第11話
三つのアパート群。
千葉県海浜エリアに実在する、その絞り込まれた区画の3Dマップをモニターに映し出しながら、田井中詩音は乾いた唇を舐めた。
「……ここから先は、もう環境音や影の角度じゃ届かない。必要なのは、決定的な『物理的痕跡』」
詩音は再び、四千八百時間分の動画アーカイブへと意識を潜らせた。
彼女の脳と直結したかのように動くAIが、三つのアパート群の周辺地図と、天狼の配信映像の背景を照合していく。
数十分の果てに、詩音の指がピタリと止まった。
「……あった」
それは、早朝に天狼が「これから迷宮に潜るぜ!」と自撮り配信をしている短いクリップだった。
天狼の背後、ピントがぼやけた背景の奥に、ゴミ捨て場へと歩いていく九朗の後ろ姿が数秒だけ映り込んでいる。
そしてその横には、道路の安全確認用の『カーブミラー』が立っていた。
「鏡面反射。……これなら、いける」
詩音は映像を一時停止し、カーブミラーに映り込んでいる米粒ほどの「反射像」を最大まで拡大した。
当然、そのままではモザイクのようにピクセルが潰れており、何が映っているかなど肉眼では判別できない。おまけに凸面鏡特有の強烈な歪み(ディストーション)がかかっている。
だが、天才ハッカーである彼女の執念の前には、画質の粗さなど障害にはならなかった。
「曲面レンズの歪曲収差を逆算してフラット化。さらに、ピクセルの欠落部分にAIの超解像アルゴリズムを適応。周辺のフレームからピクセルデータを補間して、シャープネスを最大まで引き上げる……!」
エンターキーが叩かれた瞬間。
モニター上のぼやけたモザイクが、魔法のように鮮明な画像へと再構築された。
カーブミラーの反射の中にくっきりと浮かび上がったのは、九朗が右手に下げている「ゴミ袋」だった。
「青地の半透明な袋に、赤い文字。……間違いない、『千葉市指定の可燃ゴミ袋』。自治体は千葉市で完全に確定」
これでもう、隣接する他の市の可能性は完全に消えた。
しかし、詩音の探求は止まらない。彼女が欲しいのは自治体ではない。九朗様が眠る「部屋番号」だ。
「もう一つ。天狼の無駄にピカピカな『白銀の鎧』。あれは最高の反射材……」
詩音は別の映像を引きずり出した。
天狼がアパート群の近くのコンビニ前で屯している映像。その胸当てのカーブ部分に、周囲の景色がわずかに反射している。
詩音は再び超解像アルゴリズムを起動し、鎧の表面に映り込んだ景色を極限まで拡大・鮮明化した。
そこには、九朗が歩いている「アパートの外階段」が映り込んでいた。
「鉄骨階段。塗装は剥げかけ。……注目すべきは、階段の縁に浮いている『赤サビの形状』と『剥がれた塗装のパターン』」
サビの広がり方や塗装の剥がれ方は、人間の指紋と同じだ。自然環境が作り出すランダムな模様であり、この世に二つとして同じ形は存在しない。
詩音は、候補に挙がっていた三つのアパート群の『ストリートビュー』の最新高解像度データにハッキングでアクセスした。そして、各アパートの外階段の画像と、先ほど抽出した「サビのパターン」をパターンマッチングにかける。
『解析中……マッチング率99.8%』
「……ビンゴ」
詩音の喉の奥から、甘く、震えるような声が漏れた。
三つのうちの一つ。最も古びたアパート、『コーポあけぼの』の二階。
サビのパターンが完全に一致したのは、一番端にある「204号室」へと続く階段の踊り場だった。
「千葉県千葉市美浜区……コーポあけぼの、204号室」
遂に、完全な特定(到達)。
ネットの海という果てしない暗闇の中から、環境音、影、反射物という微かな物理的痕跡だけを繋ぎ合わせ、彼女はついに「九朗様の居場所」を暴き出したのだ。
冷たいサーバー・ルームの中で、詩音は両手で自らの顔を覆い、狂おしいほどの歓喜に打ち震えた。
「ああっ……九朗様、九朗様……! 今すぐ、今すぐあなたに会いに行きます……!」
彼女はすぐさま立ち上がり、漆黒のテックウェアのポケットにいくつかのアタッチメントと「ナイフ」を忍ばせると、暗室を飛び出していった。
* * *
数時間後。午後七時。
コーポあけぼの、204号室。
六畳一間の薄暗い部屋で、俺は床に胡座をかき、錆びついたナイフの手入れをしていた。
ボロボロの壁紙。すきま風の入る窓。キッチンには水垢がこびりついている。
それでも、俺にとってはここが唯一、気を抜ける城だった。
……はずだった。
「——ッ!」
不意に、俺の手が止まった。
研いでいたナイフを逆手に持ち替え、一切の足音を立てずに立ち上がる。
【ERROR】によってグリム・ウィーバーの因子を取り込んだ俺の感覚器は、人間離れした鋭敏さを獲得していた。
ドアの向こう側。廊下に、微かな気配がいる。
殺気はない。だが、異様に「重く、ねっとりとした」視線のようなものを、鉄のドア越しにでも感じる。
俺は音を殺してドアの横に張り付き、呼吸を止めた。
この部屋のドアには、ピッキング対策のディンプルキーが三つ、さらに俺が独自に取り付けた強力な電子ロックがかかっている。プロの泥棒でも、こじ開けるには十分以上かかるはずだ。
——カチャリ。
しかし。
まるで自室の鍵を開けるかのような、あまりにも自然な動作で。
三つの物理錠が、数秒の間に外側から「開錠」された。
——ピピピ、ガチャン。
続けて、絶対に暗号化を突破できないはずの電子ロックまでもが、エラー音一つ立てずに解除される。
(……何者だ……?)
俺の全身の筋肉が鋼のように硬直し、【跳躍】のスキルを発動できる状態へとアイドリングを始める。
ゆっくりと、ドアのノブが回され、古びた扉が開いた。
「こんばんは、九朗様」
そこに入ってきたのは、暗殺者でも、重武装の強盗でもなかった。
黒髪の姫カット。透けるような白い肌。ゴスガール特有の退廃的な雰囲気を纏った、美しい少女。
彼女——田井中詩音は、片手にスーパーのビニール袋(ネギや肉が入っている)を提げたまま、全く警戒する様子もなく俺の部屋に足を踏み入れた。
「……誰だ、お前は。どうやってここを開けた」
俺は即座にサバイバルナイフを構え、壁を背にして臨戦態勢をとった。
モンスターに対してであれば一切の躊躇なく殺意を向けられる俺だが、目の前にいるのは「ネギと肉の入ったスーパーの袋」を提げた、どう見てもただの少女だった。
冒険者でもなければ、まともな武装もしていない。そのあまりに日常的で無防備な立ち姿に、俺の冷徹な殺気は空回りし、激しい「困惑」へと変わっていく。
「ああっ……! 警戒するその瞳、本当に素晴らしい……! 映像で見た以上の、本物の、強い目……!」
ナイフを向けられているというのに、詩音は恐怖するどころか、ハイライトの消えた真っ黒な瞳を恍惚と細め、熱っぽい吐息を漏らした。
「……質問に答えろ。誰だ。何故ここが分かった」
俺はナイフを下げないまま、どうにか冷徹な声を取り繕って問い詰める。
「私は田井中詩音。あなたの絶対的な信者であり、あなたの最も有能な『駒』となるために、迎えに来た者」
詩音はナイフの切っ先など全く気にしていない様子で、愛する恋人に語りかけるような甘い声で答えた。そして、ずいと俺の方へ一歩踏み出す。
「夕食、まだだよね? スーパーで美味しそうなお肉を買ってきたの。私が作るから、それを食べながら……私がどれほどあなたにとって有益な『道具』になれるか、プレゼンを聞いてくれる?」
一切噛み合わない会話。
状況が全く理解できず困惑する俺と、全く揺るがない異常な愛情を向ける詩音。
冷たい安アパートの一室で、常識の通用しない最悪で最高の「同棲」が今、始まろうとしていた。




