように頬を赤く染め、恍惚と微笑んだ。
かくして、復讐に燃える俺と、重すぎる愛を抱えた天才ヤンデレハッカーによる、最凶の共犯関係が成立したのだった。




