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1945年 今治市(1)

 太平洋戦争末期。1945年8月6日の未明。米陸軍第58航空団所属のB29爆撃機66機が今治市の上空3000mの空域に進入していた。


 波方あい(・・)は激しく打ち鳴らされる今治警察の半鐘の音で飛び起きた。


 「お母ちゃん!?」


 と声に出してから、母親は防空当番で留守であるのを思い出した。縁側から外に視線を移した途端、この世のものとも思われぬ凄まじい轟音とともに、隣家が激しく炎上し始めた。じきにこの家にも炎が燃え移るのは、10歳の少女の目にも明らかだった。


「嫌だあ、嫌だあ」


 あいの横では轟音に驚いた幼い妹の洋子が泣いていた。4歳の妹には何が起こっているのか、これが夢なのか現実なのかも分からないのだ。あいは枕元の防空頭巾を被り、激しく泣く洋子にも防空頭巾を被せると、何も持たずに家を出た。


 隣家の赤い炎が、あいの顔を照らし出した。大きな切れ長の目が、さらに大きく見開かれた。燃え盛る炎の中には隣家の住人がいるはずだ。あいは一瞬立ち止まったが、熱と煙から逃げるようにその場を離れた。


「火が回ってきたぞ!」

「浅川に逃げるんぞ!」


 泣き叫ぶ妹の手を引いて表通りに出ると、すでに大勢の人が逃げていた。あいと洋子も人の群れに加わった。


 真っ暗のはずの夜の街が赤く照らされていた。背後を振り返ると、赤い炎がいくつも噴き上がっているのが見えた。B29が撒き散らす焼夷弾の炎に、今治の街が燃やされているのだ。


 あいは妹の手をしっかりと握り、息を切らしながら必死に逃げた。防空頭巾を被った額から玉の汗が頬へ伝っていたが、拭う時間すらも惜しかった。


 浅川へと続く大通りに面した商店が激しく燃え上がっていた。視界は黒い煙で覆われ、喉が焼けるように熱かった。消防班がバケツリレーを行っていたが、バケツの水程度では焼夷弾の炎を消火できるはずもなく、見ている間にも炎はもうもうと燃え広がっていった。あいと洋子は咳き込みながらも煙の中を走り抜けた。


 必死の思いでようやく辿り着いた浅川には、同じく近隣から避難してきた人々が殺到していた。


「やめぇ! 押すなや!」

「はよう入れ! 火ぃ来よる!」

「お母ちゃーん!」


 あいと洋子がその中に加わろうとした時、突然、轟音とともにあいは数mの距離を吹き飛ばされた。


 ほんの暫くの間、あいは気を失っていた。ようやく意識を取り戻したあいが起き上がろうとするが、体をうまく動かすことができない。左腕のどこかに怪我をしているようだった。なんとか体を起こして、すぐ側に気を失って倒れている洋子をみると、幸いなことに大きな怪我はなかった。


 あいは辺りを見渡した。目の前の路地に人々が横たわっていた。ついほんの先程まで、あいと洋子の目の前で、生きていた人々であった。あるものは仰向けになり、あるものはうつ伏せとなり、あるものは上着が燃え、あるものは体の一部が欠けていたが、彼らは一様に身じろぎもせずに、路上に横たわっていた。


 あいは洋子を引きずって、死体の間を縫うように這いずった。死体から「助けて」という声が聞こえたような気がした。


 浅川べりに辿り着くと、すでに大勢の人々が炎と熱から逃れ、川の中へと避難していた。あいも浅川へと入ったが、川の中は地上とは別の地獄であった。衣服が水を吸って重いうえに、あいは自由にならない腕で、洋子が水の中に沈まないように、常に支えていなければならなかったのだ。


 時折、火の粉と煙が川の上にも押し寄せて、その度に息ができないほどの熱さとなった。あいは疲労で何度か気を失ったが、抱きかかえた妹を手放すことは無かった。


あい(・・)ちゃん? あんたあい(・・)ちゃんやろ?」


 その声に顔を上げると、顔見知りの近所の女性であった。


「大丈夫かい? その子、洋子ちゃんやろ? 洋子ちゃんはおばちゃんが抱いとったる、あんたは休みなさい」

「おばさん……、ありがとう……、少しだけ、お願い……」


 あいは何とかそれだけを告げると、妹を女性に渡して、目を閉じた。体力の限界であったのだ。あいは、大きな優しい手に身を委ねるように意識を手放した。いったん水面下へと沈み込んだあいの体は、川面へと浮かびあがり、下流へとゆっくり流れていった。


 こうして、波方あいは10年の短い生涯を終えた。


 わけではなかった。


「おい、この子はまだ生きているぞ」

「……まだ、子供じゃないか。俺たちの目的は新兵集めだぞ!」

「新兵といっても銃を持って戦うわけじゃない。それに、こんな小さな子を放っておけないだろう?」

「……いいだろう」


 この日、傭兵協会のエージェント達が、新兵のリクルートのために今治を訪れて、浅川に浮かぶ死体の中にあいを見つけ、衛星軌道上の兵員輸送船へと送り込んでいなければ……。


 波方あいは、この日失われた大勢の魂とともに、永遠の平安を求めて黄泉へと旅立つ死者の列に加わっていたことだったろう。

参考資料

今治市の戦災を記録する会 編『あなたに伝えたい今治市の戦災』2009年3月

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