第一話 あの日の続きを
会社員になって2年目の23歳 近江 義隆。本屋で偶然会った高校の1個下の後輩 佐野 梓。五年ぶりの再会物語。
土曜日の午後。
近江義隆は、駅前の書店で一冊の推理小説を手に取った。
社会人になって二年目。
二十三歳になった今、仕事にも少しずつ慣れてきた。学生の頃とは違い、平日は会社と自宅を往復するだけの日も多い。
だから休日くらいは、仕事とは関係のない本を読もう。
そう思って書店に立ち寄ったのだった。
文庫本の棚を眺めながら、義隆はふと足を止めた。
「……あれ?」
少し離れたところに、見覚えのある後ろ姿があった。
肩まで伸びた髪。
淡い色のカーディガン。
本を手にして、棚を眺めている女性。
まさか。
そんなはずはない。
五年も経っている。
高校を卒業してから、一度も会っていない。
義隆は自分でも不思議なくらい、ゆっくりとその女性に近づいた。
そして、その横顔が見えた瞬間――胸の奥が大きく鳴った。
「梓……佐野さん?」
女性が振り返る。
大きな瞳が、驚いたように見開かれた。
「……え?」
数秒間、二人とも言葉を失った。
それから彼女の表情が、少しずつ変わっていく。
「……近江先輩?」
昔とほとんど変わらない。
高校時代、毎日のように聞いていた声。
「……やっぱり、佐野さん」
「先輩……?」
二人の間に、五年間という時間が横たわっている。
けれど、不思議だった。
目の前にいる彼女を見ていると、その五年間が一瞬で消えてしまったような気がした。
「久しぶりだね、元気そうでよかった」
「……はい。お久しぶりです」
梓が小さく笑う。
その笑顔を見た瞬間、義隆の脳裏に高校時代の記憶が蘇った。
放課後の音楽室。
窓から差し込む夕日。
トランペットを吹く自分の隣で、フルートを練習していた梓。
部活が終わった後、二人で校門まで歩いた帰り道。
あの頃、二人は付き合っていた。
ほんの短い期間だったけれど。
まだ高校生だった二人には、それが世界のすべてだった。
帰り道に手をつないで駅までの道で唇を重ねた。
初めてのキスだった。
僕が卒業するころ、二人は別れた。
理由は、今となっては些細なことだったようにも思える。
進路。
部活動。
お互いの気持ちをうまく言葉にできなかったこと。
そして、高校生だった二人には、恋を続けるための余裕がなかった。
「先輩、今……何してるんですか?」
「会社員。二年目」
「そうなんですね」
「佐野さんは?」
「私も働いてます。駅の向こう側の会社です」
「僕は一駅向こう案外近くにいたんだね」
梓がじっと義隆を見る。
義隆は少し照れくさくなって、視線を本棚へ逃がした。
「佐野さんは……変わったな」
「どこがです?」
「……綺麗になった」
言ってから、しまったと思った。
高校時代なら、こんなことは恥ずかしくて絶対に言えなかった。
けれど、今は二十三歳だ。
五年という時間を経て、昔の彼女を前にしている。
梓も少し驚いたように目を瞬かせた。
「……先輩、そういうこと言えるようになったんですね」
「社会人だからな」
「ふふっ」
笑う梓。
その笑顔を見て、義隆の胸がまた苦しくなる。
忘れていたつもりだった。
いや。
本当は忘れたことなど、一度もなかったのかもしれない。
「このあと、時間ある?」
気がつけば、そう尋ねていた。
「ありますけど……」
「よかったら、少し話さない?」
梓は少しだけ迷った。
そして――静かに頷いた。
「……はい」
二人は書店を出た。
駅前のカフェに入り、窓際の席に向かい合って座る。
注文したコーヒーが運ばれてきても、最初の数分間は、どちらも昔の話ばかりしていた。
「吹奏楽部、懐かしいですね」
「佐野さん、練習きついとすぐ顔に出てたよな」
「先輩だって同じでしたよ」
「俺はそんなに?」
「すごく」
「覚えてるんだな」
「……覚えてますよ」
梓がカップを両手で包む。
「五年前のことですけど」
その言葉に、義隆は黙った。
梓も何かを思い出したように、窓の外を見る。
「先輩……覚えてますか?」
「何を?」
「最後に二人で話した日のこと」
義隆は答えられなかった。
覚えている。
忘れられるはずがない。
高校最後の冬。
駅までの帰り道。
別れ際、梓が泣きそうな顔で言った。
『先輩……私たち、これで終わりなんですか?』
あのとき義隆は、何も言えなかった。
まだ好きだった。
それなのに。
自分から手を伸ばすことができなかった。
「……覚えてる」
ようやく答える。
梓は小さく笑った。
「私もです」
静かな沈黙が流れる。
五年ぶりなのに。
不思議と気まずくはなかった。
むしろ――懐かしかった。
「先輩」
「ん?」
「今、付き合ってる人……いますか?」
その質問に、義隆は一瞬だけ驚いた。
「いないよ」
「……そうですか」
「佐野さんは?」
「私も……(先輩としか付き合った人は)いません」
梓がそう言って、コーヒーを一口飲む。
そして、ほんの少しだけ顔を赤くした。
「……偶然ですね」
「ああ」
二人は顔を見合わせる。
高校生だったあの日とは違う。
仕事をして、大人になって、いろいろな経験をして。
それでも――。
胸の奥に残っていた気持ちは、完全には消えていなかった。
義隆はふと思った。
もしかしたらこれは、再会ではないのかもしれない。
五年前に途切れた恋の――
続きを始めるための時間なのかもしれない。
店を出る頃には、空が少し赤く染まっていた。
「今日は……ありがとうございました」
駅前で梓が言う。
「こちらこそ」
「先輩、連絡先は昔と同じですか?」
「同じだよ」
「じゃあ……また連絡しますね」
「ああ」
二人はそこで別れた。
五年前。
終わったと思っていた恋が――
今度は大人になった二人の物語として、もう一度動き始めようとしていた。




