第九通「件名:勉強教えてくれてありがとう」
教室の空気は、壊れたまま戻らなかった。
誰も言葉を発さず、
ただ高石 美里だけが、その中心に立っている。
ついに――
隠されていた本性が、完全に露わになった瞬間だった。
「でも、何が悪いの?」
あまりにも軽い声。
そこに罪悪感の色は、ひとかけらも見当たらない。
「人間なんて利用しあってなんぼでしょ?」
その言葉に、数人が息を呑む。
けれど反論は出ない。
何かを言えば、さらに深い場所まで暴かれてしまう……
そんな予感が、全員の喉を塞いでいた。
「いやぁ大っ嫌いだったぁ……」
美里は肩をすくめ、わざとらしく顔を歪める。
「嫌でも我慢して一緒にいた。自分のためにね。
何か悪いことしてる? してないよね?」
正論でも、開き直りでもない。
ただ価値観そのものが違う。
その事実だけが、
じわじわと教室を侵食していく。
「そんなことしてまでカースト上位にいたいのか?」
慎司の低い声。
叱責というより、確かめるような響きだった。
「いたいに決まってるでしょ!?」
即答。
迷いは一切ない。
その速さが、
かえって異様だった。
美里はゆっくりと口角を持ち上げる。
「優越感」
たった三文字。
それだけで、この教室にある多くの感情を踏みつけるには十分だった。
「ははははははははは!!」
乾いた笑い声が、壁に反射する。
美里以外の誰一人笑っていないのに、
笑い声だけが増幅していく。
何もかもが壊れている。
珠紀は、そう感じた。
「いやぁ言えてスッキリしたぁ」
満足げに息を吐き、
美里は何事もなかったかのように席へ座る。
その"普通さ"が、
何よりも不気味だった。
――その時。
キーンコーンカーンコーン。
朝のホームルーム終了のチャイム。
あまりにも場違いな、
いつも通りの電子音。
現実だけが、
残酷なほど平常運転を続けている。
慎司は数秒黙り、
それでも教師として口を開くしかなかった。
「……授業を始める」
誰も返事をしないまま、一日が動き出す。
*
ノートは開かれる。
ページはめくられる。
だが――
文字は頭に入らない。
視線は無意識に、
美里の背中へ吸い寄せられる。
同じ教室にいるのに、
もう"同じ側の人間"には思えなかった。
時間だけが、
鈍く過ぎていく。
*
帰りのホームルーム。
沈黙は、朝よりも重い。
もう誰も、
名乗り出ないと思われた。
「俺が読む」
その一言に、
空気がわずかに揺れる。
中山 達仁。
目立たない。
静かな存在。
だからこそ、
その自発的な声は強く響いた。
『件名:勉強教えてくれてありがとう
私が授業でわからないことあったら、よく教えてくれたよね。嬉しかった。ありがとう。』
飾り気のない、
まっすぐな文章。
達仁は何も語らず、
ただ静かに座る。
それが逆に、
言葉より雄弁だった。
「ふーん」
美里の、温度のない相槌だけが落ちる。
誰も続かない。
終礼の「解散」が、
救いの合図のように響いた。
*
下校途中。
夕焼けが、
街を赤く染めている。
珠紀と沙希は、
並んで歩いていた。
「驚きましたよね……私が万引きしてたなんて」
小さい声。
けれど、逃げてはいない。
「まあ、万引きはいけないことだけど」
珠紀は前を向いたまま言う。
「けど俺は、動機まで考慮したいかな」
責めない言葉。
許すとも違う。
ただ――
見ようとしている言葉。
沙希の肩から、
少しだけ力が抜けた。
「にしても……高石さんのあれは
本当にびっくりしたね……」
夕焼けの光が、
二人の影を長く伸ばす。
今日見たものは、
もう後戻りできない種類の"本性"だった。
美月の死は、
ただ一人がいなくなった出来事じゃない。
隠れていた感情を、
無理やり引きずり出している。
この先、
何が壊れるのか。
それとも――
何かが暴かれるのか。
珠紀は、沈みかけた太陽を見る。
赤はゆっくりと、
夜に飲み込まれていく。
まるでこの教室の未来を、
静かに暗示しているようだった。
まだ、終わらない――




