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拡張版・終わりなき川  作者: 田中(1.2.3.4.5.6.7.8.10.12.14.15.16.17.18.20)バカ(2.3.9)、師匠(7.9.11.13.20)
おまけ
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おまけの小品『ナーヴァナ(仮)』

今進行中の企画のはしがきのようなもの

ジャンルとしてはライトノベル


「わけわっかんね」ってなった頭のお口直しにどうぞ

 時は平成二十二年四月二十三日。時刻は昼前というので、充分に暖かい。二十四節記でいう恵みの雨が降り出す穀雨ではあるが、春雨が降り出すような陰鬱な雰囲気はなく、春めいた情景が広がっていた。

 楽曲にもあるように春の麗らと云ったものであろう。春の風物詩『隅田川』は春光を受けて煌びやかである。ちょっと目を凝らせば岸辺の水面みなもに花びらが揺れるのを垣間見れ、岸にも目をやれば桜の並木が桃色の花弁かべんを満開にしているのが分かるだろう。

 土手を見渡すと水辺のテラスに様々な人が群がっている。毎年の桜の咲く時期ともなると、こうやって隅田川は混みだすのである。散策に来た家族連れも見えるが、殆どは花見と酒に酔いしれた何らかの団体が多い。同僚同士で騒いで社会での疲れを吹き飛ばしたり、友人や親戚を招いて社交の場とするのは花見というものの醍醐味であろう。

 そんな春爛漫な日常の中ら土手上に佇む者が居た。フェンスに肘を突き桜を眺めるさまは周りの花見客となんら変わらなかったが、柔らかや春光に現れるその独りの影には鬱々とした雰囲気が相対していた。

 平日の昼間に何処の学生であろうか――薄墨色を基調とした喪服のような学生服である。豊かな栗毛を水玉のリボンで可愛らしく留めているが、それさえも陰鬱な陰りに染められている。その後ろ姿にあるのは服と同じ暗色だけであった。

 不吉な色を纏う彼女に誰も近づきはしなかった。自然と誰も寄りつかず、一定の距離でハレとケガレの境界が異様に出来上がっていた。御祭騒ぎの中、そんなぽっかりと空いた空間が奇妙に存在したのである。

 さて、奇妙に隔離された空間に居る彼女であるが、じっと川を見続けていた。隅田川の雄大な流れにじっと目を落としていた。

 その目に写るのは春の到来の喜びであった。温暖な空気は生ける者全てを抱擁し、花は可憐に咲き誇り、人は踊るように騒いだ。そして、それを見守るように川は水上に歓喜の光を投影させる。しかし、決して川は揺らめくことを忘れなかった。

 そんな春めいた景色に安らぎを得たのか彼女はいつしか目を閉じた。

 目を瞑ることで川は更なる彩りを現す。周囲の馬鹿騒ぎの合間合間に聞こえる波の音は耳に心地良く、鼻につく潮の匂いは心に遥か彼方の海を掻き立てた。そして、暑い程に頭を温める春日は希望と恵みに満ちていた。

 そう、絶え間なく流れる川の水面は心の中にも在り、ざわついていた。

 そして、人は川辺で考える、自分の人生のことを。彼女も同様に人生の悩みと満足に揺られていた、遥かなる時を流れ続けたこの偉大な川の土手で。

 その頬には汗が一筋だけ伝っていた。

 悩みとは『学校への嫌気たであり、満足度は『孤独』であった。

 入学して一年と二週間は経ったが彼女は当初から学校に欺瞞を感じている。その志望した学校に充実した何かを求めていたが、そんなものは存在しなかった。あるのは面倒臭い馴れ合いと浪費される時間だけ。何も得られず孤独に過ごせているうちに、通学の意義が日に日に薄れていった。

 独りで生きていく気楽さを知った人間特有の悩みであった。これを悩める者は相談する相手もいない孤高の存在であり、そこで自分独りで導きだせる結論とは自分は異常アブノーマルには違いないという事実だけなのである。それは時に恍惚にも変わり、寂しさに変わるものである。

 彼女はただそれを哀愁に変えた。遣り場のないその悲しみは心中しんちゅうに溜まり混み、いつしか自分自身が遣る瀬ない辛い存在となりつつあるのだった。

 だから、日のある限りこの川に居たかった。今朝、学校を抜け出し行き着いたわけだが、数時間を経た今も飽きることはない。一生、春の情景で感傷に浸っていたかった。

 だが、時は流れ、止まることはない――この川の流れのように。夕日が水面を暗く照らし、吹き付ける川風は肌寒くなる頃合であろう。ふと、彼女にかかる声があった。

「あきはちゃん。探したよぅ。ほんと、何処に言ってたの~?」

 その脳天気な声を鬱陶しく感じながらあきはと呼ばれた彼女は振り返った。

 ミルク色の髪をカールにした少女がおどおどと此方を見ていた。そして、そいつの後ろから小柄な少女が長い黒髪を垂らして此方を覗いていた。二人とも自分と同じ制服を着ている。さしずめ同級生であろうが、学校で知人といえる者を作った覚えはなかった。

 何処ってずっとここに居たけど――と思ったが、あきはは何も言わず、素っ気なく川へと視線を戻す。学校の人間と関わり合いになるのだけは御免だった。

 カールの方が横に並んだがあきはは見向きもしなかった。同じ行動をして協調したいという魂胆が丸見えで気持ちの悪いものに感じられるのだった。

「きれいだね」不意にそんなことを言ってきたので尚更消えてほしいのだ。

 夕焼けは彼女ら二人をぼんやりと映し出していたが、あきはは隣に人は居ないものとしてこの川面に見入る。無論、黄昏は川も映えさせていた。

 そんな感じで時が経ち、数分後――である。

 途中、あきはの頬にしつこく触れる者がいた。軽く押すように触れたかと思うとすぐ離し、そしてまた同様に触れすぐ離し――を繰り返していた。ペタペタとペタペタと何度も癪に触ることを繰り返す訳である。

 あきははとにかく無視し、苛立ちを我慢した。二人のどちらかがやっているのだろうから、ここで反応しては負けである。『構った』という実績があれば、以後も馬鹿共は馴れ馴れしく接してくるものだ。

 しかし、これが止む気配はない。諦めろ早く諦めろと心に呟くが、その頻度は増していくばかりであった。

 余りのしつこさに我慢の限界が迫ってくる頃、そのペタペタは止まる。その代わり、突如、胸を鷲掴みされる感触があった。

「ひゃっ!?」と声を上げたあきはが胸元を見ると、そこから離れる両手があった。脇の下から伸びていたその手は引かれて視界から消えていく。

 さっと振り向くとさっき隠れていた黒髪の娘が目と鼻の先にいた。顔は童顔で背丈も小学生並――と、とにかく幼い印象が残る。同じ高校生かと最初は目を疑う程ではあったのだが、制服を見てやっと納得出来るのであった。

 そんな彼女が「あまりつかめない……」と両手を確かめながらそこに居たのには、あきはは目を丸くせざるをえなかった。

 何をされたのか――胸を確かめられたのだ。はっと気付くと、あきははかーっと顔を赤めさせ、髪が逆立つ程に声を張り上げながら腕を振る。

「このチビッ! さっきっから、うっとおしいんだよっ!」という怒声と共にゴツンと拳骨が黒髪の上に落ちていた。

 脳天を貫く衝撃に見舞われ、黒髪の娘は痛そうに頭を抑えて座り込む。そんな彼女を、息を荒げて見下ろすあきはが居る。この様を見て、歓喜を見せる者が居た。

「あ、あきはちゃん。やっと喋ってくれた!」

 嬉しそうに手を合わせるカールの娘にあきはは怒りの矛先を変える。

「大体、お前ら誰だよ!? 何であたしに構うんだッ!」

「え!? えっと私は――」

「いいや、いい。あたしに構うな」

 それだけ言って、あきはは花見の人混みにそそくさと消えていった。この混雑に完全に彼女は見失われる。

「ちょ、ちょっと。あきはちゃん、待ってよ~」

 取り残された彼女は慌てて追いかけるしかなかった。目に涙を貯める連れの手を無理矢理引っ張り人混みに入っていった。


        ※


「で。どうしてここまでついてくるんだ?」

 喫茶店で頬杖をつきながらストローをくわえるあきはが訊いた。目の前の席には隅田川でちょっかいを出してきた二人がふてぶてしく座っている。

「だからさぁ。何であたしを追いかけて来るの?」

 再び訊いているというのにどちらも答えずに居る。両者とも頭上に疑問符を示し、何かを理解出来ずにいるようだった。

 仕方ないので、あきはは話を変える。「お前ら不良だな~。学校帰りに喫茶店に寄り道するとは校則違反だあ」

「それなら、あきはちゃんも同じじゃない……」

 カールの人懐こい方が話に食いついてきた。見るからに穏和そうな顔である(――あきはに言わせればこいつはクラスに一人は居る甘ちゃんである)。口元は和やかで、大きな瞳は潤いを含んでいる。おしとやかとでも言えばいいのだろうが、こいつはすぐ他人に流される馬鹿の一人だ。無論、関わりたくはない。

「あたしはいいんだよ。学校抜け出してだから。帰りじゃあない」

 そう屁理屈を述べながら、たしかこいつは――とあきはは思い返す。あまり付き合いのある印象はなかったが、すぐに名前は思い出せた。黒須星羅くろすせいらであっただろう。生活班が同じだった覚えがある。黒髪の方は全く覚えがないのだが……

 だからといって、自分の安らかな時間を掻き乱されるいわれはない。親切心から声をかけたというのなら余計なお節介である。

「あのさあ~」と説得を試みると、出鼻を挫く様に星羅があっと声を上げた。何かを思い出した様子である。

 なんだよ――とあきはは思いながら、一旦様子を見守る。どうやら鞄を漁りだした。

「先に宿題のプリント渡しておくね」

 そう言って、ホッチキス止めの冊子を渡してきた。どうやら、美術の課題のようだ。『美術館レポート』と表紙に印刷されている。

 つまり、彼女らはこれを渡す為にやむなくあきはを探していたという訳である。そして、あきはを見つけたは良いがにシカトされて大いに困ったのであろう。

 あきはは悪く感じたが、素直に謝る気はしなかった。ごめんと言い掛けたが、勘違いをしていた自分を照れくさく感じ、「ありがとな」と礼だけ述べる。

「あきはちゃん。それ、今日休んだ分の補習課題だって。やっとかないと単位貰えなくて留年だから絶対やってね」

 星羅がそう念押ししてきたのであきはは憤りを感じる。

 教師は相当な物を彼女達に押し付けたものだ。もし自分に渡せずに終わったら――サボリ魔のあきはにはその危険が大いにある――彼女らの立場はどうなることか。責任の有無はともかくいい気はしない。

 教師共が彼女らに自分のことを押し付けている。教師は直接何も言わないものだ。

 気付くと、星羅がどうしたのと訊きたげに此方を見つめていたので、あきはは、わかったわかったと両掌を返す。

「やっとくよ。もう済んだろ。帰った帰った」

 だが、思い通りにはいかないものである。二人はどうしようとお互いに顔を見合わせだした。まだ何かあるというのだろう――あきはの予想通り要らないお節介を掻こうとでもいうのか、それとも先の宿題の他に学校側から押し付けられた事があるというのか。

「まだあたしに用があんのかよ? なあ?」

 あきはの問いかけに二人が首を傾げた。

 何なんだよ――と思い、あきはは、目を細めて睨みつける。

 星羅は愛想笑いをうかべ、さっき殴った黒髪は暴力反対と言わんばかりに首を振る。

「変な反応しないで答えてくれないかぁ?  あたしはとっとと帰りたいんだけど」

 あきはが再び問いかけると星羅が口を開いた。

「最近、あきはちゃん、授業出れてないというか、途中抜け出してサボってばっかで、何というか――」

「あぁ!? 文句でもあるかよ?」

「いやいやいや。心配だなって思って。宿題出てたのもあって、放課後、探しちゃったよ」

 まったく――と、あきははげんなりする。この類の人間はすぐそうやって自分に要らぬ親切をするものである。こちらには迷惑だと気付かないから質が悪い。

 慣れたもんで対処法は分かっていた。適当に会話してやれば相手の気は済む。同情したいが為に動いている気取り屋に対しては、だ。

「よく見つけられたな。あんな辺鄙なところに居たのに」

「ああ、それはみなみちゃんと花見しようってことにもなってて偶然で――」

「みなみぃ?」

「ここにいるじゃない」

星羅はそう言って横の黒髪を見るがあきはに知る由もない。

「こいつ、誰だっけ?」

「え? 何言ってんの?」

「はぁ? あたしは知らないよ」

「いやいや、何言ってんの~。あきはちゃん、いつもの冗談だったら――」

「冗談じゃないよ。そっちがだろ。それにちゃんづけすんな、親しくもない人間に」

 何があるというのかそこで会話が止まった。周りの喧騒が良く聞こえる程に。

 間を置いて、星羅の驚きの声が上がった。

「へ!? 何があったの?」

 その不自然な態度に、は~?とあきはは呆れざるを得なかった。

「何がってこっちの台詞だろ。お前ら、あたしに何のつもりなんだよ!?」

 二人が顔を見合わせた。またもや変な反応にあきはは状況が飲み込めない。

「……まず、こいつは誰だよ?」

「えっと~、阿坂美波あさかみなみちゃん。隣のクラスだけど、よく私達と――」

「で、お前は黒須星羅だっけ? たしか、席が斜め前だったよなぁ?」

「うん。そうだけど……」

 星羅が何かを言い掛けたが、あきはは立ち上がる。話が長引くような流れを感じた。

「そっか。じゃあな。宿題届けてくれてありがとう。それだけだ」

 言い放ち、あきはが伝票を取ろうと手を伸ばす。

 が、それを先取りされた。黒須星羅があきはを行かせんが為に伝票を抑えたのだ。

「ちょっと待ってよっ!」

 叫ばれたがあきはは気にかけず、伝票をばっと取り返す。

 そのまま椅子を仕舞おうとすると、また星羅が声を上げた。

「……ねえ。なんで無視するの!?」

 次は堪えきれそうにない声だったので、心配したあきはは星羅に目をあわせる。案の定、感情が押さえられないのか、涙が溜まっていた。

「いいや、待たない。訳わからんのに構うのはこりごりだ」

「訳が解らないって――本当なら、あきはちゃんどうかしてるよ」

「ああ、私はどうかしてるよ、お前だけからはな。そうだけどなんかあんのか~?」

 語尾を強めて睨むと、これ以上星羅は何も言ってこなかった。わっと泣き出しやしないかと思ったが椅子にへたり込むだけであった。

 だから、あきはは安心して席を離れることにした。これでまた孤独を貫ける。独りで自由気侭な生活を何の障害も脅威もなく。

 彼女らの席を横切り、やっと解放されると思った矢先、あきはの袖を引っ張る者がいた。見ると、美波が引き留めていたのである。

「手ぇ、離せよ」

 あきはが睨みつけるが、美波は眉一つ変えずにこう訊いた。

「……あきは。何か失ってんじゃない……?」

 今にも消え入りそうな声音こわねだが、沈着な喋り方だった。調子の外れた美波の声に釣られ、あきはは急に静かになって聞き返す。

「何を?」

「……記憶、とか?」

 今、記憶と言ったか?――あきはは思わず自分の心に確かめる。記憶を失うなんてフィクションの世界じゃあるまい。そうそう会話に飛び交ってたまるものか。

 あきはと同じくその突飛な予想を馬鹿馬鹿しく思い、横から笑い飛ばす者がいた。

「まっさか~。あきはちゃん、私達のこと馬鹿にしてんだよ。私達のことなんか――」

 そう自暴自棄になって話に割り込む星羅に美波は制止する。

「せいらは黙ってて……邪魔……」 

「邪魔って――」

「いいから……黙ってて……」

 美波の真剣さに星羅は黙り込む。後はあきはの返答を待つだけの時となった。それを埋めるように甘美なジャズの音が沈静を防ぐ。

 あきはは答えるのを面倒に感じた。面識のない二人が自分のことをすっかり理解していると思い込んでいる。気が狂っているとしか到底思えなかった。

 だが、答えるまであきはは解放されないようである。美波は今も袖を掴んだままであった。あきはの顔を下から覗き込み、口を開くのをじっと待っていた。

「生憎、頭がおかしいのはお前らじゃないかな。あたしは至って普通に生活できてるし、記憶の欠如を感じた覚えもない」

「……そう。学校にも行ってないのに……?」

「それとこれは関係ないだろ。あたしはもう帰るよ」

 掴みの弱くなった美波の手を無理矢理振り解くとあきはは通路を進み出した。周囲から注目の的となっていたようであった。目のあった店員が視線をさっと逸らした。それと同時に周りの客も一斉にこちらを見なくなる。

 後ろからした声にあきはは一度歩を止めた。帰り道とかは覚えてるんだ――どちらかが呟いたようだったが、とかってなんだよあたしがおかしいみたいにとあきはは苛立ちを覚える。折角気分を落ち着けていたのに、あの二人の登場はとんだ災難であった。


        ※


 会計をちゃっちゃと済ませ、あきははとっとと店を出た。入店したのは東の空が紫に変わる頃で、今となってはもう夜の帳が降りきっていた。

 あきはは店の戸の前でふうと溜め息をつく。そして、深い脱力感に苛まれながら、喫茶店に振り返った。中にはまだあの二人が居るのだろう。

 逃げるようにして何となく入った喫茶店であるが、あいつらに追い付かれるまでは心地良い空間であった。店内に流れるジャズの音は耳に快く、漂う珈琲の香りは気分を穏やかにさせた。注がれたカフェオレの味は口に円やかで文句なしであった。

 そこの看板には「COFFEE homeground」と木彫りされている。本拠――なるほどまた来たくなるわけだ。

 しばらく佇み気分も大分落ち着いてきたので、あきはは帰路に急ぎだした。ここから家までは大した距離ではないだろう。この日暮れの雑踏を見せる大通り――ここは言問通りだと予測して――を真っ直ぐ上野方面に向かえば見知った土地に行き着く。

 あきはは道中、行き交う車を眺めながら物思いにふけっていた。精神的に疲れ、すぐにでも家の床で眠りたいわけだが、考えずにはいられなかった。

 勿論、例の二人のことである。毎日の孤独な悩みだったらそこまで気になりはしないが、今日は厄介な雑念が新たに現れたものである。

 分からないことばかりだが、まず分かることは二人の挙動が不審であることだ。何を勘違いしているのかは知らないが、やけに親しく接してくるのである。まるで、前までは互いに仲良くしていたかのように。

 しかし、あきはに友達は要らない。今まで小中学校含め、作ったためしもない。言うならば、孤独の身にそれが出来る理由は見当たらないし、可能性は皆無に等しい。天地がひっくり返らない限りそんな自分には有り得ない。

 そうであるも関わらずあきはは悩まされていた。

 ――何か失ってんじゃない? 記憶とか

 その言葉が頭に引っかかっていた。もし、記憶がないとしたら、何が何であるのだろうか。

 あきはの記憶がおかしいとしよう。脳内に蓄積された記憶が変であるとするならば、自分の思考を信じていいものか迷うところである。極端な話、全ての虚実が判別できなくなる。自分にとってのまこときょであるのかもしれない。

 つまり、「過去」が不完全であり、『今』は破片が欠けていて歪なのだ。逆さの天地が本当の天地かもしれない――と考え得る見方もあるだろう。

 このように仮定してもみたが、あきははそうそう疑心暗鬼になりはしなかった。実に馬鹿げた話であるとしか思いはしない。

 自分はおかしくないと胸を張って言えた。私は誰ここは何処、なんて決まった文句は浮かびはしない。ここで自己紹介しろと言われたとしても、滞りなくすぐに出来る。

 例えば――名前は三田明葉みたあきは。台東区内にある私立白珠しらたま女子高等学校に去年から通っている。昔から友人は作らず、独りなので気楽だ――最近は学校すらサボるけど。趣味はレトロゲーム漁りでツインビーがお気に入り。好きな歌手は尾崎豊おざきゆたか。好きな映画はスティーブン・キングのシャイニング。好きな食べ物は特になく、嫌いな食べ物はウニ――あの感触と味はまるで絵の具のようだ。ちなみに最近、カップヌードルにはまりつつある。

 と、即興でもここまで自分を説明することも可能だ。至って平凡で花のない自己紹介ではあるが、自分を充分に理解している証拠としては申し分のない出来である。

 だから、今日の出来事を忘れようと努力したのである。だが――

 無意識に、だ。何時の記憶を確かめるように行動していた。

 気付くと、道順を自身に説明しながら歩いていたのである。いつもは無心に歩く路地にて、心の中で要らない詠唱をせずにはいられなくなっていたのだ。

「そこの通りを曲がる、以前食って失敗した定食屋の角を。そして、この空き家の前で路地に入り込む。そのまま真っ直ぐ進み――」

 非常につまらない呪文である。物の意味を見出す様は正に呪文と言って良いが、昔の記憶を引っ張り自分の意味を探るのは愚かな者がやることだ。懐古や後悔ではなく自分の意識を屈託して確かめるだけにやるのならば、自分は意志を持たない人間なのか?

 明葉はそう卑しく感じるが、やめられなかった。

「そこを曲がる。ここは真っ直ぐ。ここは曲がらず――」

 そうやって記憶を確かめることで例の彼女らに反駁してみせたのだ。心の中で行われるそれは無意味に等しかったが、鬱憤は晴らされていった。


        ※


 台東区の下町の一角に川上荘というアパートがある。四畳間風呂無しという小さく貧しいアパートであるのだが、大学生や上京者など独り身にはすこぶる勝手が良く、昭和の終わり頃から続いている。

 その二○三号室に三田明葉の部屋がある。幾らかぎしぎしと軋む階段を上がった廊下の中程にそれはある。最上階でど真ん中の部屋と言えば聞こえは良いが、安アパートのうえ共同トイレが部屋の前にあるので良い方ではない。だが、その分賃金は――些か大家の同情もあるのだが――安めとなっており、一人暮らしの明葉は非常に助かっていた。

 そんな埃臭い我が家に明葉が着いたのは十八時半を過ぎた頃である。廊下の煤けた白熱灯は密かに灯って壁の染みを照らし出し、既に帰って来ている住人の生活の音がほんのり漏れて生活感を醸し出していた。

 いつも通り――それを感じ、今の明葉は少し疲れを和らげた。数年前にここに越して来て以来変わらない光景は、このレトロな不変は思い出の沸き立つ感覚をくれた。

 明葉は鍵を開けるなり、靴を放るように脱いで真っ暗な部屋に上がり込む。電気を点けずにそのまま敷きっぱなしにしていた布団に転がり込んだ。

 今日は忙しい一日であった。学生という身分でありながら勉強とは無縁だったが、何にせよ今日はくたびれた。

 長時間に渡り隅田川を眺めていただけだったが、酷使すれば調子が悪くなっても仕方がない。立ちっぱなしのせいで脚の筋が張るように痛く、今夜は筋肉痛を覚悟しなくてはならないようだ。また、目も痛かった。川を休まず見つめていたので、ドライアイ気味である。

 しかし、それらよりも体調不良を訴える症状があった――更に、頭痛が酷かったのだ。

 暴れまわる馬を脳裏に掠めるような激しい頭痛に明葉は弱っていた。このはち切れんばかりの痛みに我慢が出来そうになかった。

 気を紛らわせる為に、この痛みはいつからであろうと明葉は考えてみる。それは足と眼を痛めるよりもずっと後であり、あのおかしな二人に出会うよりも後である。喫茶店を出入りしたときも痛みはなく、アパートに着いたときには既に痛みはあった。

 考えるに、帰り道に頭痛は鳴り出したのであろう。自分の道案内に没頭していたため、気付かぬ内に頭が悲鳴を上げていたのだ。

 そこで結論に至り、痛みを無視できなくなった。額を抑えて、音を上げた。

「ぐう。いたい……」

 増していく痛みに明葉は不安となった。薬でも飲もうかと思ったのだが、この暗闇では分からない。電灯を点けるのも億劫だから、今は眼を瞑ることにした。

 布団に落ち着いていくと次第に微睡んできた。誘うように現れた睡魔は、この疲労の中ではぜひ手招きしたい存在であった。明葉の頭は徐々に徐々に眠りの態勢に入っていく。まるで魔の手が時の世界をゆっくりと盛り潰していく様であった。

 夢の世界に右半身ぐらいは引き込まれたという時に睡魔の片腕ははたと消えた。

 突如、ブザーが鳴った。ピピピ、ピピピ、という短く高い機械音に明葉はびっくりとし、目を覚まさせられる。携帯電話のアラーム音であった。

 明葉はポケットをまさぐり、鳴り響くやかましい音を解除する。取り出して画面を見ると、『バイト』とでかでかと表示されていた。

 残念なことにこれからバイトがあったのである。

 高校生のアルバイト――と言ったら小遣い稼ぎと思われるが、明葉の場合はそうではなかった。身寄りのいない彼女にとっては生命線なのである。毎日、最低、十九時半から翌日二時半までの七時間は働かなくては生きていけなかった。高校生のバイトとして完全にアウトではあるが、身分を偽ってでもやり遂げねばならなかった。

 家賃が月に三万と安いとはいえ、生活費はそれだけではない。電気代に銭湯代、食費、通信費、日用品費――足掻いても人並みにはかかる物である。それに、学生であるためには学校に金を払わなければならない。月に二十万円を稼がなくてはならなかった。

 明葉は眠気を振り払うなりばっと布団をはねのける。自分は欠勤というものが到底許される生活状況ではないので必ず行かなくてはならない。布団の中でごろごろしている訳にはいかない。

 立ち上がると、脚に激痛が走った。筋肉痛である。痺れた脚のように自由が利かない。そして、眼の痛みもまだ残ったままで、変わらずの不調に若干ふらついた。

 だが、頭痛は消えていた。休息をとったからであろう。あの厄介な痛みだけでも消えてくれたのは不幸中の幸いといったところか。

 明葉は少しばかし元気を取り戻し、支度を急いだ。制服から私服に着替えると、よろけた足取りでも構わず家を出る。今から向かえば間に合う筈であった。


        ※


 その後、明葉が再び帰宅したのはいつもより一時間遅い四時であった。

 理由は、あんな身体で普段通りの行動が出来ないことに因るものであった。まず、行き帰りでは鈍足となりいつもより時間がかかった。次にいつも通りの働きが出来ず、終業後にオーナーから二、三の小言を言われたわけである。それで計一時間のロスとなったのだ。不運とは続くもので、一日の締めまでも今日は恵まれていない。

 帰宅後、疲れを癒す為に速攻寝るなんてことを明葉はせず、起きていた。寝ようとしたが、気分的に寝つけなかったのである。

 布団にくるまる彼女はブラウン管の前を陣取り、手に持ったコントローラーをいじっていた。今を起きている者など居ず部屋にはカタカタというクリック音が寂しく響いていた。ゲームで頭を使って眠気を呼び戻そうとしているのであり、その傍らのプレイステーションが時折ディスクを唸らせた。

 今や三号機まで販売されているので、初機のそれは既に過去の産物であり、時代遅れであった。未だに遊ぶ人は少ない訳だが、その恩恵として、ワゴンセールにて百円で買ったゲームがそこに積みゲーとなっている訳でもある。貧乏な彼女としてはそれで充実していた。

 そんな彼女はその中からガーディアの宝珠というRPGを選び出して遊んでいた。その人生を体現したかのような自由と苦行を感じながら、彼女はかの睡魔の到来を待っていたのである。

 そうして幾何か画面の向こうの人生ストーリーを進めるも、なかなか寝付けないのであった。うとうととはするものの、一つの迷いに揺り起こされる。

 ――明日の学校には行くべきか、行かないでおくべきか

 いつもは悩みなど遊んでいれば一時忘れていられるものだ。画面に食い入るなり脳に血が巡り、集中によって雑念など振り払われた。なのに、今は心の動揺を感じずにはいられなかった。

 刻々と時は迫っていたのである。朝の到来はもうすぐであり、夜明け前の冷え込みが明葉の頬を涼しくしていた。決断は迫られていたのだ。

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