第二話 送信ボタンが押せない
駅前で義隆と別れたあと。
梓は、一人で歩きながら何度も深呼吸をしていた。
家に帰りついて玄関のドアを閉めた瞬間。
「……はぁ……」
梓は大きく息を吐いた。
靴を脱ぐ。
バッグを置く。
コートをハンガーに掛ける。
いつもなら何も考えずにできることなのに、今日は全部が妙にぎこちない。
頭の中が、ずっと同じことでいっぱいだった。
――近江先輩。
五年ぶりに会った。
本屋で偶然に。
それなのに。
その顔を見た瞬間、梓の中では五年前の時間が一気に巻き戻った。
放課後の音楽室。
譜面台。
楽器の音。
窓から差し込む夕日。
練習が終わったあと、先輩と二人で校門まで歩いたこと。
何気なく触れた手。
初めて手をつないだときの緊張。
そして――初めてのキス。
「…………」
梓は両手で頬を覆った。
「……やだ」
思い出しただけで、顔が熱くなる。
しかも今日。
本人に会ってしまった。
それも、あんなに普通に話してしまった。
いや。
普通に話せていたのは、たぶん最初の数分だけだ。
その後は何を話したのか、よく覚えていない。
仕事の話。
高校時代の話。
吹奏楽部の話。
そんなことを話した気がする。
でも梓の頭の中では、ずっと別のことを考えていた。
――先輩、彼女いるのかな。
――結婚はしていないみたいだけど。
――私のこと、覚えてる?
――あのキスのことも?
聞けるはずがなかった。
そんなこと。
五年ぶりに会った相手に、いきなり聞けるわけがない。
梓は部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。
そしてスマートフォンを取り出す。
連絡先。
そこには、今日登録した名前がある。
**近江義隆**
「…………」
名前を眺める。
たった四文字なのに、胸が苦しくなる。
「先輩……」
高校時代は、もっと気軽に呼べた。
義隆先輩。
ねえ、先輩。
義くん。
今日も一緒に帰りませんか。
明日の練習、何時からでしたっけ。
そんなふうに、何でも言えた。
でも今は。
たった一通のメッセージさえ送れない。
「何て送ろう……」
梓はメッセージ画面を開いた。
文字入力欄にカーソルが点滅している。
まずは無難に。
『今日はありがとうございました』
入力。
「……普通すぎる」
消す。
『今日は久しぶりに会えて嬉しかったです』
「……いや、これは本当だけど……」
そこで止まる。
“嬉しかった”という言葉だけが、やけに意味深に見えてくる。
「……これじゃ、好きって言ってるみたい」
消す。
今度は少しくだけた文章。
『今日はびっくりしました! まさか先輩に会うなんて』
「…………」
読む。
「なんか、子供っぽい」
消す。
『今日は本当に偶然でしたね』
「……何の話よ」
消す。
また入力する。
『今日はありがとうございました。また機会があれば……』
指が止まる。
「“機会があれば”って何?」
自分で自分に呆れる。
「会いたいなら、会いたいって言えばいいじゃん……」
けれど。
そこまで打ったところで、梓の指は動かなくなった。
会いたい。
本当は、すごく会いたい。
今日一度会っただけなのに。
もう一度会いたい。
もっと話したい。
高校時代に聞けなかったことを聞きたい。
五年間、何をしていたのか知りたい。
どんな恋をしてきたのか。
今、好きな人はいるのか。
そして――
あの日、別れてから。
自分のことを少しでも思い出したことがあるのか。
「……聞けるわけない」
梓はスマートフォンを伏せた。
数秒後。
また手に取る。
「……でも、送らなきゃ」
画面を開く。
また入力する。
『今日はありがとうございました。久しぶりに先輩に会えて、すごく懐かしかったです』
「……うん」
これは大丈夫。
たぶん。
少なくとも、変ではない。
そこに続ける。
『また、よかったらお話ししたいです』
「…………」
梓の心臓が大きく跳ねた。
「これ……」
会いたい、という意味だ。
少なくとも梓自身には、そうとしか思えない。
でも。
送らなければ始まらない。
「……送ろう」
送信ボタンの上に指を置く。
「…………」
押せない。
「…………」
まだ押せない。
「…………」
指を離す。
「無理……」
梓はその場に倒れ込んだ。
「無理無理無理……!」
枕に顔を埋める。
足をばたばたさせる。
「五年ぶりなんだよ……?」
枕に向かって話しかける。
「五年ぶりに会った元カレに、“また話したいです”って……」
自分で言って、さらに恥ずかしくなる。
「……元カレ……」
その言葉だけで胸が締めつけられた。
そうだ。
義隆は、自分にとって初めての彼氏だった。
そして、自分が初めて好きになった人だった。
別れてから五年。
新しい恋をしなかったわけではない。
誰かに好意を向けられたこともあった。
食事に誘われたこともあった。
けれど。
どうしても、誰かを好きになるところまでいかなかった。
心のどこかで比べていた。
あの人と。
あの人だったら。
そんなふうに。
「……馬鹿みたい」
梓は呟いた。
五年も前の恋なのに。
今日、本人に会っただけで全部戻ってきた。
しかも。
『綺麗になった』
あの一言。
「…………」
梓は枕から顔を上げた。
またスマートフォンを見る。
「……あれは、どういう意味だったのかな」
ただの社交辞令かもしれない。
久しぶりに会った後輩だから、そう言っただけかもしれない。
でも。
もし少しでも。
ほんの少しでも、昔と同じ気持ちが残っていたら。
「…………」
梓は唇をきゅっと結んだ。
期待してはいけない。
そう思う。
でも、期待してしまう。
そしてまた、メッセージ画面を見る。
『今日はありがとうございました。久しぶりに先輩に会えて、すごく懐かしかったです。また、よかったらお話ししたいです』
今度は消さなかった。
何度も読み返す。
三回。
五回。
十回。
「……よし」
梓は息を吸った。
「送る」
親指を送信ボタンへ。
「……送る」
もう一度、深呼吸。
「……送る!」
――ポチ。
送信。
「…………」
梓は固まった。
数秒後。
「……送っちゃった」
顔を両手で覆う。
「送っちゃったぁ……」
今度はスマートフォンを胸に抱える。
返事が来るのが怖い。
でも、来なかったらもっと怖い。
画面を見る。
既読はつかない。
「……まだ一分も経ってないじゃん」
自分でツッコむ。
スマートフォンを置く。
五秒後。
また見る。
「……既読ついてない」
置く。
十秒後。
また見る。
「……まだ」
ベッドに仰向けになる。
「私、何やってるんだろ……」
天井を見つめる。
でも。
口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
五年ぶりに会えた。
そして今度は、自分から一歩踏み出した。
たった一通のメッセージ。
それだけなのに。
梓にとっては、五年前に途中で終わってしまった恋を、もう一度始めるための――
大きな一歩だった。




